清々しいものである。
見渡す限り、黒髪の集団。堂々と掲げられた日の丸。
司法の人たちが、障害について勉強する場を見学させていただいた。
普段、障害のある人たちの地域生活を支えている方たちが講師を務める。
一見わからない障害の人が、普通に地域で暮らしている時代であること。
職務質問をしても、不思議な反応が返ってくることもあること。
この人たちは被害者になることもあること。そのケーススタディ。
そして加害者になったとき、地域に円滑に戻ってこられるよう、出所前から支援に入っている方も壇上に上がっていた。
その話がまた清々しくて、私には新鮮だった。
福祉がしっかりしていれば、罪を犯す必要のない人々。
なのに罪を犯し、公判が開かれ、国選弁護人がつく。
執行猶予がついたとしても、健常者には強い抑止力と働く「執行猶予」が、知的障害のある人にはわかりきれないところがある。
そして同じことを繰り返し、合算された懲役に。
これこそ税金の無駄だ、とその方は言っていた。
福祉にもっと力があれば、起こることのない犯罪。
福祉が担うべき役割を、司法に担わせてしまっている、とおっしゃってた。
なんとまあ潔い。
ギョーカイでは聞かれることのない発言だ。
発達障害者が事件を起こすと、まずは社会をののしり、司法を敵視するギョーカイ。
被害者への悼みも表現せず、ひたすら強調するのは「俺たちは関係ねーよ」。
再発防止など、まず誓わない。
当事者に努力を強いるのは差別だといい、ありのままを奨励したまま、ありのままの行動が市民を傷つけ
司法が市民を守る動きをすると、差別だと憤るギョーカイ。
自分たちが力不足だと認めたのなんか見たことない。
同じ福祉関係者でも、発達障害ギョーカイの外には
三つ組みの障害がない支援者がいるようだ。
司法や社会を敵視することなく仕事をしているようだ。
本当に障害のある人の地域生活を支えるのは
こういう清々しい人たちなのだろう。
司法も敵じゃないからね。福祉も司法も社会(みんな)の一部。
本当は協力し合える存在のはずなのに。
勉強になりました。
そしてほっとした。
見渡す限り、黒髪の集団。堂々と掲げられた日の丸。
司法の人たちが、障害について勉強する場を見学させていただいた。
普段、障害のある人たちの地域生活を支えている方たちが講師を務める。
一見わからない障害の人が、普通に地域で暮らしている時代であること。
職務質問をしても、不思議な反応が返ってくることもあること。
この人たちは被害者になることもあること。そのケーススタディ。
そして加害者になったとき、地域に円滑に戻ってこられるよう、出所前から支援に入っている方も壇上に上がっていた。
その話がまた清々しくて、私には新鮮だった。
福祉がしっかりしていれば、罪を犯す必要のない人々。
なのに罪を犯し、公判が開かれ、国選弁護人がつく。
執行猶予がついたとしても、健常者には強い抑止力と働く「執行猶予」が、知的障害のある人にはわかりきれないところがある。
そして同じことを繰り返し、合算された懲役に。
これこそ税金の無駄だ、とその方は言っていた。
福祉にもっと力があれば、起こることのない犯罪。
福祉が担うべき役割を、司法に担わせてしまっている、とおっしゃってた。
なんとまあ潔い。
ギョーカイでは聞かれることのない発言だ。
発達障害者が事件を起こすと、まずは社会をののしり、司法を敵視するギョーカイ。
被害者への悼みも表現せず、ひたすら強調するのは「俺たちは関係ねーよ」。
再発防止など、まず誓わない。
当事者に努力を強いるのは差別だといい、ありのままを奨励したまま、ありのままの行動が市民を傷つけ
司法が市民を守る動きをすると、差別だと憤るギョーカイ。
自分たちが力不足だと認めたのなんか見たことない。
同じ福祉関係者でも、発達障害ギョーカイの外には
三つ組みの障害がない支援者がいるようだ。
司法や社会を敵視することなく仕事をしているようだ。
本当に障害のある人の地域生活を支えるのは
こういう清々しい人たちなのだろう。
司法も敵じゃないからね。福祉も司法も社会(みんな)の一部。
本当は協力し合える存在のはずなのに。
勉強になりました。
そしてほっとした。
発達障害の当事者で面倒なのは、こちらはごく普通にまっとうな出版活動しているだけなのに、自分の持っている出版幻想かなんかのせいで、こっちのことを勝手にトリガーにしてかかることです。そして、こたえろとギャン泣きする。支援の世界がまたそれをむしろ後押しするのですよ。
どちらか一方だけの理解、っていうのは無理筋です。それに気がついてくださってる方がうちの本の愛読者です。これからもその路線で行くつもりです。
またお越しくださいませ。
浅見さんの言われることは、よくわかります。
私は、「社会にはトリガーをひく人は大勢いる。けれど、手を出して相手に怪我を負わせたら、自分が悪くなる。たとえ、トリガーをひかれても、相手に、切れて危害を加えてはいけない」と、4歳の男の子を持つお母さんに昨日、教えたばかりでした。
(これを、「やられて、やりかえしたら負け」と公教育で指導するのと混同する人がいるのですが、手を出されたら、やり返すのは、自分の身を守るために必要なこととも教えているので、まったく違いますよ)
ある4歳の男児が幼稚園で、熱中してパズルをしているときに、クラスメートがちょっかいを出したそうです。一生懸命、パズルに取り組んでいた、その子は、邪魔されたと思い、かんしゃくを起こし、怒鳴ったり相手に飛び掛って問題になったそうです。「相手が邪魔しない場所なら、いい子なのです」とお母さんは言われます。けれど、「邪魔をした」と思われている子にも「一緒に遊びたい」とか「ぼくの話を聞いてよ」と理由があって、話かけたのかもしれません。パズルをしている子にとっては、邪魔に思えても、相手は、友好を示しただけかもしれません。そして、結果的には、たとえ、パズルの邪魔をしたとしても、相手をひっかいて傷を残した方の評価が、悪くなるのが、世の常です。
言い忘れました。私のところは、年齢の低い幼児から、中学、高校生までに音楽を教える教室をしています。教室内では、秩序やルールを守ることを教えているので、ありのまま系の「子どもにこびるタイプ」のお稽古に比べ、厳しいという評価を受けます。
子どもというのは、秩序のある場所、お互いに、常識を持って接することができる、意思の疎通が可能な場所では、まったく問題なく行動します。前述の4歳の子も、私の教室で行う合宿などでは、友達と仲良くして、問題など起こします。子どもたちが、お互いに相手を思いやって、尊重しあって行動できるからです。
その子が暴れるのは、決まって、「子どもは個々、のびのびと何をやっても自由ですよ。悪いことをしても、叱りませんよ」という教育機関でのことなのです。私個人は、相手は幼児なので、悪いことをしたら、しっかり叱る大人の存在を求めたいですが、世の中には、「誰も何も言ってくれない場所」はたくさんあります。本当は叱ったり、本当のことを言ってくれる人の方が、親切で、何も言わずに、ただ、観察されるのは、とても恐ろしいことだと感じます。何も言わずに、気がついたら誰もいなくなっていることもあるのですから。
それでも、叱られないことがモットーの場所であっても、相手に手を出せば、その子は、悪い子、問題児のレッテルを貼られるでしょう。そうならないための教育も必要です。
私は、どんなに幼い子どもであっても、「世の中に出たら、トリガーをひく人はたくさんいる。トリガーを惹かれても、自分が犯罪者になるようなことはしてはいけない」と教えています。と同時に、自分も、他人の気持ちを考えずに、トリガーをひいて被害者になる可能性があることを教えています。「今の言い方は失礼」とか、「一緒に遊びたいから、声をかけただけだから、そんなに怒らなくてもいいじゃない?」とか、相手の気持ちを代弁して、考えさせる練習は幼児期から行います。これをしないと、「自分が、自分が」という感情が先行して、それが犯罪につながることまで、考えられない子どもに育てる可能性があるとも感じるからです。
発達障害のお子さんは、他人の気持ちを想像するのが難しいといわれます。しかし、それも、まわりの大人の関わり次第で、変化はあるようです。私が預かるお子さんたちも、他人の気持ちを考えたり理解することは、苦手ですが、「ママは、今、お買い物をしていて、遅いんじゃない?」などと、少し、声をかけて一緒に、想像すると、お迎えが遅れた時に、いきなり、かんしゃくを起こしたりをしなくなっていきました。小さい変化ですが、こうした積み重ねが、障害があっても、社会に受け入れられるようにするのではないかと感じます。
大事なのは、どちらか一方だけ、理解するのではなく、互いに事情を理解して共存するための教育が必要なのではと思いました。
浅見さん、長い書き込み失礼しました。
息子はどちらかというとやってしまう方です。支援級の人数がとても多いので、低学年の頃はその中でのトラブルがとても多かったです。こうしたことがあった場合に、やってしまう側としてまずしなければいけないのは「理解を」ではない、ということです。
理解をしてくれたとしても、きっと「障害があるから仕方がない」という程度ではないでしょうか。それって理解されるということではないと思います。
理解されるよりやめさせることの方が大事です。
実は私、先日のお勉強会に行って感じたのが、「被害よりも加害よりも、ひんぱんに問題になりそうなのは、不審な行動→職務質問→不適切な対応」だなあと思ったのです。だからこそ、一見わかりにくい障害の人が地域に生きているということを司法側に伝えておくのはだいじだなあと思いました。
叱る、という言葉にそれぞれ込められているニュアンスも違うと思うのですが、自閉症の人は何かの行為をしたとき、否定されない限り肯定と受け取る認知も持っているので、なんらかのかたちで「やってはいけない」ことを伝え続けるのは大事だろうと思います。これは私が「自閉っ子は必ず成長する」などの仕事を通じて服巻先生から学んだことです。
おたけさんの先生が息子さんを叱らなかったのは、学校という場だからかもしれないし、あるいは自分が原因を作った自覚があるからかもしれません。でも気をつけておかなくてはならないのは、たとえ原因が外にあっても、実際の社会では噛んだ人のほうが悪いということです。トリガーが何であるかは関係ないですね。多くの自閉症の人の問題行動が、「発達障害は治りますか?」P104のようなメカニズムで起こります。そしてそこには被害者が生じます。私が受けた法的被害もこの仕組みです。
だからといって被害者が出る以上、司法は放っておきません。
「こういう対応が不適切」ということを理解してもらうのは大事ですが、学校で理解されても、社会でそれが通じるかどうかはまた別の話です。そして伝えたところで、相手に理解できる場合と理解できない場合があると思います。
またお越しくださいませ。
「障害を持っていても持っていなくても、指摘されなければ反省も」できません。そう思います。
叱り方にもよるのですが、叱るのではなく、本人にわかるように伝えれば十分だと思っています。否定的に叱るのではなく、「こういうときには、こうするんだよ」ということを教えることが必要だと。
それから、周りの子どもや先生に理解してもらうのは、「この子は噛みつく子だからがまんして」ということではなく、「こういう接し方をすると噛みつくことがあるから、こういうふうにするといいよ」ということは理解しておいてもらった方が、本人にも他の子どもたちにもいいのではないかと。
もっとも、毎日同じ教室にいる子どもたちの中には、先生以上に接し方のわかっている子どもがいるのではないかという気はします。
もうひとつ、マスコミ等で一般論として「理解を」といっても、実際の自閉症児者を見たことがない人にはイメージできませんが、実際に目の前に自閉症の子どもがいる人は、「なんでこの子はこういう行動をするのだろう」という疑問を持っているでしょうから、理解してもらうチャンスだなと思ったわけです。
瞬間的な反応で書き込みしたので、言葉足らずなところが多くてすいませんでした。
浅見さん、少々くどくなってしまってごめんなさい。
おじゃましました。
メッセージありがとうございます。
もう一度自分のコメントを読み返して、ご心配を呼ぶ書き方だったなと気づきました。すみません。
息子は4年生で、自分の特性には自分でも気づいているので今は「じゃあどうすればいいのか」を教えていっている段階です。
同級生達も低学年の頃の先生方や親御さん方のご尽力で本当に親切に接してくれますし、先生顔負けに対処してくれるお子さんもたくさんおられます。
今回のことでも「先生、そりゃ息子くん怒るのも無理ないやん」と内心思ってるお子さんも多分います。
そこまでわかってなくても「なんでか知らんけどわけがあって怒ってるんやな」くらいには殆どのお子さんが息子のことを知ってくれている環境です。
なので息子のことをむやみに怖がるお子さんはあまりいませんが、
息子くんはわけもなく怒る子じゃないけど、怒って暴力をふるっても叱られないし謝らなくても許される。ってことは、もし僕や私が息子くんに痛いことされたら怒らせてしまった僕や私がわるいってことになるんちゃうやろか。
そんなの嫌だし怒らせたら怖いから関わるのやめとこう。
なルートで居場所がなくなっていく心配がすごくあります。
息子はわりと叱って大丈夫な子ですが、必ずしも叱らなくても廊下や別室でクールダウンしてから話すにしたって周りの子ども達には本人が諭されているのだろうということはわかると思うので、それでも構わないんです。
障害があるから噛んでもしょうがないと本人を含めた子ども達に思わせてほしくない。
悪いことをしたら息子も咎められ反省を促され謝らなければいけないのだと息子にもみんなにも知ってほしい。
そうでないと得られない種類の安心がある。
その安心がないとみんなと生きていくのは難しいんじゃないかな、という気持ちで書いたコメントです。
浅見様、コメント欄をお返事に使ってしまってすみませんでした。
トラブルを起こすたびに叱る、罰することが息子さんにとって成長の機会となり、周りの子が理解する機会になるのであればいいのですが・・・
発達障害を持つ5年生の息子がおります。
上記のようなことを言われる度にバカにされていると感じます。障害を持っていても持っていなくても、指摘されなければ反省もできないじゃありませんか。違いますか?発達障害を持っていても、特別なわからせ方があるわけではないと思います。
補助の先生を噛んだことはよくないことだし、周りの子どもたちにわかることではないこともよくわかります。
で、「パニックを誘ったのは先生ですがそんなことは周りの子ども達にわかることではありません」とのことなので、おたけさんにも息子さんが噛んだ理由はわかっているものとお見受けしました。
「周りの子どもたちはどんなことを感じただろう」「周りのみんなの安心なしには息子も学校に居場所を得られない」ということであれば、なぜ噛んだのか、息子さんにどんな特性があるのかを説明する絶好のチャンスなのではないかと思いました。
成人になれば、司法の裁きの対象になるのはもちろんのことなので、そうならないように育てていくことは必要なことです。
ただ、息子さんが何年生なのかわかりませんが、叱ったことが伝わるところまで成長しているのでしょうか。そうでないとすれば、叱ること自体が本人にはよくない影響を及ぼすような気がしました。
ただ、単に理解を!ではなく、「周りのみんなの安心なしには息子も学校に居場所を得られない」からこそ、特性を理解してもらう必要があるように思います。そのほうが、周りの子も息子さんを受け入れやすいのではないかと。
トラブルを起こすたびに叱る、罰することが息子さんにとって成長の機会となり、周りの子が理解する機会になるのであればいいのですが・・・
司法の方々がこういった方向でお勉強されていると知り、少しほっとしました。
ニュースなどで「精神鑑定の結果、責任能力を云々」といった言葉をきく度、独身の頃から何かおかしいと思っていましたが、発達障害の子ども達を持ってからはどんどん肩身が狭くなっていく気がしていました。
とても若くて幼かった頃、私にとって最大の怒りをあらわす言葉は
「謝らんといて!許さないから。」
でした。謝られると許さない私のほうが悪者になってしまう気がしていたのです。
今はもう大人なのでこんなことは言いませんが。
「謝る」「償う」「ゆるす」は人間ならではの行為だと思うのです。
被害者のいたみを思うことはもちろんですが、病んでいたからと罪を問われなかった加害者は、治ったときにそのことをどう感じるのでしょうか。
ラッキーと思うなら元々かなりの悪党だから償わなきゃだし、なんと申し訳ないと思う人なら償わせてくれと願うと思うでしょう。
罪を軽くする意味はどこにあるのでしょうか。
障害児の親としてはそういった報道をきくだけで、わが子は万が一過ちを犯しても謝ることも償うことも一人前に認められないのか、この子は生きていていいのだろうかと子どもに対しても世の中に対しても申し訳ない気持ちになります。
精神鑑定の結果は減刑のためじゃなくて
その加害者が償うにあたっての参考や再発の防止に役立ててほしいと思います。
加害者が逆恨みを募らせたり同様の被害がなくならないままでは何のための精神鑑定かわかりません。
先日息子が補助の先生を噛みました。
パニックを誘ったのは先生ですがそんなことは周りの子ども達にわかることではありません。
息子が噛んだことは見ての通りなので周りの子ども達にもわかります。
あまり痛くなくて怪我というほどのものではなかったからと息子は特に叱られもせずにその時は終わってしまったようです。
翌日息子から聞いて家で説教、学校にお詫びに行きましたが、それも周りの子ども達にわかることではありません。
当日の一部始終を見た周りの子どもはどんなことを感じただろうと考えると、理解を!配慮を!と叫ぶ支援ではもう追いつかない気がします。
先生には痛いところ申し訳ないけど、噛んだことはその場で厳しく叱っていただかないことには周りの子ども達は安心できません。
また、周りのみんなの安心なしには息子も学校に居場所を得られないと思うのです。
それは一般社会でも同じですよね。