壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

鎮魂歌

2008年12月03日 21時54分55秒 | Weblog
                         柿本人麻呂
        珠衣(たまぎぬ)の さゐさゐしづみ 家の妹(いも)に
          もの言はず来て 思ひかねつも (『萬葉集』巻四)

 じっと心をひそめていて、あいつ(妻)に、ものも言わずに来てしまった。それを今にして思えば、とてもたまらない気持ちになってしまう、というのであろう。

 この歌、下の句は特にいいが、上の句は、近代的な感じ方からすると、無内容にしか思えない。
 それは、「たまぎぬのさゐさゐしづみ」の背後にある、長い宗教的な生活が、今のわれわれとは全く断絶してしまっているので、この語句が、なんら実感として映ってこないのだから仕方なかろう。

 魂を肉体に鎮定させる時には、鎮魂法を行なう。その時、からになった状態の肉体に衣をかぶせるわけだが、その人から言えば、衣を頭からかぶって、じっとしているわけだ。すると、呼び迎えられた魂によって、魂がよりついて来たしるしに、ひっかぶっている衣が、神秘なさわだちの音を立てる。その神秘なさわだちが「さゐさゐ」という音なのだ。
 そのさわだつ声を聞きながら、じっと心を沈めている、鎮魂の神秘な宗教的経験の積み重なりがあって、それから「心をひたすらにひそめている」といったことの序歌として、「たまぎぬのさゐさゐしづみ」という類型が出てきたと思われる。

 ここでは、「しづみ」が本文にはいるから、それ以前の「たまぎぬのさゐさゐ」が、「しづみ」をおこすための序歌ということになる。
 そして、こうした知識によって内容の裏付けを行なえば、この歌の上の句も、特殊なよさを感じさせる。「さゐさゐ」という音声に、より来る霊魂による着物の揺らぐ音が感じとれる。
 余談になるが、先日の伯父の七回忌の法要の際、僧の読経が始まるや否や、二本の塔婆が、風も無いのにカタカタと音を立てて、ついには傾いた。読経を続けながら、僧が塔婆を直すと、こんどは、最後まで音を立てることがなかった。

 難解なこの歌と同じような歌が、東歌(あずまうた)にある。
        ありぎぬの さゑさゑしづみ 家の妹に
          もの言はず来にて 思ひ苦しも
 「さゐさゐ」も「さゑさゑ」も、あるいは「さやさや」「さわさわ」も、同じことである。「潮騒(しほさゐ)」の「さゐ」も同じである。鎮魂用語であり、神秘感をたたえた擬音だ。衣ずれの音にも、笹・荻などの葉ずれの音にも使う。
 「ありぎぬ」は、絹衣とも、鮮やかな衣ともいうが、よくわからない。
 「たまぎぬ」は、「霊衣」でもあり霊的な衣であろう。衣ずれの音から「さゐさゐ」「さゑさゑ」にかかる。枕詞的に使われている。現在の辞書では、「たまぎぬの」で、枕詞とある。
 その衣がさわさわと音を立て、また鎮静に帰することから、「さゐさゐしづみ」と言って、「もの言はず」の序歌に使われたものとも考えられる。「しづみ」を本文と取るか、説の分かれるところである。いずれにしても、「さゐさゐしづみ」は慣用的な呪文のようなものだったのだろう。

 出立のときのどさくさに、妻にやさしい言葉もかけないで来て、いま思いに堪えない、というくらいの意味であろうか。いまいち解釈が定まらないが、「たまぎぬのさゐさゐしづか」という表現は、快い語感を持っている。旅中の鎮魂歌であろう。


      紙芝居きて黄落をかがやかす     季 己