なぜ、ヨットを選択したのか?
静岡市の籠上中学校、その前の安西小学校時代から、近所のお寺の境内でボーイスカウトが、少年探偵団のようなロープを使った遊びをしていた。ウチの倉庫の裏のお寺は「然正院(ねんしょういん)」。私も親にねだって入隊させて貰った。静岡22団。小学校時代にキャンプへ行くようになったのは自然の流れ。藁科川奥の赤沢キャンプ場に頻繁に行った。ボーイスカウト関係者(尾崎さん)の山。
中学になると、ボーイスカウトの先輩として下級生を教える役目が回ってきた。街頭に立って赤い羽根募金などをするのはイヤで仕方なかった。キャンプへ行きたかった。中学時代は富山県の城端のボーイスカウトと交換してスキーに行ったりした、左足骨折(泣)(1960年13歳)
スキー熱、キャンプ熱、登山熱が上がっていった。山の本ばかり読んでいた。
高校へ入学した。県立静岡東高校一期生。
新設高校なのでクラブの制限はあった。登山部があるはずがなかった。
あっても、入部はしなっかただろう。
近所に静岡山岳会の事務所があることは知って居た。
高校一年生だけど、山岳会に入れてください。相手は驚いていた(笑)
簡単な登山道具は持っていたが、それだけでは終わらなかった。
だって高校一年生の夏山合宿は北鎌尾根(笑)
今から61年前の北鎌尾根。
大町-高瀬川-千天の出会いからの北鎌尾根。
https://blog.goo.ne.jp/something3/e/31c1bcdd3d0b4158dd5e0ff0d093862e
高校時代に頻繁に冬富士にでかけるようになった。
涸沢、穂高周辺に何日もテントに住み込んだ。「涸沢奇族」の仲間入りをしたかった。
ここが非常に大事
1960年代、昭和30年代後半。モータリゼーションという言葉は聞かれるようになった。
しかし、車は贅沢品で持っている人が、まだ少なかった。道路も建設中でなかった。
北アルプス、八ヶ岳へ行くには身延線で甲府まで行って中央線に乗換。
黒部or剱岳に行こうとしたら、汽車がない(泣)。行くだけで2or3日かかってしまう。
交通の便が非常にわるかった。
1966年、明治大学に入って、中野の山道具屋さん「アポロスポーツ」
大学合格と共に、その大学山岳部のOBから紹介状を書いて貰い、入学式よりも前に
山岳部の部室を訪ねた。まだ名前は知られていないけど「植村直己」が入部していた。
その場で入部が認められ、数日後に白馬岳(しろうまだけ)春山合宿へ行くことになった。
入学式前のことだった。
しかし、しかしである。
持ち物、携行品、準備の中に
「登山靴はできたらナーゲルを」(靴底も革製で各種の鋲が打ってある。トリコニ、ムガー、クリンカーなど)
「登山靴は足首廻りベロが付いているモノ」(今のベロとは違う)
「ゲートルを着用すること」(そのベロはゲートルを巻く時に必要)
「尻皮を用意すること」(知ってる人はいるかな?)
…う~む。驚いてしまった。
いくら大学山岳部の体質が古いと言っても、そこまで古いとは(泣)。
1960年代のなかばである。今更「点の記・劔岳」ではない(笑)。
ガストン・レビュファに憧れて、近代スポーツアルピニズム(笑)を求めていた
私は急に入部をためらって、OBに相談した。
「じゃあ、また東京の社会人山岳会に入るか?。学校の山岳部には断っておくよ」
もたもた考えているウチに春山合宿は行かずに、入学式を迎えた。
入学式後、いろいろな部、同好会の部員勧誘コーナーがあって、その中の一つに目が止まった。
横に渡した一本の棒に、色々な結び方でロープがぶら下がっているのだ。
今のようなきれいなロープではない。黄ばんだ木綿のロープ。
そのコーナーの前に行き、ロープを手にした。
「呼び方が違うけど、これってモヤイ結びですよね」
「おお、結んでごらん」
「はい」
考えることなく即座にモヤイ結びを、右手で結ぶ場合と、左手で結ぶ場合を披露(笑)。
「う~む。キミは入部したら偉くなれる。こんなに素晴らしいロープワークは見たことがないぞ」
「あっ、そうですか」
「いいぞ、この部に入ったら女の子にもてるぞぉ」
「あっ、そうなんですか!。いいなぁ(笑)、ワクワク」
「体験会をやるので、今度の日曜日に横須賀中央駅の駅前に来なさい」
「ところで何部ですか?」
「うん、今をときめく、女の子にもてる体育会ヨット部だよ」
(そぉかぁ~、オレももてるかもしれないなぁ(笑))
次週の日曜日に横須賀中央駅から三崎行きのバスに、新入生10人くらいと乗った。
初声のバス停からから、海辺に在るヨット部の合宿所までスイカ畑の中を歩いていった。
これがヨット部所有のクルーザーだぞ。合板製のクルーザーを見せられた。
(5mJOG…だと記憶している。JOG=ジュニア・オフショア・グループ)。
入部したら、これに乗ることができる。
「これに乗ったら、絶対に女の子に持てるぞ!」
「う~む(私も石原裕次郎のようになれるかも知れない…)」
入部した後、しばらくして先輩に問うた。
「あのクルーザーはどこに係留してあるんですか?」
「ああ、あれね。他人からの借り物だよ!」
卒業して静岡へ戻ってきた。1970or1971年当時。東名高速道路はとりあえず完成したが、それ以外の道路は未開通のままだった。スキーへ行くにも非常にアクセスが悪く、スポーツショップの開店を手伝った「アラジン」。清水君のバスの添乗員もままならなかった。
https://blog.goo.ne.jp/something3/e/dd5223afea82614d67c827c50fd5d501
https://blog.goo.ne.jp/something3/e/105aab583093d8e67af6f6c8086a0748
何日も掛けて、北アルプスor山へ行くより、30分で当たり前にアクセスできるヨットを静岡でも選択した。
1971年。スプレンダー19を清水の海へ浮かべた。
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