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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出3

2009-11-29 | 思い出
ピカソがライバルでは、友達が先輩たちに対して有難いと言っていることをすごいなと書きました。鬼の先輩たちに対して、そう思えるのはすごいことです。

ただ、よく考えると、私の判断の中で、おもしろい教訓があります。

山をうさぎ跳びで上がらされた話をしました。それは、だらだらの坂ですが、距離にして100メートルくらいでしょうか。もっとあるような気がするのですが、はっきり言えません。しかし、我々は巨人の星を見て育ちました。星と伴のグランドを何周もするうさぎ飛びを見ています。漫画の中のことですから、いくらでもできますが、あれを現実の世界でやらされたらたまりません。しかし、それに近いことをさせられました。
そして、その時に、先輩たちは歩いていて、我々1年生は最後までうさぎ飛びなのです。そして、途中で言われることは、「お前は一番にならなかったら、ぶっ飛ばすぞ!」でした。なぜ、私だけ?と思います。それは、いじめです。そして、もう一人、先ほど先輩に感謝していると言っていた彼は、「お前は、一番にならなければ、最初からやり直しだからな!」でした。

それが、どちらもみんなに聞こえているのです。だから、二人とも必死です。私は、みんなより成長が早かったので、体力がありました。だから、大抵は負けないのです。しかし、もう一人の彼は、割と小さくて、やや小太りでした。だから、一番になるのは大変です。私を負かさなければなりません。それで、必死でやりました。そして、私が負けたと本に書きました。
しかし、その裏には、私は負けてやったという気持ちもありました。それは、私が、負けても先輩たちは私をぶっ飛ばさないと思ったからです。彼が負けたらきっと最初からやり直しをさせたでしょう。
たぶん、先輩たちは私たちを発奮させるために、言っているのだとわかりました。そうしたことは、先輩たちの性格や、それまでの行動で、どうなるかを読むという訓練になりました。いろいろ考えると、そんなことまで学んでいたんですね。

先輩の中には、きついことを言う先輩と、優しい先輩がいます。厳しいことを言って、行ってしまう先輩の後で、途中から先輩が変わると、それじゃあ可哀そうだと思う先輩がいて、10回やれと言ったことを、8回でいいよと割り引いてくれる先輩もいるのです。そんなときに、先輩の性格を読んで、こんな時はどうすると楽に済むなどということも会得するのです。

いろいろ考えると、部活とはいろいろなことが学べる場なのですね。

ーーーーーー
結局、うさぎ飛びの勝負は、私が負けて二番でしたが、私が考えたことは、私が負けた方が、無難に済むということでした。その代わり、私は彼に一番を譲ったという感じを与えてはなりません。だから、私も必死で頑張ってやったのだという顔はしました。全力でやったのに、負けたのだと先輩たちに思わせなければなりません。そこは、役者でした。先輩たちもぶっ飛ばしたくはないのです。必死で頑張ったから許してやるという状況を作ることが必要でした。
この勝負は、必死でやったら、私ももう少しいい勝負ができたかもしれません。でも負けていた可能性は高いです。彼の方が先輩を信じてついて行くという姿勢があったからです。
私は、心のどこかで、馬鹿にしていました。こんなことで勝ったところで何になるということが、あったのです。もっと、本気になるべきところがあるじゃないかと。
だから、最終的には、私は先輩たちを全員抜いてしまうことになるのです。その話は、もう少し先です。

つづく
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バスケットの思い出2

2009-11-29 | 思い出
バスケットの思い出を語りたいと思った時、つい自分が活躍した試合のことを書きたくなりますが、その前にきちんと思い出して置きたいことがあります。

それは、先輩たちが教えてくれた内容です。

私のいたバスケット部は、他の運動部に比べてとりわけ礼儀作法に厳しい部活でした。バスケット部は挨拶がきちんとしているとよく言われたものです。それは、異常な程でした。

例えば、長い廊下の遥か彼方に先輩の姿が見えれば、先輩がこちらに気づいても気付かなくても、とにかく「先輩、こんにちは」と言わなければならないということでした。また、ただそれだけではなく、仲間が傍に居たら仲間にも知らせて、挨拶するのです。「おい、~先輩がいるぞ!」と言って仲間を廊下まで呼んで、みんなで一緒に挨拶をするというものでした。

冬などは、一年生はコートを箒で掃いて道具を片付けて教室に戻り、ものすごいスピードで着換えて、部室の前に集合です。手がかじかんで、制服のボタンが締められないのをそのまま部室前に行って、整列した状態で、ボタンを締めていました。

まるで、軍隊です。先輩たちはゆっくり部室で着換えて、1年生が揃うのを待つのです。そして、帰る方向に従って、先輩と一緒に帰るのでした。

とにかく先輩は神様のようでした。

しかし、そのお陰でバスケット部は礼儀がすごいという評判でした。

そんな中で育ったから、私は美術部の指導で、挨拶にうるさい顧問になったのだと思います。しかし、先輩後輩のそのような関係には批判的でした。軍隊のように先輩を神様のように扱うことは、させられていましたが、良いとは思っていませんでした。だから、自分たちが先輩になった時はそのようなことはしないようにしていましたし、自分が教員になってからも美術部では、それをさせませんでした。

また、忘れてならないのは、先輩たちはそれなりに面倒をよく見てくれたということです。ドリブルシュート、ランニングシュート、ボールの持ち方、本当に素人の私たちに丁寧によく教えてくれました。その時のことを考えると、いい先輩たちだったなあと思います。

私は、部活の時間になるのが嬉しくて、毎日体育ができる幸せを感じていました。小学校の後半から一番好きな授業は体育だったのです。しかし、その内、しぼられて苦しくなると、部活が苦痛になってくるのですが、それでもレベルが上がるにつれて、体育の授業は遊びにしか思えず、部活こそ本当の勝負という感じになっていきました。

部活が苦痛に感じたのは、理不尽な先輩たちのしごきでした。意味のないいじめみたいな練習です。二つ上の先輩は親切で優しいという段階で過ぎてしまったので、良い印象ばかりが残っているのですが、一つ上の先輩たちは鬼でした。三年生というのは、最後の大会にかけていて、一年生をしごいている暇などないのです。だから、必然的にしごきを楽しむのは、二年生になる訳です。

山をうさぎ跳びで上がらされました。足上げ泣くまでというのもありました。
電気椅子とか、つまらない過酷な筋トレばかりです。おそらく根性をつけているのだろうと思いますが、振り返ってみると意味のないことばかりでした。

こういうのは、後になって、あれが何だったのかと分かって来ると、先輩の印象はさらに悪くなりますね。その時の権力を利用して、面白がっていただけのように思います。まあ、それによって先輩を見返してやろうとか、越えてやるとか思う気持ちは強まりましたが。

ーーーー
一年生の思い出で、面白いのは、バスケット部の声の出し方です。中腰で手を膝に置いて、前屈みで先輩たちの練習を応援しながら、声を出します。それが、「ファイトー」ではなく、「頑張れよー」なのです。誰が考えたのでしょうね。常に「頑張れよー」と声を出すのです。
野球部は、「来い来い来い」と言っていました。外野に居て、ボールが飛んでくるのを待っているのです。だから、自分の所へ飛んで来いということなのでしょうか。それを誰一人反発もせず、言われるままやっているのです。

スポーツの良さは、理由もわからず、言われるままやるということから始めるという点が良いのかもしれません。それから、普通なら恥ずかしいと思えるような単純な繰り返しを何度でもやらされる。相手もいないのに、相手がいるつもりになって、カニカニ歩きをしたりするのは、ディフェンスの練習なのですが、結構恥ずかしいものです。

次に思いだすのは、水を飲むなということです。今では反対ですね。水を飲んだ方が良いでしょう。それを我慢させられるのです。休憩時間に隠れて水を飲んだりすると大変です。トイレに行って来たときは、戻ってから先輩に口を開けさせられて、ベロを調べられるのです。
夏は、一年生が氷を買いに行く当番になります。そのときも同様に調べられます。
その氷は、練習の或る時間になると、水を入れて先輩から順番に飲むことになります。もちろん一年生は最後です。やかんの蓋を使って、みんなで回し飲みです。
その氷水の美味しいことと言ったらもうたまりません。水を我慢してからからになった喉に入るのですから、これこそ幸せという感じでした。やかんの蓋に穴が空いていることを知ったのもそれがあったからでしょうか。穴を抑えて飲むのです。そうしないとこぼれてしまいます。

喉をからからにさせられて、ベロを調べられたりという異常なこともありましたが、そのお陰で水の有難さを教えられました。

いろいろな場面で、先輩を立てるということがありましたね。
唯一先輩を立てなくて良いのは、プレーの中だったでしょうか。
いや、失敗をするとグランド一周という罰が待っていましたから、やたらシュートなどはできなかったですね。入れば問題がありませんが、シュートを落としたら罰が待っているとなると、できればシュートを打たない方が良いという感じになってしまいますね。

つづく




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バスケットの思い出

2009-11-28 | 思い出
私がバスケットボールの思い出を語ったら、書き切れないほどあるだろうと思います。きっと、読む人が疲れます。

私は、なぜバスケットボール部に入ったかというと、小学校6年生のとき、ポートボールがありました。ソフトボールやサッカーは3年生くらいからやっていましたが、ポートボールは5~6年生にならないとやらないスポーツでした。だから、一つ上級のスポーツという印象があったのです。そして、その大会が児玉町の5つの小学校が集まって行われたので、それに勝つことがすごいことだと思われました。

また、児玉小学校は中学と同じ場所にあって、グランドを共有していました。今考えると面白いことです。こんな学校が他にもあるでしょうか?
グランドを共有しているため、中学のバスケット部が練習しているところをいつでも見学できるのです。私は、小学校5年生くらいから、そのバスケット部に遊びに行くようになりました。
その頃の、バスケット部は顧問があまり出てこないのか、理由はわかりませんが、私はよく中学生と遊びました。そしてバスケットを教えてもらいました。だから、ポートボールをやると、バスケットの動きができるので、他の子よりも上手に思われました。それが、きっかけだったと思います。
それで、バスケット部に入る状況が生まれたということです。

実は、私の父はその児玉中学の先生で、元はサッカー部の顧問でした。だから、もしかしたら父は私がサッカー部に入るといいと思っていたかもしれません。父の同僚の先生たちは、当然私がサッカー部に入るものと思っていた人もいたようです。

私はそんなことは、知りません。私はどちらかというと、サッカー部を敬遠していました。その理由は、同級生にサッカーが抜群に上手い子がいたのです。

サッカー兄弟で有名でした。男三人の兄弟がみんなサッカー部だというのです。その子のサッカーの上手さは、群を抜いていて、もうスタートから大変な差がありました。お兄さんたちに徹底的に教え込まれて上手になっていたのです。だから、私はそういう意味で面白くなかったこともあったと思います。

また私は、実はソフトボールが得意でした。だから、野球部でも良かったのです。ただし、野球ももう一人私と同じくらい上手な子がいました。だから、私は野球部に入っていたら、その友達と争っていただろうと思います。

結局、後に、私がバスケット部のキャプテンになり、その友達が野球部のキャプテンで、サッカー部の天才的な選手は、副キャプテンになりました。サッカー部は、サッカーがうまいだけではキャプテンにしなかったようです。

因みに、そのサッカーの上手い子は、高校に行ってからキャプテンになりましたし、大学でもキャプテンをやっていて、最後は三菱のサッカー選手になって、全日本の代表にも選ばれそうなところまでいったのでした。我々の同級生では、一番活躍して、有名になった人です。

話が大分、先まで行ってしまいましたが、そんな訳で、私はスタートラインが同じに始められるバスケットボールを選んだのでした。

と言っても、実はそこには、やはり少しハンデがありました。バスケットにもお兄さんがバスケット部だったという子がいて、やはり、その子は少し我々よりバスケットについては詳しいのでした。ただ、プレーはそれほどでもなく、背も小さかったので、大きく差を付けられていたわけではなかったので、ほっとしました。

私のバスケットを選んだ時の経緯は、そんな感じでした。

つづく






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ユニフォームの思い出

2009-11-28 | 思い出
今日、ヘルパーさんとの会話の中で、小学校の字別リレーの話になりました。

私は、4年生の時は、補欠で字別の選手になれませんでしたが、5年生と6年生は選手になって走りました。字別リレーは、午前の終わりに予選があり、午後の終わりに決勝が行われます。その時になると、出る前に自分の字のユニフォームに着替えるのですが、その時の興奮を思い出しました。確か字の人がユニフォームを持ってきてくれて、選手が一緒に着替えたような気がします。
さあ、今から出陣だというような気がしました。そして、代表だけが着られるユニフォームということに嬉しさがあり、なんとなく誇らしく感じだものでした。

全部で8チームあり、予選は4チームづつに分かれ、それぞれ1チームが落ちて、決勝は6チームで戦うのだったかなという気がしています。
午前の部の予選が終わると、お昼は教室に戻って給食を食べたのだと思いますが、そのときは、ユニフォームのまま食べました。同じクラスにやはり同じようにユニフォームを着た他の字の選手がいました。しかし、そのユニフォームを着た人が速い人だという気がして、そのときも誇らしく感じたものです。また、隣の席の女の子が別の字だったので、その時だけ敵だと思いながら給食を食べました。

字別リレーは、やはり運動会の花型でした。このときばかりは、大人も子供も興奮して、身を乗り出して応援していました。

私はどういうわけか、黄色のユニフォームに縁があるのでしょうか。私の字の本町は黄色でした。その後、私は学校代表のリレー選手になるのですが、学校対抗でも私の児玉小学校は黄色でした。
これは、余談ですが、中学になって、バスケット部に入りましたが、児玉中学のユニフォームが黄色でした。3年生が引退して、私は1年なのにレギュラーになって、3年生から大きな黄色のユニフォームを頂いたことを覚えています。

もっと、余談ですが、本庄第一高校の先生になって、与えられた美術室のエレベーターホールの色が黄色でした。それで、部活対抗リレーのためのユニフォームを黄色で作りました。作ってから、負け知らずで、体育祭のリレーで文化部では美術部が、6連覇を果たしました。最近もリレーの連勝を続けているらしく、もう8連覇かもしれません。しばらく体育祭がなかったので、何年も間隔が空いてしまったのですが、美術部はリレーも強いのです。
エレベーターホールと言いましたが、本庄第一は、8階建ての特別教室があって、それぞれ階毎に色が違うのです。美術室のある4階は黄色なのです。黄色に縁があるんですね。

しかし、ユニフォームというのは、いいものです。特に新しいものは、その色に興奮します。そのユニフォームを初めて着るときの気持ちを思い出しました。

ここまで、書くとバスケットの思い出を書きたくなります。それは、また、後で。






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大学時代

2009-11-14 | 思い出
私は埼玉大学の学生でした。

同級生は13名、中学校課程の美術専攻でした。これは、中学と高校の教員免許が取れます。だから、一応美術の先生を目指す人たちの学課でした。

入ってみると、みんな或る程度優秀な高校から来ていて、私などはランクの低い高校出身という感じでした。同級生の面々は、浦和高校、春日部高校、浦和一女、熊谷女子、などから来ています。こう考えると、私の本庄高校はその下のランクです。さずがに、国立大学だなと思いました。

そして、みんな真面目な大学生で、よく単位を取って、勉強しています。しかし、絵の力をみると大したことはありません。やはり、絵の力では、美術大学には敵わないということが、はっきりわかります。

私は、単位も取るつもりでしたが、ただ、平均的に学んでもしかたがないと思って自分の勝手な勉強をしていました。

ーーーー
そんな中で、知り合ったのは、単位とは全く関係なく一生懸命に絵を描く先輩でした。各学年に目をやると、そのような人が二人づつくらいいることが分かりました。そういう人たちは、単位などは必要なものしか取りません。そして、何でもかんでもたくさんの授業を取っている真面目な学生を馬鹿にしていました。

そして、「いろいろ知識を得るのはいいけれど、絵の力があの程度で、本当に先生になるんかな?生徒がかわいそうだよな」というのが、いつも話題に上ることでした。

私もそう思いました。私は、高校時代から既に県展に三回入選していたので、或る程度絵の力はありました。そして、浪人もしましたから、デッサンの力もある程度はあると思っていましたが、その自分から見るとやはり先輩のいうことがその通りだと思いました。それで、これじゃいけないんじゃないかと、何人かの先輩たちと立ち上がることにしたのです。それが、埼玉会館を借りて、自分たちの展覧会をやろうという企画でした。

描いた絵を発表するということは、いい加減な絵は出せません。だから、人に見てもらえる絵を描こうという気持ちになるわけです。そうすれば、今までよりも真剣に絵を描くのではないかというのが、狙いです。また、授業の絵だけではなく、自分独自のテーマで絵に取り組むということもするだろうと思ったのです。それで、実施しました。これは自由参加のようですが、全員が出さなければ意味がないということで、各学年の代表的な人たちに集まってもらって、全員参加を呼びかけました。
今考えると、すごいことですが、みんな真面目な学生だったからかもしれませんが、全員参加が実現しました。
それで、美術科なんだから、美科展でいいんじゃないかとなりました。これは、私が大学2年生の時でした。そして、次の年に、私は三年生で、その展覧会のリーダーになって、第二回展をおこないました。その時は、私は、自分の絵を13点出品したことを覚えています。

実施する前に、私は、みんなが本気でやるきになってやらないなら、やっても意味がないと話しました。それで、同級生にそのようになげかけました。みんなが本気でやるなら、俺がリーダーでやるという言い方でした。

この時の、リーダーをどのように決めたのか、果たしてリーダーなどという係があったのか曖昧でしたが、私は初めから自分がリーダーのつもりになっていました。
これは、同級生に聞いてみたいですね。ただ、展覧会のノウハウを高校時代から知っていたことは大きな強みでした。本庄高校の美術部は毎年6月展という展覧会を校外で開催していたので、その経験があるからでした。
だから、展覧会の準備の時に、わからないことがあると、みんなが私に質問しました。あまりに菅野君菅野君と呼ばれるので、私は目が回るくらいでした。

これが、大学時代の私の学生運動でした。

もう、学生運動が下火になってきていた時代ですから、角材とヘルメットではありません。とても平和的な運動でした。美術の先生になる人間がろくな絵も描けないで、先生になるな!という投げかけでした。せめて県展に入選するくらいの力をつけてから先生になれ!ということです。

思いだして書いてみました。








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