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file.144 Larry DOBY【ラリー・ドビー】

2007-01-21 | DEF
【81days】
Larry DOBY

1947年、ジャッキー・ロビンソンに遅れること81日、
ニグロリーグ、ニューアーク・イーグルスのショートストップ、
ラリー・ドビーはインディアンズに入団した。
ア・リーグ初の黒人選手の誕生であった。
当時のインディアンズの監督ルー・ブードロウは
ドビーにこう言い聞かせたという。
『ジャッキーに起こった事は、きっと君にも起こるだろう』

一年目、ロビンソンに劣らぬ数々の嫌がらせや迫害を受けながら
ドビーは代打を中心に29試合に出場、打率.156、本塁打0で終わった。

が、48年外野へコンバートされ、出場機会が増えると
打率.301、14本塁打、66打点の好成績を残し、チームの世界一に貢献。
ワールド・シリーズでも打率.318と活躍し、
レギュラーの地位を確固たるものにする。

ドビーはロビンソンとは異なる、中軸を打つタイプの打者であった。
49年に24本塁打を放つと、
翌50年は、打率.326、25本塁打、102打点をマーク、
アル・ローゼンらと共に、チームの主軸打者として活躍する。

52年、32本塁打、104打点で本塁打王、
54年も32本塁打、126打点で二冠王に輝き
48年に続き、チームのリーグ優勝に貢献した。

その後、59年までホワイトソックスやタイガースでもプレーし、
通算で1515安打、253本塁打、970打点を記録、
13年で8度の20本塁打以上、5度の100打点以上をマークした。

メジャーリーグでのプレーを終えたドビーは、
62年、日本のドラゴンズでプレーしている。
3年間のブランクと39歳という年齢のハンデはあったものの
72試合で打率.255、10本塁打、35打点..とまずまずの
数字を残している。

選手生活にピリオドをうったドビーは
エクスポズや、ホワイトソックスの打撃コーチに就任、
ジャッキー・ロビンソンとは違い、積極的に球界と関わりを続けた。
が、ドビーの『黒人第1号の監督』という秘かなる夢も
ついにかなわなかった。

75年にインディアンスの監督にフランク・ロビンソンが就任したのだ。
しかもドビーの古巣インディアンズ。
ドビーの落胆は想像にかたくない。

結局ドビーは78年、シーズン途中で解雇された
ボブ・レモン監督の後をうけて
87試合、ホワイトソックスの指揮をとった。
選手、監督、共に『史上2人目』のドビーであった。

『2人目の...』という冠があるだけの事で
ドビーとジャッキー・ロビンソンの評価は大きく異なる。
62年に殿堂入りを果たし、全球団で
背番号『42』が永久欠番になったロビンソン。
それに対しドビーは、引退後40年近く経った
98年にようやく殿堂入りを果たした。

2003年、6月18日に永眠した。