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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

部活対抗リレーV5

2009-11-07 | 思い出
部活対抗リレーV5の優勝パーティーのビデオがあります。

VHSのテープになっていますが、そのまま保管してありました。

これは、貴重なビデオです。だから、テープが伸びない内に、DVDに移し替えておこうと思っていました。それを、やっと夕べ実現しました。

美術部のその時代の様子が、よくわかります。

二年生の竹内君が応援団長で、優勝パーティーも仕切っています。そして、走った選手たちが、一人一人感想を述べ、応援有難うございましたと挨拶をしています。
みんなで乾杯をして、シャトレーゼで買ってきたダブルシュークリームを食べています。

食べ終わってから、「先生も一言お願いします」と竹内君が言いました。
私は、「では、30分」と言って、40分くらい話しました。

いま、もう一度見ると、私の詰らない話をほとんど微動だにしないで聞いてくれる生徒たちでした。私のだるい話を、あんなにも真剣に聞いてくれて、みんなで一緒に笑っている様子があります。

これが、本庄第一高校美術部だと胸を張って言える生徒たちです。

みんなで、一つの輪を作ろう。みんなで気持ちを一つにして、一緒に笑おう、という世界が作れた時代でした。

私は、このビデオをこれから先生になる人たちに見てもらいたいと思っています。
私が作った世界です。とっても気持ちの良い生徒たちでした。

私が日本一の美術部が作れたと思った時でした。



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高校時代

2009-10-02 | 思い出
よしだたくろうを思いだしたら、高校時代が蘇ってきました。

私たちの頃は、森田健作でした。「さらば涙と言おう」「ともだちよ泣くんじゃない」が流行っていました。

「青春の勲章は、くじけない心だと」が好きでしたね。

学校の帰りは、部活を終えて、美術部の仲間と帰りましたが、その時は、沢田健二の「君をのせて」を歌っていました。

風に向かいながら、皮の靴を履いて、肩と肩をぶつけながら、遠い道を歩く

と。丁度美術部の女の子がいて、その子を本命の彼女の代わりにして。肩と肩をぶつけながらは、その子の肩を借りて?かな。

部活を終えて、冷たい夜風を感じながら、バス停まで向かいました。

昭和48年頃の話です。

送別会では、「遠い世界に」を歌いました。
それと、「若者たち」も。

空にまた陽が昇るとき、若者はゆく、宛てもないのに。

「空にー」を「更にー」に置き換えて、何度も何度も歌いました。

歌を聴くとその頃のことを思い出しますね。空気の匂いまで蘇ってきます。

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噂をすれば、影

2009-08-20 | 思い出
今日、お昼にすき家で牛丼を食べていたら、小学校のリレーに一緒に出たN君に出会った。
偶然だ。同窓会であっているが、こういうところで会うことは滅多にない。
それで、ブログに書いたことを話した。
私は、N君については、書かなかったが、思い出して映像としては、はっきりと意識していた。彼は小学校5年生のときの優勝したメンバーでアンカーだった。
彼が、最後の第4コーナーで他の学校の選手を抜いてトップに出て、優勝したのである。
特に、カーブの走り方がうまくて、最後に伸びていく選手だった。
私は、それをゴールの方から見ていたので、私は第二走者だったのだろう。

とにかく、最後だから、その直線で勝負が決まる。その最後の場面だから、今でも鮮明に覚えている。そのN君がとても格好良かった。
彼は、その走りから忍者のようなので、風魔鼓太郎と呼ばれていた。

噂をすれば、影という諺があるが、私が先日リレーの話を書いたので、会ったのだろうかと考えた。なぜなら、滅多に会うことがないのである。
しかし、そうなら、一番速かったJ君に会ってもいいし、中学時代の陸上部のH君やO君に会ってもいいのだから、まあ、これは偶然で、たまたま会ったので、そう思うのだろう。
もし、書いたら会えるのなら、会いたい人のことを書けば会えるということになる。

ーーーーーーーー

以前、私の高校時代の師匠が、噂をすれば影について、こう話したということを間接的に聞いたことがある。

人間は、それぞれみんなテレパシーのようなものを出していて、近づくと他の人にその人の存在を気付かせるような作用を及ぼす。だから、その人のことが脳裏に浮かんで、話題に出る。そうしている内に本人が登場するから、そう思うのだと。

へええ、なるほどと感心してしまった。

もしかすると、そういうこともあるかもしれない。

しかし、今回の場合は、書いている時には、物理的に近づいていたわけではないだろう。

だから、結果から見て、そう思うのだろうとは思う。
しかし、運命論を唱える人は、違うんだろうなあなんて、考えた。

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リレーの話

2009-08-14 | 思い出
続きです。

体育祭で、リレーに出ました。クラス対抗リレーです。
私は、スタートでした。距離は200M。まだ、グランドの都合でそれしか取れなかったのです。しかもオープンコースの200Mです。

私は、また、疲れないように初めを抑えて後半抜いて、一番で帰ってくるということを考えていました。すると、我がクラスの陸上部のH君が、「菅野どういう風に走るつもりだ?」と聞いてきたのです。
私は、自分の考えを言いました。すると、H君はそれでは勝てないと言うのです。
実は、同じスタートに陸上部の短距離の選手がいました。だから、そんなことをやっていたら、絶対に抜き返せないと言われました。

彼が言うには、第一コーナーは絶対取れ、取れとは一番を取れということです。
なぜなら、ここを通過するときにみんなスピードが鈍るのです。ぶつからないように遠慮をするから、タイムをロスするのです。カーブで順位が決まると、その流れで行くため、もし遅れを取ったら、その差は必要以上についてしまうのだと。
なるほど。

だから、後で抜かれるのは仕方がないけれど、第一コーナーだけは絶対に全力で行って、誰にもトップを譲るなということでした。

そうすれば、カーブではなかなか抜けないから、第二コーナーまではトップでいけるというものです。

そして、第二コーナーに差し掛かったら、カーブが終わるちょっと前にアクセルをふかせ!と言われました。さあ、直線になったら抜くぞと思っている二番手の子より、少し早めに、全速力に切り替えるのです。そうすれば、後ろが自分より速くても抜かれるにしても、少し後になる。うまくいけば次のカーブまで持ちこたえられる。もし、持ちこたえられたら、また、同じことをする。カーブでは抑え気味にして、第四コーナーの直前でアクセルというやり方。

へええ、そうなのかと感心して聞いていました。

ーーーーー
100Mの時の、私の走りを見ていて、H君が心配になったのでしょう。自分のクラスを優勝させるために、まず、私がスタートとしてトップで帰ってこなければならないと考えて、H君と同じ陸上部のO君に負けないようにするには、どうすればいいのかを作戦を与えてくれたのでした。

ーーーーーー

私は、H君の言う言葉に従って、まず、第一コーナーまで本気で走りました。
そして、言われたとおりにトップに立ちました。
そして、カーブになってから、すこし抑え気味に走りました。二番手に陸上部のO君が来ていることがわかりました。

しかし、私は抑え気味とはいえ、O君に抜かれない速さで走りました。もし、カーブで抜いて来ても、先には行かせず、抜きにかかった分だけ遠回りさせる作戦に出たのです。
それをO君は、わかっているみたいでした。初め抜こうとしましたが、抜けないと判断してやめた感じがしました。

ほおう、なるほど、さすがに陸上部だなと思いました。ただ、O君は、私がH君から策を授かっているとは、知らなかったようで、この先の展開は驚いたようです。

私が、カーブが終わる直前から全力に切り替えたからです。その瞬間「あっ」と言いました。やられた!という意味の声を発したのです。

そして、そこからO君の追い上げが始まりました。直線になったら私はスピードで勝てないことが分かっていました。なぜなら、彼は陸上の短距離の専門家です。
私は、バスケット部。バスケット部の走り方は腰を落として走ります。ステップで左右のどちらにも方向変換できる腰の備えのある走り方なのです。それが身についてしまっているため、陸上の走り方に切り替えられません。それでは、地面を強く蹴れないのです。
陸上の走り方は、腰を高くしてコンパスを広げます。そして回転数をあげるから速いのです。そのかわり横への変化には弱く、ぶつかったりすると転んだりして怪我をします。
私は、なぜ陸上の選手はあんなくらいで、怪我をするのかと不思議でした。転ぶことに慣れていないのです。それと、腰が高いからもありました。バスケットの走りなら、転んでも怪我はしません。

しかし、とにかく直線に入ったら、陸上部の走りには、敵いませんでした。それで、とうとうほぼ並ぶような状態になりました。しかし、幸い第三コーナーに差し掛かりました。私は、このまま抜かれないなら勝てるなと思いました。並んだ状態で、コーナーになったのです。

私は少し、ずるをしました。それは、カーブになったのに、曲がらないでわずかに直線を延ばしました。その意味わかりますか??

O君は、私を抜くために外側を走っているのです。直線とは言え、外側です。一歩か二歩損をしています。それを第三コーナーの部分だけ、カーブを膨らます走り方をして、私は彼の損を増やしました。実際のカーブ以上に遠回りをさせたのです。

そして、やはりカーブでは抜かせない走り方をして、また、第四コーナーに差し掛かる直前でアクセルをふかす方法を取りました。

結局、私は抜かれないで、バトンを渡すことに成功しました。

ーーーーーー
しかし、こんなことにも、作戦と言うのはあるのだなと思いました。最初の私の考えでいたら、私はトップどころか、三番手くらいでバトンを渡すことになってしまったかもしれませんでした。陸上部のH君に感謝でした。
ーーーーーー
この話は、ピカソがライバルに載せました。本庄第一高校の体育祭で美術部を優勝させるためのノウハウを生徒に教え込んだのですが、その時の話として、使いました。


自分の中学時代のことが、教員になって生かされました。美術の先生がなんでこんなことを知ってるの?と思われそうです。どこで、どんな経験が生かされるかわかりません。いろいろな経験を積んで置くといいですよ。
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100M走、200M走の思い出

2009-08-14 | 思い出
かけっこの話を書いたので、少し続きを書きます。

私は、100Mの記録が、小学校6年生の時、確か14秒2だったと思います。
それで、優勝しました。そのとき、いつもトップだったJ君を抜いて一番になりました。それまでは、足が速いのはいつもJ君でした。

そのときの、J君の気持はどうだったのかなと今になって思います。
いつもトップだった彼が、初めて負けた瞬間でした。
しかし、悔しい顔もみせずに、リレーでは一緒にチームとして、学校代表で走りました。リレーは、一番早い人がスタートを走ります。誰が決めたのかわかりませんが、そのように言われました。そして、そのスタートをいつもJ君だったのに、私が走ったのです。

そして、彼はアンカーに回りました。二番目に速い子がアンカーでした。

ーーーーーー
小学生の私には、彼の気持ちを推し量ることはできず、また、そんなことは考えもしないで、ただ、走りました。

ーーーーーーー
私は、J君に勝った時、ある作戦を取りました。
それは、100Mを全て全力で走ると、疲れてしまって、後半が伸びないので、最初の50Mを抑えぎみに走り、一応離されない程度のスピードで付いて行き、後半の50Mを全力で走るというものでした。

小学生としては、よく考えたものでした。

そして、その通りに実行しました。

ーーーーーーー
なかなかでしょ。でも、それができたのは、やはり実力がついていたからでしょうね。もし、力がなかったら抑え気味どころか、全力でも付いていくことができなかったでしょう。

結局、そんなことで、一番になりました。
ーーーーーーー
中学になって、初めての体育祭は、一年から三年まで一緒に走りました。ええーーと思いませんか?学年別でやってほしいですよね。
なぜなら、誰もがわかると思いますが、中学一年と三年では大人と子供くらいの体力の差があるのです。これは、不公平です。

しかし、私は、その三年生を含めての200M走で、三位になるのです。これは、番狂わせみたいなものです。尤も、その種目に出場した中での順位ですから、全員の中でというわけではありません。でも、選手になって出てくる人は速い人が出てくるので、この結果は少し誇らしい気持ちになりました。

ーーーーーーー

中学2年のときに、児玉町は統合中学になりました。

まだ、グランドができてなくて、体育祭はありませんでした。そのため、初めての体育祭は、中学3年生でした。

私は、100Mとクラス対抗リレーに出ました。

100Mは、例の如く、前半抑えて後半飛ばすという方法を取りました。
そうしたら、今度は失敗しました。抑えていたら離されてしまったのです。気がついたときは、遅く、しまったと思って、半分行かない内に全力に切り替えて、辛うじて一位を取りました。メンバーを見ないとだめですね。そんなことをしていたら勝てない相手がいたのです。
ギリギリで、一番になったら、バスケットの顧問から「なんだよ、もっと楽勝かと思ってたのに」と言われてしまいました。

「いえ、リレーに備えているので、軽く走りました」とウソをつきました。

ーーーーーー
リレーの話は、また、後で。





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