続・蛙独言

ひとりごと

お盆とか...

2011-08-20 12:32:19 | 日記
蛙の辞書には「盆」とか「正月」という「ことば」はないのだけれど周囲の人々ときたらなんだかんだと忙しそうに振舞っていて、いたしかたなく「手抜きのお付き合い」というところだったんだね。
今年も「墓参り」だってしなかったけれど、先に逝ってしまった両親や兄、それらに繋がる脈々と流れる「生命(いのち)」の「全て」は、蛙の外にはなく「内側」にあると思っているからなんだし、親鸞だって「父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて一返(いっぺん)にても念仏まおしたることいまださふらはず」なんて言ってるもんね。
いいんじゃないかなぁ。死んでしまったら帰ってくることはできないみたいだし…
若いときには一度「自死」を思ったこともあったし、事故などで三度ばかり「死の直前」までいったこともあったんだが、その頃だったら「自分の死」を納得して受け入れることはできなかったような気がする。
そういう訳だかどうだか知れないけれど、どうにかこうにか「ここ」まで生きてきて、たいしたことも為した覚えはないけれど、蛙の周囲は取り敢えず元気そうであるから、明日の日に終わりを迎えても、さしたる感慨もないというところだわ。
だけど、今回の震災・津波のようなところで命を落とすなんて、本人にしても身内にしても「とんでもない話」だったろうね。
そのような「命の終わり」を「受け入れる」ことは生半(なまなか)なことじゃできなかろう。
たくさんの「時間」が必要なのだろうね。
それに、その「死」を「無駄」なものにしない「残された側」の責務が「果たされる」ことが求められているのだろうということも思う。
「生きること・死ぬこと」について、柳澤桂子さんや中村桂子さんの本からたくさんのことを教えてもらったと思う。
多くの人に読んでもらいたい、とりわけ「現在」=「生きることの困難が層倍化している時代」では必要な智慧がそこにはある。

にしても、「フクシマ」から垂れ流され続ける放射能汚染は、日を追うごとに一層、厳しく深刻化していくようだ。
蛙が為すべきことはあるのだろうか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。