さて、父の日ですよ。
去年までは何かしら美味しいもの贈っていたりしたから、色々な通販サイトからお誘いがきます。お酒とかね。お酒はね、むしろ父がダースで買ってたウイスキーをちょこちょこ持って帰って夫が飲んだりしていますよ。今年からすっかり安上がりになったうちの父です。
さくらんぼとか贈ったら喜んでいたなあ。さくらんぼって高いやつあるよね。ああいうの、なかなか自分ちでは買う勇気ないけど進物なら贈れますね。つまり、それだけ父は別に所帯を構えた私にとって「よそんち」になっていたということでもある。そしてそれが正常な発達っていうやつですね。
それにしても、ギョーカイ系がやっている「啓発活動」だったら
「お父さんのいない人もいます」
「お父さんのいない人の気持ちをわかってください」
「社会の理解ガー」
とか父の日の営業メールを送ってくる通販サイトに文句言いそうですよ。そこで文句言うんじゃなく、受け取って悲しい気持ちになっている人がもしいたら
「世の中にはまだお父さんがいる人がたくさんいて、その人たちは父の日に何を贈ればいいかと思っていて、その人たちに情報提供したい業者さんがいて、そういうメールを送ることは双方助かるんだ。そして誰のお父さんが亡くなったかまでは把握していないから去年までに買った人には送られてくるんだ」とか教えてあげて「世の中はあなたを迫害しているわけではない」と伝えてあげるのが本来の支援ではないのかな。ところがギョーカイは一緒にルサンチマンを醸成するねえ。被害妄想に付き合うんだな。それを支援とは私は思いませんね。
そういえばどっかに、自分とこのお嬢さんが重度で一生働く当てがないからという理由で何気ない親子の会話
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「自閉症って恥ずかしいの?」
「自閉症は恥ずかしくないよ」
「大地、自閉症は恥ずかしくないよ。恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯を食べられないことだ」
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を卑屈に受け取って大騒ぎした父親がいたね。
しかも支援者と名乗る人たちの中にも「これはいかがなものか」としたり顔で言う人たちがいて。
今や出版物を見てください。「伸びる」「鍛える」「治る」の花盛りじゃないですか。
そして放課後デイもチットチャットみたいなところが繁盛してる。
今この状況の中でそらパパみたいな騒ぎ方したら、相当イタイよね。
そして私は想像してみました。
もし私が重度の自閉症で、将来お金を稼ぐ見込みがあまりなくて、そしてうちの父が「ぼく、アスペルガーかもしれない」を読んだらどう思っただろう、と。
「大地君っていう子は頑張り屋だなあ」と思ったでしょうね。
そして応援したでしょう。
そして語らぬ自分の娘の代わりに色々感覚を伝えてくれた大地君という子に感謝したでしょう。
それだけ。
自分の娘はそれにひきかえ、なんて夢にも思わなかったでしょうね。
だってパパには自分の娘が世界一だもんね。
私はそういうおおらかな、朗らかな父親を持って幸せだったよ。
父親が卑屈じゃなくて、本当によかった。卑屈親に育てられるって、相当きついよね。
愛着障害製造装置だもんね、卑屈親はさ。
「人間脳を育てる」で娘が自分でヌケをうめていたのだと知りました。そんな素晴らしいことが起きているのだと気づかず、当時、大人の自分の感覚で飽きもせずよくやるなと思っていたのですが、花風社の本を読んできたおかげで邪魔せずにすみました。型にはめるのは無意味だとわかっていたので。幼児の方がよくわかっていることもありますね。もっと創造的な遊びが見たいなあと無駄に嘆いていたぶん私が間抜けで、創造的な遊びこそというのも親の勝手な思い込みでした。創造的のくくりも雑ですし。粗すぎると役に立たないんでした!
「この本が役に立つ人もいるかもね」
という態度が一番取れないのは、党派争いを繰り広げているギョーカイメジャーかもしれません。
そしてギョーカイメジャーじゃないところでは、もっと柔軟な支援者たくさんいるんですよね。
そらパパにしろベムにしろ、それが見えていないのかも。