治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
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「愛着障害は治りますか?」ができるまで その3 愛甲さんへのオファー

2016-10-22 14:53:00 | 日記
予想通りこの連載はまとまりがないです。

「愛着障害は治りますか?」という本を出そうかな、と思った私。愛甲さんにオファーしました。そのときのメールが出てきましたのでそれを張っておきますね。

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愛着障害に興味を持った経緯

 もともと愛着障害の問題は、なんか近寄る気がしませんでした。アダルトチルドレン的な自意識を持っている人は「なんであんなうじうじしているんだろう」とあまり好感は持てなかったし、30にも40にもなって親の悪口言っている人はどこか発達の遅れがあるんだと思っていました。もちろん極端な虐待とかの体験があれば理解できますが。そして自分が思っているより性虐待を含む子ども虐待が多いらしいことには気づいてきましたが。それが発達に影響を及ぼしていることも杉山先生のご本などで勉強しました。

 そして愛甲さんがさかんに愛着の問題を扱っていらっしゃったことも、神田橋先生のもとに出かけてきて深い愛着の問題の治療法を教えてもらった人たちが生き生きして発達の問題そのものが治っていく姿も目にしました。そのときに灰谷さんに出会い、原始反射の残存と統合について学び、そのすべてがリンクしました。

 恐怖麻痺反射について知ったことで、私が前から不思議に思っていた「ありえない恐怖感」を持っている人々は要するに「胎児のサバイバル方法を引きずってきた人たちである」と腑に落ちました。私はその人たちの態度を「死んだふり」と呼んできました。でも「死んだふり」ではなく「まだ生まれてない」状態だったのですね。

 そして父を亡くしました。そのちょっと前に愛甲さんから、神田橋先生が「浅見は父にとても愛されているのにそれがわかっていない」とご指摘があったと教えていただきました。父に愛されていないと思ったことはありません。ただ愛されているとは意識したことがありませんでした。そして、神田橋先生がことさらにおっしゃるのだから何か大事な情報なのだろうと思いました。

 父を亡くして様々な方々からお悔やみの言葉をいただく中で、私がふだんから見る目を信用している何人かの方から「浅見さんはご両親に愛されて育ってきた人だと思ってきた」という言葉をいただき、私は愛情に不足してこなかった人間なのだと改めてわかりました。でも、愛されていないと思ったことはないのです。ただ、世の中には私より愛情に飢餓感を抱えながら育った人がいるのかもしれないと想像するようになりました。私は、そういう想像を一切してこなかったのです。

 私はかねてから発達障害の人やその周辺に「絡まれる」ことが多い人間でした。裁判に発展したこともありました。そしてその事件を抱えたころから、発達障害の支援者たちが「支援」と言いながら実は本人を変える力あるいは意欲がないことを痛感するようになりました。私はそれも「死んだふり」に分類してきました。

 けれども私が父を亡くしたときにある読者の方が「浅見さんがやっと気づいてくれた」とブログにコメントくださったのが心に残りました。文章を通じても私が愛情に不足なく育ってきた人間だということはわかっていたらしい。そして私の主張に納得しながらも、自分は愛情を受けて育った人間ではないことを思い出されて私を見るのが苦しかったというのです。そして自分も一歩間違えば迷惑行為を仕掛けかねなかったかもしれない、と。

 それを読んだとき、(本当に愛されていたかどうかはともかく少なくとも主観的に)愛情に飢餓感を抱く人たちの苦しみがほんの少し垣間見えるような気がしました。というより、ここをきちっと見つめてじゃないと私は、発達障害をテーマにする仕事から卒業できないのだと思いました。

そして愛着障害の自覚が(現在あるいは過去の問題として)ある人たちとお話ししてみました。その中でわかったのは、私が前から「なんでだろう」と不思議に思ってきた「正しいと思うことを実行に移せない。やりたいことをやれない。言いたいことを言えない」という(私にとっては)不可思議な態度が、愛情への飢餓感、あるいは愛情を失うことの恐れから生じているらしいことでした。

 だとするとこの問題こそが、資質の開花のカギになるのだろうと思いました。凸凹した性質であればあるほど、資質の開花は大事な問題です。開花しないで人に決められた無難な人生を歩もうとむなしく奮闘する限り、本当の資質に出会うのさえ難しい。ましてやその開花はとても難しいだろうと思ったからです。

 それで愛甲さんのお知恵を借りたくなりました。
 こういう経緯です。