「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評第145回 国際タンカ協会の順当な活動 間 ルリ

2019-04-26 07:22:26 | 短歌時評

INTERNATIONAL TANKA (以後ITと略す)は日本歌人クラブ所属のTHE TANKA JOUNAL(1992~2017)の後継誌として2017年6月1日に第1号を発行した。発行しているのは、国際タンカ協会(International Tanka Society(以後ITSと略す)である。ITSの目的は雑誌の最終頁に英文で書かれているように定型の短歌(和歌)を世界に広めること。そのために日本語プラス多言語で短歌を書いてほしいというものである。自分の作品の発表だけでなく、著名な歌の英訳やスペイン語、ロシア語、フランス語、ラトビア語などへの翻訳も掲載する。ITSに世界各国より送られて来る短歌や俳句に関する出版物の書評も特徴だ。

 

ITTHE TANKA JOURNALから引き続き投稿してくる各国の著名なタンカ雑誌のエディターやライターの作品を鑑賞できる。例をあげれば、Eucalypt というオーストラリアで最初のタンカ専門雑誌の編集人のMs. Beverley Georgeやカナダで一番古いタンカ雑誌のGUSTSの発行人のMs. Uzawa Kozueなどである。海外会員は現時点で33名余である。この絆はTHE TANKA JOURNALから長年編集長を務めてきた結城会長の人脈によるところが大きい。

 

日本国内の会員も24名で、全国に幅広いネットワークがある。編集人の紺野万里は福井県在住であるが、原稿の提出はほぼ全員がメールで行い、頻繁にスカイプ会議をし、充実した誌面を企画、校正している。

 

また、海外会員が多いため、会費の徴収は多少でも困難がある。多くの会員はpaypalという送金方法を取っているが、小切手で送られてくると換金に手数料がかかる。昨年より会計をしている冨野光太郎は国内、海外に連絡を取り会計処理を支えている。

 

4号より発送業務を三上智子が担っている。海外への発送は印刷所からはできないので、三上氏がひとりで会報を封筒に詰め、国別に分けて郵便局から地道に行っている。

 

ここに会長の結城文の作品をIT 4号より引用する。

 

ベランダの手すりの上よりかたつむり大空をゆくヘリを見てをり

on the railing 

of my porch 

a snail looks up 

at a helicopter

in the great arch of the sky

 

また、編集人の紺野万里はラトビア民話「ダイナ」より邦訳の作品を載せている。

 

<LD4153>

Nevienam nesacīju

Savu lielu žēlabiņu,

Vējiņam vien sacīju,

Tas iepūta ūdenī.

I did not tell anybody

My great sorrow,

I told it to the wind only,

It wafted it into the water.

 

人に言へぬわが悲しみを風にだけ告ぐれば風は水に放ちぬ

hito ni ienu/ waga kanashimi o/ kaze ni dake/ tsugureba kaze wa/ mizu ni hanachinu

 

人には言へぬわが悲しみを風にだけ告ぐれば風は水に放ちぬ

 

ITSは題詠プラザという企画をしてきた。雪月花のうち雪と月を特集した。これは英語で送られてきたタンカを日本語に訳してローマ字表記し、海外の愛好者に日本語の歌の韻律を味わってもらうという試みである。

 

     ☽~~Amelia Fielden (Australia)

Not seeing/the moon or the stars, / I’m happy/in days of sunshine/while you are with me

月も星も探すことなし幸せは

tsuki mo hoshi mo/ sagasu koto nashi/ shiawase wa

日の差す日々に君とゐるとき

hi no sasu hibi ni /kimi to iru toki

 

さらにITSになってより新にチャレンジした仕事としてもう一つ「富士山大賞」が挙げられる。2018年は世界より107通の投稿があり、それをITSのボランティアが邦訳し審査員の岡井隆氏、穂村 弘氏、東 直子氏により選歌される。日本の国内会員も英語タンカと日本語の原作を投稿している。2018年の第1位の作品である。

 

another illness

another unknown mountain

to climb

lighting a thousand candles

in my comfortless room  

  

また増えし病は未知の未踏峰 千の蝋燭灯す侘び住み

Pamela A. Babusci   USA     

 

<総会のお知らせ>

ITSは総会を毎年1回開く。2019年は5月15日(水)13時30分より16時40分まで、新橋「ばるーん」201号室である。参加ご希望の方は  itstanka@yahoo.co.jp    までお問合せください。業務的な事業報告、会計報告他、ITS6号への意見、ミニスピーチ、IT 5号への提言や検討事項を話し合う予定である。

 

 


短歌時評alpha(2) 氷山の一角、だからこそ。 濱松 哲朗

2019-04-22 03:25:51 | 短歌時評

 2019年2月17日(日)に投稿された加藤治郎氏による一連のツイートは、Twitterを利用している短歌関係者およびその周辺でかなりの話題となりました。単にTwitter上での一騒動というだけに留まらず、既に複数の総合誌の歌壇時評において取り上げられています。時評で取り上げる、ということは、広く歌壇ないし短歌・文芸に関わる者のあいだで共有され考察されてしかるべき事案であると書き手が判断した、ということです。私も今回、この「詩客」でこの件について書くことを引き受けたのも、Twitter上の失言と撤回というだけの話ではなく、より広く深い視野からこの問題について考える必要があると私自身が判断したからです。

 実は私は、加藤氏の例のツイートがあった当日から翌日にかけて、Twitter上で加藤さんご本人へリプライを送り、直接的かつ公開の状態で、発言に対する批判を既に行っています。私の批判の論旨は現在に至るまで変化はありません。そこで、この文章では敢えて事態の概観を把握することよりも、私自身がその時にどのように考えて批判を行ったのか、という私記録的な視点から、実際のツイートを引用しつつ開示してみようと思います。つまりこの方法は、加藤氏の「#ニューウェーブ歌人メモワール」のツイートや「短歌往来」での連載に近いものです。今回の一連のツイートで、加藤さんは30年前の回想であることを強調していたように感じました(そして、そこにも問題はあるのですが)。敢えて同種の方法を採ることで、メタ的な批判と、批判に基づく実践を試みます。

 ただ、正直なところ、私はもうこの件について、口にすることにも考えることにも疲れ切ってしまった上に、後述する理由もあって、一時は依頼を断ろうかと思いつめたりもしました。それでもこうして書き、文章を公にすることを選んだのは、「不平等について語るとき、不当な経験から感じ取った感覚がどんな統計よりも正確に示すことができる」(イ・ミンギョン/すんみ・小山内園子訳『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』タバブックス、2018年)という言葉に賛同する意志が私の中にあるからです。繰り返しになりますが、ここに記したのは、筆者にとっての今回の経験の実情であり、経験や回想を書くという行為に対する批判的実践です。

 なお、水原紫苑氏を「ミューズ」と形容し、大塚寅彦氏を「地方都市の男」と呼んだそれらのツイートの問題点については、川野芽生氏による「現代短歌」4月号の時評、および中島裕介氏による「短歌研究」4月号の時評に簡潔にまとめられていますので、ぜひそちらを参照して頂きたいと思います(付け加えると、このお二人の時評は、時評という枠組みを超えて広く共有されてしかるべきテキストだと考えます。掲載誌が最新号でなくなったタイミングでWeb上に公開する等して、お手間でも読者からのアクセシビリティが高い状態にしておいて頂きたいと勝手ながら思います)。

 

    *

 

#ニューウェーブ歌人メモワール

 

水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった

 

穂村弘、大塚寅彦、加藤治郎、みな水原紫苑に夢中だった

 

凄みのある美しさが、彼らを魅了した

(@jiro57: 2019年2月17日0時58分24秒、水原紫苑氏の顔写真画像添付あり。現在は削除済み)

 

 「ツイートは現在削除されているが、だからといってなかったことにはならない」という川野芽生氏の指摘(「うつくしい顔」「現代短歌」2019年4月号)は、正しい。恐らく加藤氏は、ツイートを削除することで謝罪や反省の意志を示したかったのだと思いますが、残念なことに、「削除」の痕跡は私たちが加藤氏に送ったリプライを辿れば分かってしまうことですし、その痕跡をあの日タイムライン上に居合わせた人々の記憶から消し去ることは不可能です。失言に対する撤回と謝罪そのものがどこかの国の政治家のごとくパフォーマンス化してしまうのは、あまり良いことではないでしょう。私としては、加藤氏にはぜひそのまま残しておいた上で、今回の出来事を折に触れて思い返して欲しかったのですが。

 さて、加藤氏のこのツイートを見た時点で、多くの人は、昨年(2018年)のシンポジウム「ニューウェーブ30年」以来のニューウェーブと女性歌人に関する話題を想起したことでしょう。件のシンポジウムで加藤氏は東直子氏からの質問に対して「女性歌人はそういったくくりのなかには入らない、もっと自由に空を翔けていくような存在なんじゃないかと思う」、「つまり山中智恵子や葛原妙子を前衛短歌に入れる必要ないし、早坂類をニューウェーブのなかに閉じ込める必要もない。天上的な存在として思っています」等と答え(「ねむらない樹」vol.1、2018年8月)、後にほかならぬ水原紫苑氏その人から「加藤治郎の「天上的な存在」という言葉は、葛原妙子を「幻視の女王」、山中智恵子を「現代の巫女」と呼んで封じ込めたものと同じ圧力を持っている」(「前を向こう」「ねむらない樹」vol.2、2019年2月)と批判された、という事実は、当然ながら筆者も知っていました。2月の半ばですから、「ねむらない樹」vol.2はまだ多くの人は手の届くところにあったことでしょう。だからこそ、これまでの経緯を思い出した私による、この件に関する最初のツイートは「懲りてないな、というか、骨の髄まで染み込んだものはどうにもならんのだな、という諦めがもはや大きいな」(@symphonycogito: 2019年2月17日11時26分52秒)という、非常に口の悪いものでした。

 諦めが大きい、と書いたのは、件のシンポジウムからその時点で既に半年以上が経過していたことが念頭にあります。シンポジウムについては私自身も、とっくの昔に「塔」の時評で手短な批判を書き(「自己認識と共通認識」「塔」2018年10月号、ちなみにこの時評を書いたのは8月の中旬、「ねむらない樹」vol.1刊行直後のことです)、シンポジウムの採録をした当の「ねむらない樹」も、次号で東直子氏や水原紫苑氏、川野里子氏らに執筆を依頼して、メディアとしての責任を果たそうとしていました(これを「炎上商法」的だと見ることは勿論可能だし、正直なところ私も少々そんなふうに見ていたのだが、無視を決め込んで無かったことにするよりはましでしょう。裏を返せば、「ねむらない樹」vol.2の特集「ニューウェーブ再考」に対する筆者の評価はそのくらい、ということにもなってしまいますが)。

 つまり、加藤氏にはシンポジウムでの紛糾から現在に至るまで、内省するきっかけと時間は、周囲から与えられたものを含めてたっぷりあったはずなのです。2月中旬ですから、シンポジウムから数えたらもう8ヶ月経っていました。あの時何が問題とされたのか、分かるきっかけはあちこちに用意されていただろうし、これまでにも疑問を投げかける声はあったはずです。にも関わらず、呆れたことに加藤氏は、女性歌人に対する言い回しを「天上的な存在」から「ミューズ」へ言い換えてきた。シンポジウム以降の疑問の声が届いていなかったかのような振舞いに、思わず私も匙を投げそうになりました。

 「ミューズ」という語に含まれる問題については川野・中島両名の時評を参照して、更にそこからシュルレアリスムや現代美術における「ミューズ」の問題へと各々で考察を深めるとして(ここではやりません)、今ここで私が声を大にして言いたいのは、このツイートの「ミューズ」やシンポジウムでの「天上的な存在」という語は、単に語の選択の問題であるだけではなく、その語を導き出した発想やそれを当然のものとして受け入れてきた社会構造の問題であり、そしてそちらの方がより根深く、無自覚なままに拡散され、蓄積されやすい、ということです。それは恐らく、直後に降ってきたこの最大の「爆弾」からも理解できることです。

 

#ニューウェーブに女性歌人はいないのか

 

水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった

 

大塚寅彦のような地方都市の男は、イチコロだった

 

私は田舎者だが、東京の大学に通っていたので多少免疫があった

 

穂村弘は、水原紫苑の電話友達からスタートしたが、たちまち距離を縮めていった 

(@jiro57: 2019年2月17日11時33分59秒、水原紫苑の顔写真画像添付あり。現在は削除済み)

 

 念のため、中島裕介氏の時評の、加藤氏のこのツイートの問題点を列挙した部分を引用しておきましょう。

 

1.水原に対して「ミューズ」という語を用いたこと

2.1により、短歌におけるニューウェーブは(「女性歌人はいないのか」という文面に対し)女性を含まないと示唆していること

3.大塚を「地方都市の男」と断じていること

4.大塚が水原紫苑に「イチコロだった」、すなわち何らかの好意を抱いていたと断じていること

5.4を、大塚自身ではなく、第三者である加藤が(真実か否かは別にして)記述したこと

6.地方出身者は(東京=中央に行って「免疫」をつけない限り)好意を抱きやすい、と考えていること

7.6を通じて、中央と地方の〈権力‐従属〉的関係を再強化していること

8.加藤が著作権を持たない画像を公に送信したこと

(中島裕介「ニューウェーブと「ミューズ」」「短歌研究」2019年4月号)

 

 私からこれに付け加えるとすれば、穂村氏に対する「たちまち距離を縮めていった」という表現も、「イチコロ」や「免疫」と同一線上の認識に基づいた表現と見なされ得るものではないでしょうか。「イチコロ」なんて言葉は、「魔女っ子メグちゃん」(1974-75年)の主題歌の中に化石として残っているようなものとばかり思っていましたが(主題歌しか知らなかったので、東映アニメーションミュージアムのYoutube公式チャンネルで公開されている「魔女っ子メグちゃん」第1話を観ましたが、「家族」と「家父長制」を癒着させて無理に飲み込ませようとする物語を、男性主体の制作陣が「女の子向けアニメ」として作っていた事実そのものがどうにも気持ち悪くて、ちょっと耐えられませんでした)、こうして使用されてみると、なるほど「イチコロ」という語に含まれる意識や互いの視線には、相手に対する性的な意味付けの衝動が潜んでいるように見えかねない。加藤氏はここで、自分自身の回想であることを理由に、水原・大塚・穂村三氏を加藤氏個人の意図する文脈へと巻き込んでいるのである。

 勿論、ツイートに登場する人々は旧知の間柄で、そんな風に言われたり書かれたりしたところで「またまた~」と気楽に流してくれるのかもしれません。ただ、この問題は果たして、密な人間関係であれば許されることなのでしょうか。そうではありません。発言に傷つく相手ではないことと、発言そのものに問題がないことは別の次元の話です。むしろ「またまた~」という態度に含まれた裏の意味を考えれば、親しい間柄であったとしても言葉はいつでも「はたから見られ得るもの」である、ということを想定しておいた方が賢明ではないでしょうか。

 さて、中島氏が丁寧に列挙しているように、「ミューズ」や「地方都市の男」といった語を加藤氏に選択させているのは、非対称的でヒエラルキーを含んだ対立構造の集積です。言い換えれば、加藤の一連のツイートはこれらの非対称的・差別的な構造が内面化され、集積した中から言語化されることによって出来上がっています。このツイートで加藤氏本人の立場は〈男性歌人〉であり、なおかつ女性に〈免疫〉がある〈中央〉側の人間であることになります(そう読み取って相違ないでしょう)。水原氏や大塚氏を、結果的に構造の下位に据え置くことになってしまい、それをツイートによって誇示する結果に至ってしまっているのです。

 こりゃあ黙って見ていられない、と思いました。ここから先、私のツイートも引いていきます。何とか冷静になろうとして、ツイートを3回は書いたり消したりしてから送ったのですが、それでも正直、憤りは隠せていません。

 

@jiro57 いい加減にして下さい。あなたは今、「ミューズ」という言葉で水原さんを殺し、「地方都市の男」という言葉で大塚さんを殺しました。ミューズの写真ならフリー素材なのですか。「男/女」「都会/地方」等、他者をカテゴライズして消費しようとする強者的価値観を晒してそんなに楽しいですか。

(@symphonycogito: 2019年2月17日13時43分32秒)

 

 当人に差別の自覚があったかどうか、悪気があったかどうかは、ここでは一切問題になりません。何故ならこれは、加藤氏個人の問題であると同時に、個人を超えたこの社会の構造の問題でもあるからです。だからこそ私は、加藤氏がこの構造上の問題を把握することは不可能ではないと思ってリプライを送ったし、今でも問題点の共有は可能であると思っています。

 また、構造の内側にいる者からすれば、構造そのものが堅固化していく過程で、構造そのものが抱える問題点を把握するためのメタ的視点それ自体に到達しにくい環境下に置かれることも、考えておくべきでしょう。しかし、今回であれば、「男」や「都会」の側にいることを選ぶことができるものは、構造の外側にいて選択肢を与えられることのない者の苦しみからあらかじめ引き離された上で、自身を構造の内側へ、無意識に安住させていってしまう。

 繰り返しになりますが、注意してほしいのは、構造の問題であるからといって、そこに悪意が無かったら、自覚が無かったら、無意識だったから、個々人の言動によって顕在化した差別の構造は無視して良いというわけでは決してない、ということです。そうした見て見ぬふりをしていた方が生きやすく、この社会では何かと都合が良いでしょう。何故ならその視点が構造によって担保され、保証されているからです。しかし私は、そういう構造由来の差別の助長や温存にはもう飽きてしまった。更に言えば、個人の自覚や悪意の有無を理由にこの社会に存在する差別の構造を許容することは、巨視的観点で言えば、強者の論理の下で食いつなぎつつ強者側からの差別の温存に加担することに繋がることになるでしょう。こちらはもう、その手には乗らない。乗りたくない。世渡り下手と言われるなら、「世渡り」という発想そのものを駆逐したいところです。

 

@symphonycogito こんにちは

 

これは、私の回想録なんです

 

30年前の私の視点で書いています

(@jiro57: 2019年2月17日19時52分20秒)

 

「ニューウェーブ歌人メモワール」は「短歌往来」(ながらみ書房)2018年2月号から連載しています

 

Twitter版 #ニューウェーブ歌人メモワール は「短歌往来」執筆のためのメモランダムやアウトテイクです

 

執筆の指針は、30年前から現在に至るまでの事実、自分の気持ちをありのままに書くことです

(@jiro57: 2019年2月17日20時45分26秒)

 

@jiro57 回想録だから、30年前の記録だから免罪符になるとお考えなのでしたら、まずはその、自分の回想は誰にとっても求められる善きものであるという前提を再検討して頂きたいですね。30年経てば他者への蔑みは時効ですか。回想するなら、過去の差別の再生産ではなく自己反省を書き残すべきではないですか。

(@symphonycogito: 2019年2月17日21時20分28秒)

 

 ここでひとつ付け加えるなら、「他者への蔑み」という言い方は、内面化した差別構造に無自覚である人からすれば、無自覚であるがゆえにぴんと来ない表現だったかもしれません。この時点で加藤氏は非対称的構造を認知していないか、認知していても問題の根幹がそこだと意識していないわけです。私としても批判が下手だった箇所です。

 ただ、当然のことですが、回想であること、メモランダムであることは決して免罪符にはなりません。

 ありのままを書くことは確かに歴史的な価値を持つでしょう。何より私は評論書きですから、当事者の発言は資料として貴重だということを知っています(もっとも「発言」と「回想」は区別すべきだとも思います)。ですが、過去を紐解き、再現前化させることで、当時の差別的構造をも再生産させてしまっては元も子もないし、それこそ加藤氏の意図するところではなくなってしまいます。回想であるなら、当時のみずからを縛っていた構造の諸相について、現在の地点から批判的に述べることも可能であるはずだし、むしろ批判が明示されないままに、事実性のみを優先させて回想を陳列することは、意図せぬ差別の助長や再生産に繋がってとても危険です。

 これは過去の作品の再版等でも起こり得る問題で、近年では過去の作品を再版する際に、差別を助長する意図が無いことと文学的意義を考慮して修正せず収録した旨が巻末に添書きされている例が多く見られます。例えば大和和紀『はいからさんが通る』の新装版(講談社、2016-17年)が刊行された際には、「不適切な表現ではありますが、該当箇所を修正・削除することは、その時代に世間から誤解され、差別を受けた人々がいた事実をも覆い隠すことになります」として、作品の舞台である大正時代、そして作品が書かれ読まれた70年代という「二つの時代に思いを馳せることで当時の社会の空気感や人権意識について考えていただくきっかけとなれば幸いに思います」と記した添書きを巻末に掲載したことが、それこそTwitterでも広く拡散されて大きな話題になりました。

 過去は必ずしも「古き良き時代」ではないのです。懐古趣味的発想は、その時点で認識もされていなかったが厳然と存在し続けていたヒエラルキーを、差別の構造を、時として容易に正当化し、その下で苦しみ続けていた者たちの声を再度無視することに繋がりかねません。大切なのは、回想する現在と回想される過去との対話です。

 

@symphonycogito あなたは、編集者でしたよね

 

30年前の回想録です

そのときのありのままの心情を綴っています

 

文学とは何か

 

あなたは、どうお考えですか

(@jiro57: 2019年2月17日22時43分20秒)

 

 このツイートの冒頭、「あなたは、編集者でしたよね」という部分の意味は追って考えるとして、この私宛のツイートに前後する形で、加藤氏はみずからにリプライを送った複数名に対して、同様に「文学とは何か」という質問を送っています。筆者以外へのリプライの中には「文学の死です/この状況は」(「/」は改行を示す)という言葉も紛れていたので、どうやら加藤氏は周囲からの批判に対して、「そのときのありのままの心情を綴」るという方針を採っているみずからの「30年前の回想録」への、表現の自由の侵害であると感じていたようです。

 しかし、ここでまず考えなければならないのは、複数の対話者に向かって「文学とは何か」という設問のすり替えを行うことで、加藤氏が会話の主導権を握ろうとしているという、更なる立場不均衡の発生についてです。正直な話、ここでいきなり「文学とは何か」と訊かれるとは思っていませんでしたから、こちらもかなり面食らいました。加藤氏のこの態度は、お前の考える「文学」が本当に「文学」かどうか俺が判断してやる、というマウンティング行為と言って差し支えないものです。対等な立場で会話を遂行しようという視点が、明らかに欠如してしまっているのです。

 そして立場の不均衡に関して言えば、私に関しては実はもうひとつのヒエラルキーを課せられていました。それが先ほど触れなかった、〈作家‐編集者〉の不均衡です。

 確かに私は、直近で現代短歌社(「現代短歌」「現代短歌新聞」の発行元)に勤務していた時期がありますが、2018年末をもって退職しています。現在の職場も出版社ではありますが、編集担当ではありません(これ以上のことはプライバシーかつ守秘義務に関わることなので書けません)。この時、「片方は編集者の癖に作家の手を止めるなと申しておるのでそこはもう平行線です」という物部鳥奈氏からのリプライが筆者に飛んできたりもしたが、まさにその通りだったと思います。当然、私もそれに気づいた上でやりとりを続けました。

 

@jiro57 当事者の言葉をある程度敬意を払いつつ受け取る姿勢は勿論私にもありますが、現在の観点からすれば明らかに他者への差別・品定めを含んだ回想を「そのときのありのままの心情」として反省も自己批判もなく記して、果たしてそれが文学でしょうか。少なくともあなたのそれは文学ではありません。

(@symphonycogito: 2019年2月18日08時6分15秒)

 

 その質問に答えることで相手のヒエラルキーに組み込まれてしまうのであれば、質問に答えないでおくことが、身を守る術としては賢明だと思います。しかし、荒っぽいけれどもう一つ手がある。ヒエラルキーの上位に位置するもの、あるいは上位に居座ろうと欲して他者に圧力をかけてきているものを、手短にその構造から引きずりおろしてしまうことです。自分の回想ツイートが批判されたことを「文学の死」と宣うのは、要するに文学とみずからを同一化しつつ権威化していることの証左です。申し訳ないが、こちらはその手には乗らないし、泣き寝入りするほど弱くもない。

 

@symphonycogito こんにちは

私の言っているのは「ニューウェーブ歌人メモワール」全体です

ツイートは、その極一部で、私の水原紫苑論は、これから始まるところです

全部読んでから文学かどうか、判断してください

(@jiro57: 2019年2月18日08時17分53秒)

 

@jiro57 「部分/全体」の話にすり替えるのはやめてくれませんか。あなたが「極一部」だと言った諸々の原稿メモ的ツイートは、仮に「極一部」であるにせよ「全体」の根底に関わる作者側の認識の欠陥が、これだけ批判可能な形で現れているのですから、むしろあなたという人間全体への信頼の問題でしょう。

(@symphonycogito: 2019年2月18日08時26分40秒)

 

 話のすり替え第二弾についての筆者の批判は上のリプライの通りなので繰り返しません。それにしても、今回の件に限らず、「部分/全体」の基準で考えた時に、批判する側が「極一部」を通じて見通す「全体」というものについて、批判されている側の認識が及んでいないケースが多い、というのは何故なのでしょう。

 そんなことを考えつつこの原稿を準備していたら、ちょうど岩波書店の「世界」にぴったりの論考が載っていたので引用します。社会学者の小宮友根氏は、女性表象に関する論考の中で、「特定の文化的・社会的記号やふるまいのコードを用いること、また特定の媒体に特定の仕方で配置することそれ自体の「悪さ」について考える」上で、「女性に対する特定の意味づけを含む表象は、同じような意味づけを含むさまざまな活動のひとつであるがゆえに、そうした意味づけを問題だと感じる者にとっては「ここでもまた」という累積的な問題として経験される」一方、「そうした意味的繋がりを感じない人にとっては(…)「ちょっとステレオタイプだな」くらいに思っても、ケア労働の問題やセクシュアル・ハラスメントの問題において感じられるのと同種の抑圧がそこで累積されているとは感じないだろう」と指摘しています(「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」「世界」2019年5月号、太字箇所は傍点)。要は、みずからの言動が過去に蓄積され経験されてきた様々な差別の記憶を当事者に呼び起こさせてしまう起爆剤の機能を果たしていたことに、その行いこそが差別の再生産と構造の悪しき再構築であるということに、蓄積や経験として捉え得る認識の構造を認知していないがゆえに気づけていない、というのです。

 

@symphonycogito 木を見て森を見ずではありませんか?

私は、経験的にTwitterという場のリスクを知っている

何も調べず、発言者の真意を考慮せず、言葉のイメージだけで発言する

Twitterにはそういう側面がある

 

しかし、あなたがそれでよいのか?

他者の30年前のメモワールに土足で入ってくる

そんなことでよいのか?

(@jiro57: 2019年2月18日08時57分29秒)

 

 ここまで来れば、「累積的な問題」として認識していないらしい加藤氏の口から「木を見て森を見ず」等という言葉が出た時の私の絶望に似た驚きについて、もはや説明不要でしょう。この時、衝動的にリプライを飛ばさなかったのは、みずからの優位を何としても誇示するために躍起になっている(ように見える)相手に対して言葉を砕いたところで、こちらが疲弊するのが目に見えていたからです。

 「発言者の真意を考慮」してほしいのなら、相手に差し出す言葉をもっと慎重に選ぶ必要があっただろうし、「言葉のイメージ」が読み手のうちにどのような差別の構造を文脈として引き連れてきているのかまで考慮するのが、言葉のプロである文学者の仕事ではないでしょうか。差別的構造に無自覚であることが暴かれて、ヒエラルキーの上位にいた自分が平らな土地に引きずりおろされたからといって、それはTwitterという、30年前には存在しなかった機能や技術の仕業ではありません。あくまでそれは、構造の上の方で無自覚に胡坐をかいていた自分のせいであって、たまたま批判されたのが今日、Twitterを通してだったというだけのことなのです。

 しかも加藤氏はここで、筆者を歌人としてではなく編集者として見ていました。編集者のくせに作家の書くものに口出ししやがって、という類の立場不均衡を、あらかじめツイートに滲み込ませ、含ませた上での、「他者の30年前のメモワールに土足で入ってくる」だったわけです。この不均衡の構造を利用すれば、そこに含まれるあらゆる差別を無視した上で自分の一連のツイートの正当性が保証できるとでも思っていたのでしょうか。残念ながら、そんなことはありません。その証拠に、私はもうこれだけの字数を費やして問題点を指摘しているのですから。

 

@jiro57 「ミューズ」や「地方都市の男」という言葉がどんな差別的認識を示しているのか、或いは含んでいるのかについて無自覚であることの方が、言葉という森を見ていないことになると私は考えます。他者の主体性を踏みにじらない方法での回想だって可能だったはずし、そういうものを読みたいです。

(@symphonycogito: 2019年2月18日19時46分52秒)

 

 さて、10時間後の私のリプライに、そこまでの怒りが表立って書かれていないのは、私が退勤してTwitterを開けるまでの間に、加藤氏の手で次のようなツイートが為されていたからでした。

 

ありがとうございます

多くのツイートの中で、やっと私の理解の届く言説に出会いました

今は、自分の無自覚さを恥じています

そして、改めるのにまだ遅くはないだろうと思います

対話のドアは開けておくのが私のポリシーです

(@jiro57: 2019年2月18日18時32分32秒)

 

 このツイートは、佐々木遥氏からの批判ツイートを引用リツイートする形で発信されています(一時期アカウントが非公開になっていましたが、「短歌研究」の時評には名前入りで引用もされています)。しかしながら、「自分の無自覚さを恥じています」という言葉に安心できない理由が、本当に残念なことに、このツイートの中にすら存在していることに、加藤氏は気づいていなかったようです。

 何故なら加藤氏はここで、筆者を含む複数の人物から様々に批判が寄せられていたにも関わらず、ある一つのツイートを「私の理解の届く言説」として選べるだけの優位が自分にあると、相変わらず誇示する形を取ってしまっているのです。これでは、みずからの異にそぐわないその他大勢による批判を批判と見なさず無かったことにしたも同然です。選ぶ者と選ばれる者の立場不均衡が顕在化した状態で開かれた「対話のドア」とは、一体何なのでしょうか(念のために書きますが、この立場不均衡への批判に、選者批判や結社批判の意図はありません。歌の「選」とは別の位相の話です。だからこそ「文学」の話題にすり替えてはいけないのです)。

 

「女性が性差別についてよく知っているのは、運がよかったからでも、生まれつき頭がいいからでもありません。生きていくうちに何度も差別を経験しているからです。だとすれば、どんな差別があるのかを理解するため努力すべきなのは、はたしてどっちなのでしょうか?」

「苦しみに耐えて、努力すべきなのは、あなたではなく「知りたい」と思う側なのです」

「平和な世界に住んでいたのは男性ばかりだったので、そこに戻るという選択肢はありません。うるさい声が聞こえないように耳をふさいで、以前のような静けさを取り戻したいでしょう。ですが、それは彼らに選択できることではありません」

「さて、選択肢は次の二つです。「愛し合うべき」である相手の悲鳴を耳にしながら今まで通り暮らしていくか。男女が勘ちがいではなくほんとうに仲よく過ごせる社会にするため力を添えるか」

(イ・ミンギョン/すんみ・小山内園子訳『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』タバブックス、2018年)。

 

 冒頭でも引用したイ・ミンギョンの著作から再度、幾つかの言葉を引きました。こうした声をこれまで無かったことにしてきた構造の暴力を、その暴力を温存し再生産し続けようとする者を、私は決して容認できません。これは単なる価値観の相違や時代の変化による問題提起ではないのです。その辺をまだ勘違いしている人は、この文章の冒頭に戻って、よりメタ的視点から読み返してみると良いでしょう。他者の価値観を尊重しつつ対話することと、内側で甘い汁を啜り合う仲になることは、決してイコールにはならないはずです。ただでさえ、「歌壇」とか「短歌界隈」等と言われて仮想敵にされがちなのだから(それはある意味仕方のないことでもあるのですが)、せめて風通しの良さを保つことくらいは、常に意識しておいて良いのではないかと思うのです。

 

    *

 

 ところで、この原稿を渋りかけた理由について、書いておく必要があるでしょう。

 この文章を含む今回の企画に対して、「詩客」短歌部門の顧問に加藤氏が名を連ねていることを踏まえた上で何らかの「配慮」をするように、という主旨の通達が「詩客」主宰の森川雅美氏からあったと、企画担当者から知らされたことがありました。原稿依頼時点では「ミューズ問題を考える」だった企画案も、いつのまにか「ニューウェーブ再検討」にまではっきりと後退を見せていた(結局、正式な企画タイトルはどうなったんですか? 決定事項としては今もって聞かされていないのですが)。表立って「ミューズ」と書いて今回の事件(と言って相違ないでしょう)を取り上げる機会を、私も、他の執筆者も、企画担当者も、あらかじめ奪われた上での、今回の掲載なのです(似たような話が最近、早稲田大学の「蒼生」という機関誌でもあったばかりなので、個人的にはとてつもないデジャヴを食らっています)。

 まさか目の前でこんな忖度を強いられるとは思っていなかった。ここまで立場不均衡を強いているにもかかわらず、身に滲みた権力や差別の構造に無自覚で、自分では地位も権力も無いと嘯く。何だこれは。何も分かっていないじゃないか。

 私たちは何故こんなにも傷つけられ続けるのでしょうか。平等を実践する意志のないまま、ヒエラルキーの上位に安住するものから見せかけの「対話」や「議論の場」を与えられたところで、そんなものは所詮、相手の利益として計上されて終わる。それでいて、こちらはいつまで経っても、無視され、葬り去られ、干され得る存在なのです。なのにどうして、声を上げることを強いられているのでしょうか。ならば最初から原稿など書かず、短歌の世界との関わりを遮断してしまえたら、どれだけ平穏な生活が送れることでしょうか。

 ――けれども、何も言わないことで差別の温存や再生産に加担することになる方が、今の私には辛いことなのです。だからこそ、私はこうして書くことを選び、掲載してもらうことを選びました。

 最後に。私は加藤治郎という歌人を抜きに80年代後半以降の現代短歌は語れないと思っています。今後、加藤治郎論は複数の人間によって書かれるべきだとも思います。だからこそ、作家がこうしてみずから公の場で、断ち切れずに残ってしまっている過去由来のヒエラルキーを開陳してしまうことは、作家の現在の評価にも著しく悪影響を及ぼしかねません。最前線に立つ者であれば、常に批判の矢面に立ち続け、自身を解体し再構築し続けていってほしい。あなたは氷山の上に立っていて、私はその氷山の海中に隠れた部分についてあなたに伝えるために、ここまで海を泳いで渡ってきた。こんな願いは後続世代の勝手かもしれませんが、蛇足であったとしても書き記しておきます。

 

<短歌時評alpha(2) 言葉~想像力と価値観のコウシンを見据えて~>

 ※短歌時評alphaは短期集中企画です。


短歌時評alpha(3) 権威主義的な詩客 中島 裕介

2019-04-22 02:23:43 | 短歌時評

2.「ミューズ」発言に関連して 2
(1)議論の前提共有 2
(2)想定される反論 3
3.「配慮」と「炎上」について(質疑応答) 4
(1)「加藤が欠いていた配慮とは、『炎上しないように気をつける』配慮だったのか?」 4
(2)「時評の文章(も、場合によってはこの文章も)は上から目線になっていないか。自分を正義の側においていないか」 6
(3)「ハラスメントではないのか」 7
4.「権力」はないのか 8
(1)権力に対する二重三重の誤り 8
(2)問いかけによる忖度への誘導 9
(3)「権力、即、悪」ではない 11
(4)補遺:配慮や想像力の欠如による分断 11
5.ではなにが必要だったか(予定) 12


(以下、敬称略)
長いので、目次をベースに関心のあるところから読んでいただければ幸いである。

1.はじめに


 本件特集を企画し、招いてくださった物部鳥奈に心からの敬意と感謝を申し上げる。
 他方、本件特集のタイトルや内容に干渉した詩歌梁山泊代表・森川雅美と、それに賛同した加藤治郎には猛省を促したい。加藤がいくら詩客の短歌部門の顧問であろうと、加藤が(それも肯定的ではない切り口で)題材となる特集への寄稿者のタイトルに、森川から「個人名や『ミューズ』という名詞を書くな」と制限をかけるとは言語道断である。森川や加藤は「他人に迷惑をかけたくない」と言っているらしいが、それなら最初から加藤が責任の負えない発言(ツイート)をすべきではない。事の発端は加藤にあり、その責任を本特集の記事の執筆者が負うのは全く奇怪だ。また、森川の忖度を受け入れた加藤も同様である。
 加藤・森川の両名は文芸を、政治的・権威主義的に扱い、詩客寄稿者の言論の自由、表現の自由を阻害している。加藤や森川の口出しが受け入れられるならば、現実社会の「政治家への忖度」も「お手盛り」も、どんな不公正でも許されそうなものだ。詩客がこんな不公正のまかりとおる場であるならば、こちらは真っ平御免である。さっさと潰していただいて、他の皆で新しい場を作ろう。せめて本稿が、加藤や森川によって手を入れられることなく掲載されることを願う(なお、両名が本稿に手を入れたならば当然、相応の指摘と闘争をさせていただく)。

「ミューズ」問題は、権威主義という氷山の、水面から出た一角に過ぎない。こういう無自覚な振る舞いが権威主義的だと指摘されたことが、加藤は現時点でもなお、本質的に理解できていないようである。

 なお、「理解できていないようである」と判断する、直近の簡単な事例がこれだ。
中島が書いた「短歌研究」2019年4月号時評に対する、3月20日付けでの加藤のコメントである。
https://twitter.com/jiro57/status/1108347599474417665
>>
こんにちは
拝読しました

フェアな論考です
私は、ここから全力、全速力で出発します
<<
 なるほど、お読みいただいたことには感謝しよう。しかし、当該時評では加藤を問題の当事者として「配慮が足りなかった」と述べている。自らが当事者である記事を指して、他人事のような「フェア」という評価をくだすとは何事か。当人にとって「参考になった」というならば対等な論者として理解できるが、本当に問題の所在を理解し、改善に向かっているならば、「フェア」という評言を用いるのが妥当な状況にないとわかるはずだ。
(なお、4月1日時点で、Twitterにおける、加藤からの中島に対するフォローは解除されている。Twitterのフォロー/アンフォローは好きになさればよいが、どうも加藤の「全力、全速力」には中島の発言は無用のようだ。相手に響かない文章をわざわざ紡ぐことに強い徒労感を感じるが、仕方がない。こちらも遠慮なく述べさせていただく。)
 本稿では、「ミューズ」発言に付随する諸問題の検討と、「ミューズ」発言の後の加藤の発言への批判を行う。

 

2.「ミューズ」発言に関連して

(1)議論の前提共有
「ミューズ」発言の初出ツイートに対する問題点は、「短歌研究」2019年4月号時評に8点挙げておいた。引用しておく。
>>
1.水原に対して「ミューズ」という語を用いたこと
2.1により、短歌におけるニューウェーブは(「女性歌人はいないのか」という文面に対し)女性を含まないと示唆していること
3.大塚を「地方都市の男」と断じていること。
4.大塚が水原紫苑に「イチコロだった」、すなわち何らかの好意を抱いていたと断じていること
5.4を、大塚自身ではなく、第三者である加藤が(真実か否かは別にして)記述したこと
6.地方出身者は(東京=中央に行って「免疫」をつけない限り)好意を抱きやすい、と考えていること
7.6を通じて、中央と地方の〈権力-従属〉的関係を再強化していること
8.加藤が著作権を持たない画像を公に送信したこと
<<

「ミューズ」発言の問題点については、私の時評のほか、川野芽生による「現代短歌」2019年4月号時評や、佐々木遥によるツイート( https://twitter.com/sucrehecacha17/status/1097061288352436224 )が優れた整理となっている。また、本件を検討する上で、北村早紀による「現代短歌」2018年8月号の時評、テクスチュアル・ハラスメント裁判(高原英理によるレポートが分かりやすい http://inherzone.org/FDI/mr_takahara_contents1.html )や昨今のバイトテロ事件などは参考になる。
 加藤の「ミューズ」発言については擁護のしようがない。明らかに配慮を欠いている。

(2)想定される反論
 加藤の「ミューズ」発言の、擁護者からありうる立論はおそらくこうだ――「昔は問題なかった言葉なのだから仕方ない」あるいは「当時を振り返っての記述なのだから、今、用いることは許されるべきだ」と。否、どっちもアウトである。控えめに言っても、現時点で必要な説明や留保が決定的に不足している。
「昔は問題なかった」のは、昔の話だ。いや、むしろ、当時は当時で、問題だと感じ取られていたかも知れないのに、声が上がらなかっただけかもしれない。加藤が「『短歌往来』の記事・ニューウェーブ歌人メモワールのために、当時を振り返っている」のは、今だ。言葉の意味も状況も変わる。
 ましてや、権力論であれ、ジェンダー論であれ、シュルレアリストたちの「ミューズ」観への批判であれ、もう何十年も前に発表された論・思想である。もちろん、なんでもかんでもキャッチアップできるほど、現代の情報量は少なくない。しかし、己の言動について「問題がある」と指摘を受けた後で、その問題について本質的に捉えず、適切に対処もしないのであれば、あるいは、思想をアップデートしないというのであれば、加藤や本件の擁護者がいかに優れた作品を残した歌人であろうと、文芸の第一線からは退かれることを心よりお勧めする。
また、「加藤自身にとっては大切な思い出なのだからそのまま書かれるのは仕方ない」というならば、大切な思い出を自らの裡に秘めておくべきだった。Twitterに書き込むリスクを理解すべきだった。

 あり得そうな反論のうち、論外のものは「加藤だから(これまでの実績があるから、年長だから、歌人だから、選者だから、そういう世代だから、ああいう人柄だから、などなど)許されるべき」という、個人名あるいはその属性をもって免罪しようとするものだ。そういう擁護を述べる者が一人でもいるのだとしたら、私は深く嘆く(2月時点ですでに見かけたので深く嘆いている)。言動と人格の区別がつかない者は、言語芸術に関わらないほうが当人にとっても幸せなのではないか。言動と人格は――個人の中では深く関わっている可能性があるが、だからこそ、社会の中で、あるいは他人が誰かの言動について考えるときには――きっぱりと分け、その上で、人格ではなく、問題ある言動を批判すべきだ。

 

3.「配慮」と「炎上」について(質疑応答)


「短歌研究」4月号時評について、いくつかご質問をいただいた。同様の疑問をもたれる方もあるだろうから、こちらでも回答を整理しておく。

(1)「加藤が欠いていた配慮とは、『炎上しないように気をつける』配慮だったのか?」
結論から述べれば、「正確に言うならば『否』。炎上するかしないかが判断基準になるべきではない。ただし、本来沿うべき倫理的規範が分からない場合には、炎上しないよう行動することも現実的には視野にいれるべき」である。

 まず、「配慮」とは何かを見ておこう。今回のケースにおいて本来的には、
①加藤が水原紫苑や大塚寅彦という個人(その個人が歌人であるか否かは関わらない)に対して配慮すること
②加藤が文芸や社会全体、その歴史に対して配慮すること
③加藤が読者=Twitterのフォロアーに対して配慮すること
の3つの配慮基準があり、第一義的には①や②について配慮すべきだったと考える。

 次に、「配慮を欠いた」とはいかなる事態なのか。2に再掲した問題8点のうち、問題点1及び2については上述の配慮基準②に、問題点3~6については①に、問題点7・8については③に関わる(正確に言えば8はただの法律問題なのだが、問題を単純化するため、ひとまずこう区分しておこう)。
 問題点1及び2について「配慮する」とは、「現今の文芸や社会全体、その歴史に一定程度の理解をし、その倫理的基準に沿って自身の言動や考え方を適宜修正し、適切に行動すること」といえるだろうか。逆に「配慮を欠く」とは「文芸や社会全体、その歴史について理解をしていない場合」「倫理的基準が分からない場合」「言動や考え方を修正していない場合」「適切でない行動をとる場合」のいずれかに当てはまる場合をいう。
 少しブレイクダウンして書いてみると、
 ・「文芸や社会全体、その歴史について理解をしていない場合」:
 元々、ヒトがヒトとして尊重されるべき諸点(私は、大きな括りとしては「先天的諸条件(condition)と、後天的意志」と理解している)が尊重されない状況になるのは、いついかなるときでも問題であることが理解できていない場合(たとえば、性差別やMeToo運動についていえば、積極的に問題を指摘できる環境が整いつつある現在はもちろんのことであるが、当時においても表面化していなかっただけで「問題でなかった」わけではない)。
 ・「倫理的基準が分からない場合」:
 ヒトがヒトとして尊重されない状況が問題であることや、その状況をどのような言動がもたらすのか、当人が認識していない場合。
 ・「言動や考え方を修正していない場合」:
(問題を認識しているとしても)ヒトがヒトとして尊重されるためにどのような言動や考え方をすべきか、自身を省みることをしていないこと。
 ・「適切でない行動をとる場合」:
(問題を認識し、自身を省みているとしても、そうでないとしても)ヒトがヒトとして尊重されないような状況を生み出す言動をしてしまうこと。
 というあたりだろうか。
 問題点3~6については究極的には、加藤と、水原や大塚との、ネットを介した直接のハラスメント(後で詳述する)であり、他人が口を出すべき段階に至る前に当事者間で謝罪等のやり取りが行われるべきものである。
 問題点7や8は、問題点3~6に加えて、配慮基準①だけでなく③にも関わるもので、Twitterという〈公の場〉で述べたことで、結果的に配慮を欠いた=③の配慮基準に反したと考えられる。つまり、件のツイートに関し、問題点3~6は究極的には加藤と水原/大塚の人間関係の問題であることは承知することができるものの、それでも読者・フォロアーは問題点3~6について「もしわたしが水原や大塚だったら、嫌な思いになる」と、問題点7について「地方出身者はみな洗練されていないというのか」と、想像したであろう。そして、加藤の書き振りが、大塚個人の内面や性格に対して断定的に(乱暴に)語るものであったため、同様の目線が加藤から(そして、加藤以外の者からも)向けられるのではないか、という恐怖を、読者・フォロアーに招いた。
 配慮基準③に反したことで、第三者である読者・フォロアーに生まれた恐怖や反発は、①や②について十分配慮できていたならばおそらく生じなかったか、生じたとしてももっと穏やかに済んだだろう。その点で、「炎上するかどうか」が判断基準なのではなく「水原や大塚に対して失礼ではないか、文芸の社会や歴史の理解が適切にアップデートされているか」が考えられていれば十分に避けられた。

 ここまでの点を、①~③の配慮基準にあわせて、単純化に努めて整理すると
①水原や大塚に対して、個人の内面を暴力的に述べたことについて
②昨今の、文芸におけるジェンダーや権威の諸問題、社会におけるMeToo運動に対して、 適切に理解を推し進めていなかったこと、あるいは理解していたとしてもその理解に基づく言動を実行できなかったことについて
③①や②が、ひいては、誰に対しても、暴力的言動や、他者に理解のない言動をする 可能性を示してしまったことについて
という点において、加藤の「ミューズ」発言は問題だったのである。

 他方、もし加藤が、有り体にいえば「何が問題か分からない」ならば、「炎上しないようにすることが配慮」するほうが「(言動として、まだ)マシ」だ。
 先ほど、参照事例として「バイトテロ」を挙げたが、今回の加藤発言にあわせて考えれば、「撮影の有無にかかわらず、バイト先でいたずらしないのは当然であるが、仮にバイト先でいたずらしたとしても、ネットに投稿してはいけないと判断するほうがマシ」なのである。問題あるツイートを投稿した時点で、ネットリテラシーに欠ける。バイトテロを起こした若者が「友達とシェアしたかっただけで、自分のツイートが他人に見られるとは思っていなかった」というのと、加藤が「短歌往来での連載『ニューウェーブ短歌メモワール』のための備忘だった」というのと何が違うというのか。結局、オープンな場に投げかけることの意味の理解と、その際の自律も足りなかったのである。
(加藤が本当に「Twitterという場のリスクを知っている」ならばこうはならなかったのではないか( https://twitter.com/jiro57/status/1097283925418827776 参照))

 ただし、これは一般論であるが、炎上を恐れることのみを配慮基準とするのは間違っている。誰であれ、悪質な魔女裁判のような、見当違いの指弾にまで屈する必要はない。配慮すべき事柄、すなわち、ヒトがヒトとして尊重されるべき諸点――尊厳を、しかるべく尊重しているか否かが肝要である。
 その上で、加藤の「ミューズ」発言、その後のツイート、そして、本特集への介入のいずれもがヒトとしての尊厳、あるいは文筆に携わる者の尊厳を損なっていると私は判断している。


(2)「時評の文章(も、場合によってはこの文章も)は上から目線になっていないか。自分を正義の側においていないか」

 加藤の「配慮を欠いていた」点は、個人的なレベルから文芸や社会全般に関わるレベルにまで、広範囲に至っているが、なるほど、確かに私が直接の被害を受けたわけではない。直接の当事者でない立場から、それでもなお声を上げることが「上から目線になる」というならば、私は別に何といわれようと仕方がない。
 また、「短歌研究」時評においても本稿においても、私は加藤の言動について「正しい」「正しくない」「良い」「悪い」「間違っている」といった表現を一度も用いていない。私自身は「加藤の言動が正しいか否か」が問題の本質だと考えておらず、正義の立場から断定・断罪する意図もない(「正義でない」と断定するならば「正義」の定義・基準が必要だ)。私の人生や言動が品行方正・公明正大だとは全く思っていないし、指摘を受けなかっただけで、「ミューズ」以上にひどい発言を私がしてきた可能性も十分にある(私がものを書くときに自戒や告白とセットじゃないと「上から目線」になってしまうなら、紙幅の決まった記事では、自戒や告白だけで終わってしまうだろう。それくらいの自覚はある。その意味では、私にものを書く資格はそもそもないのかもしれない)。それでも、今は、明らかに客観的に書かれたテクストに則って、「加藤の書いたテクストが他人の尊厳に立ち入っている」と指摘するのみである。
 他人に、己の尊厳へと踏み込まれた者はその場で直接声を上げることができないことがある。今回は、文筆に携わる者の、ましてやその中でも一定以上の知名度を有する者による発言が問題となっている。ならば、私は私自身の身を省み、かつての言動の数々を恥じながら、それでもなお、ささやかながら文芸に携わる者として問題を指摘するほうが公益に適う、と信じる。ましてや私は、(みなさん、ご存じないだろうが)第1回歌葉新人賞で加藤に推されて人に多少知られるようになり、加藤に誘われて未来短歌会に属している。そのような経緯があるからこそ、加藤の、問題ある言動に対して私は誰よりも手を抜いてはならないのだ(そして、そうするだけの憤りが私のなかにある)。
 それでもなお、自分を正義の側に置いているのではないのか、といわれるならば、不徳と文章技術不足の致すところである。己の不明を恥じつつ、私の意図が論拠にならないことを理解した上で、それでも「自らを正義の側に置くつもりはない」と繰り返して宣言しよう。


(3)「ハラスメントではないのか」
 私はこういった社会科学やその実務に関する専門家ではない。あくまで〈素人の私見〉であるが、本件の整理のために述べれば、「厳密な意味におけるハラスメントに当てはまるとは指摘できないが、本件を考える上で十分参考になる」と理解している。

 様々なハラスメント一般に対する「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」( https://www.osaka-med.ac.jp/deps/jinji/harassment/definition.htm )という大阪医科大学ハラスメント等防止委員会の定義は分かりやすい。また、こちらは職場におけるパワーハラスメントに対する定義だが、厚生労働省雇用環境・均等局の「職場のパワーハラスメントの概念について」( https://www.mhlw.go.jp/content/11909500/000366276.pdf )においては「1優越的関係に基づいて(優位性を背景に)行われること、2業務の適正な範囲を超えて行われること、3身体的若しくは精神的な苦痛を与えること、又は就業環境を害すること」とある。
 本件にあてはめて考えれば、前者は「水原や大塚を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」を指すことになろう。私からは水原や大塚に対してインタビュー等を行っていないので、私にとっては明確ではないが、水原や大塚が「不快になった」と訴え出るならばハラスメントに該当する、と言い得えそうだ。他方、後者に基づけば、加藤と水原と大塚の間に優越的関係を認めるのは難しいため、厚生労働省の考えるパワーハラスメントを援用した考え方からするとハラスメントとは考えがたい。
(なお、余談めくが、短歌結社において、1選者に優越的関係を認め、2業務の適正な範囲が明確であるならば、業務の適正な範囲を超えて身体的若しくは精神的な苦痛を与える事態をパワーハラスメントだと認めることができるであろう。ただし、結社におけるハラスメントが実質的に存在するとしても表立っては見えないように(存在しないことに)なってしまうのは、組織の存在目的や「業務の適正な範囲」が明確でないからだ。つまり、結社という組織そのものの目的や、結社に入る個人の(結社から与えられる)メリット、そこでなすべき事柄が明確でない限り、結社でのパワハラは明らかになりにくく、その存在を客観的に指摘するのが困難になる。この点は、昨年の現代短歌評論賞の論題、及び私の落選作の課題設定にも通じるのだが……)

 ハラスメントよりやや広い視点、「人権侵害」から考えてみよう。たとえば「世界人権宣言」(外務省訳 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html )第二条第一項には次のように示されている。
>>
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
<<
「人権」概念に即して、その侵害の有無を考えると、水原の場合には「性」、大塚の場合には「国民的若しくは社会的出身」について、加藤から差別的な言動を受けた、と見なしうるかもしれない。

「名誉毀損」という観点からも念のため検討しておこう。弁護士ドットコムの説明( https://business.bengo4.com/practices/931 )によれば名誉毀損とは「他人の名声や信用といった人格的価値について社会から受ける評価を違法に低下させること」であるという。また、名誉毀損の成立要件は「社会的評価の低下」と「違法性が否定されないこと」であるという。今回のケースに当てはめて考えれば、「違法性が否定されない」範囲で、(特に大塚について)「社会的評価を低下させた」と言い得そうだ。

 以上、ハラスメント、人権侵害及び名誉毀損の3つの観点から検討した。いずれについても、直接的に当てはめることはできない(また、私がそうするのは適切ではない)のだが、考え方を整理する上で参考になるだろう。

 

4.「権力」はないのか


(1)権力に対する二重三重の誤り
 加藤は「ミューズ」発言に対する反省の過程で、問題を〈延焼〉させている。次のツイートが典型的だ。

>>
権力なんてないよ
少なくとも権力者じゃない
つまり人を意のままに動かす力はありません
短歌研究新人賞や前川佐美雄賞の選考、毎日歌壇の選歌は業務請負です
「未来」の選歌は、無償のボランティア
もともと権力なんて欲していないよ
(https://twitter.com/jiro57/status/1097638286950977537)
<<
 いやはや、ご冗談が過ぎる。加藤のツイートは、「権力」という語に対する認識に二重三重の誤りがある。加藤が不勉強、あるいは時代遅れであるともいえる。

 権力論一般については、このツイートを加藤とやり取りした濱松哲朗が説明してくれるだろうから本稿では詳細を省く。なお、私は、権力論一般については杉田敦『権力(シリーズ 思考のフロンティア)』(岩波書店、2000)を、無償労働(を意味する和製英語としての「ボランティア」)の権力が増大される点については仁平典宏の論文「〈権力〉としてのボランティア活動」(「ソシオロゴス」第27号収録、2003)を参照した。

「権力」=(明示的に何かを命じることで)「人を意のままに動かす」もの、という認識・枠組みがまず古すぎる。また、「人を意のままに動かす」という事態は、人が他人に何かを直接指示することによってのみ行われるのではない。暗黙裡に「人を意のままに動かす」こともできる。

 業務請負だからなんだというのだ。無償だからなんだというのか。わざわざ繰り返すまでもないことだが、「ミューズ」発言も、男性という属性に付帯する(旧式の)権力を行使したものではないか。加藤が列挙した事例だけでも、有償無償を問わず、「選をする」という、権力の典型的発露ではないか。政治家や資本家として人に指示できる関係のみを〈権力〉と呼ぶのではなく、「世に出ることばやヒト」を選ぶことで「世に出ないことばやヒト」を区別できるのもまた権力である。
出版社が新人賞を開催し、特定の歌人が協力するというのは、出版社とその歌人たちが新人賞受賞歌人に対して権力を再分配することに他ならない(だからこそ、ある一部の歌人が自主的に集まって賞を行う、という権威主義的な振る舞いに対しても、私は賛成しない。せめて、責任ある主体(法人・個人)が明確に決まっていなければならない)。新人賞受賞歌人を選び、その者の歌に〈声〉を与えるということは、受賞歌人以外には〈声〉を与えないことでもある。それでもなお、出版社から付与・貸与された、〈選ぶ〉権力を行使するのが選考委員なのではないのか。選者なり選考委員には、その権力を行使する事態に注意深くあってほしい。

(2)問いかけによる忖度への誘導
 同様に、加藤の言動のうち、
https://twitter.com/jiro57/status/1097128644281954305
「文学とは何か」
と、聞くだけ聞いて、自分では答えていないあたりは、高圧的に見える。すなわち、加藤が問いかけることによって、加藤の望む回答を忖度させ、そちらへ誘導しているような感覚を受ける。加藤のそのような問いかけに対して、加藤の文学的経歴から、「自分が間違っているのではないか?」と忖度してしまった人もゼロではないだろう。

 中島に対しては加藤から「岡井隆の一連の回想録を読んでいますか」( https://twitter.com/jiro57/status/1097141761728602112 )「あなたは「短歌往来」の「ニューウェーブ歌人メモワール」を読んでいますか」 https://twitter.com/jiro57/status/1097142351917510656 )といった問いかけが行われた。中島からは「前者に対しては「岡井さんの「挫折と再生の季節」「私の戦後短歌史」は何度も読んでいますが、それがどのように影響するのでしょうか?」( https://twitter.com/yukashima/status/1097142453889421317 )と、後者に対しては「読んでいます」( https://twitter.com/yukashima/status/1097142511082983425 )と答えている。加藤はその一環で、
https://twitter.com/jiro57/status/1097151763621105664
>>
ありがとうございます
岡井隆はかなり踏み込んで書いています
それが私の規範です
<<
と返信している点から、どうも「ミューズ」発言を「文学」の一環として捉え、加藤は岡井の回想録のように許容されるべきだと考えていた節がうかがえる(ただし、これは加藤からの「回答」とは言いがたい。「コンビニとはなにか」という問いかけに「私が買い物をしているところです」と答えるようなものだ。せめて「主に長時間営業をしている、食料品や日用雑貨を扱う小規模店舗」くらい、文学についても回答してほしい)。
 私は加藤への返信で
https://twitter.com/yukashima/status/1097152119876907008
>>
はい、相応の批判はあるでしょう。他方、書籍とツイートでは問題の位相が異なって見えます。
<<
と、加藤のツイートと岡井の書籍とでは、問題が異なって見えることを指摘した。岡井が過去を回想する書籍は、女性蔑視的な過去の言動に対する言及があったとしても、書籍の文章量ゆえに、現在の視点での告解・懺悔的な側面が現われる(そういう側面が現われると期待されているからそう読める部分も多少はあろうが)。それに対して、加藤がツイートに、岡井の回想と同じだけの、告解・懺悔的な側面を入れただろうか。それこそが、まさに加藤は、回想する際に「(岡井は行った)配慮を欠いている」のである。
それは「文学」以前の、「言葉を発するとき」に求められるべき配慮である。上述のやり取りの最初に私は以下のように書いている。「ミューズ」発言の問題の枠組みとしては、私は今もこのツイートで最低限度説明したものと認識している。
https://twitter.com/yukashima/status/1097139304474632193
>>
加藤さん、「文学とはなにか」に答える、それ以前の話題です。同じ文章が、あるいは完成版が「往来」に載っていても同じく燃え上がるご発言です。回顧する以上、なんらかの時代の変化があるわけで、その変化に対応されていないものと思います。(あとは公の場で書きます)
<<

(3)「権力、即、悪」ではない
 当然のことだが、「権力、即、悪」といっているのではない。本節は単に、「自分は権力がない」と述べている加藤の、その不見識を指摘しているのみである。
 広い、現代的な意味での「権力」は厳然として現実に存在するし、必要となる場面もある。今回、「詩客で原稿を書く」という権力が私にだって付与されている。それゆえに、「自分に権力があるかないか」でも「誰が権力をもっているか」でもなく、「自分が権力をもっているとすればどのようなものであり、それをどのように行使しており、今後どう行使すべきか」に注意深くなる必要があるのだ。
 想像力についても同様だ。本件において問題となるべきは「加藤に想像力があるかないか」でも「加藤の想像力が働いているかいないか」でもない。「加藤が想像力をどのように行使したのか、今後どう行使するべきか」である。

(4)補遺:配慮や想像力の欠如による分断
 気が進まないものの、一応指摘しておく。加藤の今回の言動を批判した者の中にも、加藤と同様に、配慮や想像力を欠如したツイートが散見された。一例として、未来短歌会の岸原さやのツイートを挙げる。長年、写真家・荒木経惟のモデルをつとめたものの、荒木に尊重されなかったKaoRiによる告発記事やその紹介ツイートを引用しての発言である。
https://twitter.com/sayasaya777/status/1097129983372193792
>>
ミューズという語がなぜ今日び否定的なニュアンスで受け止められるのか、そのもっとも酷い実例を見れば理解がすすむかと思います。これは1万人以上にリツイートされた記事です。
こうした忌避感がひろく共有されてる時代なんだということを男性歌人は学んでほしい。
<<(下線中島)
「ミューズ」に関する劣悪な事例としてKaoRiの記事を挙げるのは十分理解できる(私も「短歌研究」時評で同じようにした)。しかし、「男性歌人は学んでほしい」と、男性歌人にのみ権力がある、あるいはマジョリティであるかのように述べることで結果的に別の問題を生んでいる。男性歌人が学べば事足りるとでもいうのか。女性(と自認する)歌人は己を省みる必要はないかのように読める。また、男性/女性に区分されないセクシャルマイノリティの歌人の尊厳へと(意識的であれ無意識であれ)立ち入ってしまってはいないか。岸原は加藤を批判しているかに見えて、結果的に別の分断と差別を生んでいるのである。
 岸原のように今回の問題を「ミューズ」という単語を使ったことそのものに矮小化させてはならない。権力やジェンダー、想像力について、男性が学ぶべきなのか歌人が学ぶべきなのか、マジョリティが学ぶべきかマイノリティが学ぶべきか――否、万人が学ぶべき事柄である。加藤の言動を批判したいなら、それだけを述べればよい。そこに「男性歌人」などという区別と分断をわざわざ持ち込んだ岸原のツイートも、結果的に加藤の「ミューズ」ツイートと同様に、配慮と想像力を欠いている。
 私は「短歌研究」2019年5月号時評で、若手歌人に対してある種の文学運動を期待する旨を書いたが、人間の尊厳に立ち入り、分断を生むような運動であるならば不要だ。私の期待など捨て置いていただいて構わない。

 

5.ではなにが必要だったか(予定)

 現時点で、決着に向けて加藤が今後行うべき振る舞いについて、ここまででも十分に記したと思うが、今回具体的に詳述することは避けよう。必要があれば次回以降に記す。ジェンダーも権力も、私を含めた本特集執筆者からの発言を無視するよう加藤当人が決意するのも、(その結末は、大変愚劣ではあるが)一つの決着ではある。すくなくとも、加藤が、私や他の誰かが書いたとおりの反省を行うのではなく、自らジェンダーや権力について深く考え、当人の言動が改められればよい、と私は考える。
 そして、一般論として、本稿読者が「加藤は問題の所在を十分理解し、適切に反省した」とみなしたならば、それを受け容れ、加藤が再起を図れるようお取り計らいいただきたい。各種ハラスメントを行った者についても、再起の道筋がない状態で適切な反省を促すことは難しく、却って問題の再発を招くケースがあるからだ(セクハラのケース等を参照可能と判断している。( https://www.huffingtonpost.jp/sharescafe-online/metoo-20180508_a_23425156/ など))読者や私が加藤の再起の機会を与えることは、加藤に云々されるまでもない、フェアな態度であろう。
 ただし、私自身は今回に限らず、加藤のジェンダー的不公正な言動や権威主義的な言動に対して、私が未来短歌会に入った2003年以降その都度に、上述と同様の指摘を加藤当人に直接行ってきた――ここでいちいちあげつらうことはしない。加藤はどうもほとんど覚えておらず、覚えている案件についても反省の弁を聞いたことがないが。「ミューズ」発言、その後の発言、本特集への介入だけでなく、同様の過去の言動についても反省がなされない限り、私は問題の終結とはみなさない。

(本稿了)

 

<短歌時評alpha(1) 言葉~想像力と価値観のコウシンを見据えて~>

 ※短歌時評alphaは短期集中企画です。


短歌時評第144回 空白と時間 魚村晋太郎

2019-04-05 11:32:58 | 短歌時評


 昨年刊行された加藤治郎歌集『Confusion』とつい先ごろ刊行された吉田恭大の『光と私語』を中心に、視覚詩=ヴィジュアル・ポエトリーとしての短歌について考へてみたい。「加藤治郎歌集」と書き「吉田恭大の」と書いたのは、加藤の歌集の背表紙には多くの歌集がさうであるやうに書名の上に小さく「歌集」と書いてあるのに対して吉田の歌集の背表紙にはその文字がないからだ。背表紙だけではない。吉田の『光と私語』には扉にも目次にも「歌集」の文字はない。あとがきでは「この本と、歌と、暮らしに関わってくれたみなさま」とあへて「歌集」の語を避けている。意地悪くこの一冊が歌集であることの物証をあげるとしたら奥付に小さく印刷された「塔二十一世紀叢書333」の文字だけである。
 さて、昨年5月に書肆侃侃房の現代歌人シリーズの一冊として刊行された加藤治郎歌集『Confusion』である。歌集を手に取つたときの第一印象は、肯定的な意味での「やられた」だつた。今までの現代歌人シリーズの装釘と印象がまるで違つた。恰好よかつたのだ。しかし読みはじめると当惑もあつた。
 『Confusion』と『光と私語』の装釘・レイアウトは、どちらも山本浩貴+h(いぬのせなか座)が手掛けてゐる。
 いぬのせなか座について私は彼らがHP(http://inunosenakaza.com/index.html)で発信してゐる以上のことを知らない。山本浩貴+hとはその集団のメンバーで、山本さんとhさんの二人組らしい。書肆侃侃房のHPの『Confusion』のページには「いぬのせなか座プロデュース。レイアウト詩歌の世界」とある。レイアウトされた詩歌であると同時にレイアウト自体も詩歌である、といふことだと受け取つた。読んでゐない方には紹介するのが難しいが、ページの中の短歌のレイアウトが上だつたり下だつたり、連作によつては横書きだつたり、横書きと縦書きが混在してゐたり、レイアウト自体が表現になつてゐる。
 私が『Confusion』を読みながら感じた当惑はいくつかの要素から生じたものだと考へられるが、まづ単純に歌が読みにくいといふことがあつた。もちろん、『Confusion』といふタイトルが示してゐるやうにある種の混乱はこの歌集のテーマであるし、それはおそらく2015年に強行採決された安保法案成立前後の国内の緊張やその時期の作者のこころの動揺を反映したものだらう。一冊の書物としてそのレイアウトは刺激的で美しいかも知れない。しかし、読者との関係に重点をおいて考へるとき、読みにくさと引き換へにどれほどのものがそこから生まれたのか私には疑問もあつた。
 たとへば「平和について」といふ連作には「二〇一五年七月十六日、安全保障関連法案が衆議院本会議で可決。」といふサブタイトルがあり、テキストからは法案可決前後のひりひりした思ひが伝はつてくる。

 どちらの言葉も、醜いことがたまらない牛肉石鹼 美しい歌をだれかうたってくれないか
 コメダのマメを持ち帰る 官僚の夏は長く平和祭前夜祭
 コメダのコーヒー・トースト・ゆで卵の聖三角形 きみたちはみな傭兵志願者だ
 天国介護ホーム牛肉石鹼最後まで使い切り首相の哄笑


 17首中、巻頭の4首をレイアウト抜きのテキストとして引いたが、作者の違和感や動揺はすでに破調や字余りに表れてゐる。それが一応横線で区切られてはゐるものの、ななめにつながつてゆくやうにレイアウトされてゐて、後半には初出では詞書風に添へられてゐた俳句2句がはさまれてゐることもあり、歌集で読むと短歌の連作といふより散文詩のやうな印象があつた。
 『Confusion』で私が最も歌を読むよろこびを感じたのは短歌の部分の終はりに近い「ヘイヘイ」といふ連作である。引用しようと思つたが、初出がこの「詩客」でありまだ読めるのでURLを附すことにする。

http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-08-05-18644.html

 短歌と挿入される七五調の四行詩の響きあひが絶妙である。やはり一部引用しよう。

   蜂蜜の流れる部屋にきみといるなんに濡れたか分からない髪

  水風呂に夏のひかりのみちていてあなたの指がおへそをさわる

                   つめたい雲がまぶしくて
                   おなかの上におりてくる
                  あたっているのあたってる
                 シャワーの水はくすぐったい


 喪失感を湛へた前半と虚無感のなかで生きる意志を確認するやうな最後の部分にはさまれた引用部分には、性愛のイメージが描かれてゐる。それは遠い記憶のなかのことのやうであり、連作全体に遠い記憶のなかから現在をみつめてゐるやうなかなしみと、かすかな希望のやうなものがうつくしくにじんでゐる。
 初出では文頭をそろへられてゐたものが歌集では文末をページの下にそろへられてゐるものの、この連作ではレイアウトがかなり抑制的に働いてゐる。読みにくく混乱した感のある短歌部分の終はり近くでこの連作に出会ふことで、静謐な希望のひかりが差し込むやうな印象を感じた。単に抑制的なレイアウトだからよいのではなく、歌集全体の流れのなかで、この連作にそのレイアウトであつたからよかつたわけだが、私にとつてもつとも感動した部分がレイアウトがもつともシンプルな部分だつたといふのは、やはりもやもやした気持ちになる。
 加藤、或いは山本浩貴+hの念頭には萩原恭二郎の詩集『死刑宣告』(1925年刊)があつたのではないか。(といふか歌集刊行当時、加藤自身のツイッターに歌集の紹介文として「現代日本の死刑宣告」と書かれてゐるのでまづ間違ひのないところだが。)『死刑宣告』はダダイズムとか未来派とか立体派とかアナキズムの思想とかが詩人のなかで混然一体となつて独自の表現として噴出したものだ。大きさの違ふ活字を組み合はせたり幾何学的な版画や黒い帯やドットなどを使用した視覚詩で、今の言葉で言へば、すげえパンクな感じ。私自身十代の頃、アンソロジーではじめて見たとき、文学でこんな恰好いいことができるものかとしびれた。さらに、『死刑宣告』は関東大震災の二年後に刊行されてをり、その禍禍しいヴィジュアルにはおそらく震災の反映もある。さうしたことも加藤たちの思ひを捉へたのだらう。この歌集全体が『死刑宣告』の本歌取りであるとも言へるかも知れない。いろいろ考へさせられたところもあるが、視覚詩の可能性をひらかうとする果敢な実験であつた。

 ここで、視覚詩としての短歌について考へるために塚本邦雄と岡井隆の短歌を引用しておく。

  塚本邦雄『緑色研究』(1965年)より(3首)

        剣
        の
       醒鞘水
      渇むなに花
     樂くるす漂菖呪
    鏤音花午 ひ蒲は創
  殃るめに饐 死 禁るめの愛
    た悉うわ 血色るに
     くるがの塗の者
      魂地蕾れ胎
       獄睡の
        る
        夜


  岡井隆『E/T』(2001年)より(2首)

梅のすぐむかうに
ふかい闇がある
妻のむかうに

月が
出る
まで


無論
さう
騎乗
する
位置

見る
もの

シーザーも
見た
実朝

見た


 塚本の作品には「死の核を繞るイリスの三首」といふ題がつけられてゐて、右端から縦書きに読んでゆくと「愛の創めに呪はるる者花菖蒲禁色の胎水に漂ひ」、「血塗れの剣に鞘なす 死 の蕾睡る夜醒むる午 わが地獄」、「渇く花饐うる魂樂音に悉く鏤めたる殃」と読める。かたどられてゐるのは、イリス=アイリス、つまり花菖蒲などのアヤメ科の花であり、アイリスが虹彩を意味するところから、瞳のイメージもおそらく重ねられてゐる。
 岡井の作品については解説は必要なからう。北園克衛の詩に1字や2字での改行を多用することによつて縦と横の両方向に読み進めてゆく詩があるが、丁度その縦横を逆にした作りである。
 視覚詩について考へるうへで、私は3本の補助線を引いておきたい。ひとつめは引用の可否といふ補助線である。明朝体で印刷された「死の核を繞るイリスの三首」をゴシック体で引用したら塚本は激怒するかも知れないが、作品の概要は伝はるだらう。岡井の作品についても同様である。しかし、『死刑宣告』や『Confusion』の多くの作品はさういふわけにはいかない。私は詩は原則として引用可能であつた方がいいと考へてゐる。それは、ある意味ですべての詩が先行する詩の引用であると考へてゐるからである。もちろんここで引用といふのは本歌取りに近い意味だ。たとへば加藤の『Confusion』は『死刑宣告』の本歌取りだといへなくもないのだから、違ふ字体で引用可能であるべきだといふ考へは、実際的でない宗教上の敬虔さのやうなものかも知れない。しかしさうした敬虔さが詩歌にとつては結構大切なもののやうにも思ふのである。
 ふたつめはコラボレーションか否かといふ補助線だ。塚本と岡井の作品は視覚的な部分も含めて作者単独の創作である。一方、加藤の作品は前述の通りレイアウトは山本浩貴+hが担当してゐて、吉田の『光と私語』も同様である。これはひとつにはコンピューターやアプリケーションの進化によつて視覚表現の可能性が広がつたぶん専門性も高まつた、つまり餅は餅屋といふことと、いまひとつには現在の作者に「私」のなかに「他者」を呼び込みたいといふ欲求があるといふことがあるだらう。「私」を錯綜させたいといふ欲求である。
 みつつめは、共時的表現なのか通時的表現なのかといふ補助線である。空間的表現、時間的表現と言い換へてもよい。詩歌は基本的に時間を含んだ表現だが、塚本の作品は絵画のやうだといふ意味でどちらかと言へば共時的つまり空間的な側面がつよい。岡井の作品は塚本の作品にくらべると通時的つまり時間的な側面がつよい。そして、岡井の作品は、空間と時間が対立するものではなく、むしろ相補的なものだといふことに気づかせてくれる。文字列の作る空間的なひろがりが、一首目ではゆつたりとした時間の奥行きを、二首目では疾走するやうな時間の躍動を読む者に手渡してゐる。

 吉田恭大の『光と私語』もまた空間的表現がが時間の感覚を呼びこむ幸福な書物である。これから読まうと思つてゐる方は、どうかこの先は読まずにまづ一冊を読んでいただきたい。『光と私語』を読むことは、きつと稀有な経験になるはずだ。私の文章が的を射てゐるかは別として、先入観なく読んでほしいと思ふ。すでに読んだ方と、金輪際読むつもりがないといふ方のみ以下を読んでいただきたい。

 エッジの効いた、といふ言葉はふつう比喩的に用ゐられるが、『光と私語』は文字通りエッジの効いた直方体を思わせる装釘である。内容は3部構成で、第1部と第3部は頁の右端に1首づつ歌が載り、余白にはほんの少し赤みがかつた灰色の矩形や円が端正に配置されてゐる。第2部の部分では第1部の構成が少しづつ崩れて頁のなかで歌が動きはじめる。

  一月は暦のなかにあればいい 手紙を出したローソンで待つ
  PCの画面あかるい外側でわたしたちの正常位の終わり
  恋人の部屋の上にも部屋があり同じところにある台所
 
 
 第1部から3首引いた。1首目が典型的だが、時間的なものもふくめたへだたりの感覚、距離の感覚が作者の特徴だと思ふ。2首目、3首目にもカメラを引いてゆく感じ、或いは俯瞰してゆく感じがある。大切なものをあへて遠くにおいてみる距離の感覚によつて、大切なものがそこにあること自体のいたみ、のやうなものが表現されてゐる。
 視覚詩として見るとき『光と私語』のなかで特に印象的だつたのは第2部の「ト」と「末恒、宝木、浜村、青谷」である。「ト」は23首の連作で灰色が地になつた見開きの2頁に白抜きの文字で11首づつ、次の頁に最後の1首がレイアウトされてゐる。基本的に1頁1首、第2部に入つてからも1頁にせいぜい2、3首で進んできた歌集の時間に、せきとめられて深さを増す水の流れのやうな異変が起こる。

  昨日のことはいくらか覚えている。床は白くて床は冷たい。
  部屋を出てどこかへ向かう。戻るとき牛乳のコップを持っている。

  横たわるあなたの上を跨ぐとき、まだ生きていることを確かめる。
  家具を買うことを、おそらく本能的に怖れている、から白い部屋。


 「ト」の左右のページからそれぞれ連続する2首を引いた。連作では同棲してゐるらしい二人の一日、といつても右頁では起きてから一人が出勤するまで、左頁ではその一人が帰宅してから寝るまでが描かれてゐる。「ト」とはト書きのトだらうか。引用2首目のやうにト書きのやうな歌もあれば、1首目のやうに主人公の独白のやうな歌もある。小説でも映画でも、物語は独白のやうな一人称目線とト書きのやうな三人称目線が混在して進んでゆくことが多いが、連作ではその構造を利用して左と右の頁で主人公を入れ替へてしまふ。連作の中でふたりは言葉を交はさない。セックスもしない。ト書きのやうな言葉には、二人の暮らしを作者または主人公自身が、少し引いたカメラで距離を置いてみてゐるやうな印象がある。主人公にとつて切実なのは二人が「家具を買うことを、おそらく本能的に怖れている」といふことである。大切なひととゐて日日に充足しながら未来が見えないといふ状況は、若者にとつて普遍的なことだともいへるし、文学青年らしい主人公ならではのものだともいへる。いづれにしても、時代の生きづらさとかとは、おそらくあまり関係がない。主人公の怖れは先に述べた、大切なものがそこにあること自体のいたみ、と同じ根をもつものだらう。
 「末恒、宝木、浜村、青谷」は見開き2頁の左頁の右端中央に1文字大ほどの灰色の正方形がプリントされてゐるのが基本フォーマットで見開きの左右の端または右端だけに歌が配置されてゐる。何首か引用したいのだが、どうにも引用が難しいので、私が取つたメモの引用、といふ形をとらせていただく。

  158-p159
  風邪の日の水薬がずっと口の中に溜まっていて 長いホームでひと月を
  ずっと待っている
  昼食も朝食もずいぶん食べていない


  [頁をまたぐ空白。左頁右端に小さな灰色の矩形]

  p160-p161
  祝日のダイヤグラムでわたくしの墓のある村へゆく

  [頁をまたぐ空白。左頁右端に小さな灰色の矩形]

                          鎧、餘部、久谷、浜坂

  p162-p163
  風邪の日の水薬が虫歯にしみる 今日から明日にかけての忌引き
  
  [頁をまたぐ空白。左頁右端に小さな灰色の矩形]

            海に沿い小さな港 隧道を抜けるたび小さな船を見る
            暦では水母に埋まる海岸を誰かかわりに歩いてほしい

                         諸寄、居組、東浜、岩美

 連作の冒頭から6頁分のメモを引いた。オリジナルは縦書きである。
 はじめの2頁は私のなかで、読み方がぶれる。「風邪の日の水薬がずっと口の中に溜まっていて」を詞書、「長いホームでひと月を/ずっと待っている/昼食も朝食もずいぶん食べていない」を一首と読むか、或いは「風邪の日の水薬がずっと口の中に溜まっていて/長いホームでひと月を/ずっと待っている」を一首と読み「昼食も朝食もずいぶん食べていない」を下句の変奏と読むか。後者の読み方はイレギュラーであるが、朗読の現場などではそれほど違和感なく行はれるのではないか。次の2頁には1首、その次の2頁には3首とほぼ無理なく読める。もつとも、p158の「風邪の日の…」が詞書だとしたら、p162の1行も詞書として読むべきかも知れない。また、p163の「暦では…」は1行だけで1首の定型をなしてゐるので、添へられた「諸寄、居組、東浜、岩美」はやはり下句の変奏のやうに読むべきだらう。
 およそ15首ほどからなる連作は、家族か親戚の葬儀のための帰郷といふシュチュエーションで詠まれてゐるらしい。らしい、といふのは葬儀自体は描かれないし、家族や親類も登場しないからだ。詠まれてゐるのは帰郷ルートと思はれる山陰線の駅名とさびしい海辺の町の景色だけである。
 連作の冒頭で私の読みがぶれたことはすでに書いたが、2首目についても3句目までの韻律の捉へ方はぶれる。しかし見開きほぼ2頁分の余白をはさんで下句の駅名にたどりつくと「よろい、あまるべ、くたに、はまさか」と綺麗に定型に収束する。駅名は列車の運行順にならんだ4つづつが、とびとびの5首の下句に出てくるのだが、その音数も7・7、7・8、7・7、6・7、8・8となつてゐて絶妙だ。
 連作を読みながら、淡くほどけてゆきさうな言葉や地名がやはらかく定型に回収される感覚を頁をめくるごとに感じてゆく。その感覚が駅名をたどりながら故郷に近づいてゆく列車のなかの主人公の時間の感覚、そしてさびしい海辺の町を歩く主人公の時間の感覚と響きあひ、砂に水がしみるやうに胸に沁みこんでくる。不思議な感覚である。
 ふつう1頁1首組の歌集の場合、たとへば堂園昌彦の『やがて秋茄子へと到る』などがさうだが、1首が屹立する印象があり連作性は少しうすれることが多い。「末恒、宝木、浜村、青谷」は20頁に約15首だから、平均すると1頁1首よりも少ないのにゆつたりとした連作の時間が流れてゐるのはなぜだらう。
 ひとつには空白を生かした頁のレイアウトによる効果だ。多くの1頁1首組の歌集では頁の真ん中に歌が配置されるが、『光と私語』の第1部では頁の右端に配置されてゐる。そのことにより歌と空白のしづかなリズムのやうなものが読者に印象付けられる。第2部に入ると歌の配置や頁あたりの歌数に微妙な変化が生じるが、「ト」の3頁を除けば大きな変化はないので、読者は歌集の持つしづかなリズムにのつて、ときにほどけさうになる言葉をむかへにゆき、定型に回収するよろこびを感じるのだ。
 空白は空間的なひろがりであるが、読むといふ行為によつて時間が介入する。散文を読むときでもさうだが、散文よりも詩、詩よりも短歌を読むときの方がおそらく空白は身体的な時間の感覚を伴ふ。実際には短歌の空白はふつう歌と歌の間に等間隔にせまく存在するので、身体的な時間の感覚は顕在化されない。しかし『光と私語』の空白は、第1部では読者が歌集を読みすすめるリズムを統御し、第2部の「末恒、宝木、浜村、青谷」では上句と下句の間に介入して身体的な時間の感覚を顕在化させるのだ。
 『光と私語』はオブジェのやうな装釘の美しさに目をうばはれさうになるが、レイアウトのなかに時間をたくみに呼びこむ構成にこそ目を瞠るべきである。まさに視覚詩としての短歌の可能性をひらく一冊と言へよう。