TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『プロ野球と鉄道』

2021-01-04 22:56:00 | 読書
 『プロ野球と鉄道 ーー新幹線開業で大きく変わったプロ野球』(田中正恭著、交通新聞社新書=121)

 野球好きで鉄道好きならば知っている話が多いが、こうして大きな流れとして提示されると、歴史というものの息遣いが聞こえてくるような本であった。そして、プロ野球は交通の発達とともに興行形態を変え、1952年頃からフランチャイズが確立したが、立地により有利不利が出来たが、新幹線と飛行機の発達がそれをなくしていったことが分かる。カープは、新幹線の博多延伸のおかげであることが分かる。だがそれに先行する昭和30年代前半に西鉄が強かったのは? 一ヶ月ごとにホームとアウェーを繰り返す工夫があったからだろうか。(どうしても、セ・リーグは「あのチーム」優先で日程を組んでいて、広島には過酷だったように思う。)

 現在の各球場における取り組みが鉄道と密接であること、地域が鉄道を中心に盛り上げていることも興味深い話であり、カネやん、南海の佐藤道郎さん、広島の古葉虫ッさん、阪急の今井雄太郎さん、球界一の鉄ちゃんの屋鋪要さんの話も興味深い。カネやんの国鉄愛の深さ、グリーン料金を選手からせしめる南海晩年の吝嗇、ユニフォームを着替える暇もないことがあった昔の広島のナイター、阪急における一軍と二軍の待遇の差、車中の読書は目の毒と言われてカセットで落語を聞いて球界に広めた屋敷さんの話。屋敷さんは普通嫌がる夜行の移動を「楽しかった」と。タフというか、鉄ちゃんならではの逸範人ぶりというか。


 ではいつもどおり、ザクッと面白かったことなんかを。

 NPB以前に存在した阪急(小林一三)の手による日本運動協会は、小林一三が早大の河野安通志に「アメリカでは職業野球が盛んなようであるが、日本でもこれを興すのはどうだろう」(p17)と話しかけられたことがきっかけとなって始まった。河野はその時は時期尚早としたが、いずれは野球専門集団を作らないと野球は発展しないと考えていた。1920年、資本金85000円で合資会社日本運動協会が発足。天狗倶楽部の三島弥彦らが社員となった。選手は健康、人格、技量を吟味して選考。本拠地は芝浦の2万人収容の球場。実業団相手に強いチームだったが、遠征は汽車と汽船。同時期に天勝野球団という、サーカスの興業チームが立ち上がり、ライバルとなる。だが、関東大震災がこの二チームと芝浦球場を破壊した。そこに手を差し伸べたのが小林一三。宝塚大運動場を建設し、1924年に宝塚運動協会を発足。早慶や大毎野球団(セミプロ)が歯が立たないメジャー経験者もいた米軍15連隊にも圧勝。宝塚は大毎とライバル。なお、宝塚の主力が離脱し、ライバルの大毎もチーム解散し、また都市対抗の人気沸騰などもあり宝塚運動協会は1929年に解散。322勝131敗15分。職業野球は不在となったが、新聞拡販に利用出来ると考えた大正力が大リーグ選抜招待(1931年)後の1934年に大隈信常とともに職業野球団結成のための最初の発起人会を開催。二回目のメジャー選抜招聘の相手チームとして、全日本選抜チームを結成。神宮球場使用のために建前はアマ。沢村、スタルヒン、三原、二出川。神話の人々。その選手たちが中心となって「株式会社大日本東京野球倶楽部」発足。言うまでもなく今のジャイアンツ。アメリカ遠征でマイナー相手に75勝34敗1分。帰国後も実業団相手に36勝3敗1分だが、東鉄に二試合完敗したので三宅監督は引責辞任。レベルアップのためにはジャイアンツ相手のプロが必要という話になった。正力の働きかけが始まり、タイガース、ドラゴンズなどが立ち上がる。なお、別途電鉄リーグを構想していた小林一三は、その頃海外にいて乗り遅れたが、ワシントンから「即刻職業野球団を作れ」(p33)と打電。宝塚を初期の本拠に、翌年西宮に。最初のプロリーグは、新聞系4、電鉄系3。以後、時代の最先端の業種がチームを保有する。ただ、経営が安定せず球団消滅や統合が何度もある。戦争中は敵性スメ[ツとされたが、産業報国の名目で継続。1945年正月にも4試合実施。敗戦後の翌月に再建活動開始、翌年には公式戦復活。野球好きな国民性ゆえ。あ、国民野球連盟。独立リーグとして存続出来なかったものか。なお、野球界の発展を考えた大正力は、「新規参入球団で新リーグを作り、二リーグにする」という構想を持つ。ライバルの毎日新聞に参入を持ちかけた。新リーグの実力、経営基盤が充実してから対等なリーグとして日本シリーズなどを考えていたらしい。だが毎日新聞は既存リーグへの参入を表明。これを巡り、中日、大陽は読売と共に反対、電鉄系と大映は賛成。リーグ分裂に至るが、阪神はドル箱の巨人戦がなくなることを恐れて読売側にw なお、参入希望をしたが叶わなかった星野組、大昭和製紙、日本生命は社会人で一時代を築いている。1950年には選手育成チームである山陽クラウンズが明石球場を本拠地に発足。これも独立リーグ的に存続出来ていたらと思う。二軍の地位が定まっていない時代であった。武蔵野グリーンパークは大きいが、砂埃が酷かったようだ。東京からの直通運転もあったようだ。

 黎明期の職業野球は集団移動、同日の同一球場で複数試合。デーゲームなのに一日三試合もある。一試合二時間くらいだったから可能。1940年にはアジア号などを利用して満州でも開催。夜行列車を多用。但し戦況悪化で一度だけ。1942年には初の北海道遠征。大阪からは2日がかり。初の九州開催は実は1946年。九州で社会人野球が盛んだったのは知られている。フランチャイズ制は1952年から。西鉄はほぼ一ヶ月ごとにホームアンドアウェー。でも過酷。1956年の優勝決定は主催ゲームだが、日本シリーズが後楽園スタートなので、後楽園で阪急に勝利して優勝決定。翌日試合をして、その二日後から日本シリーズ。なお、当時は博多と大阪は14時間以上かかった。電車特急「こだま」運行はこの年から。それでも東京ー大阪6時間半。三丁目の夕日の世界。新幹線開業の翌年から、V9。巨人はダブルヘッダーが激減(他球団は入場料収入を考えて減らした)し、また遠征も楽になったようだ。ジプシー化したロッテは他と比べて過酷な日程だったが、1974年に日本一。落合が放出されるまでパでは強いチームだった。あ、応援団の横山健一さんだ。824レかなあ。8時間鰍ッて東京から仙台まで鈍行で応援。

 阪神は戦前、実業団の強豪チームを有していた。甲子園は「あこがれの郊外生活」。当時流行った田園都市(阪神的には「花苑都市」)。プロ野球参入を電鉄に持ちかけたのは清宝バスの田中義一専務と関大野球倶楽部の中川政人マネージャー。ただ、職業野球の社会的地位の低さに電鉄内でためらいがあった。最後は今西与三郎社長の一存で決定。以後は時折強いけど、巨人の引き立て役。一三翁の家電で阪急軍は設立。出来た頃は「東の早慶、西の阪急阪神」と言われる盛り上がりを見せたがチームは長らく弱かった。ベアーズという愛称の時もあったが、株の世界で「弱気」とは。ナイター試合に強くて「夜の勇者」。西本を監督に迎えて、1964年に熾烈な優勝争い。あ、信任事件。バーゲンセールの始まりは阪急。沿線気質のせいか、球場は不入りなのにバーゲンは盛況なので「阪急バーゲンズ」w 日本シリーズで巨人に連勝したので更に不人気とは理不尽。小生の身の回りは阪急を応援する関西人ばかりだったのだが(巨人ファン除く)。オリックス身売り、球団合併を経て出来たチームは確かに近鉄の流れと小生も思う。戦前の東京セネタースは旧西武鉄道が出資していた。名選手を揃えたが、巨人と阪神の後塵を拝す。戦時体制で「翼軍(大政翼賛会;有馬伯爵が理事)」と1940年に改称。後、大洋軍、西鉄軍。有馬伯爵が筑後久留米藩主の末裔の縁。1943年の秋季リーグで優勝したが、九州での試合はない。だが内紛で終了。ライオンズとは無関係だが、この時出資したのが後の西鉄クリッパーズの設立、そして西武がライオンズを買収したことに繋がったという縁があるのかな。南海は沿線サービスと企業イメージのアップのため。一三翁が南海の寺尾甚吉社長を誘った。阪急と阪神の推薦があった。なお、南海入りするはずだった熊本工業の吉原・川上を巨人が譲れ、その代わりに連盟入りに賛成すると言った話は今に続く巨人の強奪体質。中百舌鳥球場を作ったが地の利が悪く、戦後は二軍の球場。一軍の試合は戦前の14試合だけ。そう言えば、5年ほど前、仁徳天皇陵南側の博物館の南海ホークス展でその貴重な試合を観戦した方とお話をした。大阪球場を本拠地にした球団は南海の他、近鉄、大洋松秩B駅で内野指定席付往復乗車券、和歌山と難波のノンストップ列車があったんだな。1959年のパレードは20万人。「勝った、勝った、また勝った!」の試合後の盛り上がりは南海発祥。関西鷹狂会? 戦後のセネタースと戦前のセネタースは別。急遽立ち上げたからはユニフォームは阪急のお古。貴族・西園寺公望(経歴に傷がつくw)が手を引いて東急が買収して東急フライヤーズに。大下弘人気。なお大下は俸給の低さに抗議し、1952年に西鉄へ。国鉄は下山、三鷹事件の暗い影響を見て、一家の象徴としてスワローズを設立。時の加賀山之雄が野球好きで、東西対抗の帰りの電車で審判員西垣徳雄に偶然会い、チーム結成を持ちかけられたのがきっかけ。但し、直接保有ではなく「交通協力会」を中心に保有。日通も協力。なお「コンドルズ」もノミネートされたが「混んどる」に繋がるので「座ろう」の方にw 発足時の戦力は大不足。連敗街道だったが、カープよりは上位。1950年8月に金田正一入団。カネやんのワンマンチームになるのは仕方がない。スワローズの遠征では各地の国鉄職員に歓迎された。象徴としては成功。三河島事故、鶴見事故で球団経営どころでなくなった国鉄は、産経に球団譲渡。国鉄と産経が共同経営していた時、林義一監督の留任となりカネやんは巨人に10年選手の特権で移籍。実質、国鉄スワローズはこの時点で終わった。西日本パイレーツと西鉄クリッパーズは平和台を本拠地に。だが2球団は多すぎて、合同してライオンズに。稲尾、中西、豊田。伝説である。だが黒い霧事件で弱体に。結局西武が買収。「返せ、返せ、ライオンズを返せ」というパ・リーグの悲しさを象徴する歌が博多の街に流れていたらしい。西武球場は「おとぎ列車」がある時に行きたかったな。サーベラス騒動もあった。(阪神の村上騒動は、ガチで生命の危険があったが、西武の場合は経営陣が頑張った) 藤井寺球場は「藤井寺教材園」とともに建設。だが住宅分譲地に隣接していたのでナイター照明は1984年設置。それまで大阪、日生球場。初期は法政閥。1961年には36勝103敗と、史上唯一の年間百敗。三原監督を迎えてから強くなりだす。小生が近鉄ファンになったのは西本時代だが、万年二位のイメージだったな。初優勝は1979年。随分かかった。山口哲治は神がかっていたな。その後の話は省略。ドラマチック・バファローズ。大阪ドーム移転で、使用料が負担となって球団合併へ。宮内が合併をもちかけたんかい! 早くバファローズを手放してもらいたい。

 長らく低迷していたカープが躍進したのは、ドラフト制のおかげとよく言われる。一方で、新幹線の恩恵は十分に受けられていなかったようだ。それが、博多まで伸びた時に、セ・リーグ相手の移動は楽になり、初優勝。開通40周年には外木場さんが「カープの初優勝は山陽新幹線のおかげだと思っています。(中略)それぐらい移動が楽になりました。」(p139) ファンも移動が楽になり、初の日本シリーズでは西宮球場は確かにカープファンがジャックしていた。なお、飛行機移動は定員60人のYS-11が主力の時代、選択肢としてはなかった。広島は地方空港だったのだ。FA導入後、長い低迷期に入ったが、マツダスタジアム移転後にカープ女子マツダスタジアム応援企画がJRにより立ち上がり、今に続く盛り上がりである。今や人気球団の一つで、セ・リーグではチケット入手困難チームになった。広島地域のJR、広島電鉄が応援しているのは言うまでもない。

 西武球場前駅のある狭山線は単線の4.2キロ。西武の試合では8番まであるホームがフル稼働。山口線の二つホームはともかく、普段は1番線のみ。なんと、東急東横線を経て横浜まで行くそうな。観客の約半分が電車を利用。スタジアムエクスプレスという特急は人気。阪神は各駅で電車が待機して臨機応変に対応する。甲子園のみならず、バファローズの試合が大阪ドームで開催される時など、かなりのノウハウがあるみたいだ。甲子園の観客の約3分の2が阪神電車を利用。

 日本ハムの新本拠地のためにJRは新しい駅を作るとのこと。宮城球場には仙台駅からの徒歩を思い浮かべるが、仙石線とバスが活躍。西武にはラッピング電車(L-Train)。千葉マリンスタジアムの最寄り駅ではまーくんらがお出迎え。駅からやや遠いので、総武線や京成線からバスを使う人も多い。千葉を本拠地とする他のプロチームとの連携もある。水道橋のチャイムは「闘魂こめて」。ドームを取り囲むように多くの地下鉄駅もある。ドームの記念碑には在阪パ・リーグ三球団のマークがあるらしい。神宮球場は、外苑前、国立競技場、信濃町が近い駅。相手チームのファンが多い。第二球場は新国立競技場のための駐車場、以後ラグビー場という計画。現ラグビー場に新球場の予定。コロナでどうなったのかな。横浜スタジアムは横浜の一等地。近年の取り組みの成果でファンの一体感の醸成は一級品。行くだけで楽しいスタジアムらしい。相手選手が三振すると外野フェンス上にJR東日本の列車w なお、この場所は明治20年代から野球場。1929年に横浜公園球場。1934年にはベーブ・ルースらを招いた日米親善試合があった。その後老朽化で1978年に建て替えられたのが今のスタジアム。最寄り駅は関内駅。周辺には回遊路を設け、公園機能をもたせる計画。ナゴヤドームの最寄り駅はナゴヤドーム前矢田駅で、ドラゴンズ一色。球場までは「ドラゴンズロード」。大阪ドームは庶民的な大正駅から川を渡るのが個人的には好き。今は地下鉄と阪神の最寄り駅がある。九条からコチャコチャ道を行く手もある。Pitapaデーはありがたい。阪神は百貨店の盛り上げも凄い。マツダスタジアムは東広島貨物駅の跡地に立地、新幹線から覗けるダイヤモンドの風景は素晴らしい。広島駅という大きなターミナル駅から歩いていく道は「カープロード」。新幹線各駅から観戦用の、自由席が利用できる往復割引きっぷがあるのはファンには嬉しいだろうな。駅によっては一日100枚以上売れることもあるらしい。在来線は「赤ヘル号」。他に「赤ヘルナイター号」「カープ応援ラッピングトレイン」。福岡ドームの最寄り駅は唐人町駅。だが駅から遠すぎる(経験済み)。代わりは西鉄バス。福岡県を越えて、佐賀県などからも来る。なお、二軍・三軍の設備のある筑後船小屋駅と博多を往復する「ウエスタン・リーグ観戦ツアー」が西鉄旅行から販売されている。二軍の試合の一試合平均が二千人以上。かつての南海ホークスの一軍のいくつかの試合の観客実数を上回る。

 金田正一。享栄高校がよく国鉄の八事グラウンドを借りていた縁で入団。「国鉄のチームは弱くて困っている、来てくれないか」と。指宿を有名にしたのはスワローズのキャンプ。ああ、オヤジの憧れの夜行急行「大和」を利用していたとは羨ましい。「チームが遠征に行く時は、列車に1両、貸切で3等客車を増結してくれた」(p227) 契約条件で二等車。そんなカネやんでも北陸遠征の帰りの二等切符を入手できないこともあった。社内ではよく本を読んでいた。遠征先は歓迎会。「はとガール」
つばめガール」w 宿泊は国鉄の寮。食事は良かった。日用品は国鉄の物資部。グリーンパークへは普通に国電に乗って行った。巨人移籍後も顔パスw ロッテ監督時代は「近代化された」鉄道で楽ちんだったらしい。古葉虫ッ。1958年にカネやんからサヨナラ本塁打を放ち、その夜の移動で駅にカネやん。「ボーナスようけもらえるやろ」と。広島にそんな金はないw この時代の移動は夜行列車。呉越同舟もよくあった。ダブルヘッダーがあるとキツい。23時頃の夜行には時間がなくてユニフォームを着ての乗車も。三段列車の真ん中は人気がないのはいつでもw 新幹線が出来ても活用しきれない。カープ初優勝は後楽園球場。凱旋は新幹線、ファンと肩を組んで大騒ぎ。広島駅では降車できるのかというくらいのファンの数。それを見てパレード。30万人(遺影を掲げるファンが多かったのはNHKのドキュメントで見た。)「原爆で大変な目にあって、そんな苦労された人たちに喜んで見に来ていただけると思うと、頑張って野球をやって、日本一にならにゃあいかんと思いましたよ。」(p236) 佐藤道郎。佐藤さんが入った頃は新幹線があり、福岡や仙台へは飛行機。但し広瀬叔功さんは飛行機嫌いで寝台列車w グリーン料金は天引きw 用具係がいない時代、門田博光さえもボールケースを持って移動。南海の優待乗車券は一家族二枚。顔パスあり。なお、インタビューは芋焼酎「鉄腕伝説 稲尾和久」と共に。今井雄太郎。昭和最後の完全試合投手。新潟鉄道管理局に入ったのは、新潟で仕事しながら硬式野球が出来るところが少なかったから。NPB入りは考えてなかった。非番の日と仕事の後の練習。北陸大会で勝ち進んだら、仕事のために一旦新潟に戻り、また試合へ、という環境。産業対抗野球大会で活躍し、スカウトの目に。阪急では、福岡遠征は一軍は飛行機、二軍は寝台車。なお、一軍には道具係がいた。ウエスタン・リーグの試合は電車で移動。完全試合は「素面」w 最後は手が震えたとのこと。著者は1984年の優勝祝賀会に参加して、はしゃいで一斗樽に飛び込む雄ちゃんを見ている。関東の応援団におられたらしい。今は息子さんが営業している佐賀市内の「串カツ・イマイ」を手伝っておられるようだ。屋鋪要。今は保存蒸気機関車の第一人者として有名。鉄ちゃんになったのは、小5の時の友人がSL好きだったから。関西本線まで撮影に来られていたということは、龍華組? 1971年ということは、会っているかも知れないw 翌年は父親と一緒に北海道でC62「急行ニセコ」撮影。機関士さんが運転席に招いてくれたり。そう言えば、小生もディーゼルの車掌席に入れてもらったことがある。国鉄はおおらかだった。福知山線の旧客は、1982年までか。なお、屋鋪氏は1973年の中学からは野球漬け。代わりに?父がSLの撮り鉄に。NPB新人時代の二軍の巨人戦で北海道7試合遠征。道内はバスだが、帰りの青森からは寝台車。楽しかったとのこと。一軍での遠征はほとんどが新幹線。レギュラーになってからグリーン車。移動時は最初は読書。だが関根さんに目が悪くなると言われて、ウォークマンで落語。球界に落語ファンが増えるきっかけw 引退後、鉄ちゃん復帰。保存機関車撮影の最後の一枚は、超ブラック企業wの大東製糖の「南大東島のサトウキビ列車」。本人曰く凝り性で、落語や切手収集の趣味が。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2020年、擾乱の形 | トップ | 読書メモ:『罪の声』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書」カテゴリの最新記事