天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

ウチナーヌイクサ

2014-05-14 17:30:22 | 歴史
ウチナー(沖縄)は昭和12年支那事変から始まった大東亜戦争の最終戦の地となりました。

沖縄戦は昭和20年3月26日に始まり6月25日まで約4ヶ月間焦土と化すまで続きます。

大東亜共栄圏を縮小する形で昭和20年2月19日に始まった硫黄島の戦いは3月26日に陥落し容赦なく沖縄へ津波の如く押し寄せてきたのです。

ひとつこの硫黄島と沖縄の共通点をあげるとすれば

どちらも日本軍は戦いも知らない民兵に等しい軍人が主であった事です。

当時最終戦に近付くにつれ全てが欠乏しそれは物資だけでなく軍人も例外ではありません。

硫黄島と決定的に違う点があります

それは地元住民の避難が出来なかった、正確には間に合わなかったのです。

それでも約16万人は疎開させた記録はあります。戦前の人口58万人が終戦直後33万人まで減っています。

10万人に近い人々がなくなりました。それと同数の日本兵の犠牲を含めると20万人の死者数になります。

あの激戦の硫黄島の犠牲が18400人ですから沖縄戦の熾烈さがわかります。

若者は男女問わず日本軍と一緒に戦いました
老人と子供を守るために。

本土からは菊水作戦と呼ばれる「一億総特攻」で沖縄を米軍から守ろうと開始されました。

私はこの沖縄戦ひとつとってもやはり自衛のための戦争であると思わざるを得ない。

今ではこの沖縄戦は話す事もはばかられる程悲惨な戦いで

その代表に集団自決があります。

文字だけでもインパクトのあるこの事件が戦後今日に至るまで左翼のイデオロギーとして利用されてしまいます。

昭和25年発表の「鉄の暴風」当初軍命令で集団自決がおこなわれたと実名を出し痛烈に批判したのです。

家永三郎「太平洋戦争」
大江健三郎「沖縄ノート」
次々と左翼イデオロギー本を出版して日本軍は悪魔であることを印象付けていくこととなります。

ギネスにもなる程の教科書裁判で名を馳せた家永三郎ですが

陸軍士官学校教官を志望し受験するも、胃腸に慢性的な持病があったため身体検査で落とされるという経歴を持っています。

また戦後も、昭和天皇に進講したり、学習院高等科の学生だった皇太子(後の今上天皇)に歴史を講ずるなど皇室との係わりを持っていました

家永は日本国憲法下で『教育勅語成立の思想史的考察』
『日本思想史の諸問題』
という論文を発表しているが、

この中で明治天皇と教育勅語を高く評価している。

また、『新日本史』にも明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、

戦後も数年間は穏健かつ保守的な史観に依拠する立場をとっていた。

保守であった家永がなぜ左に傾倒していったのか?

それは、敗戦直後のてのひらを返したような言論界・思想界の豹変ぶりや、

歴史学界における史的唯物論の風靡に、違和感をいだき反発の姿勢を示したことによる

家永の思想が反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる1950年代の社会状況に対する反発が背景にあり、

そのころに憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている。

反政府、国家権力と対峙するような問題に取り組むようになっていった。

ある種のルサンチマンから180反転したのかもしれない。

『沖縄ノート』の大江健三郎
であるが同じく東大出身のノーベル賞作家である。

GHQの占領政策によってマスコミを義眼を埋め込まれたと表現した江藤淳と対立関係にあったとされる。

何れにせよ両者は左翼にとって欠くことの出来ない広告塔となりいまだに根本となっています。

沖縄戦集団自決の記述
詳細は「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」
 

『太平洋戦争』岩波書店1968年初版
 沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊の赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供出して自殺せよと命じ、柔順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。米軍に占領された伊江島の住民が投降勧告にくるとこれを殺し、島民の防衛隊員で命令違反という理由で殺されたものも何人かいた。
 座間味島の梅澤隊長は、老人こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った。


赤松大尉 と梅沢隊長


沖縄集団自決は、主に2つの島で起こりました。

一つは、赤松嘉次大尉が守備隊長をしていた渡嘉敷島。

もう一つが、梅沢裕少佐が守備隊長をしていた座間味島。

この両名は戦後60年以上も実名を挙げられ軍命令の濡れ衣を着せられ利用されたのです

梅澤裕さんは御存命でYouTube
にもアップされています。

ここで間違えないで頂きたいのは事実として集団自決は確かにあった。と言うことです

島民数百名近い方が集団自決でお亡くなりになられている事実です。

決して許す事の出来ないのはこの悲劇的事件を左翼の広告塔が捏造しイデオロギー化した行為であります。

事実は

渡嘉敷村の守備隊長(赤松嘉次)は、村民に対して、「非戦闘員だから最後まで生きてくれ。」と言った。

座間味島の守備隊長(梅澤裕)も、「そんなもの(手榴弾や毒薬)は渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じた。

いよいよ明日にも敵が上陸という翌20年3月24日夜10時頃、

司令本部の基地隊に、村民代表5名が訪ねてきた。

助役、役場の者、小学校の校長、警察官、女子青年団長だった。

助役の宮里盛秀氏が言った。
「いよいよ敵が上陸しそうです。

長い間、御苦労様でしたが、お別れに来ました。

私たちは前から、年寄り、女子供、赤ん坊は軍の足手まといになるため、死ぬと決めています」

梅澤氏は本当に驚いた。「戦国時代の物語として聞いたようなことを、

まさか、沖縄の人が言うとは思いませんでした」と語る。

だが、宮里助役は続けた。

「自決の方法がわかりません。我々皆が集まって円陣を作ります。その真ん中で爆薬を爆破させて下さい」

「そんなことは出来ない」と梅澤氏。

「それなら役場に小銃が3丁ありますから弾を下さい。手榴弾を下さい」と宮里助役。

「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。

みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」

梅澤氏は諭して、5人に言った。

「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」

翌日、文字どおり地獄の戦闘が始まった。

梅澤氏は部下の6割を失って、遂に敗北した。

戦闘に没頭していた氏らは、住民たちのその後の動き、約800名中172名が集団自決した事実を知らなかった。

《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。

みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。

村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。

早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。

その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、

「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、

赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言

以上複数の生き証人からの供述により濡れ衣は剥ぎ取られたのです。

これで一件落着か?
いいえ剥ぎ取った濡れ衣をすぐさま日本軍にかけたのです

軍命令は無かったが軍が深く関与したという玉虫色の判決で濡れ衣は英霊に掛けられたままなのです。

梅澤さんと赤松大尉の弟が名誉毀損で大江と岩波を訴えましたが最高裁で破れました。

沖縄ノートには実名表記していないという理由だけで
今現在も大江の本は世に出回っているのです。

個人的感想ですが
梅澤裕さんの戦争は平成の世になった今でもまだつづいているのです。

大江の本はこれから大嘘江偽三郎の「沖縄ノーウソ」とここに高らかに記します。

元沖縄守備隊長梅沢氏に捧ぐ

2014年8月6日
梅沢裕97才永眠
安らかにお眠りください

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