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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

東京オリンピックの思い出

2009-08-14 | 思い出
東京にオリンピックをということで、立候補をしていますが、私はぜひ、実現してほしいと思っています。

私にとって、東京オリンピックは、人生を変えました。

それは、小学校4年生の時でした。10歳です。いまは、55歳になろうとしていますから、45年前のことですね。(ちょうど10歳だったので、今から何年前と言うのが数えやすくていいです。)

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私は、かけっこの思い出がたくさんあります。
しかし、小学校の低学年の頃は、足が遅かったようです。
運動会で走ると、6人で走るのですが、5番か6番で、母は運動会に行っても張り合いがないと言っていました。

しかし、私は遅かった時の記憶があまりありません。ただ、かけっこの最初の記憶は、50メートルが9秒0でした。小学校3年の時です。なぜしっかり覚えているかというと、一緒に学級委員をやった女の子と同じだったからです。
というのは、一緒に走ったのです。そして、となりにぴったり張り付くように並走したため、同タイムでゴールだったのです。
ありゃー、女の子と同じかと思ったので、忘れないのです。
小学校は女の子の方が成長が早いから別に気にすることもないのですが、段々と女の子には負けないなどという気持ちも出てきていたのかもしれません。

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そして、小学校4年で、東京オリンピックを迎えます。
100メートルは、ヘイズが10秒0で優勝しました。丁度10秒0なのです。
忘れなくていいですね。

そのヘイズの走り方を見ていたら、胸を張って手を頭の上まで振り上げるような走り方なのです。あれには、驚きました。ものすごく力強いパワー溢れるものでした。
それに比べて、私の走り方は、前傾姿勢で両腕は両脇でまるで水をかくような格好で走っていました。アヒルが足で水をかくようなと言った方がわかりやすいでしょうか。
だから、私は、そのときから走り方を変えました。

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そうしたら、すこし速くなりました。
小学校4年というのは、字別リレーの選手になれる学年です。各学年の一番速い子が字の代表選手になるので、私もなりたいなあと思いました。しかし、私の字には私より速い子がいたので、私は補欠でした。しかし、字の二番手にはなりました。

そして、補欠ということは、選手になにかあれば、出るかもしれないということですから、一生懸命練習をしていました。すると、同じ字の上級生が、「お前は練習しなくていいんだよ」と言いました。「出ないんだから」と。

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それでも、出たいなあと思っていました。なぜなら字のユニホームが格好良かったからです。それを着て出るというのは、少し得意な気持ちになれるものだと感じていました。
しかし、その年は補欠でした。

ところが、小学校5年生になったら、私はもっと速くなって、選手になりました。
実は、その裏には結構自分なりに努力もしたのです。
1メートルの縄を取りだして、家の門の前から50回測り、50メートルを設定して、走りこみをしました。教えてくれる人はいませんでしたが、何度も何度も走って、自分なりに工夫しました。ヘイズの走りを研究したのです。

そうしたら、本当に速くなったのです。これは、ヘイズの真似をしたことが速くなった原因なのか、それとも私が丁度成長期に入って身長が伸びたり、いろいろな面で他の子以上に伸びていた時期だったからなのか、わかりません。

しかし、とにかくヘイズの真似で速くなったんだという気持ちではいました。

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その後、私は5年生で学校代表の4人にも選ばれて、学校対抗のリレーの選手にもなり、近隣の小学校が集まる大会で、その年優勝しました。
6年生のときには、今度は小学校で一番速くなり、同じリレーでは、スタートを任され二年連続で優勝しました。
個人で出た100メートルでは、2位になりました。
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小学校1年生の運動会で、ビリだった私が、そのような状況になるなんて母も思わなかったでしょうね。その頃は、母は運動会に来ても鼻が高かったのではないかなと思います。でも、入場行進のときの私の姿勢が悪いとかなんとかいろいろ悪い方を言ってましたけど。
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いまは、かけっこの話だけしましたが、水泳は、ショランダーの真似、マラソンはアベベの真似、トレーパンにはゴム紐をつけてもらい、吊りズボンのようにしてもらい体操選手の真似をしました。

ずいぶん、影響を受けました。

もちろん、女子バレーの東洋の魔女に感動し、三宅選手の重量上げにも、マラソンの円谷の銅メダルにも感激しました。

その後、私は走るのが好きで、中学になってからはバスケットボールをしましたが、何のスポーツをやっても走るのが速いということは有利なんですね。

だから、ずいぶんいろいろな場面で活躍をさせてもらいました。

今は、その得意の足がどこかに行ってしまいました。車いす状態ですから、一番得意な分野が使えません。とても悔しいです。しかし、自分の中では、それで得た自信は今も変わらずあるんですね。だから、かけっこの思い出を語れば、いくらでも出てくるのです。
まるで、今でも走れるような気で話すのですから。

私の記録の一番良かったのは、大学の時に測った50メートル6秒2です。
これは、スパイクを履いたわけではありません。普通の運動靴での記録です。
だから、結構速かったですよね。

自分に自信をつけるということはすごいことですよ。いま車いすでも、その自信だけは持ち続けているのですから。
だから、あの時、かけっこで経験したように、やり方次第で変わる。
世界一の人の真似をしてみようなんて、思うのもその辺から来ているかもしれません。自分だって、できるさという気持ちですね。

ピカソがライバルなんていうのも、東京オリンピックから世界を意識するようになったからかもしれません。
世界一を意識するという気持ちの現れかも。

本庄高校の校歌は、「我らは世界とともにあり」で終わります。ときどき思い出してそこだけ歌います。









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デッサンの思い出

2009-07-30 | 思い出
高校時代の話をします。

私は、デッサンが下手でした。
美大受験には、デッサンが必要で、そのためには適当な取り組みでは済まない事を知り、専門に勉強をしなければならないということで、美術室でデッサンをやらせてもらうことになりました。

美術部に入るつもりもなく、デッサンだけをやりに通いましたが、いつの間にか美術部員の扱いを受けるようになり、卒業の時は、立派な美術部員になっていました。

しかし、デッサンというのは、なんでこんなに難しいのだろうとつくづく思いました。上手くならないまま、一年半が経過して、受験を迎えてしまいました。
卒業した先輩にデッサンを見てもらったとき、先輩がこう言いました。

「菅野君、デッサンは枚数だからたくさん描けば上手くなるのよ、頑張ってね」

でした。

おいおい、本当かよ、たくさん描いたって上手くなりそうもないぞ、下手な私を慰めようと思って、言ってくれたのかなとその時は思いました。

そのくらい、下手でした。

しかし、私はよく嫌にならなかったなあと思います。いや、嫌になったのです。だから、いつもだらだらしていました。本気になってなかったのです。
言いかえれば、甘かった。

本気になれば、もっとやり方があったはずです。バスケットならこんなときどうするということを経験していたのに、それをしませんでした。絵は違うと思っていたのです。

ですから、誰かが言った、「描けない人の気持は、描ける人にはわからない」というのも、そのとき経験しました。

しかし、そんな私でも、やはり、上手くなりたいのです。それにはどうすればいいのか、本気で悩みました。
描いては、美術室の後ろの壁に貼ってある卒業生のデッサンと比べて、勝負をしていました。今度はどうだと思って持って行くのですが、やはり、どうにも比べものになりません。同じ人間が描いたのに、どうしてこんなに違うのか。

天才画家が描いたのなら負けてもしょうがないと思いますが、身近にいる一つか二つ上の先輩が描いたのですから、俺にだって描けないわけがないと思いました。でもダメでした。

そうして、二年間が過ぎました。私は、同級生と比べても下手で、人生の中で、こんなに負けたまま屈辱感でいたことはありません。それまでの私は何をやっても誰にも負ける気がしないほど、いろいろな面で成長が早かったのです。

だから、よく我慢したなあと思います。

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それが、突如として上手くなります。それは、予備校へ冬季講習に通ったときでした。いままで、悶々としていたことが一気に爆発するかのように、やり方がわかったのです。
これは、目から鱗というのでしょうか。

初心者コースでしたが、コンクールで一位になりました。
予備校の一位ですから、ちょっとうれしかったですよ。

でも、考えてみると、ぜんぜんダメなのに、我慢した二年半があったから、この爆発があったのです。
岡本太郎の爆発とは違うかもしれませんが、私の爆発はこのように現れました。

じっと我慢していると、いつかこの爆発がやってくるという経験をしました。
駄目だと思っていたことが、駄目じゃなかった、それまでの上手くいかない日々の経験がそれまでバラバラだったのが、全部つながったような感じでした。
だから、予備校へ行けば上手くなるのではないのです。それまでの経験がつながったのが、このときだったのです。

私は、先生から意外なことを言われました。
「お前は、今までの美術部員の中では、二番目に上手い」と。
「ただ、一人だけその上にいるけどな」
ということでした。

一番ダメな私が、この美術部の歴史の中で二番だとは、思いもかけない言葉に、有頂天になったのは、言うまでもありません。


デッサンは枚数です。先輩が言ってくれた言葉は、本当でした。
本気で描いて、たくさん描けば必ず上手になります。
だから、騙されたと思ってやってみてほしいですね。
はやく、上手くなるには、環境が大切です。
それについては、ピカソがライバルで書きました。興味のある方は、ご覧になってください。








コメント (6)
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