平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

講壇を飾る花10年5月16日

2010-05-19 16:46:57 | 
講壇を飾る花 2010年5月16日
あってあたりまえ、なくてはなにか寂しい。
だからと云って皆が注目しているかと云うと
そうでもない。でも、見て心なごませる人もいる。
講壇の花の立場はビミョーですね。
花はなんと思ってるのかしらね。

月と金星、大接近

2010-05-18 10:38:54 | 風景
2010年5月16日午後8時13分、
平塚の地から北西の方角に見えた
二日月の上弦の月と金星。
はじめは金星を飛行物体かと思ったが、
しばらく観察していて金星と判明した。
月と金星の大接近は珍しいとのこと。
また、肉眼ではっきり見えることも珍しいそうです。
よく晴れた澄んだ夜空という好条件が幸いしたようだ。
しばし、夜空を眺めていた。
それにしても私の愛用のフツーのデジカメで、
よくぞ撮れたものだ。

ペンテコステってナ~ニ?

2010-05-17 07:08:56 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年5月16日 ペンテコステってナ~ニ?

 「今年の5月23日はペンテコステの日です」と言っても「それって何?ヘンテコな日?」なんて言われそうです。これはギリシア語の50日目から来る言葉です。「何から数えて50日目なの?」「そこです、ポイントは。旧約聖書ではユダヤ教三大祭りの一つである過越しの祭りから数えて50日目。だから『五旬節』とも言います。この日、モーセがシナイ山で十戒を中心にした律法を与えられたので五旬節をユダヤ教の誕生日としています」。

 「では、新約聖書ではどうなるの?50日目は」。「それは、イエス・キリストの復活から数えて50日目となります」。「その日は何か特別なことがあったんですか?」「使徒言行録2章をお読み下さい」。「ケチ、教えてくれたっていいじゃん」(なぜか突然横浜弁)。「いやいやどうも。直接聖書を手にとって読んでもらいたくて、ちょっとその……。実は、特別なことってのは(突然くだけた話し方になる)、聖霊、すなわち目に見えない神の愛の力が、祈っていたイエスの弟子たちに降ったということなんだよ。その後、聖霊の働きによって弟子たちがイエスの復活の証人として立ちあがり、キリスト教会が誕生することになるきっかけになったんだよ」。「じゃあ、教会の創立記念日ってこと?ペンテコステというのは」。「そう言ってもいいでしょう(また丁寧な言い方に戻る)。教会が誕生し、キリスト教が生まれた日です」。

 「その日、バプテスマを受けた人が三千人もあったと書かれているよ」(2章3節)。「あっ、読んでくれたのね(またまたくだけた調子になる)。うれしいな。そうなんだよ、初穂なんだよ。もともと五旬節には農業的意味もあり、刈り入れの最初の日から最後までが50日だったんだ」。「いろいろ関連しているんだね、面白そう」。「興味がわいたら、ぜひ聖書を読んでみてね。わかんないとこあったら教えるよ」。

庭の小鳥

2010-05-14 20:09:12 | 風景
やっととらえた小鳥の撮影。
毎朝、やってくる小鳥たち。
愛着もわいてきて、なんとかして撮ろうと思うが、
私のごく普通のデジカメでは、
これが限界。近づくと飛び立つ。
うまく近づけたと思っても、動き回り
レンズが追いつけない。
といったことで、悪戦苦闘した結果の
一枚です。
ところで、この小鳥、なんという鳥なの?
ひよどり?スズメではないと思うが?


神の子にして人の子イエス

2010-05-13 06:48:20 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年5月9日    杉野省治牧師

 「神の子にして人の子イエス」  マルコによる福音書14章32~42節

 信仰を持つということは変わるということである。変わるはずである。その一つが祈る生活である。祈ることを知らなかった者が祈る生活に変わる。なぜなら、信仰に与った私たちは神に向かって祈ることが許されている。主イエスから、こう祈りなさいと教えられた主の祈りにも、まず始めに「天にまします我らの父よ」と祈るよう教えられる。また、祈りの最後は「主イエス・キリストの御名によって」と祈る。そのように祈ることが許されている。祈ることができる。祈る恵み、特権が与えられている。なぜ、そのように祈ることができるのか?それは、主イエスの十字架のゆえである。そのことを主イエスのゲッセマネの祈りから教えられたい。

 主イエスは、「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください』」と祈られた。ここに、人の子としてのイエスと神の子としてのイエスの祈りがある。ここに私たちの祈りの模範がある。私たちは誰に祈るかをはっきりさせなければならない。私たちは主イエスの十字架のゆえに救われ、神の子とされた。だから、私たちは天の父なる神に祈ることができる。そこには「あなたは何でもおできになります」という信頼がなければならない。そのような信頼なしに祈りは生まれてこない。この信頼が祈りの基盤である。「この杯をわたしから取りのけてください」。杯は十字架の血潮を象徴している。十字架の死を意味する。私たちは主イエスの十字架のあがないによって救われた。救われたものとして、祈ることができる。
 
 次に主イエスは「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られた。この祈りはキリスト教にしかない祈りである。他の宗教にはこの「しかし」がない。神がよしとなさることをしてください、私はそれを神から与えられたものとして感謝して受け取り、従います、という神への信頼があっての祈りである。なんとしても私の病気を治してくださいと祈るのもおかしいが、反面、なにも神に期待しないで、いっさいは神の御旨であるというのも祈りではない。神には何でもできるという深い信頼を持って、私たちは大胆に自分の求めを神に申し上げるべきである。
 
 もし、私たちが神を父と呼び得るなら、すべてのことに堪えることができる。私たちには理解できないことがたびたびあるであろう。しかし常に、「父の手はその子に無用の涙を流させない」ことは確かである。それを、主イエスはご存知であった。それがイエスの進んでいくことのできた理由であった――そして、われわれにとっても、またその通りである。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。この祈りに支えられてこそ、私たちもまたすべてを委ねて神を呼ぶことができる。「アッバ、父よ」と祈ることができる。

アヤメ

2010-05-12 09:15:39 | 
「いずれがアヤメかカキツバタ」という慣用句がある。どれも素晴らしく優劣は付け難いという意味であるが、見分けがつきがたいという意味にも用いられる。私にもよく見分けがつかない。ただアヤメはかわいた所に育つので、教会の庭のこの花は間違いなくアヤメ。
アヤメやカキツバタや花菖蒲は雨とよく似合う。

目標を持とう

2010-05-11 09:33:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年5月9日 目標を持とう

 「よりよく生きるために欠かせないものは何か。それはやはり、目標でしょう」と加賀乙彦氏(1929年生、精神科医、作家、カトリック信者)は『不幸な国の幸福論』(集英社新書 2009年)で書いている(217p)。皆さんは「目標」を持っていますか?「あなたの今の目標は何ですか?」と問われて答えられますか?それも「誠実に生きる」などのような抽象的なものではなく、より具体的な目標を持って毎日を希望を持って生きていますか?

 加賀氏はさらに「一度決めたからといってそれにこだわり続ける必要はありません。次第に体が衰え、去年できたことができなくなる老年期においては、むしろ、そのときどきの自分の体調や状況に応じてしなやかに目標を変えていったほうがいい」とも書いています。また「大切なのは、自分なりの目標をもち、最後の瞬間までそれに向かって生きようとする姿勢なのだ」とも言っています。

 加賀氏は『マイウェイ――認知症と明るく生きる「わたしの方法」』(太田正博ほか著)という本を読んで、その思いを強くしたそうです。太田正博さんは53歳の時、若年性アルツハイマー型認知症と診断された。日に日に記憶力が低下し、できないことが増えていくなかで、太田さんは絶望に飲み込まれ、うつ病になります。しかし、医師や作業療法士とトリオを組み、「認知症と明るく生きる」というテーマで講演活動を始めたのです。

 太田さんの転機となったのは、あるお年寄りが発した一言でした。「泣いても一日、笑っても一日、おんなじ一日なら笑っとったが、ましやろもん」。病気が進行するなかで、自分のできることを精一杯やり、今を楽しむ。講演活動によって同じ病気で苦しむ人やその家族が勇気づけられ、そのことが太田さん自身の生きるうえでの希望になっているという。

 他者と共に生きることが生きがいとなり希望となる。

川は泣いている

2010-05-08 12:10:55 | 風景
日本の都市の中でこれほどひどい風景はないであろう。
川の上に高速道路を造る。日本の大都市のあちこちに
見られる風景。東京の日本橋の上に架かる高速道路が
やっと最近問題視されるようになったが……。
川をただの下水道としか考えない感性と知性の貧困、
および経済と効率を追い求めた無残な結果。
川は泣いている。
横浜駅西口の近くの新田間川の西鶴屋橋の上から撮影。