さて、豆柿さんや豆柿さんを通して知る親御さんの世界観を見ると、いわゆる療育の世界では、よほど定型社会への適応という名の矯正が当たり前に受け止められているんだと思います。しんどいよね。そしてだから社会に理解を求めたくなるよね。
だから修行とか、そしてときには私が励ましを込めた情報提供のつもりで言っている「変人枠」とかを卑屈に取るんだな。
そしてマイノリティの若者たちに療育の世界では誰も本当の意味で「マイノリティでも別に生きていけるよ」って教えてあげないんだな。
考えてみれば支援者の多くはいい子ちゃんだもんな。
そして私は昔からいい子ちゃんが大嫌いだったなあ。
私のギョーカイ嫌いはいい子ちゃん嫌いの面もあるかもね。
考えてみれば二十年前くらいは、「どこどこのだれだれさんと親しい」みたいなことが就職面接で(中途ね)まじめに語られてきました。
でもそういうの通用しない時代になった。
つまり、人間関係より実力を重んじる時代になったんです。っていうかじゃないとみんな食べていけなくなった。
だからこそコミュ障と呼ばれる範疇の人にとっては以前より有利な時代になったと私は思っているんだけど。
私は親の理想とする子じゃなかったかもしれないけど、親の理想=私の理想ではなかったし、私が生きていきやすい社会がどこかにあることは小さいころから想定していましたよ。そして、あった。その通りだった。
思うに支援者や保護者の世界が狭いと、そういうことが想定できないんでしょうね。
これは何度も思ってきたことだけど、その結果SST方面の療育が卑屈になって奴隷道徳になっている構図がよくわかりました。
だったら治るわけがない。
自分が適応できる社会はどこかにあるんだけど、それに巡り会ったときそこに参加するには、履歴書にヌケがないこととか、基礎的な学力とか体力とか疲れても回復する力とかが大事。
それをその子にあったやり方で提供するのが特別支援教育だと思ってたけど、違うみたいだね。
だったらそんなところさっさと抜け出した方が人生無駄にならないでしょうね。
写真は山下公園の枝垂桜、越しの氷川丸。
SNSで4月2日の夜、この枝垂桜をアップしていた人がいました。発達障害クラスタじゃなくヨコハマクラスタね。背後にはいつもより少し青い感じのマリンタワー。でもマリンタワーにはまったく触れず。一般人誰も気づかない。これが啓発の現実。
とりあえずその写真見て、昨日現物を見に行ってきました。Good Old Yokohama一帯はお花がたくさん植えられててきれいでしたよ。
よその国の当事者団体も青いお祭りアンチ活動してるのね。
いわく
「あんたたちの理解はいらない。ママ中心の啓発はやめろ。自閉っ子のために何かしたければ、今すぐ子どものあれやこれやを四六時中ネットでベラベラしゃべるのをやめろ」だって。
わはははは。痛快。
そしてこの団体が去年のクリスマスに前に望んだこと。
「全世界的にABAを禁止すること」
だって。
そりゃそうよね。主体性を無視したやりとりを覚えさせられて、支援者の脳内にしかない社会への適応を強いられ、あげくの果てに覚えた曲芸は実生活を渡っていくのに使えないわけだから。
私が言っている「修行」や「変人枠」はその人の主体性を重んじるものです。
ありもしない脳内社会への適応を強いる人たちより私の方がありのまま系かもね。