壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

煤払い

2008年12月13日 22時01分48秒 | Weblog
 ことしも余すところ幾日もなくなった。心忙しく立ちまわって、正月を迎える準備をしなければならない。
 しかし、不景気の暴風が吹き荒れている今、心の底から喜んで、新年を迎えられる人が、はたしてどれくらいいるだろうか。
 ふつうなら、煤掃き・注連飾りの用意・餅つき……、主婦などは「人に手足の十ばかり」の嘆を抱くのであろうが、今年は、「どうすれば年を越せるか」と不安を抱えている人が多いのではないか。

 「煤払い」とは、新年を迎えるために、神棚をはじめ家の中の煤や埃を払い清めることをいう。江戸時代には、十二月十三日に行なわれたが、今では日は定まっていない。寺院などでは、それぞれのしきたりに基づいて行なわれているようだ。
 「煤籠(すすごもり)」といって、煤払いの日には老人・子供・病人などは、別室に避けさせる。煤払いを避けて外出するのを「煤逃げ」といい、煤払いの後で風呂に入るのを「煤湯」という。

        汲みたての水うつくしき煤払     草 城
        老夫婦鼻つき合せ煤ごもり      花 蓑
        煤逃げの丸善に買ふ糊ひとつ     三十四
        銭湯や煤湯といふを忘れをり     桂 郎

        煤掃きの日や髪結ふて謗らるる     也 有

 煤掃きは、煤払いと同じ意。どの家でも、猫の手も借りたい煤払いの日に、きれいに髪を結い上げて、表を通るのは、どこかのお囲い者か何か。家の中では、目引き袖引き陰口をたたいているという、今とは全く違った江戸の町の風景が、眼に浮かぶようである。

 片付けるのが面倒な誰かさんは、
        煤掃きてしばしなじまぬ住居かな     許 六
 になってしまうからと、屁理屈をこねて、煤逃げが得意。もし、やったとしても、
        煤はきやなにを一つも捨てられず     支 考
 になることは必定である。

        旅寝して見しや浮世の煤払ひ     芭 蕉

 「漂泊の旅寝を続けていて、はからずも人々が忙しげに煤払いをするさまを目にしたことだ。もう世間は押しつまった歳暮になっていたのだな」の意。

 この句では、上五の「旅寝して」のひびいていく「浮世の」が眼目で、旅の途中で、煤払いを嘱目して、旅寝の自分と、煤払いの世間との二つの世界が、眼前に繰りひろげられた軽い驚きである。
 これは旅寝の境遇に身をまかせきって、世間を忘れがちであったが、煤払いという浮世の営みによって、はっきり自分の身の置き所を見せつけられたというその驚きである。
 常の人々の営みによって、自分の姿をはっきりさせられてしまった気持が、「浮世の」という発想を呼びさましたものであろう。
 

      歳月の綺羅の大壺 年用意     季 己