昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

Cuando Caliente SHIZUOKA#17

2006年01月03日 | Weblog
 初笑いは静岡新聞社説で:

 この社説は所謂御屠蘇(オトソ)気分で読ませて頂くものであろう。結構笑える。それはこのように始まる:

 その評価は別にして、政治は大きな変化を遂げた。その舞台は小泉劇場と呼ばれた。脚本も演出もすべて小泉団長が決める。仇討ちものが得意で、あまり長い台詞はない。ひと言で幕を下ろしてしまうこともある。昨年の「9・11郵政反対仇討ちの巻」はポット出の役者達の好演もあって、中曽根劇団の「死んだ振り解散の巻」に迫る人気を博した。風刺すればまずそんなところであろうか。
 その演出がうまくいった原因はいろいろだが、何よりも国民をその気にさせる術だろう。・・・・とこんな風に続くのであるが・・・・・

 まあ、改革というからには、既存の圧力団体の組織票を無いものと否定して掛るということであって、国民各々に、事の成否を問い掛けるといった戦術を考案し、自らの手で実行したのは実に「あっぱれ」ということになろう。いずれにしても「数は力」なのである。頭数が重要なのであって、質はさほど問題ではない。
 小泉団長のこの「けしかけ」に対し、恰もテキーラでも喰らったように足腰も立たぬほどに酔い呆けたのが、マス・メディアのご面々ではなかったか。
 そして、この演劇の「担保」として、「マニュフェスト」なるものが提示されたのであるが、我々観衆はその場の刹那(せつな)に酔わされただけであって、今や何が書いてあったのやら、とんと覚えが無いのである。日本国民たる質も問われているのである。

 このエディターが指摘するように、社会に目を向ければ、人間の陰の部分が何層にもなって覆っている。カネもうけのためなら、嘘もごまかしも何でもござれだ。
 そして、悪の手本は濡れ手に粟の政治では?と仰せになる。(彼らは、肝心なことには頬かむりして)何食わぬ顔で少子化や社会保障を論じ「日中」や「日米」を語っている。(かくして政治とは、お題目を唱えているだけの信仰なのだ)

 更に、エディター氏が仰せになることは、ポスト小泉に向けて、神だのみの小泉後継候補たちとの「嘆き」の心境である。
 そのまま写し取ってみると:
 小泉後のリーダーが誕生する年だ。その進路を占えるかもしれないと思ったが、期待薄だ。顔ぶれは新味なし。「アベシンかフクダだ。もつれればアソウだ」「小泉はアベシンだね」「じゃあ森はフクダだ」と、下町の床屋談議にも及ばない。
 肝心のご当人たちは、幕間からそっと覗いて、「当たりくじを、神さま仏さま」と手を合わせているだけだ。
 首相のイスも、政権も奪い取ってこそ本物だ。国も人も引っ張れる。そんなことで生き馬の目を抜くような国際舞台で勝ち残れるのか。国益を守れるのか。・・
・・ ま、そのー・・・まことにごもっともなご意見である。

 ポスト小泉を志す「新星」たちは、既に時代の転換点を超えたという認識を持つべきなのだ。今回小泉首相が「博打(ばくち)」に打って出て、たまたま勝利したのだと考えているようでは、「次のスター」たる資格はスタート時点においてすら放棄していることに等しい。従来のように、自民党という「村」の中の権力争いに現を抜かして、三すくみ或いは四すくみ状態に甘んじていて良いわけは無い。求められるものは、有権者すなわち国民へのアピール能力なのである。

 甚だしい蛇足であるが、億分の一の可能性ないのであるが、もし私が「小泉後継候補」立場なら、時節柄、紋付羽織袴に大小を帯刀し某大使館へ乗り込み「ワンワン」ちゃんの前で「剣の舞」の一つも舞って見せようものを!ビジュアルな今日、このぐらいの「演技力」が求められているのである。たちまち国民的アイドルとなること必定である。
 こういう「演技」を「ハルサメ志向」と称する。

 最後に、この社説の題名は「政治家は国家の進路を描き示せ」である。参照した社説は大変おもしろく上品である。拙者いささか御屠蘇気分が過ぎたかのう?「エディター殿、悪しからずや」