作品 内山晶太「黄菊」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-04-08-18368.htm
評者 山木礼子
しずかな冬の連作。しかし、随所に痛々しい棘が潜んでいる。真冬の指を悩ませるささくれのようだ。
白湯を飲むこころ来たりて冬の水ぎらぎらと鍋にあたらしく注ぐ
一首目。お茶でもコーヒーでもなく「白湯を飲むこころ」がすでに作者らしい。白湯はコンビニにも自販機にも売っていない。飲みたいなら自分で沸かすしかない。自己完結的な行為だと思う。「ぎらぎら」としたステンレスの鍋に注がれるのは、管からでてきたばかりの水道水かもしれない。
一匹の猫を抱きつつさらに抱く硝子のごとき春寒なれば
そういえば、猫の身体は温かかった。夏に抱けば暑苦しい毛でも、冬にはほどよい温もりであるだろう。三句目の「さらに抱く」。一匹目に次いで二匹目も抱く、と読めばなかなかに楽しく幸福そうな光景であるが、むしろこれは一匹目の「影」のような、なにか実体のない「猫」像を抱いているようなさびしい手触りがある。「さらに」という副詞が名詞的な具体の重さを負わされている感じ。
くちびるより干からびてゆきながらゆく沼というゆるき輪郭の辺を
冬の唇は乾く。「干からび」るとは相当なものだ。「ゆき」「ゆく」は「雪」「行く」「往く」「逝く」あたりの感覚を淡く伝えている。みずみずしさを失った口のなかはねっとりと湿り、その淵を一歩出た唇はかさかさに乾燥していること。沼の映像が二重露光のように重なっている。
鳩の脚の寒さへ贈るくつしたの打ち棄てられて冬がふかまる
羽毛から突きだしている素裸の脚に「くつした」を贈ろうとするのはきっと人間的なやさしさで、それを「打ち棄て」る鳩もどことなく擬人化されている。ハートフルな光景が四句目で変貌するのは、芝居めいた自虐であろう。「寒さへ贈る」のたしかな技術にも注目した。
ごくかすかなる濃淡におし黙る曇天よこれはひるがおのにおい
黄菊という政治家の中国にありしこと冬が来れば咲(ひら)くよ
花にまつわる歌が二首並んでいる。もっとも、どちらも現実の花ではない。開花時期としても昼顔は夏だし、黄菊は秋だ。草木のすくない冬に、作者の頭の中だけで咲き乱れていることがせつない。
「ひるがお」の歌は全体に緊張感が走る。「ごくかすかなる濃淡」の抽象性にはじまり、「おし黙る」が終止形か連体形か保留されたまま、「曇天よ」の前後に挿しこまれるブレス。下句は八音・八音で疾走し、においのイメージだけを残して終わってしまう。
「黄菊」という人は調べたらたしかに実在していた。過去形なのは故人であるからだ。これ以上の冗長な情報は不要で、端正な花の名を持つ政治家という奇異な取り合わせが記憶に突き刺さる。発見の歌。
くらきところ立ち止まり指にたしかむる紙幣といえるうつくしき紙を
連作に置かれると、なお花の印象を引きずって見える歌。紙幣には植物の意匠が多く織り込まれている。「現金なやつ」という慣用句そのままに紙幣とは俗な代物であるが、緻密な版画でもあるとすればこれほど簡単に手に入り、うつくしいものもないだろう。暗闇で、お金を落とさなかったかとふと根拠もなく不安になる心境に、そのあわいを読む。
おびただしき顎と翼とフラミンゴショーにむきだしのフラミンゴ見き
とりわけ目立ってまず目に飛び込んできた。「フラミンゴショー」に負けてしまう。歌意は数えきれないフラミンゴが見えているというくらいで、「おびただしき」「むきだし」の過剰さが一首を支えている。「フラミンゴショー」の内容は謎である。まさか芸をするわけでもないだろう。けれど、ほとんど無個性なフラミンゴに視野が埋め尽くされ、たぶん激しい鳴き声を聞いている模様が、くっきりと見えてくる。
水面に椿は落ちて水面のものとなりたる椿にしゃがむ
花の歌に戻る。今度は現実の、冬の椿。花が落下する瞬間を追体験するような臨場感。ほんとうに落下を目撃することは難しいのかもしれないが、ならばかえって、人間ではありえない長い時間をかけて椿を眺めていたようなぜいたくさがある。まるで咲いてから散るまでずっと見つづけていたような。
最後の歌は現代的で、清潔な眠りの歌だと思った。枕元でスマートフォンを充電するのは、違和感はないがここ十数年で浸透した習慣だろう。携帯機器というと悪の側面も強調されがちだが、ここにはむしろいつでも他人とつながれること、アラーム機能によって朝を知らせる時告げ鳥にもなるといった安心感もある。せせらぎを聴きながら眠るようなあたたかみもあろう。では、おやすみなさい。
スマートフォンに電流の線差してねむるきらきらとねむりのそばをながれよ