続・蛙独言

ひとりごと

1.17と3.11 (9)

2011-08-04 18:17:23 | 日記
「避難所」について
街を歩いていて突然大地震に襲われたら「どうするか」なんて誰も微塵も考えてなどいないのだと思う。
一応、自治体は「避難所」を準備しなければならないことになっていて、気を付けて見て行けば、そういう「表示」はあちこちにある。さすがに10m間隔ということでもないようだから、誰も気付いてはいないのだろう。
洪水とか火山活動だと一定「予想」を立てられるから、「避難勧告」とか「避難命令」という話になるけれど、地震の場合はそういう訳にはいかない。
神戸などのような場合、用意された「避難所」だけでは「収容能力」という点で大幅に足りはしなかったのだ。
「3.11」ではどうだったのだろうか。
小中高学校や公民館などが「指定」されたのだが、「公的」な「避難所」で間に合わないのだから、神戸の場合、例えば「区役所」とか「図書館」とか、「避難民」に「占拠」されたらちょっと困るようなところでも「実力」で「避難所」化させてしまった。
「実力」でってぇのは良くない表現かな。
「自然とそうなった」と言うべきかも。
団地の小さな「集会所」も、スペースはそれ程でもないけれど、「避難所」になった。
ただ、公的でない「避難所」の場合、ちゃんと届けないと、「救援物資」、つまり「お弁当」などが届かない。
「避難所」はスペース一杯に「人」が集合するわけで、プライバシーがないから、ここで暮らすのはたいへんなストレスになる。
それだから、公園などに「テント村」が作られたり、余震が来ればぶっ潰れるかも知れない「住宅」にあえて住んだり、車ん中で暮らしたりということもあった。
「あっちの避難所はこうだった」とか「こっちはどうだった」とか、話し始めれば切りがないことになる。
問題は色々あるけれど、基本的には「速やかに解消されなければならない」ということに尽きるだろう。
また、必ず「リーダーは創造される」ということも言っておきたい。
今回の「危機」に際して、与野党や財界の人間などのように、自分が「瀬戸際」に立たされていない連中は「糞の役にも立たない」けれど、「避難所」などというところに立たされれば、「しなければならない仕事」をこなしていく、そういう「人」は必ず産まれてくる。
六甲小学校の小林校長(当時)と話していたことだけれど、「普段は所謂『問題児』だった子なんだけれど、『避難所』の運営では大活躍してくれているんですね。何故なんでしょうかね?」
現況の「学校教育」は「知育偏重」なんであって、「人」は「人とのつながり」の中で初めて「真価が問われる」というシステムになってはいない。
「大震災」などという状況になって初めて、「人」の値打ちがあからさまに表出されるのだ。
「問題児」を「問題児たらしめる教育的状況」の胡散臭さがはっきりと示されたということだ。
蛙は思う。
「人間」は「或る条件に立たされる時」「信頼するに足る行動をとる」、そういうことをしっかり腹にすえて、情況に対処していけばよいのだと。
「愚かな人間」もまた産まれるが、そんなものは大したことではない。踏みつけて跳ね飛ばしていけばよいだけのことだ。