在日韓国人元BC級戦犯・李鶴来さん死去(4月2日東京新聞「こちら特報部」より)
「最後の一人」不条理訴え
在日韓国人元BC級戦犯の李鶴来(イ ハンネ)さんが先月、96年の生涯を閉じた。日本軍の捕虜監視員に動員されて戦犯として裁かれたうえ、戦後は「外国人」扱いされて援護の対象外に。処刑された同胞の無念を引き継いだ人生が残したものは…
…李さんの人生は苦闘の連続だった。日本支配下の朝鮮半島で生まれ、1942年、17歳のときに日本軍の捕虜監視員としてタイに渡った。当時の日本総督府は朝鮮や台湾の青年を動員し、約三千人がアジアの戦場に送られた。泰緬鉄道の建設現場に配属された李さんは英国や豪州の捕虜を監視したが、2年の契約が過ぎても帰らせてもらえず、終戦を迎えた。
待っていたのは連合国による戦犯法廷。捕虜虐待の罪で死刑判決を言い渡された。約8カ月、シンガポールの刑務所で死刑囚として過ごした後に減刑され、51年に東京の巣鴨プリズンに移された。翌52年、サンフランシスコ平和条約の発効で、李さんら朝鮮半島出身者らは日本国籍を失った。
日本人として戦争の罪を裁かれながら、「外国人」とみなされて日本政府の援護から排除される…。日本の元軍人・軍属に支給される恩給や遺族年金もない。差別的な扱いを許せず、55年、仲間と「韓国出身戦犯者・同進会」を設立。早期釈放や差別待遇の廃止、出所後の生活保障、同胞の遺骨送還など、日本政府に謝罪と補償を求めて奔走した。56年に釈放された後は祖国に帰ることを考えたが、日本に協力し民族を裏切った「親日派」とみられるのを恐れ、諦めた。
「何のための刑死か」晩年まで怒り
…捕虜収容所の末端で、上官の命令に従うしかなかった朝鮮の青年たちが裁かれた。朝鮮人BC級戦犯148人のうち、23人に死刑が執行された。
生前、李さんは「日本人戦犯の場合は自分の国のために死んでいくんだとまだ思えるのだろうが、韓国人の場合はそういう気持ちさえ持てなかった。だれのために、何のために死ななければならなかったのか」と語っていた。晩年も「刑死者に報いてほしい、不条理を正したい」と最後まで訴えていたという。
超党派の日韓議員連盟は特別給付金を支給する法案をまとめたが、成立していない。
…「同進会」を応援する会代表の内海愛子・恵泉女学園大名誉教授は「李さんに事態は動いたと報告できる日が一日も早く来るように、遺志を引き継いでいきたい」と話した。(4月2日東京新聞記事より抜粋)
李さんの配属された泰緬鉄道の工事は津田沼の鉄道第9連隊などが担当。「死の鉄道」と呼ばれた
泰緬(たいめん)鉄道と習志野市との関係は、「住みたい習志野」ブログでも触れたことがあります。
習志野歴史散歩:鉄道連隊のこと(今のJR津田沼駅周辺) - 住みたい習志野
鉄道連隊の歴史の中で忘れることができないのは、映画「戦場にかける橋」に描かれた泰緬鉄道(泰=タイと緬甸(めんでん)=ビルマ(ミャンマー)の間に通した鉄道)の建設でしょう。太平洋戦争のさなか、日本軍は進駐したタイからビルマに向けて、鉄道を建設します。タイ側からは津田沼で編成された鉄道第9連隊が、ビルマ側からは千葉で編成された鉄道第5連隊が建設を進めるのですが、大変な難工事となりました。また、これに使役した連合軍捕虜の扱いがひどく「Death Railway(死の鉄道)」と呼ばれ、戦後は日本軍の戦争犯罪として追及を受けることになるのです。(上記ブログ記事から抜粋)
4月3日TBSテレビ「報道特集」でも李さんのことが報道されました
(李さん)
(BC級戦犯は)日本のために尽くした親日派、そして悪いことをして戦犯にもなったということで村八分もいいところ、韓国では。いの一番に家に帰って親孝行をしたいと思ったが、かえって逆に(両親が)村八分にされては大変だという(ことで韓国に帰れなかった)
(生前BC級戦犯救援運動に尽くし、私財を投じた今井知文医師)
この度の戦争で一番馬鹿を見たのは貴方たちだ。日本人の一人として申し訳ない。
BC級戦犯とは?
戦勝国が行った極東国際軍事裁判で、条例の中で戦争犯罪の類型としてA〜C項を規定
A項「平和に対する罪」 ドイツ・ニュルンベルグと日本・東京で裁かれました。1978年に靖国神社にA級戦犯を合祀していたことが翌年明らかになり、以後天皇は靖国参拝をやめました。しかし総理大臣や国会議員の中には、「公式参拝」をする人たちもいて、今も論議を呼んでいます。
B項「通例の戦争犯罪(戦争法規違反)」C項「人道に対する罪(捕虜虐待など)」は各地の連合国軍と犯罪が行われた各国で裁判が行われました。
日本の戦後補償がいまだにキチンとなされていない
「従軍慰安婦」「徴用工」はニュースでよく報じられますが、その他にも戦後補償がキチンとなされていない問題がたくさんあります。
BC級戦犯への補償の問題
だいぶ古い話ですが、「私は貝になりたい」という映画がありました。
上官の命令で行った捕虜の殺害が「戦争犯罪」とされ、死刑になった床屋さんの物語です。
「せめて生まれ変わることができるのなら…いいえ、お父さんは生まれ変わっても、もう人間になんかはなりたくありません。人間なんていやだ。牛か馬のほうがいい。いや、牛や馬なら、また人間にひどい目にあわされる。どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ深い海の底の貝にでも、そうだ、貝がいい。貝だったら深い海の底の岩にへばりついているから、何の心配もありません。兵隊にとられることもない。戦争もない。房江や健一のことを心配することもない。どうしても生まれ変わらなければならないのなら私は貝になりたい」という遺書の文句、なんともせつないです。
李さんが「死刑判決」を受けたのも、このBC級戦犯としてであり、李さんが亡くなるまで「日本兵として戦場に送られ、戦犯にされてしまったのに、日本政府からは何の補償も与えられない不条理」を訴えていました。
植民地の人たちは「日本人」として戦争に参加させられたのに、恩給も遺族年金ももらえない
「忘れられた皇軍」(大島渚監督)というドキュメンタリーが、このことを取り上げていました
特攻隊員にされ、命を落とした朝鮮の人たち
日本から無視され、韓国でもかえりみられない存在になっています。悲しいことです。
(17人のアリラン特攻隊員)
日本で被爆した韓国の人たちは、1978年まで「被爆者手帳」をもらえなかった
(被爆朝鮮人徴用工)
韓国人被爆者の孫振斗(ソン・ジンドウ)さんが、長い裁判闘争の末1978年に「在韓被爆者にも被爆者健康手帳を交付」させるようにしました。
孫振斗裁判 (no-more-hiroshima.com)
韓国人原爆犠牲者慰霊碑も平和公園の外にしか設置できなかった
1999年まで、平和公園の中に入れてもらえなかった「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」
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