田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『赤い河』ホークスとデューク

2019-07-01 16:31:21 | 1950年代小型パンフレット

『赤い河』(48)(2007.7.21.『MOVIE』ジョン・ウェイン特集号 巨匠たちとのコラボより)

  

  

 リオ・グランデの近くで牛を放牧するダンソン(ジョン・ウェイン)は、1万頭の牛群をミズーリまで運ぶ計画を立て、孤児のマシュー(モンゴメリー・クリフと)らと共に旅立つ。

 この映画を監督したハワード・ホークスは、1896年米インディアナで生まれた。スクリューボールコメディー、ミュージカル、ギャングもの、ハードボイルド、戦争もの、そして西部劇とあらゆるジャンルで名作を残した。だから彼には“男性映画の巨匠”“女優の魅力を引き出す監督”などさまざまな形容詞が付けられている。だがそられはどれも彼の映画の一端をとらえているにすぎない。その魅力を一言で言い当てられないほどホークスの映画は幅が広いのだ。

 この映画に始まり、『リオ・ブラボー』(59)『ハタリ!』(62)『エル・ドラド』(67)『リオ・ロボ』(70)と、ホークスが撮ったジョン・ウェイン=デュークの映画は全部で5本。これは同じ監督と繰り返し映画を撮る傾向が強かったデュークの作品歴の中ではそれほど多い本数ではない。だがジョン・フォードとは全く違った形で築かれたデュークとホークスの信頼関係はデュークの俳優人生の中で特別な位置を占めている。

 フォードとホークスは1歳しか年が違わなかった。「タフなデュークを扱えたのはフォードと私だけだ」とホークスは言うが、デュークに対する2人の接し方はまったく異なった。フォードはいつまでもデュークを新人のように扱ったが、ホークスとデュークは互いに尊敬し合い対等の関係を築いた。だからフォードの前ではいつも緊張していたデュークがホークスとの撮影現場ではリラックスできた。

 例えば2人が最初に組んだ『赤い河』はデュークが初めて老け役に挑んだ映画だが、どう演じたらいいかと悩むデュークにホークスは「いいかデューク、全てのシーンでうまく演じようなんて考えるなよ。せいぜい五つぐらいのいいシーンがあればいいんだ。観客が途中で出ていかなければそれはいい映画だということだ」とユーモアを交えながらアドバイスを送り、デュークの気持ちを和らげた。そしてデュークは難役を見事に演じ切り、それを見たフォードは「あいつにこんな演技ができるとは思わなかった」と言って『黄色いリボン』(49)で老け役を演じさせたのだ。

 次にホークスとデュークが組んだのは11年後。ゲーリー・クーパーが主演した『真昼の決闘』(52)に反発した2人は、「本当の保安官を見せてやる」と言って会心作の『リオ・ブラボー』を作った。以後の2人の映画がどれも同じようなパターンに終始したにもかかわらず見る者を楽しくさせるのは、打ち解け合った撮影現場の雰囲気がそのまま映画に反映された結果だろう。

 デュークにとってホークスがいかに特別な存在だったのかは、『赤い河』で使った牛の烙印をあしらったベルトのバックルを、フォードの映画以外で愛用し続けたこと。アカデミー賞とは無縁だったホークスが74年に名誉賞を受けた時にはプレゼンター役を買って出たこと。そして77年にホークスが亡くなると、その葬儀で「千の風になって」を朗読したことなどからもうかがい知ることができる。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【ほぼ週刊映画コラム】『今... | トップ | 『ザ・ロック』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

1950年代小型パンフレット」カテゴリの最新記事