東京にオリンピックをということで、立候補をしていますが、私はぜひ、実現してほしいと思っています。
私にとって、東京オリンピックは、人生を変えました。
それは、小学校4年生の時でした。10歳です。いまは、55歳になろうとしていますから、45年前のことですね。(ちょうど10歳だったので、今から何年前と言うのが数えやすくていいです。)
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私は、かけっこの思い出がたくさんあります。
しかし、小学校の低学年の頃は、足が遅かったようです。
運動会で走ると、6人で走るのですが、5番か6番で、母は運動会に行っても張り合いがないと言っていました。
しかし、私は遅かった時の記憶があまりありません。ただ、かけっこの最初の記憶は、50メートルが9秒0でした。小学校3年の時です。なぜしっかり覚えているかというと、一緒に学級委員をやった女の子と同じだったからです。
というのは、一緒に走ったのです。そして、となりにぴったり張り付くように並走したため、同タイムでゴールだったのです。
ありゃー、女の子と同じかと思ったので、忘れないのです。
小学校は女の子の方が成長が早いから別に気にすることもないのですが、段々と女の子には負けないなどという気持ちも出てきていたのかもしれません。
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そして、小学校4年で、東京オリンピックを迎えます。
100メートルは、ヘイズが10秒0で優勝しました。丁度10秒0なのです。
忘れなくていいですね。
そのヘイズの走り方を見ていたら、胸を張って手を頭の上まで振り上げるような走り方なのです。あれには、驚きました。ものすごく力強いパワー溢れるものでした。
それに比べて、私の走り方は、前傾姿勢で両腕は両脇でまるで水をかくような格好で走っていました。アヒルが足で水をかくようなと言った方がわかりやすいでしょうか。
だから、私は、そのときから走り方を変えました。
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そうしたら、すこし速くなりました。
小学校4年というのは、字別リレーの選手になれる学年です。各学年の一番速い子が字の代表選手になるので、私もなりたいなあと思いました。しかし、私の字には私より速い子がいたので、私は補欠でした。しかし、字の二番手にはなりました。
そして、補欠ということは、選手になにかあれば、出るかもしれないということですから、一生懸命練習をしていました。すると、同じ字の上級生が、「お前は練習しなくていいんだよ」と言いました。「出ないんだから」と。
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それでも、出たいなあと思っていました。なぜなら字のユニホームが格好良かったからです。それを着て出るというのは、少し得意な気持ちになれるものだと感じていました。
しかし、その年は補欠でした。
ところが、小学校5年生になったら、私はもっと速くなって、選手になりました。
実は、その裏には結構自分なりに努力もしたのです。
1メートルの縄を取りだして、家の門の前から50回測り、50メートルを設定して、走りこみをしました。教えてくれる人はいませんでしたが、何度も何度も走って、自分なりに工夫しました。ヘイズの走りを研究したのです。
そうしたら、本当に速くなったのです。これは、ヘイズの真似をしたことが速くなった原因なのか、それとも私が丁度成長期に入って身長が伸びたり、いろいろな面で他の子以上に伸びていた時期だったからなのか、わかりません。
しかし、とにかくヘイズの真似で速くなったんだという気持ちではいました。
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その後、私は5年生で学校代表の4人にも選ばれて、学校対抗のリレーの選手にもなり、近隣の小学校が集まる大会で、その年優勝しました。
6年生のときには、今度は小学校で一番速くなり、同じリレーでは、スタートを任され二年連続で優勝しました。
個人で出た100メートルでは、2位になりました。
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小学校1年生の運動会で、ビリだった私が、そのような状況になるなんて母も思わなかったでしょうね。その頃は、母は運動会に来ても鼻が高かったのではないかなと思います。でも、入場行進のときの私の姿勢が悪いとかなんとかいろいろ悪い方を言ってましたけど。
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いまは、かけっこの話だけしましたが、水泳は、ショランダーの真似、マラソンはアベベの真似、トレーパンにはゴム紐をつけてもらい、吊りズボンのようにしてもらい体操選手の真似をしました。
ずいぶん、影響を受けました。
もちろん、女子バレーの東洋の魔女に感動し、三宅選手の重量上げにも、マラソンの円谷の銅メダルにも感激しました。
その後、私は走るのが好きで、中学になってからはバスケットボールをしましたが、何のスポーツをやっても走るのが速いということは有利なんですね。
だから、ずいぶんいろいろな場面で活躍をさせてもらいました。
今は、その得意の足がどこかに行ってしまいました。車いす状態ですから、一番得意な分野が使えません。とても悔しいです。しかし、自分の中では、それで得た自信は今も変わらずあるんですね。だから、かけっこの思い出を語れば、いくらでも出てくるのです。
まるで、今でも走れるような気で話すのですから。
私の記録の一番良かったのは、大学の時に測った50メートル6秒2です。
これは、スパイクを履いたわけではありません。普通の運動靴での記録です。
だから、結構速かったですよね。
自分に自信をつけるということはすごいことですよ。いま車いすでも、その自信だけは持ち続けているのですから。
だから、あの時、かけっこで経験したように、やり方次第で変わる。
世界一の人の真似をしてみようなんて、思うのもその辺から来ているかもしれません。自分だって、できるさという気持ちですね。
ピカソがライバルなんていうのも、東京オリンピックから世界を意識するようになったからかもしれません。
世界一を意識するという気持ちの現れかも。
本庄高校の校歌は、「我らは世界とともにあり」で終わります。ときどき思い出してそこだけ歌います。
私にとって、東京オリンピックは、人生を変えました。
それは、小学校4年生の時でした。10歳です。いまは、55歳になろうとしていますから、45年前のことですね。(ちょうど10歳だったので、今から何年前と言うのが数えやすくていいです。)
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私は、かけっこの思い出がたくさんあります。
しかし、小学校の低学年の頃は、足が遅かったようです。
運動会で走ると、6人で走るのですが、5番か6番で、母は運動会に行っても張り合いがないと言っていました。
しかし、私は遅かった時の記憶があまりありません。ただ、かけっこの最初の記憶は、50メートルが9秒0でした。小学校3年の時です。なぜしっかり覚えているかというと、一緒に学級委員をやった女の子と同じだったからです。
というのは、一緒に走ったのです。そして、となりにぴったり張り付くように並走したため、同タイムでゴールだったのです。
ありゃー、女の子と同じかと思ったので、忘れないのです。
小学校は女の子の方が成長が早いから別に気にすることもないのですが、段々と女の子には負けないなどという気持ちも出てきていたのかもしれません。
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そして、小学校4年で、東京オリンピックを迎えます。
100メートルは、ヘイズが10秒0で優勝しました。丁度10秒0なのです。
忘れなくていいですね。
そのヘイズの走り方を見ていたら、胸を張って手を頭の上まで振り上げるような走り方なのです。あれには、驚きました。ものすごく力強いパワー溢れるものでした。
それに比べて、私の走り方は、前傾姿勢で両腕は両脇でまるで水をかくような格好で走っていました。アヒルが足で水をかくようなと言った方がわかりやすいでしょうか。
だから、私は、そのときから走り方を変えました。
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そうしたら、すこし速くなりました。
小学校4年というのは、字別リレーの選手になれる学年です。各学年の一番速い子が字の代表選手になるので、私もなりたいなあと思いました。しかし、私の字には私より速い子がいたので、私は補欠でした。しかし、字の二番手にはなりました。
そして、補欠ということは、選手になにかあれば、出るかもしれないということですから、一生懸命練習をしていました。すると、同じ字の上級生が、「お前は練習しなくていいんだよ」と言いました。「出ないんだから」と。
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それでも、出たいなあと思っていました。なぜなら字のユニホームが格好良かったからです。それを着て出るというのは、少し得意な気持ちになれるものだと感じていました。
しかし、その年は補欠でした。
ところが、小学校5年生になったら、私はもっと速くなって、選手になりました。
実は、その裏には結構自分なりに努力もしたのです。
1メートルの縄を取りだして、家の門の前から50回測り、50メートルを設定して、走りこみをしました。教えてくれる人はいませんでしたが、何度も何度も走って、自分なりに工夫しました。ヘイズの走りを研究したのです。
そうしたら、本当に速くなったのです。これは、ヘイズの真似をしたことが速くなった原因なのか、それとも私が丁度成長期に入って身長が伸びたり、いろいろな面で他の子以上に伸びていた時期だったからなのか、わかりません。
しかし、とにかくヘイズの真似で速くなったんだという気持ちではいました。
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その後、私は5年生で学校代表の4人にも選ばれて、学校対抗のリレーの選手にもなり、近隣の小学校が集まる大会で、その年優勝しました。
6年生のときには、今度は小学校で一番速くなり、同じリレーでは、スタートを任され二年連続で優勝しました。
個人で出た100メートルでは、2位になりました。
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小学校1年生の運動会で、ビリだった私が、そのような状況になるなんて母も思わなかったでしょうね。その頃は、母は運動会に来ても鼻が高かったのではないかなと思います。でも、入場行進のときの私の姿勢が悪いとかなんとかいろいろ悪い方を言ってましたけど。
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いまは、かけっこの話だけしましたが、水泳は、ショランダーの真似、マラソンはアベベの真似、トレーパンにはゴム紐をつけてもらい、吊りズボンのようにしてもらい体操選手の真似をしました。
ずいぶん、影響を受けました。
もちろん、女子バレーの東洋の魔女に感動し、三宅選手の重量上げにも、マラソンの円谷の銅メダルにも感激しました。
その後、私は走るのが好きで、中学になってからはバスケットボールをしましたが、何のスポーツをやっても走るのが速いということは有利なんですね。
だから、ずいぶんいろいろな場面で活躍をさせてもらいました。
今は、その得意の足がどこかに行ってしまいました。車いす状態ですから、一番得意な分野が使えません。とても悔しいです。しかし、自分の中では、それで得た自信は今も変わらずあるんですね。だから、かけっこの思い出を語れば、いくらでも出てくるのです。
まるで、今でも走れるような気で話すのですから。
私の記録の一番良かったのは、大学の時に測った50メートル6秒2です。
これは、スパイクを履いたわけではありません。普通の運動靴での記録です。
だから、結構速かったですよね。
自分に自信をつけるということはすごいことですよ。いま車いすでも、その自信だけは持ち続けているのですから。
だから、あの時、かけっこで経験したように、やり方次第で変わる。
世界一の人の真似をしてみようなんて、思うのもその辺から来ているかもしれません。自分だって、できるさという気持ちですね。
ピカソがライバルなんていうのも、東京オリンピックから世界を意識するようになったからかもしれません。
世界一を意識するという気持ちの現れかも。
本庄高校の校歌は、「我らは世界とともにあり」で終わります。ときどき思い出してそこだけ歌います。