カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

拳ラーメン

2011年10月18日 | 京都
「到達しても、終わらない。」

元来、ラーメンは好きだが、ラーメン・マニアでは、決してない、自分のことをそう思うカゲロウにとっては、ぎりぎりの強い風味を、この塩ラーメンは醸している。

ぎりぎり良いのか、ぎりぎり悪いのか、それさえも判然としないくらいに、ぎりぎりの線だ。
何ならそれは、境界線の真上と言ってもいい。
それは、何らか他からの、ほんの少しの後押しさえあれば、どちらにも転ぶ程の危うさで、あまりにも、ある種の人々の絶賛を受け過ぎる嫌いのある、この御店に対する先入観からなのか、ひと口め、流石!他とは違うな!という、肯定的な感想が、先ずアタマに浮かぶ。

そして、極限に近い、深く濃い旨味だと感服し、調理に関する手間隙に感心しつつ、食べ進んでいくのであるが、意識的には、そのラーメンに対して肯定的であるのにもかかわらず、最後、スープを飲み切るのは、ちょっとしんどい、正直キツい。
絶対的に無理というのではないのだが、即効的なノックアウトというのでもなく、じわりじわりと身体がギブアップしてしまった、そのような、楽しみたい、それだけで、そんなつもりもなかった何かの勝負に負けてしまったかような印象を抱きつつ、その食事を終えることと、相成った。

間違いなく、ある面においての到着点に辿り着いた、そのような印象のこのラーメンではあるが、到達しても、終わらない、そんな言葉、そんな考えも、ふと脳裏に思い浮かぶ。

世間一般、老若男女とは言わずとも、そこそこにラーメン好きと自認する、多くの人々と、トコトンまでラーメンの出来に拘る、そんなガチンコにマニアックな人々との間には、当然のこと、温度差がある。
つまり、ある意味、観念に引きずられた、あまりにも熱過ぎる、そんなラーメンを、多くの一般人は求めてはいないという現実である。

例えば、野球が好きでプレイを楽しむ人々の多くが、おおよそ硬球を扱えないのが当然であるように、硬球の硬さ、危険度は、一般人には受け入れ難いのである。
世の中の野球好きの多くが、軟球でプレイしている現実と同じく、あまりにも本気のラーメンは、それが本物だとわかってはいても、やはり好きにはなれないというのが、生ぬるい現実なのだ。

勿論、何れのボールでプレイする人間が、より本気であり、本物であるのかは言うまでもない、だが、その温度差を埋め、歩み寄ることは、現実的には出来ないし、あえて言うなら、するべきでもない。

この塩ラーメンは、世の中の何処かに存在すべきラーメンではあるけれど、欲しいと思えば究極ばかり、例えばそれしかない世界というのは、どこか寒々しく、たとえその志は熱くとも、世間の全ての人を満足させたい、そんな類の大らかな優しさ、暖かみというものは、そこにはない。

拳ラーメン ラーメン / 丹波口駅
夜総合点★★★☆☆ 3.5