田中雄二の「映画の王様」

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『エデンの東』

2020-10-07 07:00:57 | 1950年代小型パンフレット

『エデンの東』(55)(2010.3.29.午前十時の映画祭)



 この映画を最初に見た時(1979.6.18.東急名画座)は、すでにジェームス・ディーン伝説が確立されていた。ところが実際に見てみると、自分を持て余し、世をすねて、周りを不幸にしながら、結局は父の愛を得、恋人を得るディーンふんするキャルにほとんど感情移入ができず、映画自体もそれほど好きにはなれなかった。逆に、兄のアロン(リチャード・ダバロス)は何てかわいそうなんだと感じた自分は変なのか、などと思ったりもした。

 だが、かれこれ30年を経た今、改めて見直すと、この映画が描いているのはそんな短絡的なものではないと気付かされた。つまり双子のキャルとアロンはコインの裏表のような存在であり、善悪の曖昧さや人間の持つ業の深さを象徴していたのだ。

 話はそれるが、以前、フランスの批評家の影響を受けた蓮實重彦氏の一派が『理由なき反抗』(55)の監督ニコラス・レイを持ち上げたいばかりに、レイと比較してこの映画の監督のエリア・カザンの評価を落とすという暴論がはびこっていた。

 そもそもディーン主演の映画を監督したという共通点だけで2人を比べて優劣をつけること自体がおかしいし、この時期のカザンの演出には演劇的なくささはあるものの、圧倒的な力強さがあると思う。

 蓮實氏には、プレストン・スタージェスを持ち上げたいばかりに、姓が同じだけのジョン・スタージェスを貶めるという暴挙もあった。こういう姿勢は醜いだけなのだが、彼にはそれなりの影響力があり、その言葉を信じてしまう者もいるから困ったものだ。

 この映画に話を戻すと、他にも、ジョン・スタインベックの原作を文学的な香りが残る脚本に仕上げたポール・オズボーン、『黄金』(48)『サウンド・オブ・ミュージック』(65)の名カメラマン、テッド・マッコードの影のある風景描写、テーマ曲だけが有名だが、実は前衛的なレナード・ローゼンマンの音楽など、スタッフそれぞれの仕事も見事だ。

 ディーンはひとまず置いて。他の配役は、女性の微妙な心理を表現しながら、段々きれいになっていく(映されていく)ジュリー・ハリス、善にこだわるあまり不幸になる父親役のレイモンド・マッセイの名演に加えて、保安官役のバール・アイブス、酒場の用心棒役で容貌魁偉のティモシー・ケリーなどの脇役もいいが、圧巻はこの映画でアカデミー助演賞を得た母親役のジョー・バン・フリート。彼女は『暴力脱獄』(67)ではポール・ニューマンの母親も演じていたから、ディーンとニューマンの母を演じた唯一の女優ということになる。

 兄役のリチャード・ダバロスは、役のせいもあるが、いささか影が薄い。そのため、兄弟の役はマーロン・ブランドとモンゴメリー・クリフトが演じる予定だったとか、ディーンとニューマンが最後までキャル役を争ったなど、さまざまな伝説が語られることになったのだろう。

 そう言えば、原田真二の「てぃーんずぶるーす」という曲の中に、「僕は、愛に背中向ける、伏せ目がちの、ジェームス・ディーンまねながら~」という一節があったなあ。

パンフレット(55・小島商事映画部(S・Y PICCADILLY115))の主な内容は
解説/梗概/ジュリー・ハリス、ジェイムス・ディーン/監督エリア・カザン/人の性格と映画の性格(南部圭之助)/此の映画によせる数々の批評/永遠に熱く、消えることのなき青春(小森和子)


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