治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

自分の意見を通す手段

2012-11-23 12:54:50 | 日記
昨日はさっさとお相撲の録画を予約して、そのあと電波の入りにくい場所にいました。
ようやく電波の入りやすい場所に来た頃には、稀勢の里vs舛ノ山は終わっていました。

ついーとで問いかけました。
「大関らしい相撲でしたか?」と。
私が望むのは、それだったからです。

NHKの「アスリートの魂」で舛ノ山の特集が組まれたとき
出稽古に来た把瑠都に胸を出してもらい、ぶつかっても動かないことに舛ノ山が衝撃を受ける場面があります。
こういう現実を知らせるのが、上位にいる人の役目だと思いました。
だから、琴奨菊相手に銀星をあげたあと、また組まれた大関戦で
稀勢の里関にはそういう役目をしてほしいなあというのが両方の贔屓としての気持ちでした。
その期待通りの展開になったようです。
決まり手は割り出し。めったに出ない、圧力のある力士しか出せない決まり手だそうです。そして五年ぶりの決まり手で、前回も稀勢の里だったとのこと。

どうやら愛知県で立てこもり事件があったようで、たびたび相撲中継が途切れているらしく
相撲部の人々が怒っているのが伝わってきました。
場所中に衆議院解散したり、立てこもったり、やめてほしいですよね。
私の録画はうまくいっているかしらと思いながら、帰宅。
食事をしながら幕内を全部見ましたが
稀勢の里vs舛ノ山のときには、録画でもやはり正座して見ました。
いいお相撲でした。
泣けます。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆

立てこもり事件の経緯を見て
発達障害者による攻撃のことを思いました。
発達障害の人は、他人が自分の気に食わないことをしているとき
その考えをどうにか変えようとするのですが
そのときにとる手段に「社会性の障害」が見られるのです。

一つは、社会的に正しくない方法をとる。
私は「諍い」そのものが正しくないとは思いません。どちらかといえば友だち原理主義否定論者ですし、ケンカはどんどんすればいいと思う。
けれどもそれは、ある境界線を踏み越えてはなりません。その境界線を踏み越えると、正義でやったつもりが外から見ると「けちくさいテロ行為」になります。
この境が見えにくい発達障害者の人からの攻撃をしばしば受けます。皆さんも現実に最近ごらんになったでしょう。あえて晒しましたが。

そしてそういう攻撃には、もう一つ大きな欠点があります。
それは決して、人の心を変える手段にはならないということです。
「おまえの悪口を言いふらすぞ」と言う手段を、こちらを変心させる方法として大まじめに振りかざしてくる発達障害者の人に、私は同情はしませんが哀れみは感じます(要するに、俗な言葉でいうと「イタい」です)。
そんなことでは世の中は変わらないことを、よく知っているからです。
それがわからないとは、よほど社会というものを知らないのだろうと、哀れみを感じるのです。

私の作った本を読んでくれる人がたくさんいる。
私が出る講演に来て下さる人がたくさんいる。
悪口を言いふらすことで自分たちの要求が通るとカンチガイしている人たちにとっては
本当に不可解で不愉快な現象だと思います。

(ああ、でも発達障害当事者だけじゃなかったか。
自分が行く義務もない講演会をやめさせようと迷惑メールを送った保護者もいましたね。)

「発達障害者は迷惑だ」という私の口を封じたければ
そう言われる行為をやめなさい。
きちんと努力し、働き口を探し、
他人をあれこれ言うのではなく、自分のやるべきことをやりなさい。
私は発達障害者というのはそれができる人たちだと思っているし
できない人の周りには、「やらなくてはいけない」と教えてくれる人がいないのだと考えています。

立てこもり犯の要求が通ることはありません。
手段として正しくないからです。
それと同じような、間違った手段を行使しても
発達障害者が世間から理解を得ることには決してつながりません。

「なぜ発達障害の人は、実現に遠い手段を選ぶのだろう」という私の疑問に対し
当事者で保護者でもあるある方は
「子どものときから要求を通せたことがない。だからせめて言葉だけ突き刺そうと先鋭化していく」と説明してくださり、これは腑に落ちました。
哀れだと思います。
そこに支援がいると思います。
自分の要求をまず洗い出してみる支援が必要です。それが実現可能か。実現すべきか。他人の主権や選択権を奪うものではないか。
他人には他人の選択権があるからです。
それを脅しを持って奪う行為はテロだと覚えておきましょう。

自分の望みを洗い出したら
今度はその望みを実現する手段の割り出しが必要です。
それができにくい認知特性を持っている人が多いことは、支援者の人たちわかっているはず。
なのになぜ、そこに向き合わず、真綿にくるむような対応をしてその場をごまかす人が多いのか
私は理解に苦しみます。
そんなに当事者が怖いのですか?
その怖い当事者を、あなた方は世間をだまして売り込もうとしているのですか?
だとしたら卑怯ですね。

時には壁となってください、支援者の人たち。
出稽古で舛ノ山に胸を出した把瑠都のように。
大技で土俵の外に割り出した稀勢の里のように。
それが「当事者より多少は社会経験がある」人たちの役目ではないのですか?

私は、今大人として、責任ある世代として
とるべきだと思った行動をとります。
それを自分の判断基準にしています。



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2 コメント

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テロ行為 (cc)
2014-04-16 09:17:51
自分の父がアスペっぽいので、テロ行為という表現がピタリと当てはまる数々の言動か瞬時に思い浮かびました。
当然のことすぎて失礼かもしれませんが、翻訳、出版と、ことばを扱うプロでいらっしゃる浅見さんの力にジーンときました。

子供時代の実家には、テロリストがいたんだ。だからか、家庭が安心安全の基地ってなにそれ?って思ったのね…腑に落ちました。感謝です。
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Re:テロ行為 (浅見淳子)
2014-04-16 09:25:31
ccさん、ようこそ。
周囲が壁となるべきときに、自分のパワー不足のためか、あるいは障害者原理主義の信条のためか、ケチなテロ行為を許し、しかもそれをありのまま世間に受け入れよという支援を私は死んだふり支援と呼んでいます。
またお越しくださいませ。
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