新人戦の県大会は、終わりました。
私たちは、次の春の県大会に向けて動き出しました。
それは、3年生になる春でした。
ただ、ここで、一つ説明しておかなければならないことがあります。
先生が素人だという話をしましたが、そんなチームがこんなに強いのはおかしいと思いませんか。普通ならこんなに勝てません。実は、そこにはボランティアで教えに来てくれるコーチがいたのです。
私は、このTコーチに教えてもらっていたのです。だから強くなれたのだと思います。この人は、どうして仕事もしないで、中学のコーチなどをしていられたのか、不思議です。家の仕事がありながらも、お坊ちゃんで働かなくても大丈夫なのかなと思っていましたが、それにしてもよく来てくれました。
だから、練習メニューも細かい技術面も教えてもらいました。
一般には、走って、体操をして、柔軟体操をして、フットワークに入ります。
それが済むと、向かい合ってのパス練習です。終わると、ランニングシュート、ツーメン、スリーメン、などをやり、最後は5対5をやって終わりというパターンです。
オールコートが使えるときは、ゲーム形式の練習をします。外コートの時は、バスケットコートが丸々一面使えたので、かなり楽でしたが、体育館ができてからは、半分のコートでやることが増えました。丁度この頃体育館ができました。
体育館では、バスケット男女、バレー男女が練習するので、みんなハーフコートになってしまうのです。それは、仕方がないですね。
ただ、他のチームと変わっていたのは、練習の途中でストップさせて、そこはこのようにやった方がいいとか、教えるのが私だったことです。私はキャプテンでしたが、まるでコーチでした。Tさんに教えてもらったこともありましたが、元々持っているおせっかいが、このような行動をとらせたのでしょう。
きっと、外から見ていたら、卒業生の先輩が教えているように見えたかもしれません。これは、私の悪い癖かな?しかし、少しオーバーに聞こえるかもしれませんが、私はまるで先生みたいでした。
これは、私は小学校3年生くらいから、始まっています。ソフトボールをしていても、自分はノックをして友達をしごきます。千本ノックだとか言って、ふざけてしごくのです。そして、失敗すると、友達にグランド一周を命じました。きっと、中学の野球部を見ていて真似をしたのだと思います。しかし、友達もよく私の言うことに従うのです。また、本当に下手な子には、丁寧に教えてやりました。トンネルをしないようにするには、腰を落として、グローブを地面に着けて取るといいよ。などと教えるのです。私は、そういう子でした。
だから、失敗した子をグランド一周などと言ったのは、少し上手になった子ですね。子供ながらに、そんな判断もしていたようです。当然できる子ができなかったときだったようです。
バスケット部に入っても、先輩がいじめのように、プレッシャーをかけますが、そのプレッシャーのかけかたも罰の与え方も、その裏には、公平さとか、みんなが納得する範囲とか、いろいろな要素が含まれています。それが、矛盾すると反発になったり、いろいろな気持ちが現れます。それは、そういうことを通して、学んでいるんだなと思います。
私が、プレーの途中で停止させて、指示したり、教えたりしても誰も文句を言わないのは、私がプレーに対して信頼があったからだと思います。そうでなければ、同級生ですから、うるせえなあと言われてしまうでしょう。
私は、「そこはこうする、もしこう来たらこうする」という形で、やってみせました。
たぶん、これを聞いたら、驚くかもしれませんね。だから、神川のO君が感じた親分のように見えたのかもしれません。別に威張っていた訳ではないんですけどね。
でも態度が大きかったのかな?私は、すでに、先生ごっこをしていたのでしょう。
試合になれば、みんな私にボールを集めます。私にパスをすれば何とかしてくれるという気持ちがあって、頼っていたのです。シュートが入ったからです。いくらいいプレーをしても、最後のシュートが決まらなければ、何にもならないのです。そして、シュートが入らないと敵のボールになるケースが多いです。
そうなると、シュートというのは責任があります。失敗したらどうしようという気持ちが働きます。だから勇気がいるのです。成功したら褒められる、失敗したら文句を言われるということです。
私は、度胸もあったのでしょう。それと一人練習が生きています。練習中より試合の方がよく入りました。試合の方が慎重になるからでしょうか。とにかく、自分でもよく入るなあと思ったこともありました。リングに当たらずにスポッと入るのです。私は、リングにぶつかって入ったのは、入ったことにならないと思っていました。リングの真ん中に音もせずにスポッとでないと気が済まないのです。
だから、みんなからの信頼はこのシュートが入るということからも来ています。
ーーーー
先生が素人だと、何度も言っていますが、だからと言って何も知らない訳ではありません。元々は野球部の先生でしたが、体育の先生ですし、先生方でバスケットをやらせれば、一番上手な先生でした。だから、このK先生が顧問になると知った時は、嬉しかったです。しかし、そうは言っても、私のようにここはこうするという形で教えることはできません。理論で教えてくれますが、上手にやってみせることはできないのです。
ただ、凄いと思うのは、コーチを上手に手配してくれたことです。練習試合もうまく組んでくれました。それは、女子の顧問のU先生のアドバイスもあったと思いますが、後で考えたら、自分たちが一度負けた相手には必ずと言っていいくらい、リベンジのチャンスと与えてくれました。
県大会で負けた小川東とリベンジマッチを組んでくれて、きちんと借りを返しましたし、その後も、同様のことが出て来ます。先生は先生なりに悔しさをそのままにしない人だったのだなと思います。ここで、言ってしまっては、いけないのかもしれませんが、言い忘れると困るので、話しますが、実は、県北大会でトリプルで負けた熊谷大原にも練習試合を申し込んで、夏にはひっくり返してしまったのです。
まるで、大人と子供くらいの差があったあの大原中学です。私の人生において、これほどの教訓はありません。諦めてはいけない。あの大原をひっくりかえすことができたんだからと。この経験は大きいと思います。本当に信じられないできごとでした。
そのチャンスを作ってくれた先生には感謝です。もし練習試合をやらなければ、私は、世の中にはとても敵わない強敵がいるのだと思ったまま、過ぎていただろうと思うのです。どんなに敵わないと思える相手でも、戦い方がある。やり方次第でひっくり返すことができるという教訓です。
もし、私が風邪を引かないで、県大会に行っていたら、優勝をしていたかもしれないとマネージャーが言った時、それは無理だよと思ったのは、この大原と深谷が強いからと思ったのですから。いや、そうではないかもしれないと思う気持ちが生まれたのは、このリベンジにあります。
ちっぽけな自分でも、見えないところでの地道な練習や、本気になることで、いつかきっとという強い気持ちを続けて行けば、どこかで勝てる日が来るというような気持ちが持てたのです。これは大きいです。だから、日本一の美術部を作るなどという夢物語を描けるのだろうと思います。
私のバスケットの経験は、そういう意味ではいろいろな人たちの教えが含まれているのだなと思います。
私たちは、次の春の県大会に向けて動き出しました。
それは、3年生になる春でした。
ただ、ここで、一つ説明しておかなければならないことがあります。
先生が素人だという話をしましたが、そんなチームがこんなに強いのはおかしいと思いませんか。普通ならこんなに勝てません。実は、そこにはボランティアで教えに来てくれるコーチがいたのです。
私は、このTコーチに教えてもらっていたのです。だから強くなれたのだと思います。この人は、どうして仕事もしないで、中学のコーチなどをしていられたのか、不思議です。家の仕事がありながらも、お坊ちゃんで働かなくても大丈夫なのかなと思っていましたが、それにしてもよく来てくれました。
だから、練習メニューも細かい技術面も教えてもらいました。
一般には、走って、体操をして、柔軟体操をして、フットワークに入ります。
それが済むと、向かい合ってのパス練習です。終わると、ランニングシュート、ツーメン、スリーメン、などをやり、最後は5対5をやって終わりというパターンです。
オールコートが使えるときは、ゲーム形式の練習をします。外コートの時は、バスケットコートが丸々一面使えたので、かなり楽でしたが、体育館ができてからは、半分のコートでやることが増えました。丁度この頃体育館ができました。
体育館では、バスケット男女、バレー男女が練習するので、みんなハーフコートになってしまうのです。それは、仕方がないですね。
ただ、他のチームと変わっていたのは、練習の途中でストップさせて、そこはこのようにやった方がいいとか、教えるのが私だったことです。私はキャプテンでしたが、まるでコーチでした。Tさんに教えてもらったこともありましたが、元々持っているおせっかいが、このような行動をとらせたのでしょう。
きっと、外から見ていたら、卒業生の先輩が教えているように見えたかもしれません。これは、私の悪い癖かな?しかし、少しオーバーに聞こえるかもしれませんが、私はまるで先生みたいでした。
これは、私は小学校3年生くらいから、始まっています。ソフトボールをしていても、自分はノックをして友達をしごきます。千本ノックだとか言って、ふざけてしごくのです。そして、失敗すると、友達にグランド一周を命じました。きっと、中学の野球部を見ていて真似をしたのだと思います。しかし、友達もよく私の言うことに従うのです。また、本当に下手な子には、丁寧に教えてやりました。トンネルをしないようにするには、腰を落として、グローブを地面に着けて取るといいよ。などと教えるのです。私は、そういう子でした。
だから、失敗した子をグランド一周などと言ったのは、少し上手になった子ですね。子供ながらに、そんな判断もしていたようです。当然できる子ができなかったときだったようです。
バスケット部に入っても、先輩がいじめのように、プレッシャーをかけますが、そのプレッシャーのかけかたも罰の与え方も、その裏には、公平さとか、みんなが納得する範囲とか、いろいろな要素が含まれています。それが、矛盾すると反発になったり、いろいろな気持ちが現れます。それは、そういうことを通して、学んでいるんだなと思います。
私が、プレーの途中で停止させて、指示したり、教えたりしても誰も文句を言わないのは、私がプレーに対して信頼があったからだと思います。そうでなければ、同級生ですから、うるせえなあと言われてしまうでしょう。
私は、「そこはこうする、もしこう来たらこうする」という形で、やってみせました。
たぶん、これを聞いたら、驚くかもしれませんね。だから、神川のO君が感じた親分のように見えたのかもしれません。別に威張っていた訳ではないんですけどね。
でも態度が大きかったのかな?私は、すでに、先生ごっこをしていたのでしょう。
試合になれば、みんな私にボールを集めます。私にパスをすれば何とかしてくれるという気持ちがあって、頼っていたのです。シュートが入ったからです。いくらいいプレーをしても、最後のシュートが決まらなければ、何にもならないのです。そして、シュートが入らないと敵のボールになるケースが多いです。
そうなると、シュートというのは責任があります。失敗したらどうしようという気持ちが働きます。だから勇気がいるのです。成功したら褒められる、失敗したら文句を言われるということです。
私は、度胸もあったのでしょう。それと一人練習が生きています。練習中より試合の方がよく入りました。試合の方が慎重になるからでしょうか。とにかく、自分でもよく入るなあと思ったこともありました。リングに当たらずにスポッと入るのです。私は、リングにぶつかって入ったのは、入ったことにならないと思っていました。リングの真ん中に音もせずにスポッとでないと気が済まないのです。
だから、みんなからの信頼はこのシュートが入るということからも来ています。
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先生が素人だと、何度も言っていますが、だからと言って何も知らない訳ではありません。元々は野球部の先生でしたが、体育の先生ですし、先生方でバスケットをやらせれば、一番上手な先生でした。だから、このK先生が顧問になると知った時は、嬉しかったです。しかし、そうは言っても、私のようにここはこうするという形で教えることはできません。理論で教えてくれますが、上手にやってみせることはできないのです。
ただ、凄いと思うのは、コーチを上手に手配してくれたことです。練習試合もうまく組んでくれました。それは、女子の顧問のU先生のアドバイスもあったと思いますが、後で考えたら、自分たちが一度負けた相手には必ずと言っていいくらい、リベンジのチャンスと与えてくれました。
県大会で負けた小川東とリベンジマッチを組んでくれて、きちんと借りを返しましたし、その後も、同様のことが出て来ます。先生は先生なりに悔しさをそのままにしない人だったのだなと思います。ここで、言ってしまっては、いけないのかもしれませんが、言い忘れると困るので、話しますが、実は、県北大会でトリプルで負けた熊谷大原にも練習試合を申し込んで、夏にはひっくり返してしまったのです。
まるで、大人と子供くらいの差があったあの大原中学です。私の人生において、これほどの教訓はありません。諦めてはいけない。あの大原をひっくりかえすことができたんだからと。この経験は大きいと思います。本当に信じられないできごとでした。
そのチャンスを作ってくれた先生には感謝です。もし練習試合をやらなければ、私は、世の中にはとても敵わない強敵がいるのだと思ったまま、過ぎていただろうと思うのです。どんなに敵わないと思える相手でも、戦い方がある。やり方次第でひっくり返すことができるという教訓です。
もし、私が風邪を引かないで、県大会に行っていたら、優勝をしていたかもしれないとマネージャーが言った時、それは無理だよと思ったのは、この大原と深谷が強いからと思ったのですから。いや、そうではないかもしれないと思う気持ちが生まれたのは、このリベンジにあります。
ちっぽけな自分でも、見えないところでの地道な練習や、本気になることで、いつかきっとという強い気持ちを続けて行けば、どこかで勝てる日が来るというような気持ちが持てたのです。これは大きいです。だから、日本一の美術部を作るなどという夢物語を描けるのだろうと思います。
私のバスケットの経験は、そういう意味ではいろいろな人たちの教えが含まれているのだなと思います。