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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

バスケットの思い出13

2009-12-03 | 思い出
新人戦の県大会は、終わりました。

私たちは、次の春の県大会に向けて動き出しました。
それは、3年生になる春でした。

ただ、ここで、一つ説明しておかなければならないことがあります。
先生が素人だという話をしましたが、そんなチームがこんなに強いのはおかしいと思いませんか。普通ならこんなに勝てません。実は、そこにはボランティアで教えに来てくれるコーチがいたのです。

私は、このTコーチに教えてもらっていたのです。だから強くなれたのだと思います。この人は、どうして仕事もしないで、中学のコーチなどをしていられたのか、不思議です。家の仕事がありながらも、お坊ちゃんで働かなくても大丈夫なのかなと思っていましたが、それにしてもよく来てくれました。

だから、練習メニューも細かい技術面も教えてもらいました。

一般には、走って、体操をして、柔軟体操をして、フットワークに入ります。
それが済むと、向かい合ってのパス練習です。終わると、ランニングシュート、ツーメン、スリーメン、などをやり、最後は5対5をやって終わりというパターンです。

オールコートが使えるときは、ゲーム形式の練習をします。外コートの時は、バスケットコートが丸々一面使えたので、かなり楽でしたが、体育館ができてからは、半分のコートでやることが増えました。丁度この頃体育館ができました。
体育館では、バスケット男女、バレー男女が練習するので、みんなハーフコートになってしまうのです。それは、仕方がないですね。

ただ、他のチームと変わっていたのは、練習の途中でストップさせて、そこはこのようにやった方がいいとか、教えるのが私だったことです。私はキャプテンでしたが、まるでコーチでした。Tさんに教えてもらったこともありましたが、元々持っているおせっかいが、このような行動をとらせたのでしょう。

きっと、外から見ていたら、卒業生の先輩が教えているように見えたかもしれません。これは、私の悪い癖かな?しかし、少しオーバーに聞こえるかもしれませんが、私はまるで先生みたいでした。

これは、私は小学校3年生くらいから、始まっています。ソフトボールをしていても、自分はノックをして友達をしごきます。千本ノックだとか言って、ふざけてしごくのです。そして、失敗すると、友達にグランド一周を命じました。きっと、中学の野球部を見ていて真似をしたのだと思います。しかし、友達もよく私の言うことに従うのです。また、本当に下手な子には、丁寧に教えてやりました。トンネルをしないようにするには、腰を落として、グローブを地面に着けて取るといいよ。などと教えるのです。私は、そういう子でした。
だから、失敗した子をグランド一周などと言ったのは、少し上手になった子ですね。子供ながらに、そんな判断もしていたようです。当然できる子ができなかったときだったようです。

バスケット部に入っても、先輩がいじめのように、プレッシャーをかけますが、そのプレッシャーのかけかたも罰の与え方も、その裏には、公平さとか、みんなが納得する範囲とか、いろいろな要素が含まれています。それが、矛盾すると反発になったり、いろいろな気持ちが現れます。それは、そういうことを通して、学んでいるんだなと思います。

私が、プレーの途中で停止させて、指示したり、教えたりしても誰も文句を言わないのは、私がプレーに対して信頼があったからだと思います。そうでなければ、同級生ですから、うるせえなあと言われてしまうでしょう。

私は、「そこはこうする、もしこう来たらこうする」という形で、やってみせました。

たぶん、これを聞いたら、驚くかもしれませんね。だから、神川のO君が感じた親分のように見えたのかもしれません。別に威張っていた訳ではないんですけどね。
でも態度が大きかったのかな?私は、すでに、先生ごっこをしていたのでしょう。

試合になれば、みんな私にボールを集めます。私にパスをすれば何とかしてくれるという気持ちがあって、頼っていたのです。シュートが入ったからです。いくらいいプレーをしても、最後のシュートが決まらなければ、何にもならないのです。そして、シュートが入らないと敵のボールになるケースが多いです。
そうなると、シュートというのは責任があります。失敗したらどうしようという気持ちが働きます。だから勇気がいるのです。成功したら褒められる、失敗したら文句を言われるということです。

私は、度胸もあったのでしょう。それと一人練習が生きています。練習中より試合の方がよく入りました。試合の方が慎重になるからでしょうか。とにかく、自分でもよく入るなあと思ったこともありました。リングに当たらずにスポッと入るのです。私は、リングにぶつかって入ったのは、入ったことにならないと思っていました。リングの真ん中に音もせずにスポッとでないと気が済まないのです。

だから、みんなからの信頼はこのシュートが入るということからも来ています。

ーーーー
先生が素人だと、何度も言っていますが、だからと言って何も知らない訳ではありません。元々は野球部の先生でしたが、体育の先生ですし、先生方でバスケットをやらせれば、一番上手な先生でした。だから、このK先生が顧問になると知った時は、嬉しかったです。しかし、そうは言っても、私のようにここはこうするという形で教えることはできません。理論で教えてくれますが、上手にやってみせることはできないのです。
ただ、凄いと思うのは、コーチを上手に手配してくれたことです。練習試合もうまく組んでくれました。それは、女子の顧問のU先生のアドバイスもあったと思いますが、後で考えたら、自分たちが一度負けた相手には必ずと言っていいくらい、リベンジのチャンスと与えてくれました。

県大会で負けた小川東とリベンジマッチを組んでくれて、きちんと借りを返しましたし、その後も、同様のことが出て来ます。先生は先生なりに悔しさをそのままにしない人だったのだなと思います。ここで、言ってしまっては、いけないのかもしれませんが、言い忘れると困るので、話しますが、実は、県北大会でトリプルで負けた熊谷大原にも練習試合を申し込んで、夏にはひっくり返してしまったのです。

まるで、大人と子供くらいの差があったあの大原中学です。私の人生において、これほどの教訓はありません。諦めてはいけない。あの大原をひっくりかえすことができたんだからと。この経験は大きいと思います。本当に信じられないできごとでした。

そのチャンスを作ってくれた先生には感謝です。もし練習試合をやらなければ、私は、世の中にはとても敵わない強敵がいるのだと思ったまま、過ぎていただろうと思うのです。どんなに敵わないと思える相手でも、戦い方がある。やり方次第でひっくり返すことができるという教訓です。
もし、私が風邪を引かないで、県大会に行っていたら、優勝をしていたかもしれないとマネージャーが言った時、それは無理だよと思ったのは、この大原と深谷が強いからと思ったのですから。いや、そうではないかもしれないと思う気持ちが生まれたのは、このリベンジにあります。

ちっぽけな自分でも、見えないところでの地道な練習や、本気になることで、いつかきっとという強い気持ちを続けて行けば、どこかで勝てる日が来るというような気持ちが持てたのです。これは大きいです。だから、日本一の美術部を作るなどという夢物語を描けるのだろうと思います。

私のバスケットの経験は、そういう意味ではいろいろな人たちの教えが含まれているのだなと思います。




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バスケットの思い出12

2009-12-02 | 思い出
新人戦の県大会予選がやってきました。

場所は、神川中学です。予選は8チームです。児玉郡本庄市を合わせてもそれだけの中学数でした。その中から1チームだけ県大会に出られます。ということは、とにかく優勝しなければなりません。

我々は、当然それを目標にしました。3年生のチームでは、本庄西に負けて県大会に行けなかったのです。その意味で、リベンジでした。

組み合わせを見ると、強敵と思われた上里が本庄西のブロックに入っています。ホーと思いました。心の中では、ラッキーという感じです。県北大会の様子を見ていて、もしかしたら上里が一番強いのではないかと思ったくらいですから、もし、本庄西が負けて上里が上がって来ても、当たるのは決勝です。準決勝で、本庄西と上里がぶつかれば、どちらも疲れて、楽々勝ちあがる我々にとっては、体力的にも消耗がなくて有利だと思いました。それと、もしかして、上里が上がってきた場合でも、上里は県大会の経験がありません。だから、いざとなったらプレッシャーもかかるはずだと思いました。

我々は、そういう意味では、楽な気持ちで、試合に臨みました。

ーーーー

一回戦が始まりました。そこでおかしなことが起こりました。
始まったら、直ぐに先生がどこかに行ってしまったのです。
審判は、監督がいなくていいのですかと言っていました。私も、「えーー」と思いました。そうしたら、「大丈夫だよ、見てなくても楽勝だから」と言っていたというのです。そういうのは、いいのでしょうか?先生はどんな用事があったのでしょう。今考えると、そういうことはあり得ない話です。審判に叱られます。何かの反則になるのではないでしょうか。なのに、先生は余裕を見せているのか、平然といなくなりました。
私は正直言って、不安になりました。試合とは監督の指示に従って戦うのです。まずい展開になれば、タイムアウトを取って、発破をかけたり、指示を出したりするのです。それが、先生は全く心配ないというのか、いなくなりました。

確かに、負ける気はしないし、先生がいなくても戦うのは私たちですから、問題ありません。先生は素人ですから、勝ち方は我々の方がよくわかっています。コーチもまだ来ていませんでした。だから、信じられないことですが、ベンチに監督、コーチなしで試合が始まりました。

試合は、先生の予想どおり、先生がいない内に大差がつきました。そして先生は余裕を持って、戻ってきました。それからは、相手チームには悪いのですが、どんどんメンバーチェンジをして一年生まで出させる形で、終わりました。

次は、準決勝です。相手は神川中学でした。会場校ということもあり、応援はたくさん来ました。しかし、これも大差で勝ちました。この神川中学のキャプテンはO君と言いますが、後に高校時代に一緒になります。高校2年と3年で同じクラスになりました。彼との縁はここから始まりました。ただ、彼は何を勘違いしたのか、私がそうとうな不良だと思ったそうです。試合中にすごいファールを受けた時、「ふざけんなこの野郎」と言ってしまったのです。それは、本来なら暴言でしょう。しかし、審判にはとがめられませんでした。その時の目つきなどから、彼はその後ずっと私が不良の親分くらいに感じていたらしいのです。高校に行ってからずっと言われました。まあ、キャプテンでもあったし、まるで先生のように振舞っていて、親分的に見えたかもしれません。

その暴言は、相手があまりにバスケットの動きを知らないので、来る筈もないところへぶつかられて、私が痛い思いをさせられたのです。それは酷いファールでした。とても敵わないと思った時に、相手のエースを潰せということがありますが、こんなことをされては、怪我をしてしまうというものでした。だから怒った私を審判が咎めなかったのかもしれません。

とにかく、我々は、楽勝で決勝に進みました。

ーーーー
反対のブロックを見ていると、準決勝で上里と本庄西が戦っています。私の予想通り、なかなかの接戦で、やはり上里が思ったより強いと思いました。だから、もしかしたら上里が勝って上がって来るかもしれないとも思いました。

その時の本庄西の印象は、キャプテンの(やはりO君と言いますが)髪型でした。
長い髪をなびかせてとまでは言いませんが、少し長めの髪を7-3に分けて、黒髪をかき上げます。シュートを決める度に、中指と薬指の間に前髪を挟んで、正面から左上にかきあげるのです。それが実にかっこいいのです。顔もいいので、女の子がキャーキャーいうような感じでした。

我々と言えば、坊主頭です。かき上げる髪の毛がありません。だから、それを見ていて、カッコいいなあと思いながら、「チキショウ、かっこつけやがって」と苦々しく思っていました。マンガで言えば、星飛雄馬に対して、花形満が出て来たような感じでしょうか?それとも柔道一直線の一条直也に対する、あれ??ピアノを足で引くかっこいい男は誰でしたっけ?(近藤正臣かな?)
とにかく、そんな感じでした。そのOくんは、自分がモテることを自覚しているかのように、声援に笑顔で答えるのでした。

結局、僅差ではありましたが、本庄西が勝って、決勝に上がってきました。

ーーーーーー
そして、とうとう決勝戦が始まりました。

我々は、準決勝までは、ゾーンディフェンスでしたが、この決勝だけは、マンツーマンにしました。ここ一番という勝負のときだけ、使うディフェンスです。本庄西は、そのディフェンスに戸惑いました。本来はマンツーマンディフェンスは当たり前の戦法なのですが、その頃の私たちは、体力がありません。いつもそれを使っていると、疲れて体力が続きません。だから、できればゾーンディフェンスで行って、ここが勝負というときに使う方法なのです。それを、決勝では初めから終わりまで使いました。
それに対して、相手はゾーンディフェンスです。我々は、どちらかと言えば、攻めるときに休めました。相手もマンツーマンで来たら、きっと体力が続かなかったでしょう。
戦いは、ほとんど五分五分でしたが、後半から差が出て来て、最終的には、10点以上差がついて、我々が勝ちました。最後の方は、私も調子づいて、入らないようなとんでもないシュートが入ったりして、周りを驚かせました。

後で聞いた感想では、あんな凄い奴がいるんじゃあ、児玉にはとても勝てないと噂が広がったということでした。高校になってからその時の様子を見ていた友達に聞く度にそのように言われました。もし、MVPというものがあれば、あの時はおそらく私がもらっていただろうと思います。

私は、試合が終わった時、ヤッターと思いました。先輩たちが果たせなかった県大会出場を決めたぞ!と誇らしい気持ちでした。同時に女子も優勝したので、こういうのをアベック優勝というんだなと思って、更にいい気分でした。しかし、優勝しても涙は出なかったように思います。さも当然という顔をしていたような気がするのですが、どうだったでしょうか。
勝って泣くことは、もう県北大会の一回戦で全てやってしまいました。だから、その後の大会で勝っても泣くことはなかったような気がします。

ーーー
しかし、私はこの後、とんでもない失敗をします。
それは、風邪を引いてしまったのです。なぜ、風邪を引いたのかはよくわかっています。勝ったという安堵感から、気を抜いたのです。試合が終わって、着換えるとき背中がゾクゾクとしました。やった!勝ったんだと勝利をしみじみと味わった後、もうどうやっても勝ちは勝ちだと思い、そう言えばいろいろな場面でゲン担ぎをしていたなあと思いました。だから気を抜いたら勝てないということも含まれていて、勝ったのでもう気を抜いても大丈夫だと思いました。実はいろいろなゲン担ぎをしていたのです。スポーツ選手には、そういう人がたくさんいますね。勝ち続けている内は髭を剃らないという人の話はよく聞きます。
私たちは中学生ですから、髭はありませんが、それでもいろいろなことに勝ち負けの理由をつけました。しかし、もう勝ったんだ、何をどうしてももう勝ちは変わらないと思った瞬間に、あーっと気が抜けました。いままで気を張っていたのです。
キャプテンとしての責任も感じていました。だからそれが果たせて、ほっとしたのです。それが、いけませんでした。
本当にとんでもない大風邪でした。一週間くらい学校を休んだと思います。そのために、私は結局、県大会に行けませんでした。ええーー??でしょ。

それでも、児玉中学は二回戦まで行きました。その二回戦でも、もしかしたら勝てそうな展開になったのだそうです。私のワンマンチームの筈が、私がいなくてもそんな勝ち方ができるくらい、他のメンバーもうまくなっていたのですね。

ーーー
試合当日、疲れているのに、先生が私の家まで来てくれて、試合の状況を報告してくれました。私は袢纏を着て先生の話を炬燵で聞きました。先生と正面で向き合って話すのは滅多にないので、緊張して目のやり場に困りました。しかし、仲間がとても頑張ってくれたんだなとわかりました。
この試合に勝って、次は菅野に出てもらうんだと気持ちを一つにして立ち向かったと聞きました。私はとてもうれしく思い、それと同時に仲間に済まないことをしたと感じました。

部活紹介では、マネージャーが1年生向けに話をしましたが、キャプテンが風邪を引いて行けなかったのに、二回戦まで進んだ。もしかしたら勝てるかもしれないところまで、相手を追い込んだ、だから、もし菅野が行っていれば、優勝したかもしれないとまで、大げさに紹介したそうです。
それは、無理でしょうね。県北大会で大原にとんでもない目にあっていますし、それ以上に大男のいる深谷が強かったのですから。

しかし、そんな風に言われたことを思い出しました。

ーーーーー
後日談になりますが、その相手というのは、小川東中学でした。
我々は、練習試合を申し込みました。そして、楽勝しました。実は、県大会の時はキャプテンがいなかったんだ。だから負けたんだ、本当はこんなに強いんだぞと示した形になりました。だから、本当に悔しいのです。私が行けていたら、どこまで勝ち進めていたのか、それを知りたかったですね。

ーーーーー










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バスケットの思い出11

2009-12-01 | 思い出
やはり、書きだすと長くなりますね。

私は、この県北大会でかなりのシュートを決めて大活躍をしたのですが、一つだけ自分でも不思議なことがありました。それは、今までやったこともないシュートフェイントというものをその場でとっさに編み出したことです。
これについては、それ以前にどこかでやったかな?と友だちに聞いても、さあ知らないと言われるのではないかと思います。自分でも記憶にないからです。その記憶にないことを本番のこの大会で初めて試みたのでした。すると、何ということか?みんながひっかかってくれました。
このシュートフェイントというのは、その後のバスケット生活では当たり前のように出てくることなのですが、それまで、私は教えてもらってもいないことでした。だから、自分ではこのときできたことが不思議でなりません。おそらくどこかで誰かがやるのを見ていたのだろうとは思うのです。それでも、やったことがなく、どうすればいいのかも分からないでいたはずなのに、できてしまいました。これこそ、神様が教えてくれた技という気がしました。
それは、リングの近いところで、ジャンプシュートを打つ場合、大抵はディフェンスがいて打てないのです。それをシュートを打つふりをして、ジャンプするふりをするのです。すると相手は私がジャンプシュートに来ると思って、邪魔をするために一緒に飛び上がろうとします。しかし、私はジャンプをしないのです。そのため、相手だけがジャンプをすることになります。要するにひっかけるのです。
そして、相手がジャンプから降りてくるタイミングを狙って、今度は私がジャンプします。すると相手が地面に着地したときに、私はジャンプの頂点で楽にシュートを打つことができるのです。これが、実に見事に引っかかってくれました。要するに騙しのテクニックですね。新人戦のこのときには、まだ未熟なので、みんながひっかかってくれたのでした。そのため、私は随分点を取りました。

チームメートは、私のその技をどう思ったのか分かりませんが、とにかくよく引っかかるので、「馬鹿だいなあ、菅野のシュートフェイントにみんなひっかかってやがんの」と笑いながら言っていたのを覚えています。私は、あんまり言うなよ、ひっかからなくなると困るからと思っていました。
そうです、よく考えたら、私はジャンプシュートができるようになって、試合で使いだしてまだあまり時間が経っていなかったのです。だからフェイントどころではなかったのですね。そのため、記憶にないのです。チャンスがあれば、必死でジャンプシュートを打ったことはありましたが、リング下で相手を振り切ってシュートを打てるような余裕は、それまではなかったのです。

ーーーーーーー

それから、この大会で、一つだけ脅威を感じたことがありました。それは、上里中学が強いことでした。この後、私たちは県大会の予選が迫っていました。それは、この上里中とも戦うことが予想されたのです。
良く見ると、昨年戦った選手が出ています。あれーと思いました。なんだよあれは三年生じゃなかったのかよと。実は、その選手は二年生でレギュラーになっていたのでした。そのため、試合慣れしています。だから県北大会でもひときわプレーが派手で目立ちました。一応、二回戦あたりで負けてくれたので、私たちは戦わないで済みましたが、もし勝ちあがっていたら、県大会の予選の前に、この県北大会でぶつかっていたことになるのでした。

しかし、よく考えたら、私たちも同じでした。私と副キャプテンのIくんは、同様に二年生から試合に出ていたのですから。相手も同じように思ったはずです。そのことを忘れて、ずるなあという気持ちでいました。

本当は、一番の強敵は本庄西です。一つ上の先輩たちは、県大会で優勝しているのです。だから、もちろんですが、後輩ではあってもそれを眼の前で見ていて、県大会を知り尽くしているのです。そのチームに勝たなければ県大会には行けません。だから、私たちは何とか本庄西に勝つことを目標にしていました。ところがです。強敵はそれだけではありませんでした。大変なことになったぞと思いました。

決勝までは、楽勝で行けると踏んでいた県大予選が、その前にもう一つ越えなければならない相手が出現したのです。そんな感じでした。もしかしたら、本庄西より強敵かもしれないのです。それを考えながら、県北大会から戻ったことを覚えています。



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バスケットの思い出10

2009-12-01 | 思い出
一回戦で、とんでもない大接戦を繰り広げた私たちは、勝った勢いに乗って、等々準決勝に進出しました。

延長の延長の延長という聞いたこともないような大接戦をしたために、競って戦うことがあまり苦しく感じなくなってしまったのか、本当なら、苦しい接戦のはずの二回戦は、1ゴール差なのにも関わらず、苦しいとも思わず、2点差で勝っていることをかなり楽に戦っているような気になっていました。だから、その分心が強くなっていたのでしょうか。

先に行けば行く程、強い相手と戦うはずなのに、そんなことも感じないまま3回戦も勝ってしまい、準決勝に駒を進めたのでした。

ーーーーー

準決勝は、翌日行なわれました。相手は、熊谷大原でした。
私たちは、まだどこがどのくらい強いのか知りません。どことやっても怖いもの知らずです。だから、作戦もなく平然と戦いました。しかし、そこで初めてビックリしました。なぜかというと、大原はそれまで戦った相手とは全く違うのです。我々はほとんどチェストパスなのに、大原はオーバーヘッドパスが主流で、我々の高さとは一段違う場所でパスをしていました。まるで、大人の高さでプレーされているような感じでした。こんなに違うバスケットがあるのかという感じです。ハイレベルのバスケットに出会った感じでした。しかも、大原は我々に点を与えず、立て続けに点を取るのです。2-0 4-0 6-0と大原ばかり点が入り、私たちは点が取れません。
また、私がハイポストに立っても、そこにボールを入れさせないのです。私たちのチームは私がほとんど点を取るので、仲間は私にばかりパスを渡そうとします。大原はそれを百も承知というように、とにかく私がパスを受け取れないように、妨害をします。それは当たり前のことなのですが、普通なら一人で守るところを二人で守るのです。私はハイポストに立った時、両側から挟まれて私の顔の前に二人の手が置かれました。いくら振りほどこうとしても、両側から手が伸びて、私にパスを取らせないようにしています。これには、参りました。
実は、そうなると、本来なら一人に一人づつという感じだから、誰か一人私たちのチームでフリーな選手がいるわけです。しかし、我々のチームは私のワンマンチームでしたから、みんなが私に頼って、二番手が活躍するようになりません。大原はそれが分かっていました。きちんと児玉中の試合を見て、研究していたのです。児玉は4番を抑えれば勝てると分かっていたのです。4番とはキャプテン番号です。私が4番を付けていました。

結局、我々はほとんど相手にされず、トリプルスコアーで負けました。40-20などで負けることをダブルスコアーで負けたと言いますが、この試合は60-20くらいで負けたのです。相手が3倍も点を取ったのです。参りました。
新人戦でこんなにしっかりできあがっているチームがあった。しかも、プレーが全く違う。おなじ学年の生徒と戦っている気がしませんでした。まるで大人と子供でした。優勝をするつもりでなどということは夢のまた夢になってしまいました。

しかし、もっと驚いたのは、その大原が決勝で負けてしまったことです。深谷に180センチくらいの大男がいて横幅もあって、完全に大人が一人混ざっている感じ
です。その一人にやられてしまった感じでした。自分でシュートを打って、自分で取りに行って、また自分で押し込んでくるというようなプレーが普通にできてしまうのです。だから、最初のシュートは入らなくてもいいのです。バックボードにぶつけておいて、それを自分で取って、リング下で入れ直せばいいのです。
なんだよ、ずるいぞ!と言いたくなるくらいの状況でした。これでは、いくら組織的に上手い大原でもとても歯が立ちません。その結果、深谷が大差で優勝しました。
それが、新人戦の県北大会の結果でした。3位決定戦は行なわれず、2チームが3位ということになりました。

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バスケットの思い出9

2009-11-30 | 思い出
練習メニューは私が考えていたと書きました。

3年生がいるときは、キャプテンの指示に従いますが、居ない時は私です。
実は、顧問の先生がバスケットの素人でした。だから、練習のパターンを知りません。そのため、私は、1年生の時に3年生が作ってくれた練習パターンを覚えていて、それを常に繰り返していました。ただし、時々、来てくれるコーチからやり方を教えてもらい、少しづつ取り入れて、変化をつけていました。

その頃は、まだ、体育館がありません。外のコートです。しかもグランドはまだ完璧ではなく、穴を掘って土管を埋めたりの作業があったので、元の中学校のコートまで戻って練習をしていました。

私は、3年生に混ざってレギュラーになり試合に出るようになりましたが、その頃は先生が素人だということもあったのですが、とにかく5ファールで退場にならない限り、私はコートから出ることはありませんでした。今の人が聞いたら、それはバスケットを知らないねと言われるでしょうね。
バスケットというスポーツは、初めから終わりまで、出ずっぱりというものではありません。必ずメンバーチェンジをして、少し休んではまた交代して出るというのが普通です。なんとかやれたのは、ゾーンディフェンスだったからでしょうか。

しかし、その頃、本庄西中学は、凄いことをしていました。メンバーチェンジを頻繁に繰り返して、時には、5人とも全部取り換えをしてしまうのです。なんだ?と思いました。それだけ使える選手がいるということなのです。ベストメンバーと控えの選手の力の差があまりないのです。凄いなあと思いました。そして、それに憧れました。選手は休めるから出た時は思い切りできます。疲れたらすぐに交代できます。補欠という感覚がなくて、誰もが自信を持っています。そして、そのチームが県大会で優勝してしまったのです。

我々児玉中学はその本庄西中学と前半は、ほとんど互角に戦ったのですよ。だから児玉中も弱くはなかったのですが、常に本庄西中と当たって、敗れました。それで、春と夏は県大会に行けませんでした。
だから、私が二年生の時は、新人戦で県大会に行っただけで、その後はいけませんでした。
ーーーーー
そして、私たちの時代が来ました。

私は、キャプテンになりました。これは、当然でしょうね。しかし、それでも決める時は、投票をして決めました。その結果を見るときはドキドキしました。私はクラスの学級委員も3年間務めましたが、その投票よりずっと緊張しました。やはりキャプテンの重みは、かなり重い物です。

そして、その時に感じたことは、二年生の時に、先輩たちが練習に出てこないので、二年生だけで試合に行きましょうと先生に言ったくらい生意気だったのに、いざ先輩がいなくなってみると、結構大変だなと思いました。責任の重さです。それで、いままでは、なんだかんだといっても先輩がいるので、甘えていたんだなと感じました。

部活に入って初めて感じた不安感でした。

ーーーーーーー

最初の試合は、県北新人大会でした。ここで、私たちは大活躍の児玉旋風を巻き起こします。誰も予想しなかった児玉中が準決勝まで勝ち進んだのです。

しかし、その前に、一回戦の話をしなければなりません。その試合は、同点で延長でした。そして、延長をやっても決着がつかず、再延長をやりました。途中で、我々のフリースローになり、二つ打つ内の一つでも入れば勝ちという瞬間がありました。しかし、二つとも入りません。また、その逆に相手のフリースローになり、一つ入れば相手の勝ちという場面がありましたが、それも二つとも入りません。その度に勝ったという思いと、負けたという思いを繰り返しました。
そして、二度目の延長も同点で切りが付きませんでした。シュートを入れては勝ったと思い、入れられては負けたと思いました。しかし、その度にどちらも追いついて、けりがつかないのです。
そうしたら、審判がそんなルールはなかったのですが、検討してくれて、この後は最初にゴールを決めた方の勝ちにすると言いました。

最後のシュートは、私でした。シュートが入って勝ちになりました。右45度からのジャンプシュートでした。その瞬間は、まだ、ゴールが眼の前によみがえってきます。空中でリングを見つめて入れるぞーと構えている瞬間が映像で止まって見えます。映画のストップモーションです。

私は、大変な試合を戦ってしまいました。途中で何度も勝った負けたを繰り返しました。最後のシュートを決めた時、入って良かったと思いました。そして、勝った瞬間涙がどっとこぼれて来ました。まるで、優勝の瞬間のようでした。

たかが、県北大会の一回戦です。なのに、私はうれしくて涙が止まりませんでした。我々の時代になって初めての試合です。自分にとっては、責任の重さも感じていました。それが、こんな試合になってしまったのです。終わって責任を果たせた気持ちと、自分がその勝利のシュートを決めたことの感動と、いろいろなものが入り混じって、涙になりました。あまりに私が泣くものだから、他のチームの選手が大丈夫かと声をかけてくれた程でした。

少し、オーバーな言い方ですが、私はこの大会で優勝するつもりで行ったのです。それなのに、一回戦がこれです。この先大変だなあと感じていました。

しかし、おかしなものです。その一回戦で苦労したからかもしれませんが、次の試合も接戦でありながら1ゴール差で勝ちました。1ゴールと言えば、2点差です。
そういうのは、僅差の勝利というのです。しかし、1回戦で延長の延長を戦ったことから考えたら、すぐ終わったという感じさえしました。ええーー、終わりでいいの?という感じでした。

この試合は、実は、とんでもない結果なのです。24-22で勝ったのですが、その24点の内、私が何点取ったと思いますか?私は22点取ったのです。後の2点は他のメンバーがフリースローで1点づつ取った点でした。
これは、完全なワンマンチームというんですよね。

全く、誰が聞いてもそんな馬鹿なという点の取り方です。私はそんな経験もしているのです。

二つ勝って、いい気になっている我々に、女子の顧問の先生が男子はこの次で負けると言ったそうです。次の相手が熊谷東でした。そのチームの強さを先生は知っていたのでしょうか。それとも児玉がそんなに強いわけがないと思ってでしょうか。とにかく、その言葉はカチンときました。先生は我々に悔しかったら勝ってみろと発破をかけたのでしょうか。分かりませんがとにかくその言葉をきいて、よし、それなら勝ってやると思いました。そして、その通り勝ってしまいました。

その頃は、まだ、児玉中学はそんなに強いとは思われていなかったので、この準決勝進出は周りからみると驚きだったのかもしれません。しかし、とにかく3つ勝ってしまいました。そして、次の日の準決勝にコマを進めたのです。

私にとっての、公式戦はこのようにして始まりました。

つづく



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