この数ヶ月、昼食にはソバかうどんを食べることにしている。
食べた後の身体がラクなのだ。
50円~3玉100円ほどのソバかうどんをチョイス。
ビニール袋をカットして電子レンジでオン。
購入してきたツユを薄めて。
この数ヶ月、昼食にはソバかうどんを食べることにしている。
食べた後の身体がラクなのだ。
50円~3玉100円ほどのソバかうどんをチョイス。
ビニール袋をカットして電子レンジでオン。
購入してきたツユを薄めて。
手押しのポンプと電動ポンプ
1 井戸用ポンプ工事 2011/07
既存器具撤去 1 台 8,000 8,000
ポンプ 川本NF2ー400w 1 〃 107,800 107,800
砂漉し器 1 〃 7,500 7,500
同上取付費 1 〃 16000 16000
139300
1 井戸用ポンプ工事 1式 139,300
消費税 6,965
146,265
【朝食】(04/13)
5時過ぎに、久しぶりに「すき家」で朝食。
夜明け待ちの若者が3組ほどと、仕事に出かけるであろう人が3人。
「牛たまかけ朝食」を
生タマゴを止めて、漬物に変更。金額変更なし。
牛小鉢、漬物、味付け海苔、ひじき、味噌汁、ご飯(ミニサイズ)
【静岡場所】
大相撲大阪場所は尊富士の平幕優勝で終わったが、過去には静岡場所という大相撲の地方巡業があった。
ヨットの、ライオンズの先輩(故人)が静岡場所の勧進元になって何度か駿府城公園の静岡市中央体育館で開催した。30年ほど前か。そして当日の手伝いを頼まれた。
砂だらけの関取を丸光タクシーに乗せて長谷旅館に送り出す役。相撲のスタッフに体育館の中の場所を教える係をやったりした。
一番、想い出になっているのは横綱千代の富士の食事の見張り(笑)
特別の部屋があったわけで無くて体育館の中の通路の一角を仕切って「食事処」にした。B4版くらいのステンレスのバット。4列×5段を平らに並べた。
一枚のバットに、全部ステーキ、全部大トロ、全部ふぐ刺し、全部トンカツロース、全部、ヒレカツ、全部パスタ…と全部で4×5=20種類ほどの食材が並ぶ。
髷を梳かしながら食べるので手前のモノには手が届くが、遠いモノは若い衆が手で持って差し出す。
その一角にスタッフ以外のモノが入らないように見張る役をやった(笑)
自宅近所に浅間神社がある。毎年、春になると浅間さんの祭りが始まる。ボクたちはその祭りが終わるまで春休みだった。昭和22年生まれ。
3月の終わり頃、浅間通りに露天商達の線引きが始まり、準備に慌ただしくなる。ウチの町内も氏子になっているので「煉り」の準備に大忙し。小学校2年生の時にウチの町内に順番が廻ってきて「お煉り」に出た。それはそれで、面白かったが、子供心に恥ずかしかったので、5日間参加することになっていたが、2日間しか参加しなかった。
どこに行っていたかというと、浅間神社のお祭りに行ってたのだ。おこづかいを持って、露天商のトコロにいっていたのだ。浅間さんの祭りに行くと言うことは、露天商のトコロに行くと言うことと同じだ。毎年毎年、毎日毎日でかけた。
いろいろな珍しいモノを売っていて好奇心でイッパイになった。
●ひよこ
何年か後、ピンクとか薄グリーン色のひよこが売られていたが、ボクたちのころは自然の色だった。紙の袋に入れてくれて自宅へ持ってきて、木箱に入れて飼い始めた。箱の底にスクモを敷き、その中にヒヨコを入れ、夜は暖房のため裸電球をぶら下げた。それを毛布で包んだりもしたが、いつしか死んでしまった。決して大きくはならなかった。
●ブリキのポンポン船
手の平に乗るくらいの大きさなんだが、小さな水タンクがあり、そこへストローを使って水を入れ、タンクの下に短いローソクを立て、火を着けると蒸気の力で船が走る。この水を入れるのがタイヘンだったけど、オヤジが入れてくれた記憶がある。大きな金タライのなかでやった。
●樟脳船(ナフタリン)
セルロイドで出来た小さな船で、スクリューに当たる場所に樟脳を挟み込めるようになっていた。樟脳を小さくつぶして、そこへ挟み込み、水を張った金タライの上に浮かべる。
樟脳が溶けて、その表面張力の力で船が進む。水の表面が樟脳の粉でイッパイになると、古新聞を浮かべて、それに付着させて綺麗な水にした。
●万年筆
万年筆工場が火事になったという新聞記事を目の前に置き、その前に泥とか燃えかすが小山のように積み上げられてる。その中から万年筆を捜し出し、キレイに掃除をして子供たちに売る。まあ、最初は書けても次第に書けなくなってしまうようなモノだったけど、おじさんの名セリフに感動して、思わず買ってしまった。
●自動拡大器
パンタグラフ状になった木片を使って小さな写真をなぞることによって大きな絵が描ける…というしろもの。木片に何カ所か倍率の穴が開いていて、その穴にネジを入れ込んで描くのだが、おじさんが描くようには上手く描けない。
●焼きソバ
境内へ入ると池の近所から「ソースの焦げる匂い」がしてくる。焼きソバだ。まだ家庭で焼きソバを作らない時代だったと思う。これを食べたくて食べたくてお祭りを待っていた感がある。美味しかった。キャベツの芯も火が通っていて大好きだった。
大人になってインスタントの焼きソバを初めて食べた時、この味とそっくりだった。
●ひょうたん池上の飛行機
ひょうたん池を横断するように頭上にロープを張ってあって、そこをブリキの飛行機が行ったり来たりする。
ここに書ききれないほどのオモチャがお祭りの雰囲気を盛り上げていた。多分、桜の花も咲いていただろうが、そんなコトは覚えていない。
結婚したときにマルイで購入した一人用のソファ。
すごく座りやすくて、20年以上使用したが、
内部の鉄骨骨組みが分解してしまった。
2017年に子供が住んでいた宝塚のアパートにベッドにもなるソファを入れたいという。
それを静岡で購入して宝塚まで運んだ。
それを卒業と同時に不要品になって静岡へ戻ってきた(泣)
その二つを、一台づつ、日を分けて西ヶ谷の焼却場に持ち込んだ。
1947年(昭和22年)生まれです。1967年の大学時代アメリカに行きました。固定相場制で1ドル360円。それに外貨持出制限があったのです。確か100ドルしか交換してくれなかった。日本は貧乏国で外貨を持ち出す制限があったのです。不足分は日本円で持って行きましたが、サンフランシスコでは1ドル=400円、ロスでは1ドル450円でした。当時のアメリカとしては価値のない「円」で、何年か前の日本と中国の関係のようでした。
その当時、太平洋を横断できる飛行機は無く、太平洋戦争で地中海に沈んだ病院船を修理して貨客船にした船で太平洋を横断しました。4週間弱。ドミトリーという部屋、エンジンルームの横、2段ベッドの8人部屋。
この時代、日本では学卒で初任給3万円、高卒で2万円の時代でした。バイトの日給が700円。時給では無いですよ、日給です。昼飯のハンバーガーとコーラで2ドル50セント。日本で1日バイトして700円のバイト代金を米国に持ってきても450円の為替では昼飯も食えないのだ(泣)。
日本は凄く貧乏な国だという実感を持った。
桑港(サンフランシスコ)では、その時、ダスティンホフマンとキャサリンロスの
映画「卒業」をやっていた。今でもサイモン&ガーファンクルの「スカボロフェアー」と「ミセス・ロビンソン」が流れると「大貧乏国、日本」を思い出し涙が出る。
カリフォルニア大学バークレー分校の夏期講座へ通った。帰路も同じ船で日本へ戻った。
その後、何年かたって日本製品が米国を駆逐し始めた。安くてモノが良い日本製品の排斥運動が米国で始まった。ニューヨークのグリニッジビレッジ公園で、東芝のトランジスターラジオを大きなハンマーで壊す映像がTVに流れた。
2011年7月
このことは、いつか書き残しておかないと忘れてしまう。
…と云いながら、パソコンHDD内の30年~40年近い間のデータを探している(笑)。
大森実
2010年の3月、88歳で他界したけど、大森実というジャーナリストが居た。
1965年、毎日新聞外信部長としてベトナム戦争時に北ベトナムに入って米国の攻撃方法を批判した。
そのことで米国からクレームが付き、毎日新聞を退職した。
大森国際研究所を設立し、「東京オブザーバー」という新聞を出した。
当時知り合った仲間の父上が、大森実と知人だった。
1968年(昭和43年)、大森実氏に「アメリカに来ないか?。船で」と呼びかけられた。
「今の若者にアメリカという国を知って欲しいのだ」
考えたコトもなかった。アメリカは今思うより、ずっと遠い世界だった。
1ドル360円、固定相場制。日本での外貨持出制限。
21歳の時だった。1968年
当時、バイト代金が1日700円。1時間ではない1日だ。
ベトナム戦争で亡くなった兵士の身体洗うバイトが10,000円/日と聞いたが、
誰もやったことがある仲間はいなかった。うわさ話だけだった。
この頃、初任給2万円くらい。この渡航費が38万円だった記憶がある。
初任給の19ヶ月分の渡航費だ。
JR中野駅前の陸軍中野学校の跡地前(現中野区役所、中野サンプラザ前)の
アパートに寝起きをしていたけど4.5畳に小さな台所がついて家賃は4,500円だった。
大森実氏はカネがないけど行きたい人に「新聞・東京オブザーバー」の配達を頼んだりした。
1968年当時、日本はまだ貧しく発展途上国だった。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックを終え、右肩上がりの「いざなぎ景気」だった。
オヤジに話をしたら、「是非、アメリカへ行け」という。
その気になってしまった(笑)。
まだ、太平洋横断できるジェット機がない頃の話だ。
大森実は若者を絶対にベトナムへは連れて行かないという、確約を外務省としたと言われた。
何度か説明会を開き、その日は来た。
うろ覚えなんだけど、第二次大戦中に地中海で沈没した病院船を引き上げて客船に改造
したというギリシャ船籍の客船<マルガリータ号>。いわゆるグレード分けはない客船。
ドミトリーという部屋、エンジンルームの横、2段ベッドの8人部屋。
*月*日、当時の晴海埠頭から船は出た。
誰しも永く生きていると、何度か「自分の人生・考え方を変えた(決めた)きっかけ
がいくつか在るとは思うが、この米国行きはボクにとって、その一つだった。
船の上での生活は、思いもよらない素敵なモノであった。船上生活はこれだけで一冊の
本が書けてしまうほどでだ。
何の車に乗っていたのか?
こだわりが何もなかった。
最初の車はブルーバードだった。その次がカリーナかな?
会社で買ったので、それほど記憶が無い。これはコロナなのか? カリーナなのか?
1975年の写真だ。どこのスキー場かわからない。
同じ車に2台乗っていた。最初のセドリックワゴンはフェンダーミラーでボンネットの横にサイドミラーがあった。
2台目は、ドアミラーだった。
1996年10月18日。
新穂高へ行く寸前に納車された。安房トンネルが、まだ未完成で安房峠を通っていった。
濃霧で通過した場所がわからない。
以来8年余、電気系統が駄目になってきた
ラジオ、パワーウインド、かくかく
距離としては、それほど乗っていなかったが。12月が車検なので廃車にすることにした。
2012年7月
友人が、程度の良い中古車を商売抜きの価格で紹介してくれた。
平成13年(2001年)12月に登録した日産ステージア。
農家の人が所有していたんだが、この11年間に15,000kmしか走っていない。
車庫に入ったままだった…と云う。
それをピカピカにして提供してくれた。