「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評186回 たかが定型詩、されど定型詩 小﨑 ひろ子

2023-04-04 16:40:22 | 短歌時評

 短歌を始めたころ、五七五七七という詩型は、人間の形にとても似ている、と思い、参加していた同人誌にそういう文章を書いたことがあった。詩や俳句を先につくっていたので、特にそう思ったのかもしれない。だから、「魅力的な」人物の像を作中主体として示す短歌は人気を集めるし、自分と同じような「人」を歌の中に見ればうれしくなったり共感したりするし、生きづらい状況が歌われるのを見ればこれは何なのだろうと立ち止まるし、作者が重要事と感じる社会的な事象が詠まれていれば、妙に納得して調べてみたくなったりするのだろう。
 思いや感情や思考、あるいは自分が捉えた世界をいかに的確にあるいは独創的にことばに置き換えて表現するか。その点については共通しているのに、この日本語独特のリズムを持つ定型の詩とはなんて不思議なものなのだろうといつも思っていたし、今でも思っている。そこでは主語は基本的に作者自身となることが暗黙の了解事項とされているが、そもそも自分のことで手一杯の個人が、そのまま自分自身をうつす短歌という形をごく自然に生理的に選んでいるのではないかとさえ思えてくる。だから誰かの人格にのっかって歌をつくったりすると、ルール違反のようなモラルハザードのような一大事にも見えてくる。

 その謎について知りたくて様々な本を読み散らしても、未だにそれが何であるかなど私にはよくわかっていないのだが、最近(といっても一年以上経つから今頃「時評」に書くなよという声も聞こえてきそうだ)では、「現代詩手帖」2021年10月号の特集「定型と/の自由短詩型の現在」の中で、たくさんの詩人や歌人がそれぞれに定型について考察しているのが興味深かった。こういう風に、常に意識的に定型についてしっかり考えていく風景がある限り、どんなにブームと言われるような状況になっても、そこに静かに今までの定型詩が消失してしまうようなことはないだろう。
 その中で、詩人の蜂飼耳が、「非定型の場から、定型の世界はどう見えるだろう。いえることの一つは、定型詩は背後にたどれる歴史的なひろがりが、非定型詩と比べれば格段に重層的だということだ。」「たとえば定型詩が持つ、実際の時間的な幅も含めての古典との繋がりといった要素は、非定型詩にはない。これからもない。」と書いているのが記憶に残った。
 この視点によって短歌のことを思うなら、先日、アートカウンシル宮崎で行われた講演での黒瀬珂瀾の話は興味深かった。(これはZoom配信による講演だが、YouTubeで記録された映像をそのまま視聴することができて、レジュメも画面に画像として表示してくれているのがありがたい。)最近短歌県としてのアピールが話題の宮崎県の延岡について、

まぼろしの鮎の響きを思はせて大瀬の波は陽にほどけゆく        黒瀬 珂瀾

海に向けば見えない誰かが歌つてる ととろみなとでアヒージョを買ふ  同

 といった自身の作品を引きながら、「短歌が表すものは、今一瞬の感情だけではない。長い時間が伝える人の営み、息遣い、言葉。土地という長い時間と人という一瞬の交錯」「地霊のささやきを聞く」「ゲニウス・ロキ―文化歴史の蓄積が生む類型化できない固有の土地性」といったことを述べている。(ちなみにゲニウス・ロキというのはラテン語なのだそうな。)
 もちろん、話し言葉で綴られるブームの短歌との違いをそこのみに落ち着かせるのは早急にすぎる(現に、言葉が引きずる因襲から解き放たれたかのように自由に、現代の日常の言葉によって日常を素材に作品を成立させている歌人はたくさんいるのだから!)が、これは確かに日本の定型詩が良くも悪くも背負わされてきた特徴と言ってよいのだろう。
 ブームの主役が若い世代であるとするなら、2021年に二十代で現代短歌賞を受賞した西藤定の第一歌集『蓮池譜』の中に、日本語や歴史を意識する作品がいくつかあったのは面白かった。(ちなみに西藤定は、未来短歌会で黒瀬珂瀾の選を受けている。)

書かれざる歴史のことを熱く言うきみに蓮池の柳が似合う       西藤 定

 なぜ作中にあらわれるきみ(たぶん女性)に柳が似合うと作者が思うのかは謎。私はむしろ異議申し立てを言う者には柳は似合っていないと思うのだが、今に連なる歴史そのものを意識しながら歌う。

San-fran-cis-coは字余りでなく、後輩の土産は淡くかおる焼菓子    同

 タイトルの「譜」という語も、短歌の音楽的要素を思うと魅力的だが、作者の定型に対する意識が伺われる。丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス―無意識の深みにうごめくもの』(一九九〇、講談社)に引かれた黛敏郎の言葉によると、それぞれの言語には異なった音楽的ビートにあう特質があり、「日本語の場合には七・五調にもとづくリズムであり、英語のリズムはジャズのスウィング、フランス語はシャンソンに多い三拍子型、ドイツ語は行進曲型の2拍子」であるという。「サンフランシスコ」は仮名表記では「ン」の音も含め八音になるが、早口で定型に収めて詠んだとしても、これは英語のリズムなのでそのような括りには当てはまらないのだ。

沈丁花 架空の文字を考えてそれが漢字に似てしまうまで       同

 文字としての言葉。オリジナルなものを求めて原初的ななにかを文字にしようと思った時、それがもともと存在する形に似てしまった、そんな不思議な経験も歌になっている。

 歴史による連なりと言えば、文語と口語についての論考をまとめた『キマイラ文語』(川本千栄)が、高い評価を受けて話題になっている。文語・口語と言う時、それは「古語・書き言葉」「現代語・話し言葉」とそれぞれふたつの意味があるというあたりからていねいに整理してつづられているので、参考書として座右に置いておくのにもよい本であると思う。現代短歌の中で使われているどこか変な文語、古語として見ても文法的に正しくないこれらの言葉は、伝説上の怪獣キマイラのようなものに例えられるのではないか、ということで、土屋文明なども、「ぬえ」といった表現で呼んでいたらしい。キマイラと言えば、田中槐に「われらキマイラ」という結句の歌があって、私は、自分自身を定型詩の中に収めようとしていること自体、生き物として何か変な感じ(キマイラ)という意味に受け取り、それでもこの詩形は人間の形にちかいと私は思っているのだから、「われら」とひとくくりにしないでほしいなあなどと思ったりしたものだった。まあ「未来」では近藤芳美も、自分を「猛獣使い」と呼んでいたくらいだから、あまりむきにならない方がよいのかもしれないけど。
 だから今回も、実は私はこのタイトルを見て「なるほど!」と思うより、「外側からそんな神話獣に例えないで」と思ってしまったのだ。たぶん私自身も、文法的にはきっと変な文語口語の歌をつくっているし、論理ではない感情や心象、慟哭のような表現を何かの動物に例えて話を進めるなら、なおさらそうだ。文法的に正しくなくても、人間の日本語の詩の言葉として古語的な言葉が普通に存在しているのだから、定型詩の詩的言語とは何て奥が深いものなのだろうと思う。それが好きか嫌いかは、もちろん個人の問題だけど。たぶんこのあたりについては、歌人であるこの本の著者も同じような考えを持たれているのではないかと思う。
 だが、文法というきまりごとを念頭に形を整えるのは、現状、この定型詩では基本技術である。わかりやすさと端正さ、読まれやすさを求めるならそれらはとても大事なことで、文法に正しい形があるなら正しくない形もある、ということだ。これは「ポリティカルコレクトネス」や「人としてどうよ」といったこと以前の形式の話なのだが、表現について、自分はそれでいいのだとかたくなにならず謙虚であることはこれまた大切なことなので、私が感じたその違和感についてもこのくらいにとどめておく。

 

※敬称は略させていただいています。

【参考】

「現代詩手帖」2021年10月号(思潮社)

「短歌みやざき事業オンライン「黒瀬珂瀾講演会~シンポジウム~まちと短歌」アーツカウンシルみやざき(2023年3月17日17時より講演の録画、You Tube)https://www.youtube.com/watch?v=wKXFRroIrMc

『蓮池譜』西藤定(二〇二一、現代短歌社)

『キマイラ文語』川本千栄(二〇二二、現代短歌社