ながらくお世話になってきた詩客短歌時評であるが、私の担当分は本稿を合わせて残り二回となった。なかなかに感慨深いのであるが、最後に何を書くべきなのか考えてみて、やはり震災詠について書いて締めくくるのがよいだろうという結論に至った。
そこで今回と次回は、これまでの震災詠の簡単な総括と今後の展望について、時評的話題を絡めつつ議論していきたく思う。ここでのポイントは、震災詠には「展望」が必要になってくる、ということである。これまでの社会詠は、1ー2年経てば、自然消滅して終わり、というものがまことに多かった。これを見込んで、震災詠には「触れない」「詠わない」立場をとった歌人も多かったように思う。ただ、周知のように、原発事故処理は、いつまでたっても喫緊の問題のままであり、東京五輪誘致の際の話題も含めて、少なくとも今後七年間は、目前の問題としてあり続ける可能性が高くなった。もちろん、原発事故以外の問題、復興や被災者支援、増え続ける被災関連死なども巨大なテーマであり続けるはずだ。
これらの問題群を、発災当時の発想で「処理」していくことは、おそらく限界の時期だと考える。状況に応じ、柔軟に粘り強くあらなければ、震災や原発を詠うことには困難が増すだけだろう。よって、なんらかの展望が必要である、というのが私の意見である。
*
岩波書店発行の隔月刊文学専門誌「文学」2013年7、8月号をたいへん面白く読んだ。今号の特集は「浅草と文学」であった。前史としての江戸時代の「浅草」地域から筆が起こされ、明治時代に公園が作られて、上野や日比谷と対照的な性格をより鮮明にしていったこと、大衆的な芝居・映画・風俗が蓄積し流れていく場所であること、関東大震災と第二次大戦の空襲により短い間に二度も消滅したこと、そして宗教的中心である浅草寺の圧倒的存在感などなど、浅草のバックグラウンドを詳細に多方面から記述しつつ、浅草を根拠にした、あるいは浅草に立ち寄った文学者や文学が語られていた。最近の大収穫であった。
さて、非常にバラエティに富んだ特集ではあったのだが、私がやはり引っかかってしまったのは、石川啄木がしきりに取り上げられていることであり、また、以下の二首が引用されていることであった。
浅草の凌雲閣にかけのぼり息がきれしに飛び下りかねき
浅草の凌雲閣のいただきに 腕組みし日の 長き日記かな
すこし説明をしておくと、凌雲閣はいわゆる「浅草十二階」で、当時の浅草、いや東京全市を代表する建築物だった。浅草十二階下には、巨大で複雑な私娼街が広がっており、「魔窟」とすら呼ばれていた。聳え立つ塔と、その下に広がる猥雑な街並みというのは、非常にわかりやすい。啄木はこの街に魅せられ、また、私娼のもとに通いつめた。当時の彼は、経済的な危機に加えて精神的な危機も抱えており、当時のいわゆる「ローマ字日記」には希死念慮を書き連ねている。一首目はその精神のありようを表現したものであり、二首目の「日記」の指すところは、この「ローマ字日記」とするようである。もっとも、肝心のその日記の内容の多くは、極めて下卑たものではあったのだが。
これは啄木の暗い一面である。あるいは、啄木はもともとダークサイドなタイプであり、これこそが彼の歌の魅力の根源にあるのかもしれない。ともかくは、啄木は浅草十二階に登った人間であった。
浅草名物凌雲閣十二階の残骸を爆破
三十四年の興味ある歴史 八階目より崩壊した浅草公園の十二階は、二十三日午後一時爆破することになり、その昔「縁かいな節」に「上る凌雲閣十二階、見下ろすパノラマ館かいな」等と唄われ東都の一名物が、無残にもここに消えて仕舞う記憶を刻印されるのである。(略) 殊にこの十二階の下には妖女の魔窟が群居し、十二階下といえば浅草公園中の悪辣なる白首の代表的なるものが集中していた。十二階下の妖女には多く文身(いれずみ)の女がいて、強賊稲妻小僧の情婦紫羽織の何とかという女もこの魔窟にいた。従って今日でも十二階下の女といえば、直ちに魔女として通っていたが、十二階爆破とともにこれらの名も湮滅して仕舞ったわけである。 [大正12年9月23日 中央新聞]
浅草十二階は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により倒壊した。残った部分も、危険だということで、9月23日というかなり早い段階で爆破処理された。今から90年前、啄木の歌から約20年後の出来事である。浅草は、浅草寺以外は全焼したのであった。
さて、一度壊滅した東京は、後藤新平の計画により、劇的な復興を遂げることになる。地震の約三年後には昭和天皇が即位し、元号も改まった。ひとびとは新時代の到来を体感しただろう。震災は「深い傷跡を残したが、それらは過去のものになっていった」というテンプレート文なり、ナレーションが脳裏に浮かびあがるところである。
**
「短歌研究」2013年9月号において、今年の短歌研究賞が発表された。受賞者は大口玲子、受賞作は「さくらあんぱん」28首であった。
震災後八日で仙台を離れたるわれが震災の日を語りをり
仙台に留まらざりし判断に迷ひはないかと言はるればなし
小池光は講評で以下のように述べている。
作者は大震災後、生活していた仙台を離れて遠く九州宮崎に移り住む。福島原発の放射能汚染を心配しての行動と思われる。小さなこどもがいる。このいのちをなにがなんでも守らねばならない。そういう思いが民族移動にも似た大決断をさせ、実行させた。行動力に驚くと共に、こういう「異常な」日々にあって作者を支えていた大切な部分に短歌があったことを知らされる。明らかに書くことで救済される必死のたましいがある。
私が付け加えるべきことは何もない。歌の力量に加えて、そのようなストーリーが受け入れられたということである。おそらくは同様の理由で石垣島に転居し、同様に歌集も出版した俵万智といったい何が違ったのか、考えてみることは無駄ではないだろう。
同誌には受賞後第一作「この世界の片隅で」50首が掲載されている。力作である。
You Tubeの小さき窓よりバチカンに幾万の傘濡るるを見つむ
独り来て句集ひらけり居酒屋の全席禁煙蜜のごとしも
「おとうさんといつしよにくらせますやうに」大人の期待に応へ書きたり
この連作では50首全てに詞書が付与されている。すべて日付と、原発、震災、政治関連の記載からなる。その記述のありかたは、新聞のリード文を強く想起させる。例えば、挙げた三首目の詞書は以下のものである。
7月7日(日) 東京電力は、福島第一原発の港湾近くの観測井戸で、地下水から1リットルあたり60万ベクレルの放射性トリチウムが検出され たと発表
目論んでいるものは明白である。詞書と歌の内容には、直接の関連性はない。詞書は現実、歌は「この世界の片隅で」歌を作る大口の、小規模な現実である。その落差が、現実の異常性を増幅させる仕組みである。最終歌の詞書を、汚染水海洋流出を東電が最初に認めた日、に設定するなど、構成全体もなかなか凝っている。
大口の歌の特徴は、これらの徹底的な俯瞰性によるところに見て取ることができる。率直に言えば、仙台から宮崎への移住とは、かなり感情的な行動である。また、現時点でも、「避難先」から仙台に戻らないでいる、というのは、福島県内へ戻るひとびと「すら」多くなっている現状を踏まえれば、また、多くのひとびとが実際に生活していることを踏まえれば、これまたかなり「頑固」な振る舞いだと思う。ところが、歌においては、その自分をしっかりと客観視できており、冷静で、どこかシニカルだ。まことに不思議なことである。第二歌集『東北』においては、自身の疾病を緻密に表現するところに凄まじさがあったのだが、その資質は現在でもくっきりと継続していると言える。そのうえで、読者には、「客観視している大口」の痛々しさ、なり、「無理をしている」感じが、はっきりと伝わる。このあたり、企んだ部分を超えた何かがある。小池光のいう「必死のたましい」、だろうか。
とはいえ、一方でなにやら限界の雰囲気を感じなかったわけでもなかった。私が「この世界の片隅で」を最初に眼にしたときの直観は、マンガ?(原爆?)、と、原稿が黒い、というものだった。前者の「タイトル」については、こうの史代の作品のイメージを含めたものであろうから、故なし、とは考えない。また後者は、これは端的に、歌よりも詞書が圧倒的に多い、ということを指す。私は、短歌において、詞書の多用には強い意見を持つ人間である。そのような、バイアスを持っている。そのバイアスを自覚しながらも、私は、大口の今回の詞書を軽々しく是とはできない。それは、量ではなく、内容の故である。
「この世界の片隅で」における詞書は、客観的だが、そのぶん、被災地からは遥かに遠い。もちろん、この連作はその「遠さ」を逆手にとった手法であり、そこに凄味もあるのだが、残念ながら、何度も使用することはできない方法でもある。これまた端的にいえば、現状の大口において、社会的事象とリンクするドラマは、ほぼ終結したのだと考えている。あとは、個人の、もしかしたらありふれたドラマが待っているのみで、それが震災・原発にリンクすることはないか、あるいは弱いつながりに留まるのではないだろうか。
私は昨年、震災詠を採録した歌集を分析し、それらを「避難した者」「残るほかない者」「遠くにいるほかない者」の三つのカテゴリに分類したことがある。今年の時点では、このカテゴリは「残るほかない者」「遠くにいるほかない者」の二つに収斂したと考えている。時の流れは、「避難した者」を次第に「遠くにいるほかない者」に変えていったのである。被災地の内と外、両方に立ち、バランスよく、俯瞰する位置にあり得た「避難した者」の特質はほぼ喪われたのだと考えている。つまりは、作り手も読み手も、震災詠を読むときに、時間経過の刻印をはっきりと意識しなければならない時期だということである。
そこで今回と次回は、これまでの震災詠の簡単な総括と今後の展望について、時評的話題を絡めつつ議論していきたく思う。ここでのポイントは、震災詠には「展望」が必要になってくる、ということである。これまでの社会詠は、1ー2年経てば、自然消滅して終わり、というものがまことに多かった。これを見込んで、震災詠には「触れない」「詠わない」立場をとった歌人も多かったように思う。ただ、周知のように、原発事故処理は、いつまでたっても喫緊の問題のままであり、東京五輪誘致の際の話題も含めて、少なくとも今後七年間は、目前の問題としてあり続ける可能性が高くなった。もちろん、原発事故以外の問題、復興や被災者支援、増え続ける被災関連死なども巨大なテーマであり続けるはずだ。
これらの問題群を、発災当時の発想で「処理」していくことは、おそらく限界の時期だと考える。状況に応じ、柔軟に粘り強くあらなければ、震災や原発を詠うことには困難が増すだけだろう。よって、なんらかの展望が必要である、というのが私の意見である。
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岩波書店発行の隔月刊文学専門誌「文学」2013年7、8月号をたいへん面白く読んだ。今号の特集は「浅草と文学」であった。前史としての江戸時代の「浅草」地域から筆が起こされ、明治時代に公園が作られて、上野や日比谷と対照的な性格をより鮮明にしていったこと、大衆的な芝居・映画・風俗が蓄積し流れていく場所であること、関東大震災と第二次大戦の空襲により短い間に二度も消滅したこと、そして宗教的中心である浅草寺の圧倒的存在感などなど、浅草のバックグラウンドを詳細に多方面から記述しつつ、浅草を根拠にした、あるいは浅草に立ち寄った文学者や文学が語られていた。最近の大収穫であった。
さて、非常にバラエティに富んだ特集ではあったのだが、私がやはり引っかかってしまったのは、石川啄木がしきりに取り上げられていることであり、また、以下の二首が引用されていることであった。
浅草の凌雲閣にかけのぼり息がきれしに飛び下りかねき
浅草の凌雲閣のいただきに 腕組みし日の 長き日記かな
すこし説明をしておくと、凌雲閣はいわゆる「浅草十二階」で、当時の浅草、いや東京全市を代表する建築物だった。浅草十二階下には、巨大で複雑な私娼街が広がっており、「魔窟」とすら呼ばれていた。聳え立つ塔と、その下に広がる猥雑な街並みというのは、非常にわかりやすい。啄木はこの街に魅せられ、また、私娼のもとに通いつめた。当時の彼は、経済的な危機に加えて精神的な危機も抱えており、当時のいわゆる「ローマ字日記」には希死念慮を書き連ねている。一首目はその精神のありようを表現したものであり、二首目の「日記」の指すところは、この「ローマ字日記」とするようである。もっとも、肝心のその日記の内容の多くは、極めて下卑たものではあったのだが。
これは啄木の暗い一面である。あるいは、啄木はもともとダークサイドなタイプであり、これこそが彼の歌の魅力の根源にあるのかもしれない。ともかくは、啄木は浅草十二階に登った人間であった。
浅草名物凌雲閣十二階の残骸を爆破
三十四年の興味ある歴史 八階目より崩壊した浅草公園の十二階は、二十三日午後一時爆破することになり、その昔「縁かいな節」に「上る凌雲閣十二階、見下ろすパノラマ館かいな」等と唄われ東都の一名物が、無残にもここに消えて仕舞う記憶を刻印されるのである。(略) 殊にこの十二階の下には妖女の魔窟が群居し、十二階下といえば浅草公園中の悪辣なる白首の代表的なるものが集中していた。十二階下の妖女には多く文身(いれずみ)の女がいて、強賊稲妻小僧の情婦紫羽織の何とかという女もこの魔窟にいた。従って今日でも十二階下の女といえば、直ちに魔女として通っていたが、十二階爆破とともにこれらの名も湮滅して仕舞ったわけである。 [大正12年9月23日 中央新聞]
浅草十二階は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により倒壊した。残った部分も、危険だということで、9月23日というかなり早い段階で爆破処理された。今から90年前、啄木の歌から約20年後の出来事である。浅草は、浅草寺以外は全焼したのであった。
さて、一度壊滅した東京は、後藤新平の計画により、劇的な復興を遂げることになる。地震の約三年後には昭和天皇が即位し、元号も改まった。ひとびとは新時代の到来を体感しただろう。震災は「深い傷跡を残したが、それらは過去のものになっていった」というテンプレート文なり、ナレーションが脳裏に浮かびあがるところである。
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「短歌研究」2013年9月号において、今年の短歌研究賞が発表された。受賞者は大口玲子、受賞作は「さくらあんぱん」28首であった。
震災後八日で仙台を離れたるわれが震災の日を語りをり
仙台に留まらざりし判断に迷ひはないかと言はるればなし
/ 「さくらあんぱん」
小池光は講評で以下のように述べている。
作者は大震災後、生活していた仙台を離れて遠く九州宮崎に移り住む。福島原発の放射能汚染を心配しての行動と思われる。小さなこどもがいる。このいのちをなにがなんでも守らねばならない。そういう思いが民族移動にも似た大決断をさせ、実行させた。行動力に驚くと共に、こういう「異常な」日々にあって作者を支えていた大切な部分に短歌があったことを知らされる。明らかに書くことで救済される必死のたましいがある。
私が付け加えるべきことは何もない。歌の力量に加えて、そのようなストーリーが受け入れられたということである。おそらくは同様の理由で石垣島に転居し、同様に歌集も出版した俵万智といったい何が違ったのか、考えてみることは無駄ではないだろう。
同誌には受賞後第一作「この世界の片隅で」50首が掲載されている。力作である。
You Tubeの小さき窓よりバチカンに幾万の傘濡るるを見つむ
独り来て句集ひらけり居酒屋の全席禁煙蜜のごとしも
「おとうさんといつしよにくらせますやうに」大人の期待に応へ書きたり
/「この世界の片隅で」
この連作では50首全てに詞書が付与されている。すべて日付と、原発、震災、政治関連の記載からなる。その記述のありかたは、新聞のリード文を強く想起させる。例えば、挙げた三首目の詞書は以下のものである。
7月7日(日) 東京電力は、福島第一原発の港湾近くの観測井戸で、地下水から1リットルあたり60万ベクレルの放射性トリチウムが検出され たと発表
目論んでいるものは明白である。詞書と歌の内容には、直接の関連性はない。詞書は現実、歌は「この世界の片隅で」歌を作る大口の、小規模な現実である。その落差が、現実の異常性を増幅させる仕組みである。最終歌の詞書を、汚染水海洋流出を東電が最初に認めた日、に設定するなど、構成全体もなかなか凝っている。
大口の歌の特徴は、これらの徹底的な俯瞰性によるところに見て取ることができる。率直に言えば、仙台から宮崎への移住とは、かなり感情的な行動である。また、現時点でも、「避難先」から仙台に戻らないでいる、というのは、福島県内へ戻るひとびと「すら」多くなっている現状を踏まえれば、また、多くのひとびとが実際に生活していることを踏まえれば、これまたかなり「頑固」な振る舞いだと思う。ところが、歌においては、その自分をしっかりと客観視できており、冷静で、どこかシニカルだ。まことに不思議なことである。第二歌集『東北』においては、自身の疾病を緻密に表現するところに凄まじさがあったのだが、その資質は現在でもくっきりと継続していると言える。そのうえで、読者には、「客観視している大口」の痛々しさ、なり、「無理をしている」感じが、はっきりと伝わる。このあたり、企んだ部分を超えた何かがある。小池光のいう「必死のたましい」、だろうか。
とはいえ、一方でなにやら限界の雰囲気を感じなかったわけでもなかった。私が「この世界の片隅で」を最初に眼にしたときの直観は、マンガ?(原爆?)、と、原稿が黒い、というものだった。前者の「タイトル」については、こうの史代の作品のイメージを含めたものであろうから、故なし、とは考えない。また後者は、これは端的に、歌よりも詞書が圧倒的に多い、ということを指す。私は、短歌において、詞書の多用には強い意見を持つ人間である。そのような、バイアスを持っている。そのバイアスを自覚しながらも、私は、大口の今回の詞書を軽々しく是とはできない。それは、量ではなく、内容の故である。
「この世界の片隅で」における詞書は、客観的だが、そのぶん、被災地からは遥かに遠い。もちろん、この連作はその「遠さ」を逆手にとった手法であり、そこに凄味もあるのだが、残念ながら、何度も使用することはできない方法でもある。これまた端的にいえば、現状の大口において、社会的事象とリンクするドラマは、ほぼ終結したのだと考えている。あとは、個人の、もしかしたらありふれたドラマが待っているのみで、それが震災・原発にリンクすることはないか、あるいは弱いつながりに留まるのではないだろうか。
私は昨年、震災詠を採録した歌集を分析し、それらを「避難した者」「残るほかない者」「遠くにいるほかない者」の三つのカテゴリに分類したことがある。今年の時点では、このカテゴリは「残るほかない者」「遠くにいるほかない者」の二つに収斂したと考えている。時の流れは、「避難した者」を次第に「遠くにいるほかない者」に変えていったのである。被災地の内と外、両方に立ち、バランスよく、俯瞰する位置にあり得た「避難した者」の特質はほぼ喪われたのだと考えている。つまりは、作り手も読み手も、震災詠を読むときに、時間経過の刻印をはっきりと意識しなければならない時期だということである。