新型コロナ対策特別措置法と感染症法の改正案について、「『懲役や罰金』などの刑事罰ではなく、『過料』の行政罰にし、過料の額も当初案より低くする」ということで自民党と立憲民主党が合意した、というニュースが流れていますが、本当にそれでいいのか?ということで「住みたい習志野」ブログ読者の方から投稿をいただきました。きちんとした法律論から問題点をハッキリさせてくれています。是非お読みください。
刑事罰削除など与党が譲歩 特措法と感染症法の修正合意
新型コロナ対策の特別措置法と感染症法の改正案の修正をめぐって、自民党と立憲民主党の幹事長が会談し、入院を拒否した人への刑事罰の削除や罰則の軽...
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「守れない法」は法なのか?
コロナ禍の中、入院命令に応じない者は処罰すべきではないか、とか、夜8時に閉店しない飲食店を処罰するようにできないか、といった声を聞くようになりました。しかしまた、「夜8時で閉店では、コロナで死ぬ前に首吊って死ぬしかねぇよ」と嘆く声も真実の叫びでしょう。緊急事態である一方で、罰則をどこまでふり回すべきか。本当に罰則万能主義でいいのか、ということをご一緒に考えてみたいと思います。
「コロナにかかっているのを承知で、病院から抜け出す者がいるかも知れないから罰則が必要だ」というのは間違い。現行刑法で対処できる。
ところで本題に入る前に、自分がコロナにかかっているのを承知で、病院から抜け出す者がいるかも知れないから罰則が必要だ、という話にはまずクエスチョンを付けておきたいと思います。昨年3月に愛知県蒲郡市で、コロナに感染した男性が「今からウイルスをばらまいてやる」と予告し、複数の飲食店を訪れてホステスらに感染させたという事件がありました。
この事件は結局、男性がコロナで死亡してしまったため立件に至りませんでしたが、警察は傷害罪と偽計業務妨害罪の両方から捜査をしていたようです。自分が感染性のそういう病気であることを知っていて、わざと「ばらまいてやる」と公言して店に行ったのですから、傷害罪が成立するのです。
傷害罪(刑法204条)
人の身体を傷害した者は,15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
そうであれば、こういう不心得者には特別措置法でわざわざ特別の規定を設けなくても、現行刑法で充分処罰できることになります。
守りたくても守れないような法は、法と言えるのか?
夜8時で営業禁止。いっとき騒がれたホストクラブやパチンコ屋ばかりでなく、今回は駅前で細々と親父さんがやってきたおでん屋まで一律だと言います。こうなると所詮、日銭商売。「コロナで死ぬ前に首吊って…」という話も切実なものがあります。法律とは、生業を失って露頭に迷ってでも守ってみせなければならないものなのでしょうか? 守りたくても守れないような法は、法と言えるのでしょうか?
法律を厳格に守ったため飢え死にしてしまった判事
こういう問題を考えるときによく引き合いに出されるのは、山口判事事件です。戦後間もない昭和22年(1947)10月、東京地方裁判所の山口良忠判事(34歳)が栄養失調のために死亡したというニュースは世間を騒がせました。
ご存知ですか? 10月11日は配給だけで生活していた山口良忠判事が栄養失調で亡くなった日です | 文春オンライン
当時はまだ、戦時中の「配給制度」が続いており、米はもちろん味噌、醤油、砂糖などからマッチ、石鹸、ちり紙など日用品まで、配給でないと手に入りませんでした。各家庭にあらかじめ、人数分だけの引換券が配付されており、これを商品と引き換えるようになっており、それ以外の手段で手に入れることは法律違反でした。
しかし、米どころか「代用食」と呼ばれたサツマイモ、カボチャ、トウモロコシなどですら遅配や欠配が続く状況に陥ります。配給を頼っていたのでは、飢え死にするしかないのは明らかでした。国民は法律違反とわかっていても、「闇市(やみいち)」と呼ばれた市場や都市近郊の農村に買い出しに行って、法外な闇値(やみね)で食料を手に入れるしかなかったのです。現金がない人は、なけなしの衣類と物々交換をお願いしますが、農家も良い顔はしてくれません。こうして習志野あたりで泣きの涙でわずかな闇米を手に入れ、京成電車に乗り八幡のあたりまで来たら経済警察が乗り込んできた。捕まるのがいやで、窓を開けて江戸川の河原に捨ててしまった、などという悲しい話は、当時いくらでもあったのです。
こうした中で山口判事は、闇で摘発された者を「食糧管理法」違反で裁く立場にありました。そして、自分が法律違反の食料に手を出すことはできないと心に決めたのでした。正規の配給食料だけで生きようとし、しかも少しでも妻子に食べさせてやろうとした結果、命を落としてしまったのでした。
しかし、一般人も山口判事のように崇高な理念を持って生きよと言われても、それは無理というものです。大雑把に言ってしまえば、常識の世界で守りようがない法は、守られなくても仕方がない。これが大勢の法律家の見解です。
「期待可能性」と「緊急避難」
ただ、これでは大雑把すぎて法律論になりません。そこで法律家は「期待可能性がない」とか「緊急避難だ」ということを言います。その辺ももう少し紹介しておくことにしましょう。
「期待可能性」とは、「犯人が犯行時に、適法な行為に出る余地があったか(そう期待することができたか)」ということです。
(期待可能性)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9F%E5%BE%85%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7
もし、適法な行為に出る可能性がなかったとすれば、その犯人を責めるのはかわいそうだ、犯罪とすべきではない、ということになります。言い換えれば、落ち着いて考えればいくらでも法律を犯さずに済んだのに、あえて違法な行為をしたからこそ犯罪として糾弾されるのです。例えば、刑法第104条に証拠隠滅の罪というのがあります。他人の刑事被告事件に関する証拠を隠滅,偽造,変造し,または偽造,変造の証拠を使用した者は2年以下の懲役または20万円以下の罰金に処する、というのですが、「他人の」とあるように、自分の刑事被告事件に関する証拠隠滅は罪にならないわけです。なぜ、自分の刑事被告事件に関する証拠隠滅は罪にならないのでしょう。自分にとって都合の悪い証拠を隠滅してしまうことは不道徳なことかも知れないが、むしろ人間の弱点として自然なことだとも言えます。自分に都合の悪い証拠をわざわざ残しておくようなことに期待可能性がないから、それを隠滅しても犯罪にならないのです。
このような考えに立ってコロナのことを考えるならば、店を閉めて首を吊るしかない人に、そこまでして法の遵守を求めるのか、と言われれば、そんな期待可能性は非常に小さいということになるでしょうね。
緊急避難。形式的には違法でも「不正ではない」ので違法とは言えない
もう一つは「緊急避難」です。
(緊急避難)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8A%E6%80%A5%E9%81%BF%E9%9B%A3
法律は平常の場合を想定して作られていますが、実は異常な場合にはモードが変るようにできています。その代表が「緊急避難」と、サスペンス劇場でおなじみの「正当防衛」です。正当防衛とは、相手が日本刀をかざして襲いかかってきた場合、逃げる手段も防ぐ手段もないとしたら、反撃して相手を殺したとしても犯罪にならないという話ですね。「不正 対 正」の関係とも言われます。これに対して緊急避難は、例えばこちらに暴走してくる車から逃れようとして、関係ないお宅の門を壊し、逃げ込むような場面です。器物損壊や建造物侵入は成立しません。しかし、門を壊されたお宅は、不正なことはしていません。逃げようとするこちらも正、門を壊されたお宅も正ということで、「正対正」の関係になります。そこで、正当防衛よりも緊急避難の方が成立しにくくなっていますが、この図式をコロナ禍に当てはめれば、コロナの蔓延を防ぐために閉店を求めるのも正、しかし生きていくためには少しでも店を開けて稼がなければならないのも正なのです。
緊急避難(刑法第37条)
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。
法律家はこうした理屈をつけて、形式的には違法であっても本当に違法とはいえない場合という「逃げ場」を作ろうとしてきたわけです。
法律を知らない「自粛警察」は徳川時代や戦争中の「密告者」と同じ
ところが困るのは、世の中、こうした理屈を承知している法律家ばかりではないことです。世に「自粛警察」などと称して、「マスクをしていない奴がいる」などと、ただただ形式的違反だけを大声であげつらう御仁(ごじん)がいる。徳川時代の、五人組の密告制度の名残りなのでしょう。戦争中には、歌手の淡谷のり子がパーマをかけている(パーマは一般に禁止でしたが、芸能人は許されていました)と言って、淡谷邸に投石したり、火をつけるぞと脅したりした奴がいたそうですが、その末裔(まつえい)なのでしょうね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E3%82%8A%E5%AD%90
戦時下で多くの慰問活動を行い「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、その後の第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。(Wikipedia 淡谷のり子 より)
日本ではまともな法学教育が行われない。だから罰則万能主義に走ってしまう
それに日本では、中学校、高等学校でも、お世辞にもまともな法学教育が行われているとは言えない。だいたい校則など、社会科の先生ではなく体育の先生が、生活指導と称して所管している。民法も刑法もなく、憲法の初歩の話だけしてお茶を濁している。そんな状況ですから、何が何でも字面だけ考えて「違反は違反だ」などと言い張ることしかできない。そして罰則万能主義に走ってしまいます。違反という以上、立法趣旨は何なのか。立法趣旨に照らして、わずかの違反でも許さない趣旨なのか、それとも多少の違反は許容範囲なのか、などという議論にはついて来られない。そういうお寒い状況があるわけです。こういう御仁が、夜8時を過ぎてのれんを仕舞い、馴染みの客だけ残して営業しているおでん屋でも見つけようものなら、鬼の首でも取ったかのように「違反している店を見つけました」と市役所に電話をするわけですね。困ったものです。
議論の詰めがなく、拙速に決められた特措法改正
以上に見てきたように、守りたくても守れない法、守りようがない法というものは、守れないとしても仕方がありません。罰則だというなら、こちらも期待可能性なし、緊急避難、という主張をしてやるだけですが、今回の特措法改正審議を見ていると、こうした議論の詰めがなく、大変拙速な話をしているように思われます。
コロナ禍では、公権力の規制のほか、損害賠償など民事の問題もある
なお、今日見てきたのは、「午後8時以降の営業は禁止」「守らないなら罰則」という公権力の規制との関係を言っています。忘れてはいけないのはもう一つ、「お前の店で飲食したら、コロナに感染したじゃないか。損害賠償しろ」とか、従業員が感染してしまった、労災として補償しろ、といった民対民の関係、民事問題です。コロナ禍は天災ですが、しかし地震や落雷といった予見可能性が少ない天災とは違って、既に1年あまり、どういう状況で感染が広まり、どうなると危険なのかという情報がある程度わかっているのですから、それを守らずに来店客が感染したり従業員が感染したという場合には、当然損害賠償の話も出てくるでしょう。無理して店を開けたら、かえって損害賠償する羽目になってしまった、ということもあり得ることは忘れてはいけません。
今日は、「守れない法」は法と言えるのか、というお話でした。