韓国が、誰でも美男・美女を夢見る「整形大国」であるのは、自他共に認めるところです。
およそ韓国人は、実質的な内容よりも、外見を重視します。
話に内容がなくとも美辞で飾った耳障りのいい言葉に惹かれ、見てくれのよさが第一で製品の質は次となる文化がはびこっています。
外見重視は、身分、地位、肩書き、資格、出身校、成績など、誰の目にも明らかな社会的序列の重視となります。
韓国人は初対面の人には多くの場合、どんな家の血を引いているか、どこの土地の出か、どこの学校を出たか、どこの会社に勤めているか、どんな地位にあるか、などを知ろうとします。
日本でもそうするとはいっても、主としてできるだけ共通点を探してよしみを通じたいというのが目的でしょう。
人物の価値判断としてそうする韓国とは大きく異なります。
日本では盛んに「外見で人を判断してはいけない」ということがいわれます。
それは文字通りの社会性となっています。
表向きはそういうことをいっても、その実まったく正反対のことをしているのが韓国の社会性です。
韓国人の外見重視は今にはじまったものではなく、古くからの伝統を引くものです。その伝統を形作ってきたのが儒教的な礼の思想です。
礼とは、元々は各種の行事の中で守らなくてはならない、動作、言行、服装、道具などについて厳しい規定を意味します。
この礼の規定に習うことが、当時の社会秩序である身分制階級秩序のなかで生きる人間にとっての、道徳的に正しいあり方でした。
朝鮮半島では、李朝朝鮮の時代に礼を国家社会の制度にまで高め、礼は国民の間に広く根づいていきました。
韓国が自国を称して「東方の礼儀国」と誇る理由もそこにあります。
礼が問題にするのは「動作、言行、服装、道具」といった目に見える形が、つまり外見が礼にかなった正しいものであるかどうかです。
そこでは、正しさとは形で示してこそ正しさとなります。
心の内面を問うのではありません。表面の形を問うのです。
内面ではなく形ばかりを重視する、形にこそ価値があるとなっていきますと、当然のごとく形式主義の傾向を強くしていきます。
表ではいいことばかりいっていて、裏では舌を出しているといった文化が蔓延します。
本来は、外に表れる形をもって内実を示すのが礼ですから、日本人は自分が過ちを犯したと思えば「ごめんなさい」と謝罪します。
しかし、韓国人は容易に謝ろうとしません。
礼として謝罪を表せば、自分が下位につくことになるからです。
礼は身分制階級秩序の規範であり、身分、地位、年齢が高い者ほど徳の高い者となります。
ですから、頭を低くするのは「下から上へ」に限られます。
頭を低くすれば、それだけ自分は特の低い者と示すことになりますから、上に立つ者は常に頭を高くしていること、それが礼にかなったことであるのです。
現在の韓国社会は今なお、かってと同じように、「動作、言行、服装、道具」などの外見で人を判断する社会です。
韓国の社会は旧社会の価値観から未だ解放されてはいないのです。
朝鮮半島は、礼を制度にまで高めて徹底的に奨励した文化でした。
だからこそ、本当の意味での礼の心を表現する文化・習慣が根付かなかったのだと思います。
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