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逆境を勝ち越えた英雄たち

2023年03月21日 | 妙法

HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第29回 魯迅2023年3月21日

道とは何か。それは道のなかった所に
踏み作られたものだ。荊棘ばかりの
所に開拓してできたものだ。
魯迅の子息である周海嬰氏(左端)との再会を喜ぶ池田先生(2004年3月10日、東京・信濃町の旧聖教新聞本社で)。この日、先生に「上海魯迅文化発展センター」の「終身顧問証」が授与。さらに、幼い周氏を抱く魯迅の写真が贈られた
魯迅の子息である周海嬰氏(左端)との再会を喜ぶ池田先生(2004年3月10日、東京・信濃町の旧聖教新聞本社で)。この日、先生に「上海魯迅文化発展センター」の「終身顧問証」が授与。さらに、幼い周氏を抱く魯迅の写真が贈られた

 池田大作先生は第3代会長に就任する前、日記に次の言葉を書き留めた。
 「道とは何か。それは、道のなかったところに踏み作られたものだ。荊棘ばかりのところに開拓してできたものだ」
 中国の革命作家・魯迅が記した「生命の道」の一節である。
 辛亥革命と清朝崩壊後の激動期を生き抜き、祖国の未来のために戦った言論の闘士――今年は「魯迅」のペンネームが世に出てから105周年に当たる。
 魯迅(本名・周樹人)が文学の道を志すようになったのは20代の頃。日本で医学を学んでいたある日、授業後に日露戦争(1904~05年)の勝利を伝える幻灯(スライド)が上映された。
 その中で、スパイ容疑をかけられた中国人が、日本軍に処刑される場面を目にした。その周りを中国人の群衆が取り囲んで見つめている。そんな同胞たちの無神経な姿に魯迅は憤激した。
 「われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった」
 本当に変わるべきは「国家」や「制度」よりもまず「人間」である、と魯迅は考えたのである。
 虐げられることに慣れてしまった心を変革し、民衆が尊厳と幸福を勝ち取る時代を! 彼はペンの力で立ち上がり、新中国の建設に身をささげていくことになる。
 1909年に帰国すると、「十年一剣を磨く」鍛錬の日々を積み重ね、18年5月、雑誌「新青年」に『狂人日記』を発表。被害妄想を患う主人公の日記を通じ、中国の旧社会の悪弊を容赦なく暴いた同著は、難解な文語を捨て、話し言葉を用いた中国現代文学で最初の口語体小説として、青年たちに広く浸透していった。
 続く『阿Q正伝』では、身分支配のもとで、人々が“諦め”という心の鉄格子に閉じ込められた状態を、主人公・阿Qの存在を通して痛烈に指摘したのである。
 時を同じくして、世界では抑圧された民衆が蜂起し始めていた。インドにおけるガンジーの非暴力・不服従運動や、中国における反帝国主義の「五・四運動」などである。人権闘争の潮流が巻き起こる中、魯迅は新たな時代の到来を願い、つづった。
 「最後の勝利は、喜ぶ人々の数にあるのではなく、どこまでも進撃する人々の数にある」と――

〈HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第29回 魯迅(1面から続く)2023年3月21日

 
第1次訪中で、魯迅が最後に暮らした上海の「魯迅故居」を訪れた池田先生(1974年6月10日)。生前に使った机や筆などが残る部屋には、「もし、私が生きていることができるならば、もちろん、私は学び続けていく」との言葉が掲げられていた
第1次訪中で、魯迅が最後に暮らした上海の「魯迅故居」を訪れた池田先生(1974年6月10日)。生前に使った机や筆などが残る部屋には、「もし、私が生きていることができるならば、もちろん、私は学び続けていく」との言葉が掲げられていた
【魯迅を語る池田先生】
自分の「人間革命」また民衆の「精神の革命」は一朝一夕にできるものではない。
ゆえにたゆまず努力せよ。
ねばり強く進め。絶えず刻むのだ。
【魯迅】
最後の勝利は、
喜ぶ人々の数にあるのではなく、
どこまでも進撃する人々の数にある。

 魯迅は1881年、浙江省の紹興で生まれた。祖父が政府高官を務める名家だったが、ある事件で投獄。父も病に倒れ、質屋と薬屋を往復する生活を過ごした。
 20歳で留学し、初代会長・牧口常三郎先生も教壇に立った弘文学院を経て、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に入学。ここで人生の師となる藤野厳九郎先生と出会う。
 民族や国籍を問わず、自分を大切にしてくれた恩師への感謝を、魯迅は終生、忘れなかった。そして、使命の舞台を医学から文学へと移し、帰国後は教育者として青年育成に心血を注ぐようになる。
 「まず第一に、人間を確立することが大切である。人間が確立して後、始めてあらゆる事がその緒に就く」。北京大学をはじめ複数の学校で『三国志演義』『水滸伝』などを講義。鋭い歴史観や社会批判を論じ、祖国を担う若者に自らの知識を惜しみなく与えた。
 1920年代、北京女子師範大学で、軍閥政府を後ろ盾に封建的教育の復活を画策する学長と、それに反対する学生との抗争が起きる。講師だった魯迅は学生側を支持。政府と真っ向から対峙した。
 これを機に、政治権力やマスコミからの弾圧が激化するが、彼が屈服することはなかった。
 ある雑誌が“魯迅が陰で学生を扇動している”“賄賂を受け取っている”という虚偽を流した。だが、真実は全く逆だった。その雑誌の人間こそが、デマで社会をあおり立て、政府から資金援助を得ていたのである。
 魯迅は徹底的に噓をたたいた。「謡言というやつは、たしかに張本人が心底から願っている事実だから、我々はそこから、一部の人間の思想と行為を見てとれる」
 迫害は激しさを増した。各地を転々としながら、ペンで戦い続ける中、魯迅の体は弱り、食事も満足に取れなくなっていく。
 30年、中国自由運動大同盟などが結成され、発起人の一人となると、政府は「堕落文人」のレッテルを貼り、逮捕状を出す。彼の文章は厳しい検閲の対象となり、書物は発刊禁止に。理不尽な抑圧をかいくぐるように、魯迅は100以上ともいわれるペンネームを使い、変幻自在に言論闘争を続けた。
 「生きているかぎり、わたしはいつでも筆をとってかれらの拳銃に立ちむかう」
 この信念で、革命の炎を燃やし抜いた英雄が世を去ったのは55歳の時(36年10月)。弔問に訪れた市民は死去から数日間で1万人を超えたという。

 池田先生は魯迅文学を「人間革命」の文学として敬愛し、不屈の精神を宣揚してきた。その功績と日中友好への先駆的貢献を「魯迅の民衆覚醒の魂を受け継ぐ人」とたたえ、北京・上海・紹興の“三大魯迅記念館”の全てから「名誉顧問」の称号が贈られている。
 また、魯迅の子息である故・周海嬰氏とも友誼の絆を結んできた。
 2005年3月には、創価教育に学ぶ学生・生徒からの要請に応え、第2回特別文化講座「革命作家・魯迅先生を語る」を本紙で発表。魯迅の「人間」と「哲学」と「言論」を縦横につづった――。
 ◇ 
 自分の「人間革命」また民衆の「精神の革命」、それは一朝一夕にできるものではない。ゆえに魯迅先生は言う。“たゆまず努力せよ。ねばり強く進め”と。
 一時は勝ったように見えても、古い反動の勢力は、必ず息を吹き返してくる。ゆえに、先生は戒めていた。「この国の麻痺状態を直すには、ただ一つの方法しかない。それは『ねばり』であり、あるいは『絶えず刻む』ことです」と。
 ◇ 
 君たちの前途には、暗夜の日もあろう。茨の道もあろう。
 しかし、断じて退いてはならない。苦しい時こそ、一歩を踏み出せ。その一歩が勝利の道を開くからである。希望とは、自分でつくるものだ。希望とは、茨の道を切り開きながら、あとに続く人々に贈りゆくものだ。ここに、魯迅先生がわが身をもって示した「希望の哲学」がある。
 ◇ 
 「『革命が成就した』というのは、とりあえずのことを指しているのであって、ほんとうは『革命はまだ成就していない』のである。革命には果てがなく、もしもこの世に『これが最高』などということがほんとうにあるとすれば、この世はたちどころに動かぬものとなってしまう」
 立ち止まってしまえば、革命は、そこで終わりである。「永遠に変革し続けてこそ革命」である。ゆえに、後継の青年が大事なのだ。
 革命とは――
 永遠の向上である。
 永遠の成長である。
 永遠の闘争である。
 「永続革命」こそ、魯迅先生の生き方そのものであった。
 (2005年3月16・19・24日付)
 
 ――民衆凱歌の大道を開くのは「忍耐」「希望」「前進」だ。
 「光明はかならずや訪れる。あたかも夜明けをさえぎることはできないように」とは、講座の結びに先生が紹介した魯迅の確信である。

 【引用・参考】『魯迅全集』全20巻・伊藤虎丸ほか訳(学習研究社)、『魯迅選集』全13巻・竹内好ほか訳(岩波書店)、顧明遠著『魯迅――その教育思想と実践』横山宏訳(同時代社)、石一歌著『魯迅の生涯』金子二郎・大原信一訳(東方書店)ほか

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