hasyan の 旅の散歩道

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御着城跡と黒田官兵衛  2013.10.29

2013年11月02日 19時57分42秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   御着城跡     兵庫県姫路市御国野町御着1142-8

 御着城(ごちゃくじょう)は、兵庫県姫路市御国野町御着(旧播磨国飾東郡)にあった城で、別名は茶臼山城、天川城。城内に山陽道や城下町をとり込んだ惣構えの平城だった。赤松氏の一族小寺氏の居城で、永正16年(1519年)に小寺政隆が築城したと言われる。天正7年(1579年)に羽柴秀吉に攻められ落城、城割が行われ廃城となった。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称されました。

 御着城は、中世の播磨で三木城・英賀城と共に播磨三大城に数えられた城ですが、 現在では、住宅地の中に埋没して、姫路市役所東支所の敷地内に城址公園として石碑が建てられています。御着城は、天川を外堀として利用し、四重の堀によって囲まれた縄張りであった。 現在、城址公園に隣接するグランド東側に土塁が残るようですが、あまりよく判りません。

 姫路市役所東支所の裏側(北)に廻って見ると天川橋が架かってあります。

 天川橋は、姫路藩が文政一一年(一八二八)にこの地より南西二○○メートルの旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋。全長二六・六メートル、幅四・四五メートルで、高さは約五メートルで橋脚五本。印南郡石工瀬助・仲右衛門の作。姫路藩儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれてある。橋の東北詰めには高札場があった。昭和四七年九月九日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去し、昭和五三年一○月現在地に移設保存した。高さは地形に合わせて低くしてあり地形中央部の低いところは御着城の濠跡です。

 御着城公園の中に建てられている黒田官兵衛の石碑。黒田家は御着城主小寺政職に仕えたとあり、黒田官兵衛孝高は軍師として活躍したそうです。
黒田官兵衛考高は秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国、九州征伐などで軍師として活躍し天正15年(1587年)に中津城(現大分県中津市)を与えられました。考高の嫡男長政は慶長5年(1600年)関が原合戦の戦功で筑前52万3千石を与えられ福岡城(現福岡県福岡市)に移りました。

 「姫路城主・黒田家の墓所」
ここの墓所には、黒田孝高(よしたか)(官兵衛のちの如水)の祖父・重隆(しげたか)と生母(明石氏)の2人がまつってあります。 黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となりました。姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高とつぎましたが、1580(天正8)年秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移りました。職隆の墓所は妻鹿にあります。のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいます。 ここの墓所は、1802(享和2)年に資材を九州から運んできて造られました。廟屋を持つ立派なものです。

 現在、御着城跡の中央を東西に国道二号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館があります。

 「天川城址、小寺城主之奥都城」の碑が建っており
戦国時代、西播の有力国人として御着城に拠った小寺氏は、播磨国佐用庄の地頭で室町時代に播磨守護となった赤松氏の一族で、初代の頼季は、赤松円心の三男則祐とともに叡山に入り、尊雲法親王(のちの護良親王)の側近となり、やがて後醍醐天皇による倒幕計画である元弘の変が起ると護良親王に従い、親王の熊野落ちに勇名をはせた小寺相模守は頼季その人である。元弘三年(1333)、赤松円心が六波羅勢と戦った桂川の合戦においては、弟の宇野国頼とともに先陣の則祐に従って奮戦しました。
歌碑には、「しづかなる 姿のままにふるさとの 山川みえてかにかくうれし 政隆」


 この五輪塔及び石佛は、旧御国野小学校の校庭を発掘調査した時に出土したものを復元したものです。昔、御着城があった時、豊臣秀吉の軍と戦い戦死した御霊の菩提を弔うために建てられたと思います。

 小寺大明神のこの地は、永正十六年(一五一九)に小寺政隆が築城したといわれる御着城の本丸跡に位置しています。 小寺大明神は、宝暦五年(一七五五)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所ニ小寺殿社アリ」と注記されており、社には御着城の城主であった小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしています。

 現在の旧山陽道の天川に架かる天川橋です。ちょっと雰囲気が違いますね。
次回をお楽しみに では またね 

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