天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

歴代侍従長と宮内庁長官

2016-08-21 20:15:28 | まとめ・資料
日本国憲法施行後 の侍従長


大金益次郎 2年 52〜53歳
昭和21年5月3日 - 昭和23年6月5日
栃木県出身。大田原中学、二高を経て、大正8年に東京帝国大学法学部を卒業し、【内務省】に入省。

【大阪府保安課長・京都府地方課長】などを経て、昭和2年宮内省に移る。宮内大臣秘書官・侍従・総務局長などを歴任した後、昭和20年宮内次官。翌21年戦後初の侍従長に就任。昭和天皇の信任厚く、同年神奈川県を皮切りに始まった全国巡幸では、宮内大臣の松平慶民・宮内次官の加藤進とともに、企画・立案・実施の中心人物として活躍した。



三谷隆信 17年 56〜73歳
昭和23年6月5日 - 昭和40年3月30日
大正6年 - 東京帝国大学独法科卒業【内務省】入省
大正8年 - 広島県沼隈郡長となりのち【外務省】に入り、大使館三等書記官、条約局第三課長、大臣官房人事課長、在仏国大使館一等書記官、参事官条約局長を経て
昭和15年 - スイス大使
昭和17年 - フランス大使 
昭和21年 - 退官
昭和22年 - 【学習院女子部長】
昭和23年 - 宮内庁侍従長
昭和28年 - 皇太子海外ご訪問の随員を務む
昭和40年 - 退任
宗教はキリスト教、趣味はゴルフ、古典の読書。



稲田周一 4年 63〜67歳
昭和40年3月30日 - 昭和44年9月16日
新潟県出身。東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。【内務省】に入省し佐賀県属となり内務部産業課兼地方課に配属された。

昭和2年4月、【地方事務官・群馬県工場監督官兼社会課長】に就任。拓務事務官を経て、昭和6年12月、【内閣官房】に転じ内閣書記官・内閣官房総務課勤務となる。以後、内閣官房会計課長、同総務課長、兼同会計課長などを歴任。

昭和20年4月、【滋賀県知事】に就任し終戦を迎えた。昭和21年1月に知事を退任し、同年2月、宮内省内記部長に就任。同年5月、侍従次長となるが、同年9月から昭和25年10月まで公職追放となる。追放解除後に侍従次長に復帰し、昭和40年3月から昭和44年9月まで侍従長を務め退官した。



入江相政 16年 64〜80歳
昭和44年9月16日 - 昭和60年9月29日
相政は昭和天皇と「はとこ」の関係にある。

明治45年4月、学習院初等科に入学。少年時代から歌舞伎、江戸音曲に親しんだ。大正15年4月、東京帝国大学文学部国文学科に入学。昭和4年、【学習院の講師】となる。この頃から、父・為守の勧めで謡(観世流)を習い始める。昭和6年3月29日、岩崎豊弥の娘・君子と結婚。昭和7年3月25日、長女・令子が誕生。昭和8年、【学習院の教授】に就任。同年12月3日、長男・為年が誕生。昭和9年4月23日、義母・岩崎武子が死去。同年10月29日に宮内省侍従職侍従となる。

昭和10年1月1日、母・信子の勧めで日記を付け始める。この日記は、以後、相政の亡くなる前日、昭和60年9月28日まで半世紀にわたって付けられ、昭和天皇が崩御した後の平成2年に『入江相政日記』(全6巻、朝日新聞社刊、入江為年監修、平成2年-3年)として公刊された。戦前戦後を通じて昭和天皇の側に仕えた者から見た歴史の一面を伝える貴重な史料となった。同年4月から5月にかけて、台湾中北部大地震のためご差遣。
昭和11年2月26日、二・二六事件で連日当直をつとめる。同年3月19日、父・為守が死去。昭和16年10月22日、姪の高木百合子が三笠宮崇仁(たかひと)親王と結婚し、三笠宮妃となる。昭和17年5月に北九州地方へ、同年7月に関東地方へ、同年9月から10月には樺太へご差遣。昭和20年3月10日、東京大空襲で東京都牛込区砂土原町(現・新宿区市谷砂土原町)の自宅を焼失。同年3月15日、家族(母、妻ら)を山形県東田川郡黄金村(現・山形県鶴岡市)に疎開させる。同年8月14日、終戦の前日に塩原御用邸から帰京し、終戦の玉音放送録音に供奉する。同年12月9日、砂土原町の焼け跡で壕舎生活を始める。

昭和21年3月1日、東京都下巡幸に初のお供。同年6月に千葉県下、同年11月に栃木・茨城県下の巡幸にお供。昭和22年5月6日、壕舎生活を打ち切り、千代田区三番町の官舎に転居。同年6月に関西巡幸、同年8月に東北巡幸、10月から11月に北陸巡幸にお供する。昭和24年5月から6月、九州巡幸にお供。同年11月11日、皇居内の旧本丸跡の官舎に転居。昭和26年11月、近畿巡幸にお供。昭和28年4月2日、母・信子が死去。昭和29年8月、北海道巡幸にお供。ここまで一連の巡幸で、多くの御製が詠まれ、各地で記念碑が建てられたが、その大部分を相政が謹書した。相政は父譲りの能筆で、他から頼まれて自作の和歌などを書くことが多くなる。

昭和32年5月、初の随筆集『侍従とパイプ』(毎日新聞社)を出版し、エッセイストとしての活動を始める。昭和35年11月27日、自作の長唄「朝顔」の初演を聞く。昭和41年5月30日、義兄で元皇太后宮大夫の坊城俊良が死去。昭和43年4月1日、侍従次長に就任。昭和44年3月3日、長兄・為常が死去。同年9月16日、侍従長に就任。昭和45年3月26日、千代田区紀尾井町の侍従長公邸に転居。昭和46年9月から10月、天皇皇后の訪欧に随行。昭和50年9月から10月、天皇皇后の訪米に随行。昭和55年11月3日、勲一等瑞宝章を受章。昭和56年8月26日、紺綬褒章及び賞杯を受章。昭和58年4月26日、妻・君子が70歳で死去。昭和60年9月26日、同年10月1日付の侍従長退任を控え宮内記者会とお別れの会見。同年9月29日午後、自宅で意識を失っているところを家人に発見される。同日午後1時31分、搬送された慶應義塾大学病院(東京都新宿区信濃町)で、虚血性心不全により死去。享年81。勲一等旭日大綬章を受章、従二位を追贈される。



徳川義寛 3年 79〜82歳
昭和60年10月1日 - 昭和63年4月13日
学習院高等科を卒業し、昭和5年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。【ベルリン大学】留学後、【帝室博物館(現東京国立博物館)研究員。】
昭和11年11月20日 - 侍従
昭和44年 - 侍従次長
昭和60年10月-昭和63年4月 - 侍従長。
太平洋戦争末期、天皇の玉音放送をめぐって起きた未遂クーデター、宮城事件を描いた書著および映画『日本のいちばん長い日』に侍従として登場。

侍従長退任後は、公益法人日本博物館協会会長を務めた。没後の平成11年に、終戦時の詳細な日記『徳川義寛終戦日記』が刊行され、話題となった。



山本悟 9年 63〜72歳
昭和63年4月13日 - 平成8年12月12日
昭和20年に東京帝国大学法学部に入学した。直後に召集を受け、8月20日の入営を控えていたところで終戦を迎えた。

在学中の昭和22年11月、高等文官試験行政科試験合格し、23年、東京大学法学部を卒業し、【総理庁】に入った。その後、昭和41年に【自治省選挙課長】、43年に年【徳島県副知事】、46年に【行政局選挙部長】、48年に【同官房長】、51年に【行政局長】、52年に【財政局長】を歴任した。

昭和53年5月、富田朝彦宮内庁次長の長官昇格にあたって後任として宮内庁に転じた。在任中には昭和天皇の傘寿記念行事や東京サミットでの接遇、浩宮の結婚問題などをめぐる国会答弁に手腕を発揮した。

昭和63年4月、勇退する徳川義寛侍従長の後任として侍従長に就任した。入江相政、徳川と2代19年にわたって侍従生え抜きの侍従長が続いた後の就任であった。富田長官の後任の藤森昭一宮内庁長官とともに、昭和から平成への代替わりの重責を担い、昭和天皇の闘病を支えたほか、「大喪の礼」「即位の礼」など様々な重要儀式を取り仕切った。また、天皇、皇后両陛下の東南アジア、中国、欧州訪問などにも随行した。

平成8年8月、一過性脳虚血発作により入院し、9月、二度目の発作で脳梗塞との診断を受けて鎌倉節宮内庁長官に辞意を伝え、12月12日付で退任した。退任にあたっては文書でのコメントを発表し、「病気のためご奉仕もできぬままに退官することを大変申し訳なく思っております」「御代替わりの行事があり、大変な光栄」「今も、昭和天皇の崩御のことを思うと胸のつぶれる思いがいたします」「平成の御世となり、両陛下のヨーロッパ諸国等の外国ご訪問にお供させて頂いたことも大変思い出深いこと」など述べた。

退任後の平成9年11月、勲一等瑞宝章を受章した。

平成18年12月、肺炎のため、東京・千代田区の病院で死去した。



渡邉允 11年 60〜71歳
平成8年12月12日 - 平成19年6月15日
学習院初等科(昭和24年卒)、都立日比谷高校、東京大学を経て、昭和34年【外務省】入省。同期には松浦晃一郎ら。

【外務省大臣官房審議官、中近東アフリカ局長】(平成元年3月7日- )、【駐ヨルダン大使】、儀典長(平成5年11月2日-7年8月4日)を経て、式部官長。
平成8年12月12日から平成19年6月15日まで侍従長。

宮内庁侍従職御用掛を経て、平成24年4月1日から宮内庁参与。

平成19年、『プリンセス・マサコ』の出版に対して、宮内庁として容認できない記述に関する公式抗議状を送付。より近い立場にいる野村一成(東宮大夫)の対処との違いが際立って早かったと指摘されている。

平成20年、瑞宝大綬章受章。退任後は皇室関連インタビュー・講演を多く行っている。『平成の皇室 両陛下にお仕えして』(明成社)、『天皇家の執事 侍従長の十年半』(文藝春秋)を刊行している。

渡辺昭伯爵は父、渡辺千春伯爵は祖父。曾祖父には、明治の元勲の大山厳公爵や明治天皇崩御時の宮内大臣を務めた渡辺千秋伯爵がいる。親類には初代財務官だった渡辺武がいる。



川島裕 8年 65〜73歳
平成19年6月15日 -平成27年5月1日
慶應義塾幼稚舎、東京都立日比谷高等学校、東京大学法学部を経て、昭和39年、外務省入省。

昭和41年、ケンブリッジ大学トリニティカレッジ卒業。官房人事課長、官房審議官、在大韓民国日本国大使館公使を経て、平成4年10月、駐韓国特命全権公使。平成6年、アジア局長、さらに柳井俊二の後を受けて平成7年に総合外交政策局長に就任、平成9年、駐イスラエル大使、平成11年8月、外務事務次官就任。総合外交政策局長→次官コースを切り拓いた。就任後、外務省事務官による機密費流用事件や私的不正流用事件、田中真紀子外務大臣との省内騒動を受けて辞任、平成13年8月、野上義二にバトンタッチした。平成15年から宮内庁式部官長。平成19年6月から渡辺允の後を受けて、侍従長就任。侍従長としては、今上天皇の在位20年記念式典や心臓手術の対応に当たった。また天皇、皇后の東日本大震災における被災地訪問やパラオ訪問に随行した。平成27年5月1日、侍従長を退任した。

28年春の叙勲で瑞宝大綬章を受章。

アジア局長在任中、北朝鮮に対するコメの有償・無償支援に絡み、日本政府に先を越されることを恐れた当時の韓国政府・安全企画部に足をすくわれていたのではないかという憶測記事が、時の橋本龍太郎首相の対韓関係の身上と併せて週刊誌上にて取り上げられていたこともあった。

元国連難民高等弁務官の緒方貞子とは従姉弟同士で、曽祖父は首相犬養毅、祖父は犬養の下で外務大臣も務めた娘婿の芳沢謙吉。おじに外務事務次官、駐アメリカ大使を務めた井口貞夫がいる。妻は、民法・法社会学者で東大名誉教授であった川島武宜の娘である。



河相周夫 62歳〜
平成27年5月1日-
東京都出身。昭和50年一橋大学経済学部を卒業し、【外務省】に入省する。平成17年外務省北米局長就任。18年4月にクリストファー・ヒル国務次官補と東京都内のホテルで会談し、BSE問題に絡み米国産牛肉の全面輸入禁止措置がとられていることにつき、ヒル次官補から早期解禁を要求されたのに対し、米国の検査体制整備がなされない限り、輸入解禁はできない旨を答えた。同年6月にも、ヒル国務次官補と外務省で会談し、朝鮮民主主義人民共和国に対するミサイル防衛でアメリカ軍と連携を強化する方針を確認した。

平成24年9月11日付【外務事務次官】就任。同年靖国神社・日本大使館放火事件犯人に対し引き渡し拒絶決定がなされたことに関し、申カク秀駐日大韓民国大使に遺憾である旨の抗議及び要請を行った。平成24年9月24日、沖縄県、尖閣諸島問題を話し合うため、中国を訪問し、同25日、張志軍中華人民共和国外交部筆頭副部長と4時間に渡り会談した。双方は協議継続で一致したものの、議論は平行線のままで、関係改善の糸口を見いだすには至らなかった。 平成25年1月に訪米、ウィリアム・ジョセフ・バーンズアメリカ合衆国国務副長官、ダニエル・ラッセルアメリカ国家安全保障会議アジア上級部長と安倍晋三首相の2月訪米への調整を行った。

25年6月、通常2年以上の在職期間となる外務事務次官職を10ヶ月弱で退任。次官就任前から作家の佐藤優による批判をたびたび受けており、佐藤はこの次官退任劇についても安倍晋三内閣総理大臣による事実上の更迭であるとしているが、同月に小笠原倫明総務事務次官、真砂靖財務事務次官、金子順一厚生労働事務次官、坂篤郎日本郵政社長が、いずれも就任1年を満たずに退任した他、7月には森口泰孝文部科学事務次官も退任し、さらにこれに先立って3月に金沢博範防衛事務次官も退任、平成24年12月には梅本和義内閣官房副長官補が就任1ヶ月ほどで退任していたなど、次官級職員の異例の退任が相次ぐ中での人事だった。

【外務省顧問】等を経て、平成26年9月1日、宮内庁式部官長。同年12月、皇后美智子のベルギー行啓に随行した他、平成27年4月の今上天皇・皇后のパラオ行幸啓を事務方として取り仕切った。 平成27年5月1日から侍従長。



宮内府長官


1 松平慶民 1年
昭和22年5月3日 - 昭和23年6月5日
明治15年、元福井藩主松平慶永(春嶽)の三男として生まれる。慶永の養子として家督を継いだ松平康荘の養子に入るが、明治26年に康荘の実子康昌が誕生している。

明治29年よりイギリスへ留学し、明治41年にオックスフォード大学を卒業して帰国した。帰国後は【陸軍】に進み、世田谷の陸軍野戦砲兵第一連隊に所属した。この間の明治39年9月17日に分家し、父の明治維新における功労によって子爵に叙せられる。

大正元年に侍従に就いて以降、一貫して宮内省に奉職。侍従兼式部官、式部次長兼宗秩寮宗親課長を経て、昭和9年7月17日、式部長官に就任。昭和20年7月9日、宗秩寮総裁。昭和21年1月16日、宮内大臣。昭和22年5月3日、宮内府の移行に伴い、その初代長官となった。昭和23年6月3日、宮中改革を推し進めるGHQなどの意向により退任した。

戦後、康昌らと「五人の会」を結成して昭和天皇から聞き取りを行い、「昭和天皇独白録」の作成にあたった。宮内省では珍しい外国通として知られ、昭和天皇のヨーロッパ訪問や秩父宮雍仁親王のイギリス留学の実現、また戦後のGHQとの交渉に手腕を発揮した。

皇族や上級華族であろうと、問題が発生すれば、宮内省幹部として遠慮なく問責した。東久邇宮稔彦王の帰国拒否・臣籍降下騒動、不良華族事件など、皇室の権威を損なう事件が頻発した戦前昭和期に、果たした役割は大きかった。その硬骨漢ぶりは、「昭和の殿様」「閻魔大王」と称された。



2 田島道治 5年
昭和23年6月5日 - 昭和24年5月31日

宮内庁長官
1 田島道治
昭和24年6月1日 - 昭和28年12月16日 引き続き

明治44年【愛知銀行】(のちの東海銀行、現在の三菱東京UFJ銀行)に入行し調査部長となる。大正5年鉄道院総裁の後藤新平に引き抜かれ【総裁秘書】となり、大正8年には後藤新平、新渡戸稲造、鶴見祐輔、岩永裕吉らとともに外遊をしている。帰国後の大正9年愛知銀行に戻り【常務取締役】に就任した。

昭和金融恐慌後の金融破綻の収拾策の一つとして昭和2年井上準之助らの肝いりで昭和銀行が設立されると、田島は同銀行常務取締役、次いで頭取に就任し債権返済と厳格な基準による破綻銀行の査定を実施している。また、昭和銀行頭取の退職金を担保にして昭和12年明協学寮という学生寮をつくり、人材育成を試みた。田島自身、週に一回、早朝論語の講義を行っている。

昭和13年【日本産金振興会社社長】に就任する。同社は商工省監督下の国策会社であり、以後、田島は【全国金融税制会理事、日本銀行参与】などを歴任した。

戦後の昭和21年3月【大日本育英会(現在の日本育英会→日本学生支援機構)会長兼理事長事務取扱】に任命される。また、同年7月には【貴族院議員】に勅選され、日本国憲法など重要法案審議に参加している。

宮内庁
昭和23年6月芦田均首相によって宮内府長官に任命される。昭和天皇は宮内府長官・松平慶民と侍従長・大金益次郎を交代させることに難色を示していたが、芦田は宮中改革を実行するために交代を断行し田島が宮内府長官、三谷隆信侍従長のコンビが成立した。その後、宮内府は宮内庁と改称され、宮内省時代の官僚機構も縮小・改変されるが、田島は占領時代にあって、芦田の後、首相になった吉田茂と密接に連絡を取り合い、戦後の天皇、皇室を取り巻く諸問題に当たっていった。弱音を吐かないことでは天下一品と言われ、従来、侍従職などのいわゆる「オク」の力が強い宮中、宮内庁で長官官房に権限を集中させた。

新渡戸内村門下生の三谷隆信と、田島(宮内庁長官)三谷(侍従長、昭和40年まで)の「宮中クリスチャンコンビ」として、戦後の宮中改革に尽力した。このコンビは、田島が宮内庁長官の後任にクリスチャンの宇佐美毅を指名し、「田島-三谷」から「宇佐美-三谷」にリレーされた。そして宮中の民主主義教育の促進や美智子皇太子妃の実現などの功績を残すことになった。

東京通信工業(ソニー)へ
昭和28年に宮内庁次長の宇佐美毅を後任とし長官を辞任した。長官辞任後、請われて【東京通信工業株式会社の監査役に就任する。これが後のソニーで、取締役会長、相談役】を歴任し社内からは「会長さん」と親しまれた。



2 宇佐美毅 22年
昭和28年12月16日 - 昭和53年5月26日 内務省

京城中学校、
麻布中学校、弘前高等学校を経て、東京帝国大学文学部・法学部卒業。弘前高校への進学は父の『郷里に近い弘前へ行って校風を作れ』と命じられたことによるもので、同校第1回生である。

高等文官試験行政科試験合格後、昭和3年、【内務省】に入省し、【栃木県内務部社会課長、同総務部庶務課長、内務大臣秘書官、鳥取県書記官・警察部長、内務書記官・国土局総務課長、同河川課長】等を務める。戦後は昭和21年に【東京都教育局長】、昭和23年11月に初代の【東京都教育長】に就任し、昭和25年3月まで務めた。その後、【東京都住宅協会専務理事】。

田島道治初代宮内庁長官に口説かれ、昭和25年10月、宮内庁次長に就任する。田島長官の辞任後、吉田茂首相に請われ、昭和28年12月、第2代宮内庁長官に就任。昭和53年5月まで、25年間の長期にわたり在任した。これは歴代宮内庁長官(宮内大臣を含む)のうち最長の在任期間である。

皇太子妃美智子冊立にあたっては、皇室参与小泉信三慶應義塾大学塾長、鈴木菊男東宮大夫、黒木従達東宮侍従長、田島道治前長官と奔走した。その後も、義宮正仁親王、清宮貴子内親王の成婚、吹上御所、皇居宮殿の造営、昭和天皇と香淳皇后の訪米欧を実現するなどした。一方で天皇の政治利用に対しては徹底的にこれを退ける剛直な姿勢から、「頑固者」「堅物」などとも言われた。

昭和50年10月31日の日本記者クラブの際に昭和天皇が「この原子爆弾が投下されたことの対して遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから広島市民に対して気の毒であるが、やむをえないことと思います。」と述べた。この反響は大きく、抗議声明を出した広島県原水禁(森滝市郎代表委員)に対し宇佐美は補足として『天皇が原爆投下を肯定する意味あいのご発言ではない。ご自身としてはそれを止めることが出来なかったことを遺憾に思われて、「やむを得なかった」のお言葉になったと思う。第二次大戦の犠牲となった人々、今なお原爆の災禍に苦しむ広島、長崎両市民に心を砕かれておられる両陛下のご真情を理解してほしい』と回答した。宮内庁は以後かなり取材などに対しては事前に厳しい措置をとるようになった。

平成3年1月19日、87歳にて死去。



3 富田朝彦 10年
昭和53年5月26日 - 昭和63年6月14日 警察庁
函館中学、旧制二高を経て、昭和18年東京帝国大学法学部を卒業後、海軍を志願し、同年9月30日海軍三校のひとつ【海軍経理学校】に入学。

昭和19年2月同校を卒業し【海軍主計科士官】(主計科短期現役第10期)となる。最終階級は【海軍主計大尉】。

【内務省】を経て、警察庁に入り【警視庁交通部長、警察庁長官官房長、警察庁警備局長】を歴任する。警備局長時代の警察庁長官は後藤田正晴であさま山荘事件などを担当した。その後、【警視庁副総監、内閣調査室長】を経て、昭和49年11月26日宮内庁次長、昭和53年宮内庁長官に就任した。

平成4年11月3日勲一等瑞宝章受章。平成15年11月13日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。83歳没。



4 藤森昭一 9年
昭和63年6月14日 - 平成8年1月19日 厚生省・環境庁
長野県松本市出身。旧制松本中学(のち長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校文科を経て、東京大学法学部政治学科卒業。学位は法学士。

【厚生省】出身。環境事務次官を経て、昭和57年中曽根康弘内閣の発足と共に事務担当の【内閣官房副長官】に就任する。副長官在任は中曽根内閣の5年間に及んだ。

藤森の部下であった佐々淳行(内閣安全保障室長)は、著書『わが上司 後藤田正晴』(文春文庫)で、突発的な危機に官邸が対応できるよう、藤森は副長官任期中は一度も東京を離れなかったというエピソードを紹介し、その職務に対する責任の高さを賞賛している。

官房副長官退任後の昭和63年6月14日から宮内庁長官を務める。在任中の昭和64年1月7日に昭和天皇崩御という時代の節目を迎え、天皇崩御の報告会見を行う。平成元年2月24日の大喪の礼、翌平成2年11月の今上天皇の即位の礼・大嘗祭などを取り仕切った。平成8年1月18日に退任。

平成8年10月に日本赤十字社第13代目社長に就任した。就任以後も宮内庁参与として宮内庁の職に勤めたが、平成17年2月28日に参与を退任した。平成17年3月に社長を退任し、日本赤十字社名誉社長の称号を贈られた。

平成11年11月3日、叙勲。勲一等旭日大綬章受章。

平成16年、菊葉文化協会理事長に就任。

平成28年6月25日、敗血症のため逝去。89歳没。



5 鎌倉節 5年
平成8年1月19日 - 平成13年4月2日 警察庁
高知県出身。高知城東中、高知高等学校 (旧制)を経て、昭和29年東京大学法学部卒業。【警察庁】同期採用者の佐々淳行と共にキャリアとして評価された。

【内閣調査室長、警視総監】など次々と昇進を重ね、平成6年に宮内庁次長となる。

警視総監時代、警察官僚OBであり、当時の内閣官房長官だった後藤田正晴の要請を受け、東芝機械ココム違反事件の捜査を命じた。

平成8年に藤森昭一長官が退任後、宮内庁長官に就任、平成13年まで勤めて退官した。平成14年4月29日勲一等瑞宝章受章。

【財団法人全日本交通安全協会理事長、社団法人日本自動車連盟会長、社団法人全国警友会連合会会長】等を歴任。

平成26年10月25日死去。84歳歿。



6 湯浅利夫 4年
平成13年4月2日 - 平成17年4月1日 自治省
東京都立日比谷高等学校を経て、昭和34年東京大学法学部卒業。同年、【自治庁】入庁。

平成12年4月、宮内庁次長に就任し、翌平成13年より宮内庁長官となった。

平成15年6月10日、記者会見で皇太子夫妻の第2子への期待について「やはりもう一人ほしい」「多くの国民もそう考えているのではないか」と発言した。また同年12月に「秋篠宮様のお考えはあると思うが、皇室と秋篠宮一家の繁栄を考えると、三人目を強く希望したい」と発言した。

平成16年5月10日、皇太子徳仁親王の定例記者会見において、いわゆる人格否定発言があったことを受け、「御発言の真意を直接殿下に伺いたい」との見解を発表、直接の面会を求めたが日程の調整がつかず持ち越された。その後、皇室の重要事項の相談相手たる宮内庁参与に積極的に関わってもらう考えを明らかにした。

平成16年度をもって(平成17年4月付)、宮内庁長官を依願退官。同年9月1日より 財団法人自治総合センター会長に就任している。



7 羽毛田信吾 7年
平成17年4月1日 - 平成24年6月1日 厚生省
山口県生まれ。幼少の頃は貧しく、社会的弱者への関心を持ったことから、京都大学法学部卒業後の昭和40年には【厚生省】(当時)に入省した。同省へはキャリア官僚として務め、平成11年に【事務次官】に就任した後、平成13年に退官した。

同13年に宮内庁に入庁、平成17年に宮内庁長官に就任。宮内庁長官就任後は、内閣総理大臣(当時)・小泉純一郎と同じく、女性天皇・女系天皇を容認する皇室典範に関する有識者会議の結論を支持し、寛仁親王が結論を批判した際には、発言の自粛を要請した。

平成21年9月10日、民主党などによる連立内閣発足に際しては、「皇位継承の問題があることを(新内閣に)伝え、対処していただく必要があると申し上げたい」と述べ、皇位継承の対象を男系の男子皇族に限定している皇室典範改正への取り組みを要請する考えを示した。

平成23年2月10日の記者会見では、同年4月におこなわれる英国ウィリアム王子の結婚式への参列皇族を皇太子夫妻とすることについて、天皇・皇后夫妻が別の行事により参列できないことを挙げ、順序として問題がない旨を述べている。

特例会見問題
詳細は「天皇特例会見」を参照
平成21年12月12日、今上天皇と中国の習近平国家副主席との会見が特例扱いとして突然決まり、当初体調不良を理由に断ったものの政府の要請で会見が決まった、天皇特例会見について記者会見し「陛下に心苦しい思いでお願いした。二度とこういうことがあってはならない」と苦言を述べ、陛下の政治的利用につながるという懸念を持っているか?という記者からの質問に対し、「大きく言えばそういうことだ」と述べた。一方、民主党の小沢一郎幹事長はこの発言について同14日に記者会見を開き「政府の一役人が日本国憲法の精神、理念を理解していない、羽毛田長官は辞表を出して言うべきだ。また天皇のお体が優れないのであれば他の行事を休ませるべきだ」と批判、鳩山由紀夫総理も羽毛田の発言に不快感を示した[7]。宮内庁によれば、羽毛田の発言について同庁に1千件の電話やメールが届き、多数が羽毛田の発言を支持するものであったという。一方、民主党に対しては批判が殺到した。

天皇は同15日に国家副主席習近平と会見を行った。



8 風岡典之 4年
平成24年6月1日 -28年9月26日
昭和43年9月12日 国家公務員採用上級甲種試験(区分:法律)合格
昭和44年3月 東京教育大学(現:筑波大学)文学部卒業4月 【建設省】入省
昭和60年7月10日 建設大臣官房会計課企画官
昭和61年6月17日国土庁長官官房総務課広報室長
昭和62年7月15日 建設大臣官房地方厚生課長
平成元年6月16日 建設大臣官房調査官
平成3年6月14日建設省建設経済局建設業課長
平成5年7月2日 建設省道路局道路総務課長
平成6年
7月1日 【建設大臣官房政策課長】
10月1日 建設大臣官房福祉環境推進室長兼務
平成7年6月21日 建設大臣官房会計課長
平成8年7月2日 建設大臣官房審議官
平成10年
6月23日 建設省住宅局住宅整備課長兼務
7月1日 同兼務解除
平成11年7月13日 建設省建設経済局長
平成13年
1月6日 【国土交通省総合政策局長】
7月6日 国土交通省大臣官房長
平成14年7月16日 国土交通審議官
平成15年7月18日 【国土交通事務次官】
平成16年7月1日 辞職
平成17年4月1日 宮内庁次長
平成24年6月1日 宮内庁長官

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1 コメント

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Unknown (小田佳代子)
2018-10-24 19:22:36
死ね。何十年の苦しみがわかるか、10億円の賠償金を要求する。
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