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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出8

2009-11-30 | 思い出
先輩たちは、とてもよく教えてくれたと書きました。

初心者である我々にボールの持ち方から、パスの仕方、ランニングシュートのステップなど、本当に優しく丁寧にです。あの初めてランニングシュートのステップを覚えた時の感覚は忘れられません。

空中でパスを受け取って、右足で降りる、そして左足で蹴ってジャンプをしてボールをリングへ投げるという感覚です。そのときは右足は膝が持ち上がっています。
それができるようになると走りながらボールを受け取って、右、左と二歩だけ運んでシュートを打つことができるようになるのです。

そう考えると、先輩には感謝しなければなりませんねえ。
上手くなるにつれて、そのことを忘れてしまいます。

しかし、今となっては、恩返しもできません。

ただ、自分がそのようにしてもらって有難かったと思うなら、同じように後輩にしてやることが恩返しだろうなあと思いました。それ以外に感謝の気持ちを表すことができません。

だから、結果的にはずいぶん多くの人に、私も教えてきました。その教え方も、後輩ができるまでいろいろ工夫して、やりました。

極端な例を言えば、「シュートは手で打つんじゃなく腰で打て」などということまで言いました。ロングシュートなどは手で打つだけじゃ届きません。足腰のばねを生かして打つのです。これは、バスケットの経験者でないと分からないかもしれませんね。
腕を伸ばして、スナップをかけて、中指で狙って、などと言いながら、やって見せて、させてみて、褒めてやって、ですね。その良かった時のイメージを掴ませて、そのイメージを忘れない内に繰り返し練習させてという感じです。

私は、教え方を学んだのは、ここからかもしれません。絵の指導でも、良くなるまで何度でもやらせるのです。バスケットのシュートを教えるのと変わらないですね。シュートは入らなければなりません。結果が直ぐに出ます。絵は、展覧会に出して初めて入選か落選かの結果が出ます。時間がかかります。しかし、絵の場合は答えがたくさんあります。行ってみればバスケットのリングより的が大きいです。

だから、バスケットほど、制約はありません。バスケットは少しでも狂えば、入りませんからね。絵の方が楽です。

しかし、入らないときになぜだろうと考えて、工夫をします。原因を探ります。このことは、なぜ県展に入らないのだろうと考えることと共通するのです。研究心でしょうか。私の指導力と研究心はこうしたバスケットでの経験が生かされているのだろうと思います。


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バスケットの思い出7

2009-11-30 | 思い出
統合中学になって、私がレギュラーになったということまで、お話しました。

ここで、一つ学んだことがあります。
我々の児玉中学の先輩たちが小さくなってしまったと書きました。そのことがどういうことだったのかと考えると、いろいろなことが出て来ます。それは、5つの中学が集まったら、そこの力関係が出てくるということです。元のままなら威張っていられた先輩たちも、他の中学の様子を見ないと、バスケット部でどのようにふるまったらよいのかわからないということです。まして、一番強いのが共和中でしたから、必然的に共和中が主導権を握ることになるでしょう。しかし、その共和中の雰囲気が全く児玉とは違うのです。児玉は軍隊みたいでした。よくある運動部の上下関係がしっかり確立されていました。しかし、共和中はそれが全くないのです。まるで、兄弟みたいに先輩を「~ちゃん」などと呼んでいます。
それでいて強いのですから、部活もそのようになっていきます。児玉の先輩たちも戸惑ったでしょう。児玉は「~先輩」と呼ばなければなりません。いくら遠くにいても「~先輩、こんにちはーーー」というのが普通でしたから、それが全く違います。だから、それを続けていると、他の中学から笑われることになりました。
それで、できなくなったのです。先輩たちもそのようなことをさせることができません。部活の中で、主導権が握れないのです。そのようなことも原因でしょうか。それと、自分たちが試合に出られず、下級生の二人がレギュラーになってしまったことも原因でしょうか。とにかく練習にもあまり出てこなくなってしまいました。

確かに、自分がその立場だったら、そうかもしれないなあと思います。先輩としての立場がないですよね。

しかし、同時に問題になったのは、その鬼のような存在がいなくなったこともあって、部活に緊張感がなくなり、練習がたるんでしまったということでした。やはり先輩を「~ちゃん」などと呼んでいては、練習もあまくなりますね。
その時、副キャプテンのKさんがこれではいけないと言い始めました。統合中学になったために出て来た仲よしクラブ的な雰囲気は、お互いの様子を見るためにみんな警戒して、嫌われないようにしていたのですが、その時点からKさんが急に怖くなりました。
それまでは、「~ちゃん」で済んでいたのですが、ある時期から「Kさん」に変わりました。部活はやはり誰か怖い存在がいないとピリッとしないというのです。それは、その通りでした。そして、そのKさんが実は自分のキャラクターとしてはあまり向かないかもしれないと思いつつ、怖い先輩になってくれたのです。私は有難いと思いました。
そのことは、このKさんに教えてもらいました。

これは、教員になってからも生きています。全員が怖い先生ではいけないのですが、学年のスタッフを見た時に、このメンバーなら自分が怖い存在にならないといけないなあと判断して、敢えて嫌われ役を演じることがありました。

それは、集団の中での自分の役割ということです。

そのことを、私はこのK先輩から教えてもらったのです。

部活はこんなことも勉強できるのですね。机の上ではできない勉強でした。

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バスケットの思い出6

2009-11-29 | 思い出
試合の話ばかりになりそうなので、少し横道にそれます。

私の子どもの時は、巨人の星で育ったと書きました。

それは、スポーツ根性ものでした。しかし、理由は分かりませんが、それは人の見ていないところで、地道な努力を続けるということを教えてくれました。どうなのでしょうか。そういう漫画でしたか?小さい時から父親の夢を子どもに託して、子どもは自分の意思にかかわらず、親の夢を叶えるために頑張るという話ですよね。どこに隠れたところで努力するという話があるのでしょうか。

しかし、私はそう受け取って、人が見ていなくても自分の夢のために頑張るという姿にあこがれていました。だから、私は本当に良く練習をしたと思います。現役当時も先生方が美談にするほど、私は見えないところで練習する人でした。いや、実際は見えるところです。学校のリングを使ってのシュート練習ですから。

そして、いつでも思っていたのは、どこかで誰かが見ていてくれるという気持ちでした。このことは、絵を始めてもずっと貫いている感覚です。絵も人が見ていないところで努力して、ある日突然パッと凄いところを見せるというものですから、バスケットの隠れた練習と似たところがありますね。

とにかく、練習の休みの日でも、私は一人で練習していました。だから、上手くなるはずですね。そして、いま思うのは、それを考えた時、結構練習の休みの日があったのだなということです。日曜日と言えば練習試合をするのが当たり前かと思いますが、結構日曜日をやすんでいたのかもしれないのです。

その自主練習に同級生を誘ったこともありましたが、なかなか乗ってこなくて、私は一人でやっていることが多かったです。ただ、少し救われたのは、サッカー部が私と同じように自主練習をやっている子が多かったことです。やはり、県大会で優勝するようなチームはその辺から違いますね。

その頃から、サッカー部は5年連続県大会優勝という成績を上げたのです。

私が先輩を追い抜いてレギュラーになったのは、言ってみれば、陰で練習したその練習量の差でもあったと思います。とにかく、言われてする練習ではなく、自分からやる練習が好きでした。それは、練習が終わってからの練習もそうでした。下級生にフォローをさせて、真っ暗になった外コートでシュート練習をしました。付き合わされる下級生もかわいそうでしたが、私はそういうことが好きでした。その頃のボールは外用で、ゴムボールでした。しかも白いボールでした。私は時には石灰を付けてやったこともありました。暗くなっても見えるかなと思ったのです。

私がレギュラーになって、先輩たちと一緒に試合に出るようになったころ、統合中学になったのですが、ある時期に先輩たちがみんな練習に出てこなくなった時期がありました。あれは、なんだったのでしょうか。よくわかりません。しかし、先生も忙しくて、なかなか出てこないので、不思議なことですが、私たちは新2年生だけで練習していました。その指示は私が出しました。練習メニューはほとんど私が決めていました。

そして、ある時期、私は先生に言いました。「先輩たちが練習に出てこないなら、試合は2年生だけで行きましょう」と言ったのです。その事を考えると、二年生の二人がレギュラーになるのもわかるでしょう。だから、最終的には共和の先輩二人と金屋の先輩と我々下級生の二人がレギュラーになったのだと思います。

その頃、先輩たちは何かあったのかなという気もしないではありません。それが何なのかは、全く分かりませんでした。

私は、真面目なバスケット選手だったなあと思います。一人で練習していてもきっと誰かが見ていてくれると思っていました。テレビじゃないですが、どこかで私を見ていてくれるという期待でしょうか。いつかはこの努力が実る時が来るということかもしれません。ヨーロッパなら、キリストか神様が見ていると思うかもしれませんね。
また、テレビの実況中継のような解説付きの場面を想定して、自分で実況しながら試合をシミュレーションしていたこともありました。もちろん声は出しませんが。そのような感じで一人練習をするのが好きでした。



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バスケットの思い出5

2009-11-29 | 思い出
私が2年生の試合に出させてもらった時は、先輩たちに混ざってのことなので、ボールをカットした後、シュートまでのドリブルはとても緊張していました。失敗したらどうしようという気持ちもなかったわけではありません。それと、先輩たちの試合なのに、私が今シュートを決めてしまうという興奮もあったと思います。
初出場で、ホームランを打った野球選手くらいの興奮でしょうか。ちょっとオーバーかな?しかし、この時の緊張感はよく覚えています。本当にドキドキしていました。
だから、シュートを決めてほっとしたことと、大喜びの3年生の反応と、ちょっと照れる私の気持ちと、いろいろなことが重なっていました。ただ、私が配慮が足りないのは、同級生がどういう目で見ていたかという点に気が配れなかったことです。
そのことは、後で先輩たちから叱られることになります。

一応、初めてのシュートを決めた後、私はその後、どのくらいシュートを決めたのか記憶にありません。そのくらい最初のシュートというのは、印象に残りました。

それと、同時に1年生の試合でも、最初に決めたシュートは覚えています。1年生はまだ、バスケットの何たるかを全くわからず、ディフェンスさえできません。だから、ポートボール感覚でやっていたと思います。そのため、私は、センター辺りからボールを受け取ると、人ごみの中をドリブルで抜いて行き、一人でシュートまで持っていき、ドリブルの流れのままシュートを決めました。これは、そのパスを受けてからシュートまでを鮮明に覚えています。今でも、まだ昨日のことのようです。

その後、2本のシュートもほとんど同じように決めて、3連続ポイントを挙げて、すぐに下げられたので、子供の試合に大人が出て点を取るだけとって、下がったような感じでした。私も2年生の試合ではないので、緊張することなく、俺に任せろという感じでプレーをしたため、とても気持ちよく活躍してしまいました。

ーーーー
秋になりました。1年生の秋です。この時期は3年生が引退して新チームで試合に臨みます。私は、2年生と一緒にレギュラーで試合に出ました。

しかし、このチームは2年生がみんな背が低くて、私が一番大きいのです。おかしなことですが、私が試合初めのセンタージャンプをすることになりました。
戦った相手は、美里中学でそのチームのジャンパーは180センチもありました。
私は大きいと言っても1年生です。158くらいだったと思います。

試合は、負けてしまいました。3年生の先輩は、県大会まで出場した凄い成績だったのに、この新チームは負けてしまったのです。

ーーーーーー

しかし、この後、意外なことが起こります。
実は、私が二年生になるときは、統合中学になることが決まっていました。そのため、そのときの優勝した共和中学と合同のチームになることでした。だから、我々は負けてしまったのに、県大会に出場できることになったのです。それは、意外でした。統合になるのは、4月からです。新人戦はその前です。なのに、もう合同で出て良いというのです。ラッキーと思いました。

面白い時期にいましたね。

しかし、です。よく考えたらそれは、大変なことでもありました。5つの中学が統合するということは、それだけのバスケット部が合同になることでもあるのです。そうか、1年生で試合に出ている私は、今度はとてもレギュラーなんかになれないなあという現実が襲ってくるのでした。

なぜなら、優勝した共和中学が上手な先輩がたくさんいるのです。その上、私の児玉中学の先輩です。また、金屋や秋平の先輩たちもいるはずです。チームが強くなくても一人や二人上手な人はいるでしょう。そう考えたら、とても1年生の私なんか出る幕はありません。そう思いました。

ーーーーーーー

新人戦の県大会は出られることが決まりましたが、その前に、県北大会がありました。そのときは、県大会の前ですが、もう合同チームで行こうと練習も合同でやり始めていました。しかし、強いのは共和中ですから、ほとんど共和を中心のチームになりました。そして、力の差を考えて、児玉と共和の2年生を連れて行こうということになったのです。

結構たくさんのメンバーになりました。その時に、この際だから勉強のために1年生も誰かを連れて行った方がいいだろうという話になったらしく、児玉中では私が選ばれ、共和中からも一人選ばれました。名目はボール持ちということでした。

ーーーー

場所は、深谷だったと思うのですが、相手がどこだったのかも覚えていません。私はただのボール持ちのつもりでしたから。しかし、試合が進むに従って、共和の先輩が5ファールで退場しました。そして、我々の先輩が交代で試合に出ました。するとまた一人、また一人と退場して行きました。
そして、出る先輩がいなくなったのか、理由がはっきりしませんが、「菅野出ろ!」と言われたのです。私は「ええーー」と思いました。まさかの出番です。
そんな馬鹿なという感じでした。もう試合が終わりごろでした。残り1分くらいだったと思います。私は言われるまま、試合に出ました。そしたら、なんとなくいいタイミングでパスが来たので、ドリブルで持ち込んでシュートをしました。それが入ってしまったのです。左から持ち込んでのシュートでした。相手のディフェンスが飛びかかってくるのが、分かりました。しかし私は恐れず、ぶつかれば相手のファールだからという感覚できちんとシュートを決めました。相手も脅かすだけで、体をぶつけては来ませんでした。そのため、シュートが入ったのです。先輩たちは驚いていました。そして、先生が恐れずにシュートに行けたから入ったんだと説明しました。

私は、とてもうれしい経験をしました。出られるはずもない試合で、ボール持ちで行ったのに、思わぬ出番がきて、しかもシュートを決めたのです。

ーーーーーー

帰ってから、同級生にその様子を聞かれました。私は黙っていればよかったのですが、どうだったといろいろ聞かれる内に自分の活躍したことを言いたくてついうっかり話してしまいました。試合に出たことだけでなく、シュートを決めたことまでです。そうしたら、先輩から酷く叱られました。

行けなかった1年生のことをお前は何も考えてないと叱られたのです。私はそのときは、そんなに叱られることだとは思っていなかったので、そこで、初めて同級生の気持ちを考えてなかったなあと教えられました。

私は、同級生をなめていたのかもしれません。相手にしているのは常に先輩でした。競争相手が同級生ではなかったのです。

ーーーー
しかし、自分では思いもしないことは、この後もどんどん続きました。
その県北大会での1本のシュートが切っ掛けだったのでしょうか。私は次の県大会のスタートメンバーで使われたのです。まさかのレギュラーです。試合の初めに出る選手は、スタートメンバーという言い方をしますが、それは、ある意味で、ベストメンバーでもあるのです。だから、私は驚きました。

なぜなら、共和中の先輩たちがいて、児玉中の先輩たちがいて、他の中学の先輩たちもいる中で、1年生の私がベストメンバーなのです。こんなことってありますか?私だけでなくみんなが驚いたと思います。たまたままぐれというか、先生のきまぐれだと思えば、その方が気が楽なのですが、それが、試合を重ねるごとに定着していきました。

さあ、どうでしょう。結局本当にレギュラーとして定着したのは、共和の先輩二人と金屋の先輩一人と、1年生の私と、共和から行ったボール持ちの1年生の計5人が最終的にはベストメンバーになりました。

結局、私は児玉中の4人の先輩たちを全員抜いてしまったことになりました。
共和の二人の先輩は上手なので、キャプテンと副キャプテンになりました。

私たちが1年生のときにしごいてくれたあの鬼の先輩たちが、みんな試合に出られなくなりました。そして、同時に先輩風も吹かせなくなりました。本来なら、卒業するまで威張っていたはずの先輩たちが、小さくなってしまったのです。少し残念な気持ちもしないではなかったですが、やはり、プレーでの力の差は大きいです。

ーーーーーー

統合中学でのバスケット部は、共和と児玉があまりに強いので、他の中学の先輩たちはとても試合には出られないと思ったからか、部活をやめてしまいました。児玉中学の先輩たちもいるようないないようなという状況になってしまいました。しかし、我々は、最後の送別会には児玉の先輩たちも呼びました。



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バスケットの思い出4

2009-11-29 | 思い出
ここからは、試合の話をしましょう。

私が試合の思い出で、最初に覚えているのは、3年生と一緒に出た試合でした。本庄東高校の招待バスケという大会があって、その1回戦でした。先輩たちは決勝以外は楽勝なので、大差がつくと、一年生でも試合に出られました。そのときに、私はとんでもない体験をします。先輩のパスが速くて掴めなかったことです。3年生の先輩が私にパスしたボールの勢いがあまりに強くて、私は受け取ろうとしたら、その前に自分の眼の前をボールが通り過ぎてしまいました。なんだ??と思いました。
先生は、「馬鹿!加減してパスをしろ!」と怒っていました。受け取れない私が叱られるのではなく、先輩が怒られていました。しかし、3年生と1年生ではそのくらい力に差があるのです。これが、最初の思い出でした。

次の思い出は、秋平中学との練習試合でしたが、私は2年生の試合に出ました。3年生の試合が終わった後、2年生の試合、1年生の試合という具合に学年毎の試合をさせてくれましたが、私は1年生なのに先輩の中に加えてもらったのです。

それは、私が2年生チームのレギュラーになったことを意味しました。

もっとも、2年生は4人しかいなくて、1年生の誰かが入らないと5人そろわなかったのです。私が一番背が高かったことと、1年生の中では一番上手かったのだと思います。
しかし、まだ1年の夏です。先輩たちとは力に差があります。とても活躍なんてできるわけもないのですが、それでも私がシュートを決めたのです。それを3年生の先輩たちはとても喜んでくれました。
私はゾーンディフェンスの2-3の2に当たる部分、すなわち前で守るのですが、そのポジションからボールを奪うと、いきなりシュートまで持っていけます。それを狙っていました。相手の秋平中学はあまり強くないので、そのパスカットが的中して、私はドリブルシュートを正面から決めました。3年生の先輩たちは大喜びでした。1年生が活躍するというのは、嬉しいのでしょうね。新人が大活躍すると驚きと同時に頼もしく感じるものですからね。

そして、2年生の試合も楽勝で終わり、1年生の試合になりました。私は2年生の試合に出たので、1年生の試合には出ないで、見ていました。しかし、私が出ないでいると、試合はどちらもほとんど点が入りませんでした。まだ、1年生ですから、シュートが下手なのです。行ったり来たりの攻防がありましたが、0-0でした。それで、先生が「菅野出ろ!」と言いました。私は、出るとすぐにパスをもらって、ドリブルシュートで点を取りました。そして、立て続けに3ゴール合計6点を取りました。すると、先生は「もういい」と言って、また、ベンチに下げられました。
そして、6-0で勝ちました。もちろん正式な試合ではないので、時間も短く設定してのことでした。しかし、そこで、私は他の1年生とは格段に力が違うことを見せつけました。3年生の先輩たちは、「1年のキャプテンは決まったなあ」と言っていました。

これが、1年の夏の試合の思い出でした。
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