『ほぼ週刊映画コラム』
今週は
見ながら元気になれる映画。観客賞を受賞したのも納得の
『エール!』
詳細はこちら↓
http://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/week-movie-c/1022445
『ジョーのあした~辰吉丈一郎との20年~』
赤井英和主演のボクシング映画『どついたるねん』で監督デビューした阪本順治が、波瀾万丈のボクシング人生を歩む辰吉丈一郎を20年にわたって取材したドキュメンタリー。
若くて生意気なイメージが強かった辰吉ももう45歳になるのか…という感慨に加えて、年を経るに従って、多弁で理論派である彼のろれつが回らなくなっていく姿が悲しく映る。
『スプリング、ハズ・カム』
2月のある日。東京の大学に入学する娘の部屋探しのために、広島から同行した父。祖師ヶ谷大蔵を舞台にした、別れゆく父と娘の1日の物語を淡々と描いた佳作。
父親役に落語家の柳家喬太郎、娘役に『ソロモンの偽証』のエキセントリックな役柄から一転、“いい娘”を好演した石井杏奈。喬太郎は祖師ヶ谷大蔵で生まれ育ったウルトラマンフリーク(円谷プロは同地にある)とのこと。タイトルはシンプルに「春が来た」の方が良かったのではと思うが、手堅くまとめた監督、脚本、編集の吉野竜平の今後に期待。
『ディス・イズ・オーソン・ウェルズ』
娘のクリストファーをはじめ、マーティン・スコセッシ、ピーター・ボグダノビッチら映画監督たちへのインタビューを通して、監督デビュー作の『市民ケーン』(41)から、ハリウッドで監督した最後の作品となった『黒い罠』(58)まで、オーソン・ウェルズのアメリカでの映画人生を簡潔にまとめたドキュメンタリー。
『市民ケーン』以外は、どれも意に添わない映画となり、“呪われた天才”と呼ばれたウェルズ。その一方、火星人襲来を告げてパニックを巻き起こしたラジオドラマや『フェイク』(75)のように、人をだまして楽しむいたずらっ子のようなところもあった。手品や変装も大好きだったとのこと。「『市民ケーン』を撮るに当たって、ジョン・フォードの『駅馬車』(39)を飽きるほど見て映画の技法を研究した」など、ウェルズ本人が語る部分が一番面白かった。
東京国際映画祭の一環として、と言うよりもスターチャンネルの宣伝を兼ねて『シェーン』(53)のデジタルリマスター版が上映された。上映前には逢坂剛氏と川本三郎氏によるトークショーも行われた。
今さらながら『シェーン』の粗筋を書くと、アメリカ西部開拓期、牧場経営者と開拓民が対立する緑豊かなワイオミングの地に、ガンマンのシェーン(アラン・ラッド)が流れ着く。開拓農民スターレット(バン・ヘフリン)一家と親しくなった彼は、一時、地道な暮らしを夢見るが、対立が激化する中、スターレットの身代わりとなり、再び銃を手に決闘の地に赴く、というもの。
この西部劇の古典とも呼ぶべき作品の主題は、もちろん「ジョーイ少年(ブランドン・デ・ワイルド)の視点から見たヒーローへの憧れ、流れ者の悲哀」なのだがその奥には、シェーンとスターレット、その妻マリオン(ジーン・アーサー)との微妙な三角関係が隠されている。
三人とも決して言葉や行動には出さないが、互いの微妙な心の揺れに気付き、おののく。直接的な表現よりも、より切なく美しい“隠されたラブシーン”がジョージ・スティーブンス監督の繊細な演出によって観客に示される。
スティーブンスは『ママの想い出』(48)『ジャイアンツ』(56)など、家庭劇を得意とした監督なので、『シェーン』も西部劇というよりは細やかな心理描写が秀逸な一種の家庭劇だとも言えるのだが、それに加えて、南北戦争やジョンソン郡戦争に象徴される開拓時代末期の対立構造も描かれている。
ジョンソン郡戦争は、東欧からの貧しい移民と牧畜業者が対立した事件で、実際に『シェーン』の舞台となったワイオミング州で起こった。つまりスターレットとライカーはそれぞれの側の象徴的な人物として描かれていることになる。
マイケル・チミノの『天国の門』(79)は、このジョンソン郡戦争を克明に描いていたのだが、実のところ良く分からない映画だった。かつて故瀬戸川猛資が『シェーン』と『天国の門』の関係を鋭く指摘した一文を読んで目から鱗が落ちた覚えがある。
そして、ジャック・バランス扮する黒ずくめの殺し屋ウィルソンは北軍兵士の成れの果て、シェーンや、ウィルソンに射殺されるトーリー(エリシャ・クック・ジュニア)は元南軍兵士だと思われる。
それはトーリーとシェーンが共にウィルソンを「卑劣な北部の嘘つき野郎」と罵るセリフからも想像できる。
恐らくシェーンもウィルソンも南北戦争後、雇われガンマンとして生きてきたのだろう。その二人が、対立するスターレットとライカ―に雇われ、最後は対決するというのは、何やら因縁めく。
さらにこの映画は、ライカ―のような牧畜業者やシェーンやウィルソンのようなガンマンの時代の終焉も描いている。決闘前にシェーンとライカ―が交わすセリフがそれを言い当てている。
シェーン「あんたは長生きし過ぎた。あんたたちの時代はもう終ったんだ」
ライカ―「お前はどうなんだガンファイター」
シェーン「俺は心得ているさ」
つまり彼らは互いの立場や心情が良く分かる同種の人間なのだ。それは、全てが終わり、酒場を後にするシェーンが、倒したライカ―やウィルソンを悲しげに一瞥するシーンにも象徴されているし、ジョーイに聞かれたシェーンが「正真正銘のウィルソンだった。すごい早撃ちだった」とウィルソンを認めるようなセリフを吐くのも象徴的だ。
初めて『シェーン』をテレビで見てからかれこれ40年がたつ。その間、さまざまな形で何度も見直しているが、その時々の自分の心理状態によって印象が変わる。また何年後かに見直したら全く違うことを書くかもしれない。
『シェーン』デジタルリマスター版公開初日イベント
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/2d3b3dd3d4b79c90db799b911e4729a9
パンフレット(53・外国映画社(Foreign Picture News))の主な内容
解説/物語/ジョージ・スティーブンス/楽譜/詩のある西部劇=優れたジョオジ・スティヴンス演出(原安佑)/製作ゴシップ/アラン・ラッド、ジーン・アーサー、ヴァン・ヘフリン/この映画のワキ役
2265年、スペースコロニーと地球を結ぶ幹線道路、通称「ギャラクシー街道」にある小さなハンバーガーショップを舞台に、さまざまな“宇宙人模様”を描く、三谷幸喜監督、脚本のシチュエーションコメディー。あえてCGを使わず、昔ながらの書き割りのセットをバックに物語が展開する点は舞台劇を想起させられる。
また、三谷が子どもの頃に見たであろうテレビの「宇宙家族ジェットソン」や「奥さまは魔女」あるいは「ウルトラシリーズ」、そして映画の『オズの魔法使』(39)や『バーバレラ』(68)のイメージの端々を盛り込んだ気持ちは、同世代としては良く分かる。加えて、きっとこの映画は、三谷脚本の『笑の大学』のせりふ「くだらない。くだらないけど面白い」の線を狙ったのだとも思う。
けれども、悪乗り、内輪受けがあまりにも目立ち、自分たちだけが楽しんでいるのではと感じさせられるところが目に付く。三谷幸喜の悪い面が際立つ一作。救いは、優香、秋元才加ら女性陣の頑張りか。
田宮二郎主演の『犬シリーズ』の第8作。田宮演じる主人公は風来坊の流しでガンマニアの鴨井大介。ぼろアパートに住みながらスタイリッシュなしゃれ者というギャップがいい。
村野鐵太郎監督らしい切れのいいアクションと脚本藤本義一による関西弁の掛け合い漫才のようなせりふのおかしさが相まって、独特の面白さを生んでいる。
鴨井の相棒役の藤岡琢也、アパートの隣に住む夫婦の小沢昭一と坂本スミ子、敵対する暴力団幹部の成田三樹夫とその情婦の江波杏子、鴨井と意気投合する“しょぼくれ刑事”の天知茂、謎のおかまの財津一郎、
そして伊達三郎、早川雄三、北城寿太郎、夏木章ら大映の脇役も含めて、田宮と他の俳優たちとのアンサンブルも見ものだ。
個人的には、旧型の池上線や山手線をはじめ、昭和40年代のなじみのある懐かしき五反田の風景が映ったのもうれしかった。
ヒロインを演じたアリエル・ホームズの実体験を基に、ニューヨークの路上で暮らすヘロイン中毒の若者たちの姿を生々しく描き、昨年の東京国際映画祭でグランプリと監督賞に輝いた『神様なんかくそくらえ』のジョシュア・サフディ監督にインタビュー。
弟のベニーと共同で監督したこの映画は、望遠レンズでの撮影を多用して劇映画とドキュメンタリーのはざまを表現しているが、究極的にはヒロインのアーリーと恋人のイリアとのピュアな愛を描いたのだという。
同じくニューヨークを舞台に、麻薬中毒の恋人たちの姿を描いたジェリー・シャツバーグ監督、アル・パチーノ、キティ・ウィン主演の『哀しみの街かど』(71)を思い出した。
「この映画の内容には「『Heven Know What』という原題よりも『神様なんか~』という邦題の方が合っているのでは?」と尋ねると、「アメリカの配給会社にタイトルを変えてほしいと頼んだがダメだった」と残念そうに答えたサフディ監督。現在31歳の彼は、日本文化を学んだこともあり、宮崎駿や園子温の映画に強く引かれるという。
詳細は後ほど。
「勇敢」「無欲」「高潔」「平和」「博学」の五つの共同体に分かれ、管理された未来社会。どの共同体にも属さないダイバージェント=異端者たる少女の戦いを描くシリーズ第2弾。
前作の設定を思い出すのに時間がかかる。やっと思い出してきて、さてどうなるかと思ったところで今回は終わり、また次回へと続く。『ハンガーゲーム』もそうだが、このパターンが繰り返されることには疑問を感じる。
見どころは、『きっと星のせいじゃない。』からショートヘアにしたシャイリーン・ウッドリー、シャイリーンとは恋人役から兄妹役に戻ったアンセル・エルゴート、ナオミ・ワッツとはとても親子には見えないテオ・ジェームス、『セッション』『ファンタスティック・フォー』のくせ者マイルズ・テラーといった、若手俳優たちの動静か。
キアヌ・リーブスが伝説の殺し屋に扮し、ロシアン・マフィアを相手に激しい“ガンフー”(ガン+カンフー)アクションを見せる。
まず、愛犬と愛車を奪われただけで、ここまでやるか!という違和感。そして、ほとんどゲーム感覚の撃ち合いが延々と繰り広げられ、見ていて空しくなってくる。名脇役たるジョン・レグイザモ、ウィレム・デフォーも飼い殺し状態。
キアヌ・リーブスよどこへ行く。
1939年に起きたヒトラー暗殺未遂事件を、事実に基づいてオリバー・ヒルシュビーゲル監督が映画化。実行犯のゲオルグ・エルザーの人生を明かしながら、歴史の闇に葬られた事件について描く。
ファーストシーンでいきなり時限爆弾を仕掛けるエルザーの姿が映る。つまりこの映画は結果を先に示し、エルザーが暗殺を企てる経緯を遡って見せるという、一種の倒叙型として成立している点がユニークであり、「あと13分早ければ…」という歴史のifを想像させるところもある。
女癖が悪く、優柔不断な主人公エルザーの人物像には、なかなか感情移入がしずらいが、この場合は、そうした極普通の男が暗殺を行おうとした、という点が重要なのだ。そこには単純な知られざるヒーロー話や美談にはしないという、作り手たちの姿勢がうかがえる。
また、ファシズムに押し流されていく村の人々を見ていると、この映画の主人公とは逆のパターンだが、フランスの村でナチスの手先となる少年の悲劇を描いたルイ・マル監督の『ルシアンの青春』(73)を思い出した。
戦後70年、本作やアウシュビッツ収容所の実態を若い検事が暴く『顔のないヒトラーたち』など、いまだにナチスの罪を引きずりながらそれを執拗に描くドイツと、もはや戦争の傷など忘れてしまったかのような日本との違いは大きいと感じさせられる映画だった。