【30HRカルテットその一】
Dusty BAKER
通算1981安打、241本塁打、1013打点を記録した
右の強打者。
1972年、打率.321、76打点をマークし
ブレーブスのレギュラー外野手の座を獲得したベイカー。
73年には21本塁打、99打点をマークし
チームメイトのハンク・アーロンと肩を並べる主軸打者に成長する。
76年にはドジャースに移籍するが、
ブレーブスでは、アーロンと親しく付き合い、
715号騒ぎの折には、ファンやマスコミの攻勢に揺れる
アーロンを癒す役割を果たした。
74年に20本塁打を放って以来、
76年まで成績が低迷したベイカーだが、
ドジャースがリーグ優勝を果たした77年、
打率.291、30本塁打、86打点と復活。
この年のドジャースは、4人の打者が30本塁打以上を放つという
史上初の30ホーマーカルテットが誕生したが、
ベイカーもその一人となった。
80年、29本塁打、97打点、シーズンMVP投票で
4位にランクされる働きを見せると
81年は打率.320の打率を残しチームのリーグ優勝に貢献、
ワールドシリーズでは奮わなかったものの
世界一の美酒に酔いしれる事が出来た。
86年、アスレチックスで引退したが
その後、監督としてジャイアンツやカブスで
采配をふるい、通算1162勝、3度の地区優勝、
3度の最優秀監督賞を受賞している。
バットボーイを勤め、ゲーム中JT・スノウに
危ないところを助けられた息子ダレン君も有名人である。
Dusty BAKER
通算1981安打、241本塁打、1013打点を記録した
右の強打者。
1972年、打率.321、76打点をマークし
ブレーブスのレギュラー外野手の座を獲得したベイカー。
73年には21本塁打、99打点をマークし
チームメイトのハンク・アーロンと肩を並べる主軸打者に成長する。
76年にはドジャースに移籍するが、
ブレーブスでは、アーロンと親しく付き合い、
715号騒ぎの折には、ファンやマスコミの攻勢に揺れる
アーロンを癒す役割を果たした。
74年に20本塁打を放って以来、
76年まで成績が低迷したベイカーだが、
ドジャースがリーグ優勝を果たした77年、
打率.291、30本塁打、86打点と復活。
この年のドジャースは、4人の打者が30本塁打以上を放つという
史上初の30ホーマーカルテットが誕生したが、
ベイカーもその一人となった。
80年、29本塁打、97打点、シーズンMVP投票で
4位にランクされる働きを見せると
81年は打率.320の打率を残しチームのリーグ優勝に貢献、
ワールドシリーズでは奮わなかったものの
世界一の美酒に酔いしれる事が出来た。
86年、アスレチックスで引退したが
その後、監督としてジャイアンツやカブスで
采配をふるい、通算1162勝、3度の地区優勝、
3度の最優秀監督賞を受賞している。
バットボーイを勤め、ゲーム中JT・スノウに
危ないところを助けられた息子ダレン君も有名人である。
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