「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評163回 “正義”という名の暴力 細見 晴一

2020-12-30 23:37:47 | 短歌時評

 世の中は様々な暴力で溢れている。身体への暴力だけでなく、言葉の暴力など様々なハラスメントが昨今、重要な社会問題になってきている。
 一見無関係なように見える自粛警察、SNS上の誹謗中傷、いじめ、ヘイトスピーチ、ハラスメント、虐待、そしてテロリズムはレベルの差こそあれ、“正義”を振りかざした他者への攻撃性という意味では同根ではないだろうか。こういったことが普通に生きていて、普通に目にすることが実に多くなった。
 たとえば、 2020年に起こった女子プロレスラーの自死はSNSでの匿名による多人数での非人間的な暴言の末に起こった。原因はよってたかって一人を徹底的に叩きのめすことにより、快感を感じてしまう人が多いからか。多くの人が人間関係や経済状態にイライラしてしまい、こちらに“正義”があると勘違いした途端、自身の不満の捌け口にしてしまっているのだろう。
 そしてまだ記憶に新しい2019年に起こった、「京都アニメーション」第1スタジオにガソリンをまいて放火し70人を死傷させた衝撃的な事件は「京アニに小説を盗まれた」とまるで自分が被害者であるかのように訴え、自分の方に“正義”があると信じて疑わない。
 また、2016年に起きた相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」への襲撃事件で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた元同園職員は「意思疎通が取れない人は社会の迷惑」「殺した方が社会の役に立つ」と自身の殺傷行為を正当化し、それが“正義”だといまだに疑っていない。

 こういった事象、事件を毎日新聞の専門記者・大治朋子は以下のように分析している。

<「普通の人」がなぜ過激化するのか>歪んだ正義

https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20200723/pol/00m/010/006000c 

 こうしたローンウルフによる事件は一見「自粛警察」やSNS上の過激な攻撃とは無関係のように見えるが、いずれの当事者にも通底する思考が垣間見える。自分や自分が帰属意識を抱く集団を「絶対的被害者=善」と見立て、「絶対的悪」である他者への攻撃を正当化するという「歪んだ正義」だ。「自分は絶対に正しい」と思い込んだ時、人間の凶暴性が牙をむく。

 大治朋子が指摘するように、中東のテロリスト達もこれと同根で「絶対的に正しい被害者の自分 VS 絶対的に悪い加害者の他者」と社会を二元論に切り分け、自身の不遇をその「絶対的に悪い加害者の他者」のせいにして置き換え、それを攻撃することで溜飲を下げ、自分があたかも正義の味方であると自己陶酔に陥る。簡単に言えば八つ当たりでしかない。
 アメリカでは不況になると白人の黒人に対する差別的な暴力が目立つようになるが、これも自分の不遇を黒人のせいにするという置き換えによる八つ当たりである。そして黒人への間化が起こっている。相手が人間じゃないと思うと暴力は一層正当化されるのだ。そうでないと警察権力があんなに安易に人を殺したりしないだろう。

https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20200827/pol/00m/010/009000c

 大治朋子は「人間がその攻撃性を過激化させるプロセスにおいて必ず表れる現象の一つに間化と呼ばれる認知の歪みがある」と指摘する。
 相手を人間以下とみなすことでまず自尊心を満たし、相手は自分(人間)より劣った愚鈍な人間以下のモノなので、対話など通常の手段ではコミュニケーションは通じない、粗暴な言葉や暴力で懲罰を与えなければこちらの意図(正義)は伝わらない、と考え自分の中で攻撃を正当化するという。

 その間化でもってSNSで人をこっぴどく罵り、誹謗中傷を浴びせ、それに「いいね」がついて自身の言動が承認されたと思い込み、相手を自死にまで追い込む。相手が人間でないのなら別に死んでも構わないのだ。“正義”という名の暴力が蔓延る所以だ。私たちはそんな時代に残念ながら生きている。

 では我々にとって一番身近なSNSなどで誹謗中傷を受けたときにどう対処したらいいか。「せやろがいおじさん」ことお笑い芸人の榎森耕助がこれに的確に答えてくれている。「せやろがいおじさん」はyoutubeで時事ネタをストレートに痛快に説明し訴えている人だ。リベラル寄りなので普段からネトウヨ傾向の人からひどい誹謗中傷が書き込まれている。さてどう対処しているのか。

https://mainichi.jp/articles/20200626/k00/00m/040/340000c

――自身への批判や中傷にはどのように対応していますか。◆間違っている点や足りない点について指摘してくれる建設的な批判は受け止めて、自分をアップデートする材料にします。「アホ」とか「ボケ」といった悪口はスルーする。一番扱いづらいのが、悪口を混ぜた批判や、批判に見せかけた悪口。以前は真面目に対応していたんですが、精神的負担が大きかった。例えばおいしいステーキにウンコが付いていたら、それはもうウンコ。そこだけ切り取って残りのステーキを食べようとはならない。なので今は開き直って、悪口が含まれるものは全てスルーしています。
――批判と中傷の違いは何だと考えますか。
◆建設的な意見なのか、攻撃を主眼とするものなのか。安倍晋三首相の考えや政策に対して突っ込むのは良くても、「死ね」と言うのは違う。政治批判はどんどんしていくべきだと思いますが、批判にも作法があって、政治家であれば人格攻撃していいとは思わないです。

 まさに言う通り。批判と中傷は分けようというわかりやすいアドバイスだ。建設的な批判に対しては真摯に対応し、単なる悪口、誹謗中傷はすべて無視。これで全然いい。政治家に対しても同じで、政策批判はどんどんすべきだが、人格攻撃は見てて醜いだけだろう。政策は客観的に判断できるが、人格は判断する側の主観でしかない。
 一番判断しにくいのは批判のふりした誹謗中傷だ。「せやろがいおじさん」の言うように、ステーキにウンコがついてればそこだけ切り取って食べるということはできない。全部捨てるしかないだろう。もっと言えば、一度でもそういうことをしてきた人がまた何か言ってきたら、相手に反省の弁がない限り、読まずに無視していいと思う。義理立てて読む側がバカを見るのだから。それはSNSのクソリプに限らず、紙媒体でもクソリプはクソリプである。紙媒体の場合、もちろん載せる側にこそ問題があるのだが。
 何が“正義”かとか、どういうのが性格が悪いのかとか、それはあくまで主観でしかない。たとえば歌人を批判したいのならその短歌や歌論を客観的に批判すればいいだけだ。それを行うときも受ける時も、一つの目安として「せやろがいおじさん」の言う通り建設的な意見なのか、攻撃を主眼とするものなのかを的確に判断すればいい。また逆に自分が相手に意見する時、攻撃を主眼とするものなのかどうかを一度冷静に再考してから意見すべきで、意見を受けた時も、それが攻撃を主眼とするものなのかどうかを吟味してから、リプライするかしないかを判断すればいい。
 人を嫌いになるのは自由だ。勝手に嫌いになればいい。しかし、それにハッシュタグをつけて、「この人、性格悪いからみんなで嫌いになろうぜ」とSNSなどで言いふらすのは、それはいじめである。ヘイトスピーチと同じ構造だ。こういったことが短歌の世界でも多くなってきたのは憂慮すべきことだろう。誰かが諫めないとだめなのだが、誰も諫めない。触らぬ神に祟りなし、ということか。歌人ともあろう者が情けなくて仕方ない。

 さて、そんなディストピアのような時代に静かに登場してきた歌人のが服部真里子だろうか。その第一歌集『行け広野へと』のあとがきにこう書かれている。

 人間の本質は暴力だと思う、とかつて書いたことがあります。暴力とは、相手を自分の思う通りの姿に変えようとすることだと。今でも、人が人と関わることは本質的に暴力だと思っています。

 暴力とは、相手を自分の思う通りの姿に変えようとすることだと。言葉の暴力であれ、身体への暴力であれ、これは同じで、あらゆるハラスメントがそうであり、たとえば最近起こった政治案件だと、日本学術会議の任命拒否問題も多分に暴力的であり、学術に対しても社会に対してもある種のハラスメントを孕んでいる。アメリカの大統領選挙におけるドナルド・トランプの“不正選挙”告発などの事実と法を考慮せず手当たり次第に訴えを起こし続けてきたあの大々的な陰謀論の展開は、社会を自分の思う方向に強引に変え、民主主義を破壊しようとする、社会に対するこれはもう明らかな暴力である。そしてそこに身勝手な“正義”が加味されると始末に負えない際限のない暴力になる。

 服部真里子はそういった暴力的な世界を諦念と共に静かに受け入れようとしながらも暴力のないやさしい世界を愛おしむ。

  野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた  『行け広野へと』

 〈野ざらしで吹きっさらしの肺〉とは常に暴力にさらされた肺だろうか。そういった環境で生きていくためには、人間の本質が暴力である以上、戦って勝つしかない。そのために自分は生まれてきてしまったのだと。仕方ないのだと。これはこの世界に対する覚悟ともとれるし諦めともとれる。

  うす曇り吹き散らされた花びらが水面に白い悪意を流す     『行け広野へと』
  さるびあがみな小さく口開けていてこのおそろしい無音の昼よ  『遠くの敵や硝子を』

 山田航は『桜前線開花宣言』で服部の短歌に対して〈自然なる美の象徴であるはずの花。しかしそこにも他者を思うままに操ろうとする暴力の影が潜んでいる。〉と述べている。
 一首目、桜だろうか。水面を流れる白い花びらにすら悪意を見出してしまう。
 二首目、さるびあの花が群れて咲いているだけなのに、それがみんな何か恐ろしいことを言いたがっているように感じる。無音で静かで平和なはずの昼なのに。無音であるがゆえに一層不気味だ。

  地下鉄のホームに風を浴びながら遠くの敵や硝子を愛す     『遠くの敵や硝子を』

 たとえ敵であれ、遠くにいれば安心なのだろうか。硝子も遠くにあればこちらが傷つくこともない。近くの味方よりも遠くの敵。近くの美しい花よりも遠くの硝子を愛そうということを、地下鉄のホームで一人風に吹かれながら夢想する。

  水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水     『遠くの敵や硝子を』

 山田航はまた服部の短歌について〈他者をコントロールしようと企む「意味」にあまりにも汚染されたコミュニケーションのあり方に疲弊した人に、きっと染み渡るように届くことだろう〉とも評しているが、この歌もそういった疲弊した人たちには染み渡るように届いているのではないだろうか。
 〈水仙〉は確かに美しく咲く。〈盗聴〉はしてはいけない暴力的なことだが魅惑的でもある。その水仙というみずみずしい自然物と、盗聴という暴力的な社会物の間に身を置き、自身がどちらかに傾く。どちらに傾くにしろ傾くことで自分の体の中をわずかな水が巡っていくのだ。この世界の中で自身を巡るわずかな水のことを感じている。その水の感触だけが確かだ。以上は筆者の解釈だが、読む側もその水を何らかの解釈で感じることができれば、この歌はその読者にとって成功していると言えるのではないだろうか。散々物議を醸した歌だが、結局は読者次第だろう。

  雪は花に喩えられつつ降るものを花とは花のくずれる速度       『行け広野へと』
  海を見よ その平らかさたよりなさ 僕はかたちを持ってしまった   『行け広野へと』
  海面に降るとき雪は見るだろうみずからのほの暗い横顔        『遠くの敵や硝子を』
  斎場をとおく望んで丘に立つ風のための縦笛となるまで        『遠くの敵や硝子を』
  青空のまばたきのたびに死ぬ蝶を荒れ野で拾いあつめる仕事      『遠くの敵や硝子を』

 そして服部真里子は『行け広野へと』のあとがきにこう続ける。
 

 けれど、私が短歌を作ってきたのは、つきつめれば人と関わるためです。人間が、互いに暴力でしか触れあえない存在だったとしても、それでもなお、人が人と関わろうとする意志に希望があると信じるからです。

 暴力的な世界を痛切に感じながらも、生きとし生けるものの生死を見つめる眼差しはやさしくそして真摯である。服部真里子の短歌はこの世で生きていくための一つの処方箋なのかもしれない。

 一方、脳科学者の中野信子は科学的な側面から〈正義中毒〉という問題を指摘する。

https://www.mylohas.net/2020/04/209713nobuko_nakano01.html

 「自分は絶対に正しい」「あいつは叩かれて当然だ」と思ったが最後、強い怒りや憎しみの感情が湧き、知りもしない相手に攻撃的な言葉を浴びせてしまう。いわゆる炎上や不謹慎狩りは、その典型的な例だといえます。
ときには相手を社会的に抹殺するまで続く残酷な行為ですが、そうなっても正義を遂行した側というのは、自分が悪かったとは思わない。正しいことをしたとずっと思い続けるんです。
 SNSの普及は、隠されていた「正義中毒」を見える化し、さらに増幅させたと考えています。
 考えてみると、この「祭り」という現象は、古代から連綿と続く祝祭の構造と近いのではないかと。攻撃の対象となる人は、生け贄なんです。その人を攻撃すると、集団の一体感が高まる。集団を守るための社会通念や、共通の認識というのも固まっていきます。
 自分の意思を抑えて集団の存続に協力しているからこそ、「好き勝手」に生きる人が許せない。そこから生まれる「正義中毒」は、個人のルサンチマンに起因するとともに、集団を守ろうとする脳の働きでもあります。
 誰かを叩くのは「世のため人のため」。とても強力な理論武装ができてしまうからこそ、「叩く」という行動が止まらなくなる。

 世の中が行き詰ってくると生け贄が無意識に要求される。その生け贄によって自身のルサンチマンが少しは解消され、そして集団を守ろうとする脳の働きが起動する。中世に起こった魔女狩りが最もわかりやすい例で、

 気候の寒冷化による穀物不良→飢えによる社会不安の増幅→生け贄の希求→魔女狩り

 となった。こういった極端なことが現代でも起こらないとは限らない。

 富の集中などによる不況→生活の質の低下→社会不安の増幅→生け贄の希求→○○狩り

 この○○に入るのはあなたかもしれないし私かもしれない。いつ誰がそんな目に合うか誰にもわからない。歌壇でも小規模だがすでに起こっている。世のため人のためだと理論武装して思い込み、相手を間化して自分の思いを正当化して、「叩く」という行為を止められなくなる。そして「正義中毒」が蔓延するのだ。

 そこでそういう恐れがあるときにどう自分自身を律すればいいのか。中野信子はこう提案する。

 ひとつ提案したいのは、「メタ認知」を鍛えることです。「メタ認知」とは、いわば自分を監視するもうひとりの自分。どんなときに「許せない!」という感情が湧いてしまうのか、自分自身で認識する努力をしてみましょう。それができれば、自分を客観視して「正義中毒」を抑制できるようになります。

 一方で、この「メタ認知」というものに弱冠16歳の女優・芦田愛菜が哲学的にアプローチしている。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/mana-ashida-hoshinoko_jp_5f51b134c5b6946f3eaf9b93

 『信じます』っていう言葉を考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とするその人の人物像に期待をしてしまっていることなのかなと思いました。だから人は裏切られたとか期待していたとか言うけれど、その人が裏切ったというわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけで、その見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいるっていうことが信じられることなのかなと思います。
 でも揺るがない自分の軸を持つことは難しくて、だからこそ人は『信じる』と口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました。

 完璧である。説明は全く不要だ。とうてい16歳の言葉とは思えない。この女優のこの言葉をすべての人が実践すれば、すべての社会悪が解消されるのではないか、と思わされるぐらいだ。脳科学者の言う「メタ認知」の哲学版である。しかも学者と違って難しい言葉は一切使っていないのにこのレベルだ。
 付け加えれば、自分の思う“正義”にのみ執着している人は一旦その“正義”から離れて自分を客観視してください、ということだろう。それは己にとってのみの“正義”にすがっているだけかもしれないのだから。相手の立場や思いを無視しているのかもしれないのだ。

 ここで、ここまで引用したのはほとんどが女性のものだ、ということに気がついた。これは恣意的なものでは全くないし、偶然でもないだろう。おそらく男性よりも女性の方が「暴力」について敏感なのだ。その抑圧の歴史からしても。だから「暴力」について考える時に参考となるのは女性の方が多くなるのは当然なのかもしれない。我々男性は「暴力」についての考慮が足りないだろうということを強く留意しなければいけないだろう。だが最後に男性の短歌を引用して、男性の名誉を少し回復しておこうと思う。

  シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい   斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 “正義”について、暴力について、そしてそれに纏わる「メタ認知」について考察してきたが、最後にこの短歌を持ってきた。この歌の場合、作者の側に具体的に何があったのかはどうでもいいことで、このレベルの短歌になると、そういったグロテスクな私性は完全に消失する。読者側に全て委ねられる。何に対して土下座したいのかは読者それぞれだろう。誰にも一つぐらい土下座したいことはあるに違いない。〈土下座〉という最大の屈辱的行為を〈シースルーエレベーターを借り切って〉という社会に対するおどけた態度でもって〈心ゆくまで〉したいのだという。世の中を舐めているようでそうでもない。この場合の〈土下座〉は単なるおどけたパフォーマンスでしかないのかもしれないしそうでもないのかもしれない。何かすべてを見切った、完璧な「メタ認知」のあとのような、穏やかで静かな境地に誘われる。この歌もまたこの世界を生き抜くための処方箋の一つではないだろうか。

 インターネットなど、情報の氾濫により、各々が自分の好きな情報だけを摂取してしまうこの時代において、客観的な事実は軽視され、自分の感情とシンクロしてくる情報のみが真実として受け入れられていくポスト・トゥルースの時代において、油断していると何が真実がわからなくなってくる怖れがある。一旦それが“正義”だと確信すると簡単に暴力的になるのが人間なのだ。そしてそういった陰謀論が平気で人々の意識に潜り込んでくる。それを陰謀論だとわかって確信犯的に利用してくるのが今や普通に居るのだ。あのドナルド・トランプのように。
 だから、この過酷な世界を生き抜くためとはいえ、〈“正義”という名の暴力〉を処方箋として使わないでいただきたいと切に願う。他人を攻撃することで生き抜くのは元来とても醜悪なことだ。たしかに我々は戦わなければならないのだろう。しかし戦うことは他人を攻撃して貶めることでは決してない。処方箋は探せば必ずある。その人それぞれの処方箋が。


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