ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

日常のブラックボックス

2015-09-15 23:26:18 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


ブラックボックスと呼ばれるものがあります。
入力と出力だけが問題にされて、その内部構造が明らかにされていないもののことです。

例えば、目の前に謎の箱があって、それに鉄を入れたとしましょう。
そして数分後、その箱を開けるとなんと鉄は金になっているのです。
どのようにして鉄が金になるのかはわかりませんが、ともかく鉄を金にできることはわかっている。
つまり、入力(=鉄)と出力(=金)だけがわかっていて、その仕組みがわからないため、この謎の箱はブラックボックスだというわけです。

上述のような極端な例はともかく、ブラックボックスというのは、「得体の知れないもの」のような印象を受けるかもしれません。
その内部の仕組みがわかっていないものを安易に利用するのは、単純に不安が伴いますし、場合によっては危険を及ぼす可能性すらあるからです。
しかし、実は私たちの身の回りは、広い意味でのブラックボックスであふれかえっているのではないでしょうか。

たとえば普段使う携帯電話やスマートフォン。
とりあえず通話やメール、メッセージのやりとりができることはそれこそ誰でも知っていますし、多くの人がそれを実際に使用することができます。
しかし、そのような人のうち、どのような仕組みで音声の送受信が行われ、メッセージのやり取りが行われているのかを仔細に説明できる人がどれくらいいるでしょうか?
私たちは携帯端末が通話をはじめとする情報のやり取りに使えることを知っていますが、あの小さな機械のなかで、音声情報や文字情報がどのような仕組みで電波に変換され、それらがどのような仕組みで受信者のもとで再生されるのかは全くといってよいほど知りません。
つまり、入力と出力については関心がありますけれども、その内部構造についてはほとんどの人が無関心のまま利用しているのです。
これは一種のブラックボックスと呼べるのではないでしょうか。

このような日常のブラックボックスは、なにも高度な情報端末に限りません。
たとえばアコースティックピアノ。
鍵盤を押すことでその位置に応じた音がなる、ということは誰もが知るところでしょう。
また、鍵盤を押すとハンマーが弦を叩き、それによって音が出ている、ということくらいは誰でも知っているかもしれません。
しかし、それでほんとうにピアノの発音機構を理解したことになるのでしょうか?
ピアノの中をのぞいてみると、とても「ハンマーが弦を叩いている」と一言で説明がつくほど簡単な機構ではないことがわかるはずです。
なぜ鍵盤を押している間だけ弦が振動を続け、鍵盤から手を離すと音が止まるのでしょう?
ペダルを踏んでいる間は、鍵盤から手を離しても弦が振動し続けるのはなぜでしょう?
さらに言えば、そもそもなぜ「鍵盤を押す」という入力行為が「ハンマーが弦を叩く」という運動につながり、「音が鳴る」という出力現象につながるのでしょう?
私自身ピアノを弾くこともありますが、はっきりいってその発音機構についてはほとんど知りません。
これも結局、入力と出力のみが問題とされるブラックボックスと言えるのです。

ブラックボックスというと得体のしれないものを連想するしれませんが、こんなふうに、日常生活においてはむしろ入力と出力のみが問題にされ、その内部構造が問題にされることはまれなのです。
私たちがブラックボックスに対して危険を感じることがあるとすれば、それはその対象が内部構造のわからないブラックボックスだからではなく、もっと別のところに理由があるのでしょう。

ところで、私たちにとってもっとも身近なブラックボックスとはなんでしょうか。
私は、言語がそうなのではないかと思っています。
私たち日本語母語話者は、非母語話者からすれば非常に微妙だったりわかりにくかったりすることばの使い回しの直感を、かなりのところまで共有することができます。
たとえば、

「犯人は誰ですか」

という問いに対しては、

「太郎が犯人です / 犯人は太郎です」

というふうに答えるのが自然であり、

「太郎は犯人です / 犯人が太郎です」

と答えるのは日本語としてきわめて不自然であるということは、それこそ情報端末の利用方法やピアノの演奏方法以上に自明のことのように思われます。
一方、「は」と「が」という助詞の対立のない言語(英語など)の母語話者からすれば、この使い分けを理解するのは極めて困難です。
私たち日本語を母語話者とする人間は、ほとんど全ての人について、日本語の使い方については、かなり細かいところまで理解しているといえるのです。

しかし、そのようななに不自由なく日本語を駆使できる人の中で、どうしてこのような使い分けが生じるのか、どのような場合に「が」が用いられ、どのような場合に「は」が用いられるのかを必要十分に説明できる人はどれほどいるでしょうか?
あるいは、日常生活の中でそのようなことを改めて考えてみるひとがどれくらいいるのでしょうか?
こんなことに興味を持つのは、一部のもの好きと言語研究者くらいです。

これはつまりどういうことかといいますと、ほぼすべての日本語母語話者が「「は」と「が」がどのように使い分けられているか」という言語の表面的なこと(入力と出力)については経験的によく知っているのに対して、「「は」と「が」がどのような仕組みによって使い分けられているか」という言語内部の理由づけ(内部構造)についてはほとんど知らないし、説明する必要もないと考えている状況だということなのです。
これはまさしく、先にみたブラックボックスの例と同じ関係性(!)になっているではありませんか。

私たちは文字を発達させる以前に言語を獲得し、長らくそれがコミュニケーションの中心的な地位を占めてきました。
また、近代以降、社会の発展に伴い、文字をはじめとする音声言語以外の情報伝達方法が発達してきており、音声言語による伝達の重要性は相対的に減退しているのかもしれませんが、やはり依然として人間のコミュニケーションや思考の中枢をになっているのは(音声)言語です。
つまり、言語というのは、私たちとってももっとも古く、そして新しいコミュニケーションツールなのです。

ところが、私たちはその最も原初的なコミュニケーションツールについてさえ、まともに説明することができません。
もちろん、母語話者同士では説明する必要がないために普段は問題にならないわけですが、いざ自分の表現を反省的に見つめ直そうとしたときに、実はそれまで言語の入力と出力だけを問題にして、内部構造については関心を払ってこなかったということ、すなわち、最も原初的なツールである言語も得体の知れないラックボックスであったということに気がつくのです。


もちろん、ものごとの一つ一つについてその内部構造を問題にしていてはハッキリ言って肩がこるのでやめておいたほうがいいでしょう。
しかし、自分が興味を持ったこと、追究しなければならいことについては、改めてその内部構造に迫ってみるのも大事なのではないかと思います。
ここだと思った時には、ぜひとも日常の中のブラックボックスに秘められた謎を解き明かしていってください。

それでは、また。