「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 冷えてゆく冷えてゆくピアノ~千葉聡歌集『海、悲歌、夏の雫など』を読む 田中庸介

2015-07-27 11:00:43 | 短歌時評
 千葉聡さんの第五歌集『海、悲歌、夏の雫など』(書肆侃侃房)は、新しい叢書「現代歌人シリーズ」の第一弾にふさわしく、充実したストロングな歌の数々に満ち満ちている。側道から一気に加速して高速道路に乗る車のように、前作の『今日の放課後、短歌部へ!』で「教員歌人」としての過剰な自意識を一挙に吹っ切った作者は、「夏の始まりから終わりまで」の半年で急ピッチで書き下ろした新作二〇八首を一冊にまとめ、満を持して世に問うこととなった。
 バスケ部の副顧問として高校生とともに汗を流す日々。その中で雑誌の新連載に苦労し、早世した兄の想い出を語り、そして旧友から真摯な短歌の批評を受ける。千葉さんの軸足が日常詠に置かれていることは変わらないが、何かがぐっと深くなったという気がするのは、おそらく過剰な自意識にむけられていた肩の力が抜けて、そのかわりに《自然》の力に目が向くようになったからではないか。それは波や風の音だったりするだけではなく、若者の汗だったり、あるいは初老にさしかかった自らを静かに受け入れるという時間性への肯定にもつながる。《自然》とは、人智の及ばない宇宙のはたらきのことであって、その超越性を無理なく受け入れる詠嘆調の歌は、読者のぼくらをぐいぐいと引き込んで行く。

 そよ風と光を受けて揺れている葉桜の下で朝練開始

 ポエティックな上の句はアンチクライマックスの「葉桜」の序詞。それをさらに「朝練開始」という身もふたもない結句で拾うという構想になっている。これは脱ポエム化の決意を、身をもって示したメタ短歌であるとも読める。あるいは「そよ風と光」というような《自然》と、「朝練」の人事のとりあわせとも読める。「放課後の廊下は夕陽に染められて、染められはしない隅っこを愛す」も同じつくり。

  遅刻したことを叱っているうちに怒ってしまう 樹を打つ雨よ

 「怒ってしまう」のは不作為の現象だから、人事ではあるが《自然》の表象である。「樹を打つ雨よ」はこの《自然》を畏敬の念をもって受け入れるものであると同時に、《自然》に自らの運命をゆだねることによって、感情のもつれを洗い流したいという願望を示している。この結句の世界観には多分に南島的なものを感じるが、そもそも沖縄学の研究から出発した作者の本領にやっと近づいてきた感がある。「学年の会議でもらったチョコレートぼんやり溶けて夏は近づく」の結句もまた。

  説教で終わった手紙を折りたたむ まっすぐに降る真夏の雨は

 作者は旧友「T」からの手紙を受け取る。その字は震え「Tの字じゃないように見えた」。きれいな三句切れの歌である。「まっすぐに降る真夏の雨は」は「手紙」の内容の換喩だが、これも南島のスコールのイメージ。「雨よ」ではなくあえて「雨は」とした語法によって、言いたくても言えない述語を飲み込んでいることを示し、余韻を醸し出した。「バスケ部の予定を机の前に貼る エアコンの風が揺らすその紙」の「風が揺らすその紙」も同趣。上の句の内容を下の句で反復することによって情趣がより深くなる。
 
  副顧問だから相談にのったりする 悩みが夏の雫になるまで

 ここでは、「青春の涙」をおそらく美しく言ったのであろう「夏の雫」の比喩にたどりつけたことで、「副顧問」の現実性からはるかに遠く、歌は伸びていく。それは実は「メールにて「連載原稿書き直しのお願い」が来る 胸に重く来る」という作者本人の「悩み」を暗示するものでもあった。教師というものが「教える者」であるだけではなく、「学ぶ者」でもありつづけなければならないということに気づきなおすことによって、作者は硬直した社会的な役割の重さから自由になり、表現における人間性を取り戻したのだろう。「古いピアノ その前に座る人たちに音楽を許し続けるピアノ」の一首の「許し続ける」とは、(沖縄ふうに言えば)「唄者」すなわち芸術家としてのみずからの本質を取り戻す契機となった、重い気づきを示している。

  ざわめきは去って体育館隅のピアノは冷えてゆく冷えてゆく

 祝祭性が芸術のひとつの要点だとすれば、そこからの覚醒も実はまたその重要な要素である。学園祭の「お化け屋敷」についてのすぐれた一連も収録されているが、「ポエム化」よりも「脱ポエム化」のほうが、現実に戻らなければならない心の痛みやつらさを伴うだけあって難易度が高い。「冷えてゆく冷えてゆく」の繰り返しは、まさにこの「祭りの後」の「喪の作業」を、ことばの反復によるリズムのエクスタシーによって生徒ら(あるいは読者ら)に乗り切らせようとする配慮から生まれたものだろう。
 あるいは、この「冷えてゆくピアノ」の比喩は、塚本邦雄の秀歌「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』)や荒川洋治の「世代の興奮は去った。ランベルト正積方位図法のなかでわたしは感覚する」(『水駅』)といった戦後詩歌を踏まえている。口語短歌第一世代のニューウェーブ短歌は、現代詩でいうところの鈴木志郎康・菅谷規矩雄らの祝祭的な「六〇年代詩」にも擬せられる。したがって、その「世代の興奮」が去ってのち、短歌の成熟をしっかりと引き受けようとする決意を作者はここに表明したとも言うことができ、そう考えると、われわれはまたひとしおの感慨を新たにするものである。

短歌時評 第115回 大松達知歌集『ゆりかごのうた』から、短歌結社について考える。 齋藤芳生

2015-07-03 12:08:42 | 短歌時評
  <ゆりかごのうた>をうたへばよく眠る白秋系の歌人のむすめ p121
大松達知『ゆりかごのうた』

 
 この一首の作者である大松達知本人に、そのような意図はなかったのかもしれない。しかし、短歌結社の存在の是非について、これほど明確にひとつの答えを提示している一首はないのではないか、と思う。
 自らが短歌という短詩系文学を心から愛している「歌人」の一人であること。「白秋系」の短歌結社である「コスモス」の一員であること。「コスモス」という結社を支えてきた、多くの歌人たちのこと。彼らと共にさかのぼることのできる時間の長さと、その時間の中で培われてきた文学の豊かさについて――。
 この一首は北原白秋の「<ゆりかごのうた>」という子守歌にのせて、それらのすべてを肯定している。そして、幼い我が子にもそれらを伝えたい、という、やわらかな、しかし明確な意思がある。今は両親の歌う「<ゆりかごのうた>」を聴きながらすやすやと眠っている「むすめ」がもう少し大きくなったら、きっと作者は楽しそうに、嬉しそうに、折に触れては話して聞かせるだろう。お父さんが好きな短歌とは何なのか。なぜ、お父さんは短歌が好きなのか。お父さんは、どんな歌を作っているのか。お父さんが所属する「コスモス」という短歌結社は、どのような場所なのか。そこには、どんな人たちがいて、どんな歌をつくっているのか。
 もちろんそれは、「だから娘であるおまえもあとを継いで歌人になれ」とか、「短歌をやるなら結社に、それも『コスモス』に入らなければだめだ」などという偏狭で無粋なものではない。ただ、父親である自分自身がこよなく愛するものであるがゆえに、やはり愛してやまない我が子にもその魅力を伝えずにはいられないのだ。
 難しい話はいいんだ。お父さんはおまえが生まれるずっと前からとにかく短歌というものをつくることも読むことも好きで、そして「コスモス」という場所とそこに集まる人たちが、大好きなんだよ、と。

 近代以降短歌という詩形を支えてきた「短歌結社」という組織の有り様とその功罪には、未だに様々な議論が絶えない。各総合誌が主催する新人賞では短歌結社に所属していない応募者、そして受賞者が年々増え続けているし、インターネット上では短歌結社の存在がどうもネガティブに語られることが多い気がして、やはり窪田空穂系の短歌結社である「かりん」に所属している私としては、なんとなく(あくまでもなんとなく、なのだけれど)肩身の狭い思いをしていた。その「なんとなく」感じていた短歌結社についてのもやもやを、ささやかな文章として書いたばかりでもある(本阿弥書店「歌壇」2015年7月号時評「『居続ける場』としての結社」)。そしてTwitter上では、少し前に短歌結社について様々な立場から語り合う「たんばな2」というハッシュタグが、大いに賑わっていた。その様子は、以下のリンクからのぞくことができる。

#たんばな2 を勝手にまとめないかね。~無所属・結社全般・その他雑談編~
http://togetter.com/li/825547

#たんばな2 を勝手にまとめないかね。~各結社編~
http://togetter.com/li/825811

 この「たんばな2」での議論も大変に興味深いものだったが、しかし、昨年刊行された大松達知の第四歌集『ゆりかごのうた』の表題作でもあるこの一首を改めて読み返した時、ああ、「短歌結社」の存在意義を問うさまざまな声に対する返答は、この一首で十分だなあ、と私は思ったのだった。

  
  わが生(あ)れし以前に入会せし人の歌の上にも○をつけてゆく 36

  <大正>を換算するに宮柊二つねあらはるる一九一二(いちきういちにい) 43

  教員歌人が歌人教員へ戻りゆくあしたの道に公孫樹みあげて 113

  オーマツ君とわれを呼ぶのは歌人のみこの尊さをしづかに思へ 114

  おまへを揺らしながらおまへの歌を作るおまへにひとりだけの男親 123

 歌集には、これらのような歌もある。一首目は、編集委員として結社誌に寄せられた詠草の選歌をしている場面。自らの所属する「コスモス」を創刊した宮柊二を深く敬愛するが故の二首目。「歌人」であることに対する喜びと静かな矜持が歌われた三首目と四首目。五首目には、歌人であることへの喜びと矜持に、「男親」となったことへの新たな喜びが加わったことが、何の衒いもなく率直に表現されている。

 歌集『ゆりかごのうた』は、一冊を通して大きなテーマとなっている

  心音を聞けば聞くほどあやふげな、いのちとならんものよ、いのちとなれ 104

  みどりごのうんちは草の香りせり 六十歳のおまへが見たい 132

  一(いつ)灯(とう)になつたり一俵になつたりし、いま一輪のみどりごである 152

のような歌はもちろん、

  シマウマの真似せよかしと命じればからだくねらす十三歳は 13

  中鳥(1字傍点)とまちがへたときそのままでいいですと言つた中島が怖い 25

  ゑんどうゑんどう起きろゑんどうをととひもけふもひたすら起こすゑんどう 168

といった英語教師としての歌、さらに酒の歌、野球の歌と、それぞれに一人の読者として「短歌っていいなあ」と素直に頷くことのできる歌が数えきれないほど収められている。それは言うまでもないことだが、この歌集は私にとって、近代から「短歌」という短詩系文学を支えてきた短歌結社が、特に結社に所属して歌をつくっている私たちにとってどのようなものなのか、を改めて考えさせてくれる一冊でもあったのである。

※引用歌の丸括弧はルビ


略歴
齋藤芳生 さいとう よしき
歌人。1977年福島県福島市生まれ。「かりん」会員。歌集『桃花水を待つ』(角川書店2010年)『湖水の南』(本阿弥書店2014年)