私の絵について、通りすがり様より、ご質問を受けました。
それで、少し関連することを書いてみようと思います。
この種類の絵は、普通の具象絵画を見るのと同じように見る訳にはいきません。
意味で見ても分からないからです。
何が書いてあるのかなと考えても無理です。
分かりやすく言えば、クラッシック音楽のバッハを聴くように見てくださいということです。私はバッハが好きです。それは、特徴がない旋律が繰り返されて、私にはとても口で音を再現することができません。でもそれがいいんですよね。
ベートーベンの運命は、私でもジャジャジャジャーンと言えます。田園も口で示せます。
しかし、バッハの無伴奏チェロソナタだったかな?かなり似ていて、いまどこを弾いているのか、私にはわからない程です。そんな感じのものだと思っていただくといいかなと思います。
ということは、色と形だけで楽しむのです。
その場合でも、造形要素は同じです。バランス、ハーモニー、リズム、アクセントなどです。
じゃあ、ただの模様ですか?と言う人もいます。そう思われるなら、それでも仕方がないでしょう。ただし、本人は絵画だと思っています。単なるデザイン的模様ではないと思っています。その辺はこだわりがあります。しかし、それも見る人の自由です。
この種の絵画が、県展の審査員の方たちには、抽象絵画として、入選と判断していただきました。だから、分かる人が見ても絵画という枠の中に入れていただけたということではあるのです。
ーーーーー
私の抽象の入り方はモンドリアンに似ているとどこかで話しました。
裸婦を描いているうちに、段々と形が人間の形では無くなって行ったのです。
それは、輪郭線よりも空間を表す線を重要に考えて描いて行ったからです。
そして、完全な抽象になってからは、形そのものが問題になりました。
人物を取り巻く空間と言うよりも、画面上の色と形です。
クラッシック音楽の作曲の場合、想像ですが、具体的な何かをイメージしてという場合もあるでしょうが、そうではなく、音そのものを問題にして作曲することがあると思います。
私は勝手にそう想像していますが、それと同じことと言えば良いでしょうか?
もし、作曲について間違っているとしたら、ごめんなさい。現実がどうかではなく、私の想像するクラッシック音楽の作曲の方法として、いまお話したことでお分かりいただけるでしょうか。色が葉っぱの緑というのではなく、緑その物の問題です。何か具体的な物の色ではなく、明度と彩度と色相という機械的な区分けでその色と色との組み合わせという捉え方です。それが、調和が合うとか、リズムがあるとか、考えながら絵を作って行くのです。
そこに、私が考える絵画という枠を踏まえながらということが加わります。
そんなことを考えながら、作品つくりをしていました。
私の考え方と似ているかどうかわかりませんが、主役脇役のある絵画ではないという見方をすると、ポロックも同じ傾向にあります。オールオーバーの絵画だと思います。
だから、作者がどんな気持ちで描いたか?と問われても、さあどうだったかな?と思い出せません。作者のそのときの精神状態とは関係ない作品です。むしろ哲学かもしれません。
色と形を使って、哲学をしているという感じもあります。
何が訴えたいの?と問われたら、こうした絵画ですということです。
特に主題もないのです。背景に喜びとか悲しみとか、思い出とか、何かがあるわけではないのです。
あるのは、画面の左上あたりのほんのちょっとした形があって、それを出発点にして、その後、どのように展開されるかを自分でも楽しんでいるのです。
色の美しさ、形のリズム感、形と形の絡み合い、色と色の配置でできるイメージ、そんなものが問題でした。
質問に対する答えになっていないかもしれませんが。説明を加えるとしたら、そういう感じですね。
それで、少し関連することを書いてみようと思います。
この種類の絵は、普通の具象絵画を見るのと同じように見る訳にはいきません。
意味で見ても分からないからです。
何が書いてあるのかなと考えても無理です。
分かりやすく言えば、クラッシック音楽のバッハを聴くように見てくださいということです。私はバッハが好きです。それは、特徴がない旋律が繰り返されて、私にはとても口で音を再現することができません。でもそれがいいんですよね。
ベートーベンの運命は、私でもジャジャジャジャーンと言えます。田園も口で示せます。
しかし、バッハの無伴奏チェロソナタだったかな?かなり似ていて、いまどこを弾いているのか、私にはわからない程です。そんな感じのものだと思っていただくといいかなと思います。
ということは、色と形だけで楽しむのです。
その場合でも、造形要素は同じです。バランス、ハーモニー、リズム、アクセントなどです。
じゃあ、ただの模様ですか?と言う人もいます。そう思われるなら、それでも仕方がないでしょう。ただし、本人は絵画だと思っています。単なるデザイン的模様ではないと思っています。その辺はこだわりがあります。しかし、それも見る人の自由です。
この種の絵画が、県展の審査員の方たちには、抽象絵画として、入選と判断していただきました。だから、分かる人が見ても絵画という枠の中に入れていただけたということではあるのです。
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私の抽象の入り方はモンドリアンに似ているとどこかで話しました。
裸婦を描いているうちに、段々と形が人間の形では無くなって行ったのです。
それは、輪郭線よりも空間を表す線を重要に考えて描いて行ったからです。
そして、完全な抽象になってからは、形そのものが問題になりました。
人物を取り巻く空間と言うよりも、画面上の色と形です。
クラッシック音楽の作曲の場合、想像ですが、具体的な何かをイメージしてという場合もあるでしょうが、そうではなく、音そのものを問題にして作曲することがあると思います。
私は勝手にそう想像していますが、それと同じことと言えば良いでしょうか?
もし、作曲について間違っているとしたら、ごめんなさい。現実がどうかではなく、私の想像するクラッシック音楽の作曲の方法として、いまお話したことでお分かりいただけるでしょうか。色が葉っぱの緑というのではなく、緑その物の問題です。何か具体的な物の色ではなく、明度と彩度と色相という機械的な区分けでその色と色との組み合わせという捉え方です。それが、調和が合うとか、リズムがあるとか、考えながら絵を作って行くのです。
そこに、私が考える絵画という枠を踏まえながらということが加わります。
そんなことを考えながら、作品つくりをしていました。
私の考え方と似ているかどうかわかりませんが、主役脇役のある絵画ではないという見方をすると、ポロックも同じ傾向にあります。オールオーバーの絵画だと思います。
だから、作者がどんな気持ちで描いたか?と問われても、さあどうだったかな?と思い出せません。作者のそのときの精神状態とは関係ない作品です。むしろ哲学かもしれません。
色と形を使って、哲学をしているという感じもあります。
何が訴えたいの?と問われたら、こうした絵画ですということです。
特に主題もないのです。背景に喜びとか悲しみとか、思い出とか、何かがあるわけではないのです。
あるのは、画面の左上あたりのほんのちょっとした形があって、それを出発点にして、その後、どのように展開されるかを自分でも楽しんでいるのです。
色の美しさ、形のリズム感、形と形の絡み合い、色と色の配置でできるイメージ、そんなものが問題でした。
質問に対する答えになっていないかもしれませんが。説明を加えるとしたら、そういう感じですね。