TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『水のように』

2021-01-23 23:17:00 | 読書
 『水のように』(浪花千栄子著、朝日新聞出版(原著は六件走[より))

 浪花千栄子さんという名前は聞いたことがあるというレベルで、オロナイン軟膏のおばちゃんという印象。それが、朝ドラのおちょやんのモデルということで、再び脚光を浴びる。名脇役女優で、小生が生まれた頃に「大阪のお母さん」と親しまれたとのこと。1973年に急逝した時の小生は7歳なので、微妙に知らない。

 まずの読後感は「悲惨な境遇にあっても、自分のことを大事にし、縁を大切にし、自分を自分なりに鍛え、夢を持てば人生は開けることもあるのだ」ということかな。それと、あらゆるものを師匠に出来る才覚。最初のほうの文章が強烈だ。「私の半生は、人に、かえり見もされないどぶ川の泥水でございました。(中略)しかし私は、子供のときから、泥水の中にでも、美しいはすの花が咲くことを信じていました(中略)そしてひたすらに、与えられた仕事にせいいっぱい立ち向かって生きていました。」(p7)

 この心ばえが、人には耐えられない試練を乗り越えさせたんだと思う。また、過酷な幼少の頃からの労働が、おちょやんを鍛え上げ、そして人の縁を齎した気がする。二度の自殺を思いとどまらせたのは猫と京まち子さんの慰めも、感じ入るものがある。



 ではいつもどおり、気になったことなど。

 父親は妻を亡くした寂しさからか、博奕に嵌り、家事を幼い長女のキクノ(浪花千栄子の本名は「南口(ナンコウ)キクノ)に押し付けた。おかげでキクノは学校にもマトモに行けなかった。父親は後妻を娶ったが、この女性が全く働かず、三味線を弾くだけの人。キクノとの折り合いが悪く、キクノは生まれた河内の富田林の近郊から9歳にして道頓堀の仕出し料理屋に奉公に出される。父親は前金を受け取っていた。キクノは衣食住こそあるとは言え、この歳から四時間睡眠で実質タダ働き詰めを余儀なくされる。過酷すぎる幼少の頃の唯一楽しい記憶は、富田林の苧ムの中の風景。雪景色の描き方が幻想的で美しい。この本の文章は、気品が漂うと共に、凛とした浪花千栄子の姿が浮かんでくるようだ。

 文盲を何とかしようと便所で新聞の切り抜きを読んで、前後から漢字を理解しようとする。元々の頭の良さは、例えば仕事でどれだけお膳を作らなければならないかを瞬時に暗算で求めたりするところに現れている。誰も二年と続かない働き口で、十六歳まで働いた。当時の道頓堀は、関東大震災の影響もあり日本の代表的な役者が舞台に良く出る券\の中心点の一つであった。商売繁盛ということは、下女には暇などない。しかも優秀だから仕事が極端にやってくる。時間を見つけては文字の勉強、仮眠。立ったまま寝られたようだ。この時代、幼い下女は「おちょやん」と呼ばれていた。おちょやんの扱いはたいてい、ひどいものだ。夢も希望も持てそうにない。だが、キクノは少し幸運だったのかもしれない。道頓堀の舞台を仕事の合間に覗き見出来たからだ。芝居を暗記する頭もあった。リアル北島マヤ。だが、この時点では自分が役者になるとは想像もしていなかった。

 過酷な労働だけじゃなく、扱いの酷さは、流しに流れた米粒を拾われ、無駄にするなと家の主人に口に放り込まれることに象徴されよう。自殺しようとしたら、猫に引っ張られて思いとどまるほどの惨めな境遇。奉公明けで、富田林の材木商に売られたが、そこは人情溢れる人たちの場所で、その家の奥方に人間的に扱われたのはとても幸運。だが父親から逃れるように、京都に行き、口入れ屋に紹介された深草カフェーの女給に。因みに深草と言えば駐屯地。そこで化粧を覚えると、自分でもびっくりするくらいのモダンな女性が鏡の中に。同僚の進めで映画の世界へ。無名プロダクションに最初入り、そこが潰れる時に監督さんが村田栄子一座を紹介。村田栄子さんをモデルにした人は「おちょやん」でも強烈だったな。「正ちゃんの冒険」で主役が発熱で唐黶A急遽代役というのも史実。内心「よっしゃ」と思ったとのこと。その姿を見た劇場主が東洋キネマへ推薦。運が向いてきた。仕事は順調で、女らしい小道具を買い揃えられるようになる。が。正月の挨拶衣装代は堪えたようである。根っこは反骨精神で出来ている人、不合理な挨拶には出なくなる。また整理解雇の不人情に怒り、せっかくの東亜キネマを退社する。この頃の映画の世界は人財の寄せ集めだったようだ。故あって帝国キネマへ。ここで「浪花千栄子」となる。ここも約束違いということですぐに退社。演技の器用さであちこちに出演し、松窒フ庄野氏(新国劇の育ての親)に認められて新潮座へ。その後の渋谷天外との結婚、破局については殆ど書いていない。少し引用。

 「私が、結婚に破れました第一の原因は、この、公私を全く混同した(結婚は私生活、女優は公的生活)ところにあると思われます。座長天外の妻であるという私が、ある場合には女優である私とたたかい、それは血闘とも申すべき痛烈なものの連続でございましたが、そのたたかいに、どちらかの私が勝ったといたしましても、一方は必ず、当分立ち上がれないくらいに深傷を負っています。」(p91)

 夫の天才を認め、並尋常の物さしでは計れない人と認めつつも、苛烈な夫婦生活であったと思われる。女優としては、いろいろの大きな財産を受けた、とも。

 渋谷天外は子供まで作った愛人に住居を与えたが、浪花千栄子さんには家を残さなかった。そこで彼女は家を作る決心をした。心のよりどころ、生活の基盤が大事、と。そして京都の嵐山に家を作り、老後のために「註カ」という料亭をはじめる。離婚後の再起はNHKのラジオドラマ「アチャコ青春手帖」。券\復帰までは四条に隠棲。復帰はアチャコさんと、と思っていたらしい。アチャコさんは何事も善意に解釈する、心が清められる人とのこと。にしても嵐山に家を建てる経緯がとてもおもしろい。ラジオは基本聞かない天龍寺管長が「アチャコ青春手帖」だけは例外だったり、誰にも土地を売らんと言っていた人が「大阪のお母さん」なら、と譲ったり。最初は高台寺の近くと決めたが、雨が降ったら川になるという進言をする工務店も良い。この方の心遣いは尊い。

 結婚の破局の痛手を救ったのは長谷川一夫と京まち子。長谷川は「二十年かかってふたりでまいた種が、実ったと思うたら他人に刈り取られてしもうた、と思うたら腹が立つ。しかし、それを、その人は食べて生きていなさるんや、まるまる捨ててしもうたんなら惜しいけれど、それでその人が生命を保っていなさるんなら、ええやないの、許してあげなさい、(中略)今度は、勇気をふるい起こして、あんたひとりで種をまきなはれ、こんど実ったら、だれも、持って行かへん」(p124)と。京まち子は「浪花さん、一日も早く、過去のことはみんな忘れてください、過ちという字は過ぎるとも書きますもの。」(p128)  松下幸之助が最初に奉公した先の主人もなかなか。「それ、この紙くずや木くずはふろ場のたき口へ持って行け、ミカンの皮は日に干しておけ、そして泥や砂は元へもどしておけば何もゴミ箱に捨てるものはないではないか」(p138) グレートリサイクルが求められる現代を先取りしている。当然幸之助さんも良い。「浪花さん、私は、人様のお世話をするときは、自分の持っている器にいっぱいのものを入れて、そこからこぼれる余分のものがあったら、人様のお世話をすることにしています」(p139)

 奉公していた頃、猫に命を救われたためか、嵐山の家は「我が家の動物園」という状態にw 鳩が根城?、当然猫も犬も。取材のために放たれた鯉、それが寂しかろうと稚魚50匹。プレゼントされたうぐいすは鳴かないので取り替えようという話になり、戻される日に急に鳴き出す。動物の躾は最初が大事。信仰は弁天様。甘栗の話はほろ苦いな。手で体を労るが、手をこそ労りたい。頬ずりしたりキスしたり。うん、経営は経営者が監視せんとなあ。アチャコさんは天衣無縫であり、宗教的に物事を判断し、善意に取る。苦労で人格が清められる稀有な人。そして潔癖。若い日の緒形拳は新風を巻き起こす剣翌揩ソつつ、とても謙虚。太閤記の秀吉役で大成功。新国劇時代にある映画会社に誘われたが、「あれも、これも手を出して、結局、なんにもえられなくなったらたいへんですから」と断る話は男前。テレビ界の軽佻浮薄に憤るのは、令和にも通用する。

 杉村春子さんとのラジオドラマでの話は、セリフ芝居の厳しさを感じた。「きっかけのセリフ」か。花柳章太郎さんの心遣い。「季節の野菜二種類くらいをミジンにきざんで(人参は必ず)、それを浅草のりにのせ、中心にチーズを置いて、鉄火巻のように巻いたもの」が美味しそうである。組合が強すぎて現場がスムーズに回らないのは時代だな。調布・深大寺の周辺や、西京極球場の北側は田園風景だったのだな。稲尾和久投手は「礼儀正しく、やさしく、そして人なつっこく」、若いのに、なかなか人間ができている、とのこと。ロッテで優勝監督になって欲しかったなあ。新婚夫婦に「信じてくれ」は黄色信号というのは確かに。 
 
コメント
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