TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『愛国の作法』

2007-04-21 22:47:52 | 読書
『愛国の作法』(姜尚中著、朝日新書)

 愛国というものは曖昧模糊としている。そのくせ、あってアタリマエとされる。そして、かつて眼を三角にして叫ばれた歴史から、多くの日本人は愛国に後ろめたさと胡散臭さを感じ、直接触れないことにした。さて、左翼の破滅により、再び国難(いつでも歴史は国難だ!)を前に、眼を三角にする連中が涌いている。著者は一部の「右翼」的な人々の専売特許のままにしておかないため、この本を通じて愛国の作法について記す。

 最初に『国家の品格』を例に挙げて、日本を覆う情緒的なものの優先という気分について批判する。この本を通読すれば分かることだが、この気分(山本七平氏に「空気」と名づけられたものと思う)は歴史通底的に日本に流れるものだ。平時はアンガージュから離れて私化しているが、火が付くと原子化(イメージとしては、原子というよりプラズマだな)してイデオロギーに吸い寄せられる。この姿こそ、日本人の最も危ういものであり、山本七平氏による軍隊批判と通じる日本人批判として、日本人は読む価値があろう。なお、姜尚中氏が『国家の品格』を誤読していると小生は判断していることは、以下に記している。
http://8243.teacup.com/tamo2/bbs
半分強読んだところで 投稿者:TAMO2 投稿日:2007年 4月16日(月)18時37分34秒

 なぜ今、日本で愛国になびくものが増えているのか? そういう「空気」が強いと感じるのか? 著者は昨今のグローバリゼーションにより遠心力(経済の国際化)がまず働く。そして民衆はアトム化する。しかし、人間は「自分以外の人間と融合したい」という「もっとも強い欲望」を持つ。このとき、日本人であるということは、分かり易く愛国心という形で他人と結合できる幻想形態を齎す。それは、また、国家・社会を維持する求心力となる。その求心力が不安(治安であったり、自らの生活基盤に関してであったり)を基礎に肥大する。「敵」から団結して身を守れ、と。だが日本人は、国家の基礎が社会契約的と捉えないので、ロゴスではなく情緒にもたれかかる。このような愛国者と国家のもたれあいは愛国者をして国家と「共棲的結合」(フロム)させ、マゾッホとしてしまう。じゃあ、サドは? 山本七平に還ろう。空気だから、いないのだ。その点で、東條英機もマゾ頭目とでも言うべき日本の犠牲者だと小生は思う。天皇?昭和天皇は英明でヘゲモニーを発揮せんとしたが、結局はあの時代にあっても幻想的だったと思う。

 マゾ的依存者は、依存する対象が侮蔑されたと感じれば、命を犠牲にせんばかりに怒る。おかしいと思ったことをおかしいと言っただけで非国民。排外主義はこのようにして完成するのだろう。これはナルシシズムでもある。世界の二項化。他者への想像力の停止。いや、別に国家じゃなく「階級」とかでも通用する話なんですが。

 姜尚中氏による『国家の品格』への誤読はともかく、確かに上のような気分があり、理性の停止とでも言いたくなる事態があるのは確かだ。小生が昔会った右翼とか民族派ってのは、物凄く謙虚で(あるいは奥ゆかしい)、自らの思いを理性的な言葉で語るのに長けていた。2ちゃんねらーの一部に持ち上げられている昭和維新会(現新風)が痛々しいのは昔を知るからである。社民党にサヨクが足りない(雑誌『新現実vol.4』)ごとく、今のウヨクには右翼が足りないのかも。

 愛国は理性によって伝えられるし、伝えなければならないものなのだ。そして理性によって強められる信念となるのだ。


 姜尚中氏の言う国家は、基本的には私的領域と公的領域を踏まえた社会契約論の国家である。しかし、戦前日本は体裁はともかく、神聖国家になったという。『昭和史の教訓』と重なる。戦後は、逆に内実はともかく、形式としては押し付け憲法で骨子を作られた。今、その形骸化により、改憲によって「不完全国家」から「完全国家」を目指す部分の威勢がいい(でも対米従属)。一方、中国は台頭しとるし、韓国もそれなりに発展した。北東アジアは愛国ゲームの悪循環に嵌っている。どれも排外主義的だ。そういう危機がある。

 著者は次に日本という国について問う。姜尚中氏が基本的に踏まえている国家論は「デーモス」―「(意志的)作為」―「契約」―「国民共同体」である。しかし、日本人の多くは国家というものに「エトノス」―「(感性的)自然」―「血」―「民族共同体」として捕らえているんじゃないだろうか、左翼の洗礼を受けていないならば。そして、小生のように左翼の洗礼を受けたものは、後者を「国」と呼ぶ。そして、愛国心と言えば、後者を思うのだ。ここに著者と小生の愛国心を巡る差異が生じている。よってこの本に違和感を感じる。

 しかし、そのような感じ方をする小生は、在日日本人とでも名づけるべき人間だからであろう。著者は韓国籍で日本で生まれ育ったものとして、どちらにも違和感を感じざるを得ないので、この問題を深く掘り下げ得たと思う。そして、patriotismにもnationalismにも心の底からなびき切れない、それゆえに理性・知性によって作り上げようとしているように著者の文章が見えた。非常に狭いpatriotismに逃げ込むか、nationalismは分解するか。そんなことを感じた。

(おいおい、また)
コメント (13)
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保守利権政治関係の家の人間として

2007-04-21 19:37:01 | よしなしごと
掲題の件、いや、そんなに濃いわけじゃないが、親戚筋では色々と・・・・。ある親戚の葬儀では、某政治家が来たとき、おじさんが「ケッタクソ悪い、塩撒いたれや!」と怒鳴る程度には、ね。

さて、選挙の季節。ビラが色々入る。保守系は「新居浜の経済の活性化」とか書いていて、下のほうに申し訳程度の「福祉の充実、社会的弱者の保護」のスローガン。で、共産党とかは上のほうに「福祉の充実、増税反対」云々。

サラリーマンやってると、どっちになびくかと言えば、本音では保守系だ。共産党とかに対してはどうしても「財源どないすんねん?」とか、「新規産業の開拓をせんと、資本主義においてはあらゆる産業がイノベーションとかによって時代遅れになるんだぞ、そっち方面の戦略はないんかい?」とか突っ込みが入る。ましてや、中小企業の従業員なんか、そういう次第でキレイゴトばっか言う革新系には入れられないとおっしゃる。


保守系の多くがトであることは、最初3行の次第で良く知っている。しかし、庶民は未来が見えない不安を与えてくれる革新系には入れたくないだろう。

自分の住んでいるところじゃあない、大山崎町の共産党員、みながわ氏が落ちたことは非常に悔しいが、上のような視点が共産党員には欠けているんじゃないか?と思うので、記事を書いてTBを打つ。


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