「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌作品相互評① 山木礼子から内山晶太「黄菊」へ  

2017-04-30 23:49:44 | 短歌相互評

作品 内山晶太「黄菊」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-04-08-18368.htm
評者 山木礼子


しずかな冬の連作。しかし、随所に痛々しい棘が潜んでいる。真冬の指を悩ませるささくれのようだ。
  白湯を飲むこころ来たりて冬の水ぎらぎらと鍋にあたらしく注ぐ
 一首目。お茶でもコーヒーでもなく「白湯を飲むこころ」がすでに作者らしい。白湯はコンビニにも自販機にも売っていない。飲みたいなら自分で沸かすしかない。自己完結的な行為だと思う。「ぎらぎら」としたステンレスの鍋に注がれるのは、管からでてきたばかりの水道水かもしれない。
  一匹の猫を抱きつつさらに抱く硝子のごとき春寒なれば
 そういえば、猫の身体は温かかった。夏に抱けば暑苦しい毛でも、冬にはほどよい温もりであるだろう。三句目の「さらに抱く」。一匹目に次いで二匹目も抱く、と読めばなかなかに楽しく幸福そうな光景であるが、むしろこれは一匹目の「影」のような、なにか実体のない「猫」像を抱いているようなさびしい手触りがある。「さらに」という副詞が名詞的な具体の重さを負わされている感じ。
  くちびるより干からびてゆきながらゆく沼というゆるき輪郭の辺を
 冬の唇は乾く。「干からび」るとは相当なものだ。「ゆき」「ゆく」は「雪」「行く」「往く」「逝く」あたりの感覚を淡く伝えている。みずみずしさを失った口のなかはねっとりと湿り、その淵を一歩出た唇はかさかさに乾燥していること。沼の映像が二重露光のように重なっている。
  鳩の脚の寒さへ贈るくつしたの打ち棄てられて冬がふかまる
 羽毛から突きだしている素裸の脚に「くつした」を贈ろうとするのはきっと人間的なやさしさで、それを「打ち棄て」る鳩もどことなく擬人化されている。ハートフルな光景が四句目で変貌するのは、芝居めいた自虐であろう。「寒さへ贈る」のたしかな技術にも注目した。
  ごくかすかなる濃淡におし黙る曇天よこれはひるがおのにおい
  黄菊という政治家の中国にありしこと冬が来れば咲(ひら)くよ

 花にまつわる歌が二首並んでいる。もっとも、どちらも現実の花ではない。開花時期としても昼顔は夏だし、黄菊は秋だ。草木のすくない冬に、作者の頭の中だけで咲き乱れていることがせつない。
 「ひるがお」の歌は全体に緊張感が走る。「ごくかすかなる濃淡」の抽象性にはじまり、「おし黙る」が終止形か連体形か保留されたまま、「曇天よ」の前後に挿しこまれるブレス。下句は八音・八音で疾走し、においのイメージだけを残して終わってしまう。
 「黄菊」という人は調べたらたしかに実在していた。過去形なのは故人であるからだ。これ以上の冗長な情報は不要で、端正な花の名を持つ政治家という奇異な取り合わせが記憶に突き刺さる。発見の歌。
  くらきところ立ち止まり指にたしかむる紙幣といえるうつくしき紙を
 連作に置かれると、なお花の印象を引きずって見える歌。紙幣には植物の意匠が多く織り込まれている。「現金なやつ」という慣用句そのままに紙幣とは俗な代物であるが、緻密な版画でもあるとすればこれほど簡単に手に入り、うつくしいものもないだろう。暗闇で、お金を落とさなかったかとふと根拠もなく不安になる心境に、そのあわいを読む。
  おびただしき顎と翼とフラミンゴショーにむきだしのフラミンゴ見き
 とりわけ目立ってまず目に飛び込んできた。「フラミンゴショー」に負けてしまう。歌意は数えきれないフラミンゴが見えているというくらいで、「おびただしき」「むきだし」の過剰さが一首を支えている。「フラミンゴショー」の内容は謎である。まさか芸をするわけでもないだろう。けれど、ほとんど無個性なフラミンゴに視野が埋め尽くされ、たぶん激しい鳴き声を聞いている模様が、くっきりと見えてくる。
  水面に椿は落ちて水面のものとなりたる椿にしゃがむ
 花の歌に戻る。今度は現実の、冬の椿。花が落下する瞬間を追体験するような臨場感。ほんとうに落下を目撃することは難しいのかもしれないが、ならばかえって、人間ではありえない長い時間をかけて椿を眺めていたようなぜいたくさがある。まるで咲いてから散るまでずっと見つづけていたような。
 最後の歌は現代的で、清潔な眠りの歌だと思った。枕元でスマートフォンを充電するのは、違和感はないがここ十数年で浸透した習慣だろう。携帯機器というと悪の側面も強調されがちだが、ここにはむしろいつでも他人とつながれること、アラーム機能によって朝を知らせる時告げ鳥にもなるといった安心感もある。せせらぎを聴きながら眠るようなあたたかみもあろう。では、おやすみなさい。
  スマートフォンに電流の線差してねむるきらきらとねむりのそばをながれよ

短歌時評125回 短歌はもっと黒田夏子の影響受けたらいいのにと思って書いた文章 吉岡太朗

2017-04-03 23:19:41 | 短歌時評


 先日飲みの席で「最近の短歌ぜんぜん面白くない」みたいなことを言ってしまいまして、「いつの短歌は面白いの?」と訊かれて答えなかったんですが、昔の短歌も面白くない気がする。
 きっと面白くないのは短歌の側の問題ではなく、自分の側の問題だろうと思っていたんですが、たったいま面白い短歌があるのを思い出しました。
 黒田夏子『感受体のおどり』。
刊行は2013年で、割と最近です。
 でもこれ短歌じゃないんですよね。
 世間的なカテゴライズではどうも小説に位置づけられてるようです。
 あんまり読み心地は小説っぽくないんだけど、だからといって詩とはあんまり思わなかった。
 別に定型じゃないだけで、短歌だろって思ってしまった。
 まあ短歌やってるからそう思うだけなのでしょうけれど。
 でも客観的な位置づけなんてものはまやかしで、読んだ人間の実感だけが本物なので、短歌だということにして、少し読んでみたいと思います。
(注:時評という言葉が含み持つ何らかのものへの抵抗が、このような文体を選ばせているのだと思ってください)
 男か女かときかれて,月白はどちらかと問いかえすと,月白が女なら男なのかと月白はわらった.
 『感受体のおどり』は1番から350番までの短い文章の集まりで成り立っています。これは1番の書き出しのセンテンスです。
 短歌っぽいと思います。
 どこが短歌っぽいかと言いますと、このセンテンスには枠があるように思えるからです。
 どんな枠かというと、「一つのセンテンスである」という枠で、そんな枠はどんなセンテンスにもあるので、そうなると「すべてのセンテンスは短歌だ」ということになります。
それはある意味正解なのだと思います。
 この世に短歌じゃない言葉など存在しません。
 でも私たちは決してそんなことは思いません。
 なぜかというと普通はあまり枠を意識しないからです。
 理由は次のセンテンスに進んでしまうから。
 身も蓋もないこと言ってしまうと、このセンテンスは一読よく分からないのでもう一度読んでしまうところが短歌っぽいのです。
 短歌って一番下まで読んだらまた上に返りませんか?
 きっと短歌やってるひとはうなずいてくれるはず。
 ……余談が過ぎました。
 「月白」は登場人物で、視点人物である「私」と会話をしているようなのですが、まるで「月白」と「私」は自分で雌雄を決められる生き物であるかのようです。
 そういう生き物いそうだなあ、とグーグルで調べたら「ニワトリの細胞は自分自身で性別を決める」と出てきたり、アーシュラ・K・ル=グウィンの『闇の左手』は両性具有の人が男になったり女になったりしたなあ(あれは自分では決められなかったはず)とか思ったりしました。
 けれどまあ、『感受体のおどり』というくらいだから踊りの話なのでしょう。
前頁の登場人物表のところの「踊り関係の人物」に「月白」が含まれていて「私」の師なのだと分かるようになっているし、後に続く文章を読んでいくと「男役」「女役」という言葉がちゃんと出てきます。
 その辺を踏まえてくどいくらいの意訳をすると、「今度の舞台で男役と女役のどっちをしたいのかと師匠の月白が弟子の私にきいてきたので、私は月白はどちらの役なのかと問いかえした。すると月白は「私が女役をするなら、あなたは男役をするのか?(あなたは人の意見をきいて、自分の役を決めるのか?)」と答えてわらった」となります。
 こう見るとこのセンテンスにはたくさんの省略があることが分かります。
 読者はその省略を補って読んで行かないといけない。
 省略を補うというのは空間を覗き込むことです。
 文章が生成する空間に首を突っ込んで向こうに何か見えないかな、と探す行為です。
 はじめは空間が真っ暗なのでいろんなものが見えます。
 生物の神秘とかジェンダーSFとかまやかしなんですが、あるような気がしている時点ではあるわけです。
それを「ある」とはっきり確定させてしまうと、いわゆる誤読というやつになるわけですが、確定させてしまわない限りは連想の広がりとして楽しめばよいものだと言えます。
 連想を楽しんでいる内に、だんだんと目がなれてきてうっすらと空間全体の様子がつかめてくる。
ところでこのセンテンスで一番の省略の対象になっているものは何かというと、もちろん「私」です。
 「問いかえ」しているのは「私」なのですが、前後の「月白」という語にサンドイッチされた上に、駄目押しでもう一度出てくる「月白」の「わらった」という動作に取り込まれてしまっています。
 師である「月白」によって「私」が文章空間の奥へ追いやられているかのようです。
「男か女か」と尋ねることによって、「私」に選択権を与えているようなのですが、その実与えることで「月白」が自身の寛大さを見せつけているようです。
 1番の後半には、男役と女役との数がかたよってしまえば少ないほうをすることになるが,てきとうに変化のつく番ぐみになりそうなときなら私にも男か女かをまよう自由がのこった.」というセンテンスがあります。
ここでは「自由」という語を出すことで、逆説的に「私」を取り巻く「不自由」を描出していますが、この「不自由」は書き出しのセンテンスですでに暗示されていたのでしょう。
天からふるものをしのぐどうぐが,ぜんぶひらいたのやなかばひらいたのや色がらさまざまにつるしかざられて,つぎつぎと打ちあげられては中ぞらにこごりたまってしまった花火のようといえば後年の見とりかたで,身がるげに咲きかさなるものの群れを視野いっぱいに見あげていた幼児はまだ打ちあげ花火をあおいだことがなかったし,傘というものの必要性も売り買いということのしくみもいっこうかんがえたことがなかった。
 同じく黒田夏子の『abさんご』から。
 芥川賞を取っているので、こちらの本の方が有名でしょう。
 まず面白いのが「天からふるものをしのぐどうぐ」で、これはセンテンス後半に出てくる「傘」のことを言うのでしょうが、一読分からないことが読者を立ち止まらせる。
 立ち止まって意味を考えることが、文章空間を深く覗き込むことになるわけです。
 先の省略と手法は違いますが、効果は同じです。
 その「傘」を「花火」に見立てるのですが、ここも面白くて、「後年の見とりかたで」と見立てを自ら否定する。
 記憶されたものは想起され、想起のたびに作り替えられます。
 「傘が花火のようにきれいだ」と言えば分かりやすいですが、分かりやすくしたのは後で振り返った自分であって、その時の自分ではない。
 分かりやすさとは作り替えなのです。
 それに対し黒田夏子は抵抗し、正確に描こうと努める。
 それは客観的な何かに対してではなく、自らの感覚に対する正確さです。
 「天からふるものをしのぐどうぐ」という言い方も、「傘」と分かりやすく言うことで実感と違ってしまう何かを描こうとしてのことかも知れません。
 それは「傘」という枠への抵抗であり、「傘が花火のようだ」という枠への抵抗です。
 黒田夏子のセンテンスが枠を意識させるのは、枠に対して抵抗しているからなのです。
 見ているあいだだけ,行きあわせているあいだだけ,知りびとが知りびとであった日日,それぞれにそれぞれのくらしがめぐっているのはわかっていても知りたいとかんがえたことはついぞなく,たとえば遠くへのひっこしというような小児にとって死とえらぶところのない不在になつかしいという情緒はうごいても,それは去ることによって内がわに移ってきたものへの,つまりはじぶんへの惜しみのようで,去った者の今をおもうのとはちがった.
 再び『感受体のおどり』から。
これは4番の文章にあります。
 黒田夏子中一番好きかも知れないセンテンスで、特に後半部分がすごい。
 「私」の前からいなくなった者は、「私」の内面に移り住んでくるということ。
 引っ越しでの別れの惜しみは、自分への惜しみであるということ。
 幼児期の自身の感覚を、できるだけ正確に書こうと努めた結果出てきた言葉なのでしょう。
 それはくどくて分かりにくいが、私というものの内奥に迫っている。
 短歌が「私」を書くものなら、これこそ短歌だろうと思います。

 引用
  黒田夏子『abさんご』2013年,文藝春秋.
      『感受体のおどり』2013年,文藝春秋.
(文中のルビはすべて省略としました)