(先週の説教要旨) 2010年5月2日 杉野省治牧師
「主イエスに明け渡す」 マルコによる福音書14章3~9節
「重い皮膚病の人シモンの家」で、「事件」と言ってもよい出来事が起こる。一人の女が高価な香油を大量におしげもなく主イエスの頭に注いでしまった。「頭に香油を注ぐ」行為とは、メシア(油注がれた者)としてユダヤの王が就任する戴冠式の際に行われる儀式である。彼女は、象徴的な意味を込めてそれをまねてやったのかもしれない。しかし、決して遊び半分でというのではない。「純粋で非常に高価な」と表現されているのに重なるように、彼女自身「まじりけのない姿勢と心」でそれをやったのではないかと思われる。彼女の主イエスへの精一杯の思いがあらわされた行為といえよう。
そして、それは「壺をこわし」て行われた。わざわざ壊すこともない。だから、それは異常ともいえる極端な行動であり、計算や計画を寄せ付けない行為と受け取れる。その瞬間にあるものすべてを献げる。それは、彼女の「持ち物」を超えて、「彼女自身」を主イエスに献げる行為ともいえるような迫力を持っている。しかも、「こわす」という表現についてまわる「犠牲」や「痛み」を伴っている。
しかし、おそらく当人にとって、その瞬間は、そうしたことなどをいろいろ考えたあげく、決断に踏み切ったというのではなく、思わず行ったのに違いない。8節の「この人はできる限りのことをした」とあるが、岩波訳では「この人は思いつめていたことをしたのだ」とも訳されている。あれこれ考え始め、論理的整合性がどうのこうのと言いはじめたら、からだは動かないのがしばしばである。彼女はそうせずにはおれないほどの内から湧き溢れる喜びを感じていたのだと思う。そこに、弟子たちと彼女との間にあるギャップがあらわになってきたのだ。
人々は彼女の行為に非難をあびせる。その非難は、お金の無駄使いの面にとどまらず、彼女の「貧しい人たち」を顧みる配慮の足りなさにまで向けられていた。人々は、当然の反応、正当な批判を彼女に向けたのだった。確かに人々の彼女への非難には正当性があった。だからこそ、主イエスも「なぜ困らせるのか」と言われたのだろう。「正論」であればこそ、返答に窮するのである。しかし、主イエスは、計算された正論よりも、常識を打ち壊すほどの大胆な「献げる行為」の方を喜ぼうとされた。「この女はできる限りのことをしたのだ」(8節)。それを、主イエスは「私によいことをしてくれた」(6節)と評価し、受け入れられる。「貧しい人々に施すか、主イエスに献げるかの二者択一」の問題ではない。「貧しい人たち」を顧みる奉仕は、弟子たちの務めとして適切になされるべきだろう(7節)。
彼女の行為は、「無駄遣い」とも取れるほどに、無謀であったかもしれない。しかし、この一瞬の「事件」が主イエスを「メシア」と証し、「埋葬の準備をしてくれた」(8節)という仕方で「十字架の死」に仕えることになるからこそ、主イエスは喜んでそれを受け入れられたのである。
彼女は主イエスの愛に対して、何としてもそれに応えたかった。神の愛を知った喜びがそうさせたのだ。そして、そのことが「十字架の死」に仕えることへとつながっていたのだ。主イエスはかつて、ある律法学者に対して第一の戒めとして、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われた。彼女は主イエスに対して心と精神と思いと力を尽して、香油をささげたのだ。いや、彼女自身を献げたのだ。