治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

奄美鹿児島の旅 その7 療育地獄(改題)

2018-09-23 09:33:53 | 日記




ねこ母さんに栗本さん、ちゅん平さんと楽しくお食事をした次の日
私は帰りの飛行機に乗る前にちょっと桜島を見に行きました。
大好きな桜島。
前回来たときは夫と二人島内に泊まり温泉に入ったのです。
今回はご挨拶だけ。

そして奄美鹿児島間の機内で書いた檄文を推敲しました。
出発前に聞いた通級で身体アプローチをやれと言われて怒ったモンペのこと
そのクレームに死んだふりした教委のこと
前の日に見た日本の端っこでたくさんの人の間にコンディショニングが根付いてる光景や、酒の席で栗本さんにきいたスマホの修理のように小田原にやってくる新たな客層のことを考えながら檄文を推敲しました。

花風社の身体アプローチは、アンチの大活躍もあり、たしかに裾野が広がったのだけれど
新たにお客になった人は療育地獄を経てきた人だということを覚えておかなくてはならないなと思いました。
支援ギョーカイによって「米はもう作らんでよか」と言われてきた人たち。
「この子たちの育て方は専門家が知っている」
「専門家の提供するサービスをパッケージで買ったり、専門家にアウトソーシングするのが療育である」
という洗脳を受けてきた人たちです。
それが生涯福祉というケージに囲われ卵を産まされるめんどり人生への片道切符だとも知らずに。

そう、知らないのでしょう。
「支援があれば」というギョーカイの営業トークのうそに気づいていない。
でも治りたいのです、本当は。
もしかしたらギョーカイに治す意欲も能力もないとまだ気づかないまま、キラキラした瞳で療育にせっせと子どもを連れて行っているのかもしれません。
だからこういうツイートを見て、駆けつけたのです小田原に。
ヤブ医者ながしはどうせ自分では誰一人治していないでしょうから、ツイートによって小田原に人を送り込んだだけでもちょっとは社会貢献したんじゃないでしょうかね。はさみとアンチは使いようですわほんと。



そしてその新たな客となった人たちに私たちは
「朝顔を洗うのに毎日エステには行かないでしょ?」という気づいてもらうところから始めなくてはなりません。
「あなたが経験したものは療育地獄なんです」と教えてあげるところから始める必要のある人もいるかもしれません。

こういうときのために『発達障害、治るが勝ち!』を書いておいてよかったな~と思いました。



そして学校とどうつきあうか。
もっと具体的に言えば
民である花風社のもとに自分の意思で集ってくる花風社クラスタと違い、官が憲法のもと無料で教育を提供している場で身体アプローチをどう浸透させていくかという問題があるなあと思いました。

ABAの人たちだって、この点はもどかしさを感じているようです。
「自分たちが望むほど浸透していない」というもどかしさ。
しばしば学校は心でっかちになりがちですから、そういう意味でABAが役立つのに、と思うのかもしれません。

そしてうちの著者の中にさえ
「自分がやっていることをもっと学校が取り入れてくれれば」と思っている人はいます。

そして実は
私はその思いが結構希薄なんですよね。
以前からなぜ私は学校に食い込む気がないのか自分でも不思議に思っていました。
でも桜島の前で考えてわかったのです。

以前からわかっていた理由としては
学校に人格形成を期待していないというのがあります。
皆さん自分の人格が学校生活を通じて形成されたと思いますか?
これに対し私はイエスと答えます。
でも私に影響を与えたのは同級生たちであり、断じて教師ではありません。
教師など人格形成においてはどうでもよい存在です。
邪魔しなければそれでいいのです。

そして私は、たとえ自分のやり方であれ、官である学校が一色に染まるのを好みません。
今のように、時々花風社のやり方に手応えを感じている先生たちがいて、本を読んで講座に来て勉強して他のやり方と並行しながら現場で実践してくれる、という流れでいいのではないかと思います。
たまに変なモンペが出てきて教委に怒鳴り込んだら、クビをかけてまで貫く必要はありません。
やりたくない人はやらなくていいのです。
治りたい人だけ治ればいいのですから。

この理由はこれまでもわかっていたのですが
私がこの旅の途上、奄美の海に浮かびながら考え、栗本さんの講座に出て人々の反応を見て、栗本さんと酒を飲みながら話をして、そして桜島を見ながら考えてわかったことは

私が学校であれどこであれどっか権威筋に売り込みたいという欲求がない理由
それは私が愛着の問題を抱えていないからだ

と気づいたのです。

愛着の問題を抱えている人は、誰かに気に入られることに必死です。
自分のやっていることを肯定されたくて必死です。
でも私にはそれがない。
神田橋先生がおっしゃるところの「土台の充実」があるからそれがない。
自分が信じていることをやっていれば、別に気に入らない人がいても平気なのです。
自分の主張をど~んと出し、「こうこうこういう理由で私はこれやったら治ると思う。やりたい人はやって。やりたくない人はやんなくていいよ」なのですね。
ところがアンチというのは不思議なもので、自分が強制されていないのに誰かがやっているだけで強制されている気になりうるさく言ってくる。
「うるせえな。黙ってろよ」と思いましたが、結果的にアンチが騒ぎ立てることで裾野が広がっているのなら騒がせておけばいいや、と思うようになりました。
ヤブ医者ながしのようにヤブ医者でも、花風社アンチ活動によって治る人を増やせるなんて素晴らしいではないですか。

そして「自分のやり方を学校に取り入れてもらいたい」と本気で思っている人たちは、多かれ少なかれ愛着の問題を背負っている人たちだなあと気づきました。
愛着の問題を背負っていると色々な現象として立ち現れますが
その一つは「権威筋を想定し、その人に気に入られようと汲々とする」という現象ですね。

ところが学校現場には実は権威筋はないのです。
幻の権威筋なのです。
彼らは官なのだし、中立にならないといけないのだし、保身に熱心ですから。
結局現場の先生たちがそれぞれの信念に基づいて勉強して(あるいはせずに)支援をしている。
それにクレームが入ったらひっこめるだけのこと。
治りたくない人を、クビをかけてまで治す必要はありません。しょせん官なのですから。
実はクレームを持ち込まれて現場の先生を指導する教委にもたいした信念などない。ただクレームがいやなだけ。
そういう世界でありもしない権威筋に媚びるなんてほんとバカげています。健康に悪いです。

結局治る人を増やすには、今のように強い主張をし、アンチの荒波が来たらまたそれに乗っかってさらなる沖を目指し、「米はもう作らんでよか」の療育地獄を抜けてきた仲間には「米は自分で作らないといけないんですよ」と教えてあげる。
でも米の作り方の知識は著者たちが持っていますよ。
それを習って家で取り組んでみてください。
だって毎朝顔洗いにエステに行かないでしょ? 自分で顔洗うでしょ?
整えるとはそういう毎日の家でやる営みなのですよ。
そしてそれで一次障害が治っていくのです。
なぜなら発達障害とは、神経の問題なのだから。
というところから教えてあげることですね。

要するに
これからも私は強い主張をするだろうし
もしかしたらスマホ修理系の読者には読者でも苦言を呈するかもしれないし(だってもう55歳だしね)
ギョーカイはdisり続けるだろうし
「だってあいつら治せないじゃん」という指摘はやめないだろうということですね。

なんで平気でギョーカイdisをするか。
それは私が「互助会」に入る気がないからです。
そしてギョーカイ人は互助会に必死なんですよね。
「互助会」というキーワードでギョーカイ人のSNSとか見ると面白いですよ。

連載、長々続いてしまいました。
次が千秋楽です。
檄文を載せますね。
今日が千秋楽ですから、今日中に載せます。

続く


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1 コメント

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特別支援教育 (miru)
2018-09-23 12:13:17
自分が子どもの頃、すでに療育や特別支援教育がありましたので、小学校の頃からSSTとABAを受けていましたけど今思うとこれらの療育で役に立ったものってないのですよね。
療育、心理療法は今の今まで役に立ったものはないです。私にとっては実生活では役に立っているとは思えない、実態の伴わないものでした。

もしいい思い出をあげるとすれば、そこで出会った子達と一緒に料理を作ったり遊び回ったり、それと雪国ですので冬は雪遊びやスキーに行ったことです。
本当にそれだけでしたけど、私の中ではよい思い出になりました。
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