入院の日が来ました。
入院は、絵の仲間が手伝ってくれました。両親は高齢で、運転をたのめません。
弟にほとんど全てを頼むことにしましたが、病院が遠いので、他の人にも頼めたらいいと思い頼んでみました。
すると快く引き受けてくれた方がいたので、助かりました。
入院、手術、退院の三回、東京まで来てもらうには、大変な苦労をおかけすることになります。
その度に、私の家から車で来るには、高速を使っても2時間半がかかります。
だから、母には手術の日だけ来てもらい、それ以外は弟に頼みました。
私は一人ものなので、こうした時は妻や子供がいる人はいいですね。
入院は、21日(金)でした。
個室は特別料金がかかります。一日2~3万円かかるようなことを聞きましたが、私は庶民なので4~6人部屋でお願いしました。幸い、4人部屋でしたが、前から入っていたのは、一人だけでしたので、とてもゆっくり使えて楽でした。
手術は、24日(月)です。
土日は、待つだけという感じです。
日程表は、一週間になっていて、手術をしてから4日で退院とのことです。
看護師さんはそれが当たり前のように考えていて、手術後の状況によっては、退院が長引くということを考えていません。
入院初日にいろいろ説明を受けて、一通り聞いていると、聞き終わったときには、もう全て終わったと言う気がするほど、シュミレーションがなされました。
手術後のいろいろな予定まで、全てです。
ーーーーーーーーーーーー
手術の日は、母と弟が来てくれることになっていましたが、東京にいる伯父叔母も来てくれました。
これは、良かったなと思いました。家族だけだとあまり話すこともないので、待っている間が暗く沈んでしまいます。誰か少し気楽な人がいた方が、待っている間の時間がお話しすることで、気がまぎれるのです。
家族がいることは、手術の途中で、なにか起こった時に説明と相談をするためだそうです。そして、手術後の説明を受けるためです。成功したのか、手術後の心配することなど。だから、来なくてもいいよと言ってはいましたが、やはり必要なようです。
完全看護だから、付き添いは必要ありませんと説明を受けたので、夜は看護師さんたちが面倒をみてくれます。
手術の時間を待ちました。
叔母さんが、「私なんか何回も手術をしているんだから、それでもこうして元気でいられるんだから、大丈夫よ」と励ましてくれました。こういうときは、経験者がそういう話をしてくれるのは、心強いです。
朝、手術を担当する先生が顔を見せてくれました。私が担当します。「安全のために大きく切りますからね」とおっしゃいました。
そして、「では、時間になったら手術室で会いましょう」と言われました。私は「お願いします」と頭を下げました。この先生が手術をしてくれるのか、ベテランで頼りになりそうな先生なので良かったなどと、勝手な感想を持ちました。
しかし、手術する先生は主治医ではなく、他の先生だと言う点が不思議でした。この病院では、手術をする先生は、二日前に決まります。だから、土曜日に言われたのです。手術の時間も土曜日のお昼頃告げられました。この時間が前もってわからないと、家族に来てもらう時間に関係するのです。家から2時間半かかるので、道が混むことも考えると、家を早めに出る必要も出て来ます。私の場合は、お昼頃が予定時間でした。
手術は一人でするのではなく、三人くらいが関わるのだそうです。でも執刀医という言い方で、中心になってやる先生という意味で一人の先生が挨拶に来ました。私の場合は、糖尿があるので、内科の先生にも立ち会ってもらうと言っていました。
時間になりました。私は3例目ということでした。3番目と言わず、3例目というんですね。
後で、知ったことですが、一日に10人の手術を行うそうです。手術室が2つなので、一部屋5人なんですね。
それだけ多くの人が手術を受けているのです。
私はベッドの上で、手術着に着かえると、頭もビニルの帽子を被り、紙パンツを履きました。
車椅子で運ばれ、手術室は6階でした。手術台は自分で上り、その後、点滴、血圧など何人もの人が私に必要なことを施していきます。そして、いつのまにか麻酔をかけられて眠ってしまいました。以前やったときは「眠くなりますよ」と言われた気がしましたが、今回は言われたのかどうか記憶にありません。ただ、いよいよ始まるなと思いました。すこしだけ人ごとのような気がしました。
感じた事は、いつもの手術室のあのライトと違うなということでした。
そして、次に気がついた時は、「終わりましたよ」でした。
私は朦朧としていましたが、はっきりわかりました。自分から聞いたのかどうか、「輸血はしないで済みましたよ」と言われました。良かったです。なぜなら、輸血の承諾書を書いた時、危険性が書かれてあったからです。
HIV,何とか肝炎など、何パーセントの割で危険があると書かれていたからです。
輸血をしなかったことは、その危険がなくなったことを意味します。
ーーーーーーーーーーーーーーー
当然ですがベッドに寝かされたまま部屋に戻り、問題の時間が始まりました。
私が夢でうなされた問題の時間です。ただ、想像と違ったのは、次々とやることがあって、看護師とお医者さんがたが来たりして、こんなにいろいろ忙しいのかということです。手術が終わると、伯父叔母が帰りました。そうなのです。伯父叔母は私の母と弟のために役に立ってくれたのです。私に無事に終わって良かったねと言い、お大事にと挨拶して帰りました。
私は、有難うございました。ということができました。
あれっと思ったのは、まず、声が出ることでした。
少なくとも声がかれると思っていたので、そうならないことがやはりここは日本一の病院なので、上手いのだなということでした。心配したことが、ほとんど起こらず、100パーセントを目指しますと言う事が、本当だと思いました。
手術してから3時間は動かないでくださいと言われていました。それは、ちょっとつらいことでした。
がっちり固められて、動けないようにもしてあったと思います。まるで、重い鎧を身に付けたようでした。
その間、入れ替わり立ち替わり先生たちが現れました。内科の先生も何科だかわからない先生方も、とにかく初めて見る先生たちが、それぞれの分担があるのか、見に来るのです。
そして、みんなそれぞれ、大丈夫だなと言って帰るのです。私は呆気に取られていました。
麻酔がきいているのでしょう、痛みは感じませんでした。切れたら痛いのだろうと思いましたが、結局、最後まで痛みはほとんど感じませんでした。
3時間が過ぎた時、初めてベッドを上げて、水を飲まされました。この水が問題のようです。
飲んでみて、あまり飲み込めないのを感じましたが、それでも飲みました。すると、浸みませんか?と問われました。
特に浸みませんと答えました。飲み込めない人、浸みて咽る人がいるそうです。じゃあ、大丈夫だねと言われました。
上体が起きると、お尻が楽でした。それで、しばらく起きたままいましたが、同じ状態でいると疲れてきます。
それで、また倒してもらいました。
それからが、大変です。何が大変かと言うと、唾でした。痰が絡むのです。何回か息をすると痰が絡む。それを取らないと苦しくて呼吸が苦しいのです。しかし、喉を手術しているので、刺激をしてはいけないらしく、がーといって痰を出すのはなるべくしないでほしいと言われ、しかたなく唾だけを頻繁に出すように心がけました。
この痰唾は、麻酔をするときに、管を通したため、喉を刺激して、荒れるらしいのです。そのために出るとのことでした。
右手は点滴、左手は血圧が付いてました。だから、自分で口のところまで、手を持って行くことができません。
それで、弟に口を拭いてもらいました。何回も何回もです。
唾を拭きとるのは、他人がやると難しのだなと思いました。出した唾がもう一度つくととても嫌なので、拭き取るようにとって欲しいのですが、こちらが望むようにはいかないのです。
弟は、母を連れて帰らなければなりません。それで何時までいてくれたのか忘れましたが、その後は自分でティッシュを取れるようにしてもらいました。幸い血圧を測る器具はその時点で取り外してもらえたので助かりました。
完全看護とはいえ、傍にいてくっついてティッシュの世話まではしてくれません。そう考えると、手術の後の一晩だけは付き添いがいるべきではないかという気がしました。
手術の後で、首はがっちり固められた状態で、自由に物を探せません。だから、ティッシュと看護師さんを呼ぶスイッチを左手で手探りで探します。それがすぐに掴めない時はとても困りました。
また、足にマッサージ機がついているのです。エコノミー症候群になることを防ぐ器具なのだそうです。
だから、足も固められているような感じです。そして、おしっこの管がついています。
そんな状態で、朝まで過ごしました。
一番苦しかったのは、痰唾でした。このために眠ることができませんでした。
唾は拭いても、やはりごっくんという飲み込む行為はしてしまいます。その度に苦しくなります。
看護師さんが「少し眠れるように痛み止めをしますからね」と言ってくれました。私は筋肉注射だと思っていましたが、点滴の中に入れるから痛くありませんよと言いました。今は、筋肉注射はしなくなりましたとのことです。
ただ、この痛み止めは、痛みを感じなくさせてくれたのでしょうけれど、眠気は失敗でした。
これは拷問です。眠くなるのですが、痰が苦しくて起こされるのです。眠くて朦朧とした中で、起こされるという状態です。
お分かり頂けるでしょうか。それで、苦しみました。
ティッシュの箱を二つ使いました。一つは使いかけでしたが、それでも小さめの箱の二箱分は使いました。ゴミ箱は一杯になり、一度捨ててもらいましたが、また一杯になりました。
朝方になって、やっとティッシュが必要なくなりました。
途中、看護師さんを何度も呼びました。同じ格好をしていると、腰が辛くてどうにもならないので、寝返りを打ちたいのです。ただ、首が固められているようで、思うように寝返れず、少し向きを変えては、腰の下にバスタオルを入れてもらいました。
この時も誰か付き添いがいれば、看護師さんを呼ばなくても済むと感じました。
寝返り、ベッドの角度を変えてもらう、ティッシュの箱の位置、ゴミ箱の位置、起こしてもらって水を飲む、いろいろあります。そして、途中で看護師を呼ぶスイッチがわからなくなり、柵にしばりつけてもらい、わからなくなっても探せるようにしてもらいました。
これが、手術後の一晩でした。とにかくいつまで経っても世が明けないのです。
ここ数年で一番長い夜でした。
それでも、朝方になると痰唾が少し楽になった分、眠ることができたのは幸せでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
つづきます。
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入院は、絵の仲間が手伝ってくれました。両親は高齢で、運転をたのめません。
弟にほとんど全てを頼むことにしましたが、病院が遠いので、他の人にも頼めたらいいと思い頼んでみました。
すると快く引き受けてくれた方がいたので、助かりました。
入院、手術、退院の三回、東京まで来てもらうには、大変な苦労をおかけすることになります。
その度に、私の家から車で来るには、高速を使っても2時間半がかかります。
だから、母には手術の日だけ来てもらい、それ以外は弟に頼みました。
私は一人ものなので、こうした時は妻や子供がいる人はいいですね。
入院は、21日(金)でした。
個室は特別料金がかかります。一日2~3万円かかるようなことを聞きましたが、私は庶民なので4~6人部屋でお願いしました。幸い、4人部屋でしたが、前から入っていたのは、一人だけでしたので、とてもゆっくり使えて楽でした。
手術は、24日(月)です。
土日は、待つだけという感じです。
日程表は、一週間になっていて、手術をしてから4日で退院とのことです。
看護師さんはそれが当たり前のように考えていて、手術後の状況によっては、退院が長引くということを考えていません。
入院初日にいろいろ説明を受けて、一通り聞いていると、聞き終わったときには、もう全て終わったと言う気がするほど、シュミレーションがなされました。
手術後のいろいろな予定まで、全てです。
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手術の日は、母と弟が来てくれることになっていましたが、東京にいる伯父叔母も来てくれました。
これは、良かったなと思いました。家族だけだとあまり話すこともないので、待っている間が暗く沈んでしまいます。誰か少し気楽な人がいた方が、待っている間の時間がお話しすることで、気がまぎれるのです。
家族がいることは、手術の途中で、なにか起こった時に説明と相談をするためだそうです。そして、手術後の説明を受けるためです。成功したのか、手術後の心配することなど。だから、来なくてもいいよと言ってはいましたが、やはり必要なようです。
完全看護だから、付き添いは必要ありませんと説明を受けたので、夜は看護師さんたちが面倒をみてくれます。
手術の時間を待ちました。
叔母さんが、「私なんか何回も手術をしているんだから、それでもこうして元気でいられるんだから、大丈夫よ」と励ましてくれました。こういうときは、経験者がそういう話をしてくれるのは、心強いです。
朝、手術を担当する先生が顔を見せてくれました。私が担当します。「安全のために大きく切りますからね」とおっしゃいました。
そして、「では、時間になったら手術室で会いましょう」と言われました。私は「お願いします」と頭を下げました。この先生が手術をしてくれるのか、ベテランで頼りになりそうな先生なので良かったなどと、勝手な感想を持ちました。
しかし、手術する先生は主治医ではなく、他の先生だと言う点が不思議でした。この病院では、手術をする先生は、二日前に決まります。だから、土曜日に言われたのです。手術の時間も土曜日のお昼頃告げられました。この時間が前もってわからないと、家族に来てもらう時間に関係するのです。家から2時間半かかるので、道が混むことも考えると、家を早めに出る必要も出て来ます。私の場合は、お昼頃が予定時間でした。
手術は一人でするのではなく、三人くらいが関わるのだそうです。でも執刀医という言い方で、中心になってやる先生という意味で一人の先生が挨拶に来ました。私の場合は、糖尿があるので、内科の先生にも立ち会ってもらうと言っていました。
時間になりました。私は3例目ということでした。3番目と言わず、3例目というんですね。
後で、知ったことですが、一日に10人の手術を行うそうです。手術室が2つなので、一部屋5人なんですね。
それだけ多くの人が手術を受けているのです。
私はベッドの上で、手術着に着かえると、頭もビニルの帽子を被り、紙パンツを履きました。
車椅子で運ばれ、手術室は6階でした。手術台は自分で上り、その後、点滴、血圧など何人もの人が私に必要なことを施していきます。そして、いつのまにか麻酔をかけられて眠ってしまいました。以前やったときは「眠くなりますよ」と言われた気がしましたが、今回は言われたのかどうか記憶にありません。ただ、いよいよ始まるなと思いました。すこしだけ人ごとのような気がしました。
感じた事は、いつもの手術室のあのライトと違うなということでした。
そして、次に気がついた時は、「終わりましたよ」でした。
私は朦朧としていましたが、はっきりわかりました。自分から聞いたのかどうか、「輸血はしないで済みましたよ」と言われました。良かったです。なぜなら、輸血の承諾書を書いた時、危険性が書かれてあったからです。
HIV,何とか肝炎など、何パーセントの割で危険があると書かれていたからです。
輸血をしなかったことは、その危険がなくなったことを意味します。
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当然ですがベッドに寝かされたまま部屋に戻り、問題の時間が始まりました。
私が夢でうなされた問題の時間です。ただ、想像と違ったのは、次々とやることがあって、看護師とお医者さんがたが来たりして、こんなにいろいろ忙しいのかということです。手術が終わると、伯父叔母が帰りました。そうなのです。伯父叔母は私の母と弟のために役に立ってくれたのです。私に無事に終わって良かったねと言い、お大事にと挨拶して帰りました。
私は、有難うございました。ということができました。
あれっと思ったのは、まず、声が出ることでした。
少なくとも声がかれると思っていたので、そうならないことがやはりここは日本一の病院なので、上手いのだなということでした。心配したことが、ほとんど起こらず、100パーセントを目指しますと言う事が、本当だと思いました。
手術してから3時間は動かないでくださいと言われていました。それは、ちょっとつらいことでした。
がっちり固められて、動けないようにもしてあったと思います。まるで、重い鎧を身に付けたようでした。
その間、入れ替わり立ち替わり先生たちが現れました。内科の先生も何科だかわからない先生方も、とにかく初めて見る先生たちが、それぞれの分担があるのか、見に来るのです。
そして、みんなそれぞれ、大丈夫だなと言って帰るのです。私は呆気に取られていました。
麻酔がきいているのでしょう、痛みは感じませんでした。切れたら痛いのだろうと思いましたが、結局、最後まで痛みはほとんど感じませんでした。
3時間が過ぎた時、初めてベッドを上げて、水を飲まされました。この水が問題のようです。
飲んでみて、あまり飲み込めないのを感じましたが、それでも飲みました。すると、浸みませんか?と問われました。
特に浸みませんと答えました。飲み込めない人、浸みて咽る人がいるそうです。じゃあ、大丈夫だねと言われました。
上体が起きると、お尻が楽でした。それで、しばらく起きたままいましたが、同じ状態でいると疲れてきます。
それで、また倒してもらいました。
それからが、大変です。何が大変かと言うと、唾でした。痰が絡むのです。何回か息をすると痰が絡む。それを取らないと苦しくて呼吸が苦しいのです。しかし、喉を手術しているので、刺激をしてはいけないらしく、がーといって痰を出すのはなるべくしないでほしいと言われ、しかたなく唾だけを頻繁に出すように心がけました。
この痰唾は、麻酔をするときに、管を通したため、喉を刺激して、荒れるらしいのです。そのために出るとのことでした。
右手は点滴、左手は血圧が付いてました。だから、自分で口のところまで、手を持って行くことができません。
それで、弟に口を拭いてもらいました。何回も何回もです。
唾を拭きとるのは、他人がやると難しのだなと思いました。出した唾がもう一度つくととても嫌なので、拭き取るようにとって欲しいのですが、こちらが望むようにはいかないのです。
弟は、母を連れて帰らなければなりません。それで何時までいてくれたのか忘れましたが、その後は自分でティッシュを取れるようにしてもらいました。幸い血圧を測る器具はその時点で取り外してもらえたので助かりました。
完全看護とはいえ、傍にいてくっついてティッシュの世話まではしてくれません。そう考えると、手術の後の一晩だけは付き添いがいるべきではないかという気がしました。
手術の後で、首はがっちり固められた状態で、自由に物を探せません。だから、ティッシュと看護師さんを呼ぶスイッチを左手で手探りで探します。それがすぐに掴めない時はとても困りました。
また、足にマッサージ機がついているのです。エコノミー症候群になることを防ぐ器具なのだそうです。
だから、足も固められているような感じです。そして、おしっこの管がついています。
そんな状態で、朝まで過ごしました。
一番苦しかったのは、痰唾でした。このために眠ることができませんでした。
唾は拭いても、やはりごっくんという飲み込む行為はしてしまいます。その度に苦しくなります。
看護師さんが「少し眠れるように痛み止めをしますからね」と言ってくれました。私は筋肉注射だと思っていましたが、点滴の中に入れるから痛くありませんよと言いました。今は、筋肉注射はしなくなりましたとのことです。
ただ、この痛み止めは、痛みを感じなくさせてくれたのでしょうけれど、眠気は失敗でした。
これは拷問です。眠くなるのですが、痰が苦しくて起こされるのです。眠くて朦朧とした中で、起こされるという状態です。
お分かり頂けるでしょうか。それで、苦しみました。
ティッシュの箱を二つ使いました。一つは使いかけでしたが、それでも小さめの箱の二箱分は使いました。ゴミ箱は一杯になり、一度捨ててもらいましたが、また一杯になりました。
朝方になって、やっとティッシュが必要なくなりました。
途中、看護師さんを何度も呼びました。同じ格好をしていると、腰が辛くてどうにもならないので、寝返りを打ちたいのです。ただ、首が固められているようで、思うように寝返れず、少し向きを変えては、腰の下にバスタオルを入れてもらいました。
この時も誰か付き添いがいれば、看護師さんを呼ばなくても済むと感じました。
寝返り、ベッドの角度を変えてもらう、ティッシュの箱の位置、ゴミ箱の位置、起こしてもらって水を飲む、いろいろあります。そして、途中で看護師を呼ぶスイッチがわからなくなり、柵にしばりつけてもらい、わからなくなっても探せるようにしてもらいました。
これが、手術後の一晩でした。とにかくいつまで経っても世が明けないのです。
ここ数年で一番長い夜でした。
それでも、朝方になると痰唾が少し楽になった分、眠ることができたのは幸せでした。
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つづきます。
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