張り扇作りの説明をする神田京子さん=24日、東京都北区の岩淵小学校、奥山晶二郎撮影
『浴衣姿で元気にパパン――。東京都北区の岩淵小学校で24日、プロの講談師の指導で子どもたちが講談に挑戦した。 指導したのは、二つ目の神田京子さん(33)。6年生約30人に、6月から来年2月まで6回にわたり、1年計画で講談を教えている。 2回目の24日は夏休み中であることを生かし、浴衣への着替えからスタート。講談で机をたたく時に使う「張り扇」を和紙や竹串などで作った。堀田真央さん(12)は「形を整えるのが難しかったけど、神田先生に教えてもらったらうまくできた。これからも勉強して、先生のようにうまく講談が話せるようになりたい」と話した。 講談の常連客のおいが同小に通っている縁で指導することになったという神田さんは「人前で大きな声で話せるようにするところから始めて、独特の七五調で話せるように教えていく。最後の発表会では、みんながネタを1本ずつそらんじることができるようにしたい」と話していた。』アサヒコム
講談(こうだん)とは、日本の伝統芸能のひとつで、軍記物や庶民の生活を綴った世話物などの物語を、張り扇を釈台と呼ばれる机に、調子をつけて打ち鳴らしながら語っていく伝統話芸のことです。江戸講談を江戸の子供達、東京都北区の岩淵小学校の子供達が学び庶民の生活から見た歴史的な出来事、事件が楽しく学べると思います。神田京子さんは、講談師の二つ目、最初『見習い』から始まり、『前座』『二つ目』『真打』の順番 で昇進する制度になっている。 人生に例えるなら『二つ目』までは未成年。『真打』でようやく 成人を迎えて一人前と認められ用になっています。日本を今一度洗たく致し申し候の「講談女伊達 Japanese Soul Angels。yaplog.jp/koudanonnadate」は、師匠や、所属の協会といったくくりを越えて結成された女性講談師5人組。「講談女伊達」のメンバーは、それぞれ「真打ち」を目指す「二ツ目」で芸歴6~10年からなる、神田織音(おりね)さん、神田京子さん、田辺一凜(いちりん)さん、神田きらりさん、そして神田織音・神田京子・田辺一凜・神田きらり神田あおい若手女性講談師5人による講談の会の一員の一人で真打を目指す二つ目『最初は、『見習い』から始まり、『前座』『二つ目』『真打』の順番 で昇進する制度になっている。 人生に例えるなら『二つ目』までは未成年、『真打』でようやく 成人を迎えて一人前と認められる。』の神田京子さんから日本のこれまでの歴史を面白く、教えて貰えるのではないでしょうか。日本の伝統文化の江戸の文化を女性講談師の神田京子から学び、明るく元気な気風の良い江戸っ子になって下さい。何でも買えば手に入る今の時代ですが、子供達が和紙や竹串で手作りの張り扇を作り、手作りの難しさや物を作る喜びも体験出来たのではないでしょうか。最後の発表会では、みんながネタを1本ずつそらんじることができるようにしたいと神田さんは話していますが。『実そらんじる、諳じる』とは覚えることでネタを楽しく暗記する方法も学べますね。江戸っ子ミニ講談師の誕生です。
講談(こうだん)とは、日本の伝統芸能のひとつ。
演者は高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。上方講談においては、張り扇と拍子木を併用する。
歴史
起源は戦国時代の御伽衆(おとぎしゅう)であると言われているが、寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代の大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく、または町講釈)に求めることができる。辻講釈は太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語るものである。
宝永年間には公許の常設小屋で上演されるようになり、講釈と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生した。他の芸能との交流も進み、講釈での人気演目が歌舞伎や人形浄瑠璃化されることもあった。明治時代になって後、講釈は講談と呼ばれるようになった。
江戸末期から明治時代にかけて、講談は全盛期を迎えた。明治末期には立川文庫など講談の内容を記載した「講談本」が人気を呼んだ(その出版社の中に、講談社がある。講談本の成功ですぐに大手出版社になった)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなった。しかし、漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達などに追いつけず、次第に衰微していった。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され一時は大きな影響を受けた。その後テレビの普及によりやはり衰退を続けた。
東京での講談について。協会が「講談協会」と「日本講談協会」に分裂している。かつ、定席は本牧亭と永谷商事の演芸場のみという寂しい状態である。しかし女性講談師が増えるなど、人数ではかつての24人から大きく増えた。 上方講談もまた、明治時代から大正時代にかけて、今からは想像もできないほど盛況であった。上方講談は「軍談」と「神道講釈」の二つの流れが融合したもので、大正時代に立川文庫の生みの親である玉田玉秀斎などの玉田派が上方講談界を席巻した。その後、玉田、松月堂などの一門は昭和初期で命脈がつきたが、本来は江戸の屋号である旭堂が二代目南陵の奮闘もあって、上方講談唯一の屋号として今日まで継承されている。戦後になると、上方落語同様に衰退著しく、二代目旭堂南陵と二代目旭堂小南陵(後の三代目旭堂南陵)父子のみの状態が続き、1965年に二代目が亡くなった後は三代目の孤軍奮闘が長く続いた。現在も数は多くはないが、三代目南陵の弟子たちにより地道な活動が続けられ当面の危機は脱した。「上方講談を聞く会」「天満講談席」「トリイ講談席」など定期講談席も続けられている。その後、三代目南陵の弟子間で訴訟にまで発展する内紛があり、四代目南陵(前名小南陵・元参議院議員)一門は上方講談協会を除名され大阪講談協会を結成した。手勢の薄いはずの上方講談界もまた、東京と同じく分裂した形となっている。そればかりでなく、小南陵の「四代目旭堂南陵」襲名を、(本人を除く)三代目南陵の弟子たちは承認していない。
題材
講談は題材に注釈を付けて語る話芸である。題材は歴史的事件が中心だったが、題材をわかりやすく解説し観衆の理解を深めるという点が再評価され、現在では国際的事件や経営理論など、歴史以外の題材を取り上げる試みもなされている。また現在は女流講談師の割合も増えている。決して盛んな芸能とは言えないが、新しい潮流も少しずつ生まれつつある。
代表的な演目
上方
- 安倍晴明
- 天野屋利兵衛
- 一休和尚
- 応挙の幽霊
- 木津の勘助
- 木村長門守重成
- 楠の泣男
- 食わんか船の由来
- 西行法師
- 菅原天神記
- 曽呂利新左衛門
- 太閤記
- 壺阪の沢市
- 難波戦記
- 水戸黄門漫遊記
- 奴の小万
- 藪井玄意
- 良弁杉の由来
江戸
落語との違い
- 講談 - 武士、男性社会、エラい人の物語、タテマエ、演者と客との心理的距離の遠さ、公式的見解、無矛盾性、地の文による客観的描写、語りのテンポと歯切れを重視
- 落語 - 町人庶民、女性、ダメな人の物語、ホンネ、演者と客との一体感、下からの目線、世の矛盾を肯定、反社会性の肯定、心情描写、会話により展開される、しゃべりに緩急が必要
立川談志は落語とは、人間の『業』(=矛盾)の肯定であるといっている。講談ではそれはありえない。
- 上から目線 - 講談師は常に客より上の立場である。威張っていい。客より偉い。客を指導する立場にある。落語家は常に客より下の立場である。よって講談師と落語家では(身分・キャリアが同じなら)どういう場合であっても講談師のほうが芸格が上ということになっている。
- 戦時プロパガンダ - 講談の内容はもともとは封建思想を賛美するものであり、戦時中には軍国主義プロパガンダの一環となった。落語は反社会性が抜けず、戦時中に多くの演目が禁演落語として弾圧された。
- 政治プロパガンダ - 一般には、講談のほうが演者が客にストレートにメッセージを発することができるとされている。また、特定の価値観を主張する時もストレートである。また、政治プロパガンダのために講談をやっている者(初代伊藤痴遊、石田一松、四代目旭堂南陵。いずれも国会議員)も多い。落語はそうではなく、どういう場合でも若干ひねる。ただし、プロパガンダが多いのは間違いがない(但し仏教や心学である)。
- 軍談 - 講談に欠かせないのが修羅場(しらば)で、これは武士の合戦の模様を描写したものである。つまり、武士しか出てこない読み物がありうる。反面、落語は、基本的に町人の話で、武士がからんでもどこかに町人が登場人物として顔を出す。
- 滑稽噺 - 一般に落語には落ち(サゲ)が存在するが講談には存在しない。また、「笑わせるための落語」(滑稽噺)は多数存在するが、笑わせる講談は(新作でもない限り)存在しない。
- 長さ - 講談のほうがストーリーが長い。寄席では数日間に分けて演ずることがある。落語は基本的に読み切り。
- 上下 - 落語は登場人物のセリフで進行させる。その際上下(かみしも)を切って登場人物の違いをはっきりと表現する。
- 地の文 - 講談は地の文(第三者から見た描写)が多く、セリフは少ない。
- 出囃子・下座音楽 - 落語にはあるが講談にはない
しかしこの形式に沿わない講談、落語は多数存在するため、内容や形式から分類することは困難である。また、「講談を意図的に取り入れた落語」も多い(源平盛衰記、五目講釈など)。当然、講談のテクニックが多用される。あるいは、怪談ものはどうしても両者が似たものになるであろう。
究極的には、落語家と呼ばれる人が演じれば落語、講談師と呼ばれる人が演じれば講談ということになろう。
江戸落語は見台(釈台)を使わない。また、講談は古くは大正時代頃まで釈台に講釈本(代々師匠から受け継いだ物や自身が記した物であらすじや登場人物が書かれている)を置き読みながら演じられる事がしばしばあった。落語で本やメモを見ながらしゃべることはない。
他に、真打の敬称は、落語では師匠、講談では先生。
演目のことを講談は読み物と言い、落語は出し物と言う。