平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

愛にとどまる礼拝

2010-05-27 12:10:09 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年5月23日    杉野省治牧師

 「愛にとどまる礼拝」  使徒言行録1章6~14節

 使徒言行録の冒頭において、主イエスが彼の弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と約束して昇天した後、最初に弟子たちがしたことは二階部屋に集まることだった。そこで彼らが行ったのは、敬虔なる平凡事ともいうべき行為、すなわち「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」のである(使徒1:14)。
 
 聖霊降臨の力と全世界に対する証人となるという約束が弟子たちを奮起させたのだとすれば、その直後に予期することは、使徒たちがより活動的な形で実際の反応を示すということではないだろうか。主イエスの革命的な活動の証言は、どのような方法で開始するのがふさわしいのだろうか。教会に求められる行動主義とは、たんなる息もつかせぬ忙しさとか激しい人間的な努力といったもの以上のことではないだろうか。主イエスの弟子たちは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18:1)と教えられた人々であった。祈りは使徒言行録に出てくる教会の主要な活動であり、それは他のすべての活動に優先するものであって、イエス・キリストによってこの世界に生じた出来事を言葉と行動によって証言しようとする教会の力の源泉となるものであった。祈りは、教会のひとつの「活動」というよりも、むしろ教会の生命そのものに関わるものである。

 私たちが神を礼拝するのは、功利的な目的や実用主義的な目的のためではない。そうではなくて、神に愛されているがゆえに私たちは神を礼拝するのだ。神は神であるがゆえに賛美されるべき存在であって、利用されるべき存在ではない。たしかに言葉に表現できないような神の恵みを礼拝の中で往々にして経験することがあるとはいえ、私たちはなにかを獲得するために神を礼拝するわけではない。礼拝は、愛のもとにとどまるという出来事である。ある神学者がキリスト教礼拝のこうした本質について「高貴な時間の浪費」と適切に表現した。かけがえのない祝福に満ちた時間とでもいえるだろう。
 
 私たちの祈りは、私たちの信仰に先行する。すなわち主日の礼拝行為は、私たちの神学的反省や月曜日以降の私たちの生き方に先立つものなのである。礼拝とは、ギリシア語の原意によれば「人々の仕事」を意味する。教会における私たちの礼拝は、この世界における私たちの仕事に先行するプレリュードであり、その源泉となる。私たちの生活は礼拝に始まって、礼拝に戻ってくる。言い換えるならば、私たちの生活は祈りに始まって、祈りに終わる。その間、いろいろなことがあるだろう。必ずしもよいことばかりではない。悲しいこと悔しいこと苦しいこといやなことなどもあるだろう。しかし、祈りに始まって、祈りに終わる信仰生活においては、すべてのことはこの祈りにはさまれている。祈りによってサンドイッチにされているがゆえに、苦しみは苦しみでなく、悲しみは悲しみで終わらないのである。祈りによって慰められ、励まされ、力を受けるのである。そして、立ち上がり、主のために用いられていくのである。

神の引き渡しのドラマ

2010-05-27 11:13:18 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年5月16日    杉野省治牧師

 「神の引き渡しのドラマ」  マルコによる福音書14章43~50節

 劇作家の別役実氏がある本の中で、「一つの集団は、一人の犠牲者を生み出すことによって完成される。つまり、その時、集団は論理的に構成されるのである」と書いている。この別役氏の言葉を私なりに解釈すれば、裏切り者は最初から存在するのではなく、一人の犠牲者が生れるためには、一人の裏切り者の存在が必要となる、ということなのではないか。劇作家の別役実氏の目には、兵士たちによって捕らえられている犠牲者イエスと、イエスを引き渡した裏切り者ユダとが舞台の上で交叉しながらドラマが進展しているように見えているのではないだろうか。

 イスカリオテのユダという人物が私たちの心をどこか捉えて放さないのは、ユダの裏切り自体にあるのではなく、ユダの裏切りが犠牲者イエスを生み出しているという、その相関関係に惹かれるからではないか。あえて言えば、イエスが犠牲者となるためにはユダの裏切りが必要であったということ。その意味では、イエスとユダ、それは表と裏として表裏一体だったのである。

 この「裏切り(引き渡す)」という言葉は、マルコ福音書では10回使われているが、ユダに対して5回、祭司長たちに対して2回、ピラトが1回、人の子(イエス)が「引き渡される」と受身形で2回使われている。これを見るとユダだけが「引き渡す(裏切り)行為」を行ったのではないことが分かる。これを図式化すれば、「ユダはイエスを祭司長たちに引き渡し」、続いて「祭司長たちはイエスをピラトに引き渡し」、そして最後に「ピラトはイエスを十字架に引き渡した」となる。

 このように「引き渡し」が人の手から人の手へと、つぎつぎと行われていることが読み取れる。受難物語は、実はユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡される出来事を描いているものなのである。ユダはその役割のはじめを演じているにしか過ぎないということだ。

 実はこの受難物語は聖書には書いてないが続きがある。それはユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡され、そして主イエスは十字架につけられたが、真実に言うならば「今もつけられている」。今も血を流しておられる。なぜなら、この私やあなたがピラトに続いてイエスを「引き渡している」からである。

 ところで、この「引き渡す」という言葉は、同時に「ゆだねる」、「任せる」という意味を持っている。むしろそちらのほうがこの場面では正確かもしれない。受難物語における一連の出来事は「ゆだねる」物語ともいえるのである。神の救いのドラマにゆだねるということである。神の救済のご計画が進められているということである。イエスの受難の表の舞台では、ユダ、祭司長たち、そしてピラトと群衆がイエスを十字架に「引き渡す」ドラマを演じている。しかし、見えない裏の舞台では神の救いのドラマが進行しているのである。「引き渡される」イエスが主役となって、もう一つの脚本、いわば神の救いの脚本に従ってドラマが進んでいるということである。目に見える人間の営みは今も悲喜こもごも続いている。しかし、見えないところでは、今も主イエスが十字架上で私たちのために血を流し続けておられる。ここに神の救いのドラマがある。ここに神の愛が示されている。この神の愛にゆだねる、ことこそが信仰なのである。