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トルコを再認識しよう

2006年01月08日 | Weblog
中東和平で意見交換 首相、9日トルコ訪問へ (共同通信) - goo ニュース

 トルコというのは日本にとって友好国だと知ったのは、中韓が目くじらを立てて抹殺しようとしている件の「歴史教科書」の市販本購読したことによる。この歴史教科書では、日本人とトルコ人の美談を巻頭で次のように紹介している。(P13~14)

 明治時代の和歌山県串本で起こったトルコ軍艦遭難の話である。

 1890年(明治23)9月16日、オスマントルコ帝国の使節団一行を乗せた軍艦が和歌山県串本・大島沖で遭難。乗組員650余名中587名の犠牲を出す大惨事となった。日本が明治維新の諸改革を行っていた頃、オスマントルコ帝国でも、近代化改革や欧米列強への対等な扱いを求めて努力をしていた。
 皇帝アブドル・ハミド二世は視察のため、日本に特派使節を派遣した。一行はトルコ軍艦エルトゥールル号で1890年6月5日来日、9月15日帰途についた。
 しかし、一行は台風に遭遇し、和歌山県串本・大島の樫野埼沖で遭難した。650余名の乗組員のうち587名が死亡、生存者69名という大惨事となった。

 この惨事に対し、地元の「串本新聞」は地元の人々の様子を次のように伝えている。

 わが村民の献身的な援助・介護活動

 エルトゥールル号の遭難現場は惨憺たる状況だった。第一発見者の燈台守はいう。「9月16日の真夜中、服はぼろぼろで裸同然、全身傷だらけの男がやって来た。海で遭難した外国人であることはすぐにわかった。「万国信号書」見せると、彼がトルコ軍艦に乗っていたトルコ人であること、また多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。救助に向った村の男たちが岩場の海岸に降りると、おびただしい舟の破片と遺体があった。男たちは裸になって、息がある人たちを抱き起こし、冷え切った体を暖めた」
 助けられた人々は村の寺や小学校に収容され、手厚い介護を受けた。村では非常食用の鶏など、村にある全てのものを提供した。
 こうして、59名の命は救われたのである。

 また、「串本新聞」の社説として、明治天皇のコメントも紹介している。

 明治天皇は、生存者の援助、介護、犠牲者の遺体・遺品の捜索、舟の引き上げなどの事後処置を手厚く行うよう指示された。
 義援金の募金も行われ、樫野埼には慰霊碑が建てられた。
 今回の大惨事は誠に残念であるが、日本・トルコの両国が深い友情の絆で結ばれたことは、せめてもの救いである。これを機に、両国が協力して、更なる発展をとげていくことをねがってやまない。

 これが、中韓、革マル派、日教組、和製中韓人どもがこぞって排斥することに情熱を捧げている教科書の導入部分である。

 私などは、実に全うな教科書であるという実感を持つものである。この教科書が不適切などという連中は。日本の国家を否定する輩である。そういう思想を持つものが、教師面をして、子供たちを「バカ日本人」に仕立て上げていくのである。国民として、まっとうな声を上げる時である。
 
 そして、この話にはとても感動的なオチがついている。

 1985年(昭和60)三月、イラン・イラク戦争の折、イラクのフセイン大統領は、48時間の猶予ののち、イラン上空をを飛ぶ全ての飛行機を無差別に攻撃するという指令を出した。この時、日本の対応は遅れ、日本企業で働く日本人とその家族がイランに取り残され、彼らはテヘラン空港で脱出の術も無く、パニックになっていたという。
 タイム・リミットを目前にして、二機の飛行機が空港に降り立った。何と、トルコからの日本人救出のための飛行機だったのである。トルコ機は日本人215名をトルコに脱出させてくれたのである。
 元駐日トルコ大使は、「私たちは、日本人がエルトゥールル号の遭難事故のさいに示してくれた、献身的な救援活動を忘れていません。教科書にもその話は載っていて、トルコ人ならだれでも知っています。だから、困っている日本人を助けるのは、私たちにとって当然のことなのです」と語った。というのである。

 やはり、こういう感動的な歴史的出来事は、日本人としても語り継いでいくべきであろう。

 扶桑社の「歴史教科書」の軸足はこういうところに置かれている。

 今回の小泉首相のトルコ訪問により、倍旧の親交が暖められることであろう。日本人の国民感情としても、こういう国と仲良くしたいものだ。