「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第92回 「指差し確認」する世界 生沼義朗『関係について』 牧野芝草

2013-04-22 19:42:25 | 短歌時評
 3月30日に中野サンプラザで開催された『関係について』(生沼義朗、北冬舎)批評会に出席した。著者の生沼義朗は短歌人の同人で、本書は『水は襤褸に』に続く第二歌集である。パネリストは川野里子、森本平、斉藤斎藤、花山周子、黒瀬珂瀾(司会)、総合司会に石川美南という豪華キャストが揃ったのは、著者の人徳というべきものかもしれない。

パネリストの議論の中で特に印象が深かったのは、

 関係や物語の失効をテーマに掲げたことはマイナスではない。結果的に面白くなったけれど、著者がどこまで意図しているのか。
 昨年、石川美南さんが砂子屋書房「日々のクオリア」で<むしろ、ちぐはぐな現実感にその都度きちんとモノサシを当てて測っていくような律儀さ、そのように測っていくより他ないという思いこそが、これらの歌の持ち味なのだと思う。(注)と書いていたが、

日本の戦後は瀬島龍三を物差しにすればおさまりがつく

の歌も、瀬島龍三がどういう人かはどうでもよくて、その「物差し」を当てることで世界を確認していく。

越境という語を思う埼京線に乗って赤羽過ぎてゆくとき

も、車掌さんが指差し確認している感じで、ふつうの認識。発見はないけれど指差し確認している作中主体そのものが面白い。文体として「げに」「実に」が多いのも確認しているから。


という斉藤斎藤の指摘と、

どのあたりか心当たりはないなれど風邪ひきはじめはおそらく仕事場
一日は労働のためにありなむか 一食目10時、二食目20時
出来事になべて食傷するうちに飲み干している水2L強
あきらかに女の論理を振りかざす母を憎みしのちに許しき
選挙速報見ては気づけり万歳は背広のかたちが崩れることに
関東のそばつゆが白湯になるまでの味覚減退とくに塩味


を引いた花山周子の

 自分の身体や感情は非常に細かく詠むのに他者の描写が雑。自分を大事にしているときにアドレナリンがまったく出ていない。エゴイスティックな主体が見える。
 いちいち言い直したりだめ押ししたりする(筆者注:上記引用歌の太字部分;太字は筆者)。読者に対してというより、自分がどうしても言いたいというところで歌ができている。律儀すぎて

錠前と思しきところ何回も揺する視えるもののみ信じるわれは

のように、「<視えるもののみ信じる>のに<思しきところ>?」みたいな変なことになってくる。
 すごい歌が作れる人なんだけど、支離滅裂というか、文法的におかしい歌もある。通俗的、常識なものと、ふつうは同居しないようなものが同居していて「あたま隠して尻隠さず」的に見えてくる。


という指摘だ。これを受けて司会の黒瀬珂瀾は

 パネリストの意見がこれほど重なるのは面白い。歌集の持っている文脈ができすぎているからでは。

と述べ、「自分の身体や感情は非常に細かく詠むのに他者の描写が雑(花山)」なのは「著者が自信を持って<指差し確認>できるのは自分のことだけ」だからなのかもしれないと指摘し、文体については「助詞が過剰。ふつうは省略する助詞も入れて散文的にしている」と述べた。

一方、会場発言では、
文語に収めたときに「はつか」など不思議なものが出て来る。作者の欲望が暴走したときに結果として面白くなっちゃうというのはどうなのかと思った。個人の自分勝手なところから描かれたときに、今まで描かれていなかたものが現れてくるのが面白い歌集だった。(花山多佳子)

歌集がひとを笑わせることができるのか、という時間を過ごすことができた。読者を設定することで、事柄の面白さに方向が向いて行ってしまう。言葉が先にあって歌がついて行くのではなく、言葉を抑える。表現を抑えるほうから歌が発生していくのではないか。と思っている。
 面白いけれど違和感がある。味わいのたりないのは表現が下手だから。言いたくてしょうがないのを抑えて表現を練り直して欲しい。(外塚喬)


素直に面白い歌集。ピン芸人が滑ったあとの静けさ、みたいな面白さ。白けた空気に笑ってしまうことへのハズレはない。先を読んでいるのか、そういうルートが確立されているのかはわからない。(内山晶太)

など、「面白い」という語も多く聞かれた。

 筆者自身もこの歌集を非常に面白く読んだ一人だが、それが著者本人を知っているからなのか、著者と面識がなくても主体の行為・思考を面白いと思えたのか、と考えると、前者であるような気がしてならない。もちろん、作中主体の行為の妙な律儀さと大雑把さのバランス自体も面白いのだが、それ以上に、主体の人物像は著者本人と微妙にずれた映像として立ち上がってくるにもかかわらず、行為・思考はふだんつき合っている著者本人のそれと重なって見えてくる(そのズレをズレとして認識したときにさらに面白さが増幅される)ところに、この歌集の面白さがあると思えるからだ。

 しかし、著者本人と、著者本人に似ている作中主体が陽炎のようにぼやけて重なって(二重写し的に)見える点にこの歌集の面白さがあるのだとすると、著者本人のひととなりを直接知ることのない読者に対しては届きにくい、あるいは届かない面白さだということになってくる。これは、純粋に著者=作中主体として詠まれた歌の場合以上に内輪受けという意味の強い歌集になるのではないか。

 著者=作中主体であって、歌の内容と著者本人の実生活が完全に一致しているのであれば、小説家のエッセイから小説家のひととなりをかいま見ることで読者が小説家に近づくように、著者本人と直接の面識のない読者にも通じる「面白さ」として表れてくるだろう。だが、『関係について』の場合、前述した通り、著者・生沼義朗と作中主体は微妙にずれて見える。それは、著者が自らを美化した結果なのかもしれないし、別の人格として作中主体を立てることでずれを生もうという著者の意図によるのかもしれない。その結果、この歌集を十全に面白く読める読者層が非常に狭い範囲に限定されてしまうのであれば、著者と作中主体の距離を近づけてズレを小さくするほうが、より多くの読者にとってより面白い世界が広がるのではないか。

 今回の批評会ではあまり触れられなかった上に仮定に仮定を重ねての論で恐縮だが、歌のリーチという意味で気になったのでここで触れておく。

注:2012年7月4日付け 砂子屋書房「日々のクオリア」(石川美南)
  http://www.sunagoya.com/tanka/?p=8147

短歌時評 第91回 細川周平『日系ブラジル移民文学』を読む 田中濯

2013-04-12 00:00:00 | 短歌時評
 先月、みすず書房より『日系ブラジル移民文学』(細川周平)の第二巻目が発売された。二冊ともに、「日本語の長い旅」という副題が付いている。第一冊目が「歴史」、第二冊目が「評論」に対応している。まずはこの畢竟の大著の刊行を喜びたい。
 とはいえ、手にするのにはなかなか勇気がいるのも確かだ。なにしろ、A5版のビッグサイズ、二冊合わせて1650頁、お値段は3万円と、なにもかもが破格である。しかし、内容はさらに破格で、素晴らしいの一言であり、購入せずとも、図書館で必要な箇所をコピーするなりして、ぜひ手元に置いておくことを薦める。というのは、「小説」「詩」「俳句」「短歌」「川柳」とカテゴリ分けされて議論が展開されているため、各ジャンルごとに対応が可能だからである。つまり、本書は、ぜひとも短歌以外の詩客読者の皆さんにも強く推しておきたく思う次第である。また、各ジャンルの背景についても碩学な著者であるので、文章の上手さも含め、ストレスフリーで読書に没頭できることもあり、読書人としても決して見過ごせない。ブラジル移民文学のことを学びながら、いつしか日本の文学史の流れを復習できるという、お得な構造でもある。

 巻頭で、細川は以下のように述べている。

  現地の新聞雑誌をめくると、必ずといっていいほど文芸欄に出会う。だから移民の文芸活動の重要性は最初からわかっていたが、それに集中するにはずっと抵抗があった。量が膨大であること、そして文学の教養と素養に欠くことがその理由だった。前者は時間をかけてしらみつぶしに読むしかない。言い換えれば時間さえかければ何とかなる。しかし後者はそうやすやすと不足を取り戻せない。だが対象を作品の分析に絞らず、文学界の分析に向ければ、これまでやってきた歌謡界や映画界の知識が役立つだろうと楽観的に方針を立てなおした。思いついた方法が、「作品」を読むのではなく、歌ったり映画を見るのと同じように、日々の営みとして「文学する」ことを調べるという方法だった。

 動詞「文学する」は座りが悪いが、読む、書く、写す、語る、暗唱する、感動する、調べる、集まる、教える、教わる、争う、選ぶ、刷る、製本する、売る、買う、捨てる、さらには忘れるまで含めて、文学に関わる営みを包括的に指す。広い意味の文学活動を可能にする人脈やモノや場所、情報や金の流れ、技術や心向きにも眼を向けることで、これまでかじってきたエスノグラフィーの方法で文学を扱えるのではないか。歌謡史研究はすばらしい歌手を発掘したり、歌のうまさを論じることではなく、なぜ人はちょっとしたきっかけで歌い、集い、歌を作り、組織を作り、楽団や機械の伴奏で歌い、順を争うのかという問いから始まった。映画史も似たような動機から取材を始めた。文学についても人がなぜ創作し、どこにどのように発表し、評価を受けてきたのか、という問いが根本にあり、創作を支える組織、読者層、日本の文学界との関係などについて調べた。文学の素人、素人の文学を論ず。これを合言葉に、百年間に蓄積されてきた作品やその周辺記事を読み、関係者の話を聞いてみた。ほとんど誰も外部の読み手を持たず、批評も出ていないのをいいことに、文学の素人にも出番があると自分を納得させた。その結果がこの二巻本である。


 この文章に記されている通り、細川は全編にわたって作品の評価はしていない。しかし、作品の評価はせずとも、ひとがどのように、どのような気持ちをもって「文学」に関わってきたかをたんねんに調べ上げてそれを精緻に述べるときに、わたしたちが作品を評価するときに実は根底でもっとも頼りにしているはずのもの、象徴的にいえば「魂」に細川が深く触れていることがわかる。それは、評価よりも、ある条件では間違いなく大切である。その条件、すなわち、「素人の文学」を語ること、あるいはその語りかたは、いうまでもなく私や、あるいは本稿読者の皆さんにとって極めて重要であると思う。本書から学ぶべきところは実に大きい。

 以下、まとまりを欠くが、この傑作を読みながらメモしたことについて、やや備忘録ふうに書いていきたく思う。

 これはいろいろなところで書かれたり、話されたりしていることであるが、短歌のジャンルが現在縮小していることには、どうやら疑いを持てない。短歌人口が減少していることもそうだが、そもそも日本の人口自体が減少を始めているのだから、増える道理がないような気もする。短歌人口には高齢者が多く、したがって、日本の人口よりも急速に減少していくと考えるべきだろう。これはもちろん、朗らかな未来予想図ではない。
 よって、さまざまな現状打破の道がとられている。現在はおおいなる模索の時、あるいは迷いの時というべきかもしれない。
 そのさいの方法の1つは、以前にこの欄でも紹介したことがあるが、歴史の回顧である。「~の死より何年」「~の生誕より何年」「~の出版より何年」といったものである。温故知新を図っているわけである。明治維新以降何回かあった短歌の黄金時代、たとえば戦前のアララギ主導による万葉集を基盤とした短歌の国民文学化の時代、戦後の岡井・塚本による前衛短歌の時代、団塊世代による政治の季節と短歌の時代、バブルを背景とした俵万智の時代、これらの時代を特定の歌人・歌集をてがかりに回顧することにより、これらの時代の活力を現代に蘇らせようという試みである。この発想は妥当だし、わかりやすいのは間違いない。
 とはいえ、最近は総合誌でこの発想を用いた特集がどうにも多いようで、そろそろ飽きがきている。中には若干無理筋の特集もあり、大切な「弾」の無駄遣いのように思うこともあった。そもそもこの発想を用いれば、「特集のネタ」は時間がたてば自動的に生成されてしまうわけであり、またその性質上、形式が似てしまうのもいたしかたない。温故知新を目指すことについては、そろそろかなり困難な状況になってきていると考える。ともかく、私は本稿で、これを「垂直の方法」と呼ぶことにする。
 私は、『日系ブラジル移民文学』を読んだこともあり、ここで「垂直の方法」に対して「水平の方法」に、より活路を求めてはどうだろうか、と皆さんに提案する次第である。水平、つまり時間軸ではなく、同時代の地理的な要件で見ていく方法である。
 これは別段珍しい方法ではない。いわゆる海外詠という切り口はこれまでに何度かなされてきたことを思い出してほしい。だが、そこには実は大きな偏りがあって、それについてはあまり指摘がなかったようにも思っている。それは、「海外」が指すものがおおむね欧米であったということである。また、ついでにいえば、欧米にいったものたちは多くがエリートであった。齋藤茂吉以来、欧米留学をした歌人のエリートのうち、その後帰国して有力になった人物、あるいはエリートの夫につきそった妻で現在の有力歌人、というひとびとはかなり多い。断っておくが、彼らの歌が今に残るのは、べつだん彼らがエリートだからではなく、端的に、優れた歌を詠んだためである。そこにアンフェアさはない。しかし、それらの歌は貴重ではあるが、一方では、そこに確実に欠損した領域もあるのだ、ということを忘れるべきではない。最近、本詩客時評にも取り上げられた「中東短歌」が注目を集めているのは、まず、彼ら同人の歌に見るべき価値があり、そのうえで、いままではほとんどなかった地域「中東」が背景にあることに、新鮮さがあるためだろう。
 歌の質、を勘案すると、海外詠は、ほぼ必然的に欧米留学詠になる、というのは寂しい事実である。いや、そうではないのだ、ということで、これまでにも旧植民地における短歌について、台湾や旧満州などにおける文芸活動からの発掘がなされてきたが、今回のブラジルも含めて、本国「日本」に対抗できるほどの屹立した歌人は現れていない。おそらく、今後も発見されないだろう。
 これでは、「水平の方法」は成立しないのではないか。そのようにも思えるが、それは歌人という「点」にのみ着目したゆえの隘路であって、「歌会」「結社誌」「地方新聞歌壇」のような「面」に着目すればそうでもない。『日系ブラジル移民文学』で、細川は才能をもつ個人を中心には据えなかった。そのことが、実に大きな実りをもたらし、あるいはまた、副次的に優れた「結社論」を展開するに至ったことに注目すべきである。
 例えば、『日系ブラジル移民文学』を読むと、以下の三点が了承される。1.ブラジルは旧植民地とは違い、戦後も継続している「日本ではない日本語文化」の地であったこと。2.完全に隔絶されているのではなく本国と交流があったが、その方向性は本国→ブラジルという一方向性のものであり、時が経つにつれて、その「応答」の感度も鈍っていったこと。3. 推定最大の移民人口30万人(一世)、二世・三世は日本語を使用しなくなるという条件では、ブラジル歌壇は老齢化・衰微化をせざるをえず、それは日本の短歌の老齢化・衰微化を先取りしていること。
以上の話は、優れた歌人の人生を追うばかりでは、重大なこととして認識されるものではない。特に、3は重要である。短歌の老齢化・衰微化について、細川は「文芸は一種の生前葬を行っている」と述べる。そして、短歌を作るほとんどのひとは「創造の大望を抱いているわけではない」とも述べる。だが、そのような、停滞、を細川は切り捨てない。

 しかし日本語社会が縮小するなかで、書く習慣を保つには、一定の知的持久力を必要とする。社交の楽しみは継続を支えるのに不可欠だ。

として、社交の価値を説くのである。あるいは、平凡を貶めない。もちろんこの態度は、作家性により価値を置くひとびと(私もそうだ)には、ある程度は、苦々しいものである。具体的には、このロジックを先に置きすぎると、歌の評ができなくなる。とはいえ、これは傾聴に値する意見だし、実は対立するものではないのかもしれない。ある意味、これも同一「水平」線上の議論である。
 私のメモはまだまだあるのだが、このあたりでいったん締めておこう。本稿の最後には「地方性」ということに触れておきたい。単純に地方といっても広く、日本国の多くの地方がここで述べられているブラジルに匹敵するのだということを忘れてはならないだろう。もちろん、ブラジルはかなり「孤立」しており、それがかえってポジションを明確にした、ということもあるだろう。だが例えば、北海道はどうか。北海道はながらく「異界」であったが、明治以降の植民の歴史があり、いまや完全に日本化した、ように見える。魂もそうなのだろうか? また一方で沖縄がある。震災・原発で東北が目に留まるようになった。これらの地域は『日系ブラジル移民文学』的手法の対象に十分になるだろう。必要なのは、もう少し熱心で継続的な地方の把握と記述である。一県一人が歌を出して「日本全国」という企画なぞではないことは明らかである。

☆ 日系ブラジル移民文学 1―― 日本語の長い旅 [歴史]  http://goo.gl/rXPBS
☆ 日系ブラジル移民文学 2―― 日本語の長い旅 [評論]  http://goo.gl/gawcW