「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評178回 「悲しい」歌  竹内 亮

2022-08-10 22:07:28 | 短歌時評

 短歌を始めた頃、歌が「説明的にならないように」と言われました。このことにはいろいろな要素が含まれているように思いますが、初めにそれを整理することを試みます。

 

 永田和宏さんの入門書『新版作歌のヒント』(2015年、NHK出版)では「形容詞で説明しない」という項目があり、「悲しい」という結句で終わる短歌について、「形容詞はもののありさまを形容するだけでなく、自分の感情をも形容してくれる便利な言葉ではありますが、それはいわば感情の最大公約数であるところにむずかしさがあります」といわれています(28頁)。

 

 ここで言われているのは、「うれしい」「悲しい」のような感情に関する形容詞の意味するもののなかの、さらに細かいところを短歌では書くべきで、「うれしい」「悲しい」のようなカテゴリーではおおまか過ぎるということなのだろうと思います。

 

 短歌を始めた頃、穂村弘さんの短歌講座に出たことがあったのですが、穂村さんは、忌野清志郎さんの「い・け・な・いルージュマジック」という曲をCMとして発注した資生堂の担当者が「すてきなルージュマジック」にしたがったというエピソードを紹介して、「すてきな」という言葉を使えば「すてきな」という気持ちが伝わるわけではないという説明をされたのでした。永田さんの説明は正確さとおおまかさの議論でしたが、この穂村さんの説明は言葉とそれが伝える感情の問題をいっていて、すこし違うことをいっているように思います。

 

 岡井隆さんの入門書『現代短歌読みかた作りかた中級編』(1991年、六法出版社)は「デッサンと説明の違い」という項を掲げて、「状況をこまかく具体的に説明するというよりも、状況を言葉のつながり具合とか、いい響きをもった言葉によって、読者に想像させるという方法の方がすぐれている。いやすぐれていると言い切ってしまうとすこし疑問がのこるけれど、すくなくとも、「より細かく説明することが能ではないことはたしかである」といい、すぐれたデッサンの歌は「状況をある程度、こまかく言っているのである。ある程度までは、説明しているのである。この、ある程度を越えない、ということが大事なのだ」といっています(184頁)。

 

 「悲しい」を避けるべきであるというのは、主観的な説明についてでしたが、ここでいわれているのは「客観的な説明」についてのように思われます。客観的な説明についても、その程度の調節が大切であるといわれているのです。

 

 しかし、客観的な説明といっても、それも程度の問題で、純粋に客観的な記述というものはなく、そこには一定の視点や解釈があると思われますので、その把握の仕方については主観が問題となるように思います。「悲しい」というのは主観的な感情の描写であると同時に、一定の視点からみた際の意味づけでもありうるからです。

 

 単語というのはすべて抽象化されているので、そういう意味では「悲しい」だけでなく「群衆」というような把握についても同じように程度・バランスが問題になるのでしょう。「人間」のような把握についても同じことがいえるように思います。

 

 このようなことを考えてから、アンソロジーから「悲しい」「悲しむ」という語が使われている歌を探してみました。一般化するのは簡単ではなのですが、明確に深い悲しみが生じる状況が描かれるとき、「悲しい」「悲しむ」という語を用いることでかえってその感情の程度を弱める方向に調整しているのではないかと思いました。

 

壮年にしづかに兆す悲しみやある日の風はわが肩ゆ立つ        春日井建『水の蔵』

 

人の死はいつも人の死 いつの日ぞ人の死としてわが悲しまる     永田和宏『後の日々』

 

なきがらの歯の美しと悲しみしことありしかど誰が歯なりけむ     竹山広『千日千夜』

 

病みてよりわが声いたく濁れりと妻言ふは誰が言ふより悲し      田谷鋭『ミモザの季』

 

母死にしかかるときにも飯を食み夜となれば眠るまたなく悲し     安立スハル『安立スハル全歌集』

 

胸切りて泣き得る肺量を持たざりき悲しくなればまなこみはりき    森岡貞香『未知』

 

何年も病み続けるのだらうこの身体風花がかすめてゆつくり悲します  河野裕子『歩く』

 

人はみな悲しみの器。頭(づ)を垂りて心ただよふ夜の電車に     岡野弘彦『滄浪歌』


短歌時評177回 この世の外のなんのおと? ― 最近の女性の歌集から仕事の歌を読んでみる  小﨑 ひろ子

2022-07-08 18:22:31 | 短歌時評

 最近、というわけでもないのだろうが、男性のみならず、女性の非正規労働の歌も様々なところで話題にされるようになった。もともと非正規雇用の労働者はたくさんいたが、特に問題なのはそのままでは将来的に暮らしを維持することに不安が生じる不本意の非正規労働者であるのだという。非正規労働者には、待遇に見合わない重い業務が任されることも、正職員とは異なった種類の単純な作業のみが任されることもあり、それぞれ、やりがいや体力の消耗、生活の質といったものに複雑に深くかかわっている。いずれにしても収入や身分は不安定で、定年まで働いて退職金を得て引退する、従来の<一般的な>日本の労働者とは全く在り方が違うが、そのような働き方をする者は多いばかりでなく、より過酷な労働はさらに条件の悪い外国人等にふられている、という現実もある。

 

一枚のFAX抱いて駆けて行く 字幕を作る 津波が来ると       北山あさひ(『崖にて』現代短歌社、2021)

駄目じゃない、テレビは駄目じゃない 腕をいっぱい伸ばし原稿渡す

ヘルメット、時計、ペン類、掲示板 撮るだけ撮ってだれも拾わず

夏薔薇はコンクリートに咲きあふるいのちに仕事も貯金もなくて

東京のように冷たく強く速く給料上げろと告げて来たりぬ

 昨年の現代短歌新人賞の受賞者。マスコミ等のメディアや文筆業の分野ではフリーランスで働く者も多いが、作者は、病院でも契約社員の仕事をしていたようだ。歌集を読むと、短期のヨーロッパ留学も経験し、自由に生きているように見えるが、貯金の残高や年金なども歌の素材にされる。震災の折のテレビ局の様子の連作は圧巻、メディアの内部の様子や、被災者の立場とは違う視点で詠まれているのが読みごたえがある。

 

雪道で転んだわたし・駆け寄った事務室の人 ふたりはパート     山川藍(『いらっしゃい』角川書店、2018)

仕事いま三つしてると言えば皆「何を」も「なぜ」も聞かずに黙る

一寸はそもそもでかい三ミリに届かぬ虫は音もなく死ぬ

明日また来るねと話す冬服のわたしの日曜日の同僚へ         山川藍(合同歌集『ここでのこと』)ON READING、2021より)

 

 正職員として働いていた販売職を退職し、アルバイトなどの仕事をしながら、再度正社員を目指した。その顛末をメインに歌集は編まれているが、「あとがき」によれば歌歴は長く、かなりの歌を歌集に入れずに捨てたという。表現が諧謔に彩られているので切実さはやわらげられているが、この先どうなっていくのだろう、とはらはらする。第二歌集以降も読みたいと思う。

 

 非正規労働者ではなくても、なかなか大変な状況を詠いながら、身をもって時代を切り開く種類の歌群がある。かなり昔であれば、女性の生きづらさや窮屈さ、居場所の無い感覚や不本意さの歌といえば「厨歌」と分類されるような、家庭あるいは家社会の中でのそれと相場が決まっていてうんざりしていたが、景色がいくらか変わっているのだろうか。窮屈ではあっても自由になる金銭も余裕も多少はあるから、出版された歌集が残りやすいというのは、ありがたい。だが、生きていくに際しての危機感はさほど変わっていないように思える。現実の側がさらに追いうちをかけてこないかと少しだけ心配しながら、いろいろと読む。

 

さきくさの中途入社の同期たちはひとりもゐなくなつてしまつた     本多真弓(『猫は踏まずに』六花書林、2017)

わたくしはけふも会社にまゐります一匹たりとも猫は踏まずに

すなほなるきみとその身の労働が気づかぬうちに兵器をつくる

降水と言ひかへられる雨のごとくわたしは会社員をしてゐる     

 

 飄々と歌う。中途入社の同期たち。猫。踏んではいけないものが世の中にはあってそれは踏まないのが会社で生き残るための処世術、といった雰囲気が、かなしいながら参考になってしまうところが切ない。もちろん猫だってそれなりの理由があって存在しているのだが、会社という公的な場所に行く途中に猫が(しかも一匹ではない)横たわっていて踏んではいけないなんて。私だったらしっぽくらいは踏んでしまいそうだ。いやたぶん知らずに踏んでしまったこともあって、何だか理不尽なことがあったとしたらそのせいだったのかもしれない。「ねこごめんなさい」を歌ったほうがよいのかしら、と悩んだりしながら、正義などというものがどこにも存在しない廃墟に生きているかのような終末感を覚えてしまう。4首目の降水の歌、「会社員」のところには、別の何か(受付嬢でも警備員でも兵隊でも)、をおいても当てはまりそうなのが深い。

歌集の解説を、本多を「同僚」と呼ぶ岡井隆が書いているので紹介する。<働くことを「労働」と呼んで、そこに生き甲斐をかけたわたしどもの世代とも、それに叛旗をかかげて資本制を批判した世代とも違う。ユーモアを含みつつ「けふも会社へまゐります」というが、別段それを嫌ってるわけではない。『猫は踏まずに』のアイロニーがそれを示している。

 

働くといふはひとつの終はりない物語されど詩からは遠い       山木礼子(『太陽の横』短歌研究社、2021)

習ひごとなにもやりたくないきみが抱きしめてゐる裸のうさぎ

通勤が週に一日まで減つて雨がふつても空は濡れない

「シンデレラ、十二時までは働いて。電車がなければ馬車で帰つて」

 

 保育園に二人の幼い子供を預けて働く。歌集には仕事の歌より子育ての歌の方が多いが、立場が違えばわからない実情は多い。もっと詩的なものを求める読者も現実の出来事を読んでほしいと思う。幼い子供たちはもちろん歌人自身の子なのだが、固有名詞は出てこないし、読者が街の中や自身の周囲でみかけるごく一般的な子どもたちと母親の姿であるように読める。コロナの影響で在宅勤務が増えたり、残業が深夜まで続くと終電もなくなったり。馬車代=タクシー代も交通費として支給される職員は、おとぎ話の中で踊らされるお姫様なのだろうか。

 

職員室ドア踏み出せば工事中ほこりのなかに進路室見ゆ       佐藤理恵(『西日が穏やかですね』いりの舎、2012)

 

 作者は公立学校の教員で、掲出歌は職場の改修工事のひとこま。トイレの改修工事の連作中の一首に、ほこりの中にくすむ進路指導室がたちあがる。歌集の出版は東日本大震災の直後、青少年の進路にとって大きな要因となる事象を多く抱える学校という職場を、保護者などの人物に対する皮肉を交えながら詠む。もちろん大人にだって、何歳になっても進む道はいろいろとあるが、中高生の進路を決める部屋となると、その存在自体が常に工事中のような、とても不可思議なもののように思えてくる。

 

サッカー選手の移籍と同じと取りあえず父母には告げる来年度のこと 大田美和(『葡萄の香り、噴水の匂い』北冬舎、2010)

お母さんなのに教授と驚くな二十世紀はもう終わったよ       

 

 確かブリジットフォンテーヌが、「19世紀は終わりました」と歌っていたと思う。この調子だと、「二十一世紀は終わりましたよ」と次の次の世代あたりの誰かがうたうのだろうなと少しうきうきする。

 大田美和の問題意識は明確で、素材とされる事象に対しての態度もはっきりしている。職場にはもちろん様々な矛盾があるが、仕事といっても、知的な生産活動や教育を主とするから、歌人にとって生きがいあり、ライフワークとも言ってよいのだろう。社会の中では強者と言える大学教授、社会の中での生きづらさや窮屈さも、自身の価値観をもとにテーマとしているから安心して読める。筆者も長いこと非正規職員の仕事をしているので、歌を読んでいる時にまで強者の意地悪な態度に出会って嫌な思いをしたり劣等感を刺激されたくないし、短歌の抒情のルールに従ってしんみり共感してばかりいたいわけでもないから、この種類のすっきりした歌は好きだ。知的な(特に女性の)うたは面白くないと嫌われそうだけれども、私はもっと読みたいと思う。

                                   

あかねさすきみとまどろむ節電を励行してゐるKAWASAKI工場Fabrik 大西久美子(『イーハトーブの数式』書肆侃侃房、2015)

保育所に逆もどりの春 作業着が技術屋女子のボディを隠す

 

 一日を保育所で過ごすこどもと作業着で終日仕事をする現在の自分が、ふいに重なったのだろうか。歌集のタイトルにもある「イーハトーブ」は言うまでもなく宮沢賢治、歌人の故郷に由来する。歌集には、現実の仕事の場のリアルな歌よりも、独特の感性につかまれた現実の諸相が詩的に描かれる作品の方が多く、歌に使われる言葉には、数学や理系の専門用語が交る。

 歌人や詩人にとっての「仕事」は、創作と大きくかかわってはいても、それを直截的な内容とするのとはまた違うものなのだろう。それはこの作者に限ったことではなく、そもそも歌人も詩人も扱っているのは社会そのものではないのだから、直接的な仕事の歌などは、生きる中でよじれながら発せられる作者の悲鳴のようなものなのかもしれない。なんだか世代も一巡して、ここまで来ると、そんなに働きたいのかみんな、と思ってしまう。そう、本当は誰も労働などしたくはなくて、権力や富を志向する一部の人や、社会のためになることを本当に考えて働く少数の人以外は、「人間生きることと働くことは不可分」などと自分を変に納得させながら生きているんじゃないかなあ、などと思い始めてしまう。余談だが、「保育園」は、現在でも児童福祉法においては「保育所」を正式名とし、<家庭の様々な事情により日中に子どもの保育をおこなえない場合、保護者に代わって保育する児童施設>とされている。親が働いている間、お友達といろいろなことをして一日を過ごす日々は楽しいし協調性を育むのだろうけれど、この時期には親の趣味で様々な習い事や早期のお勉強を進める子ども達と、<家庭の様々な事情により子どもの保育をおこなわずに>働くようなことはせずに暮らす人々というのもまた存在するのだ。

 

 ところで、文学作品についてよく言われることに、「テキスト」と「作品」の差、ということがあり(80年代から流行したロラン・バルトです)、「テキスト」にはその作者の死が担保されなくてはならないのだという。一度世に出た作品は、読者は自由に解釈してよいし、作者は解釈や評価は読者に委ねて語ることは避けた方がよい、という程度の意味なのかなと思うが、短歌作品は「その背後に作者の顔が見える」表現なのだから、みんな、ちゃんと長生きして後日また自歌自註なども聞かせてね、などととぼけたことを言いたくなってしまう。

 

 手元の歌集から少しだけ急いで掲出したが、仕事をしているたくさんの作者がその時間や労力、精神活動の多くを仕事に割いているに違いないにもかかわらず、仕事そのものを詠った歌は、そんなに多くはみあたらない。たぶん、見えない所にもっとたくさん存在するのだろうし、職場には守秘義務が課されていることもあるから「詠まれなかった歌」も、たくさんあるに違いない。あるいは洒落た表現の奥に隠されながら歌になったりしているのだろう。歌が作者の個人的な体験から派生しているのだとしても、作品から作者個人の生業や日常全体の姿を遡って見ようとすること自体、本来あるべき読者の態度とは違うし、大体不可能なのだ。境涯詠はかわいそう大会でも自慢大会でもないから、つくるほうの加減もまた難しいだろうなと思う。

 だがひとつだけ確実に言えるのは、現実とは別の次元に存在する詩歌が、現実の中できしみ続ける様々な音を拾い上げて奏でつづけてくれるのは、とてもありがたいことだ、ということである。

(2022年文月)

                                                                         


短歌評『約束のあとさき』(みづな and アキ)を読む 若林 哲哉

2022-06-24 22:40:46 | 短歌時評

 『約束のあとさき』は、森尾みづな氏と喜多昭夫氏の共同制作による歌集である。

 それはひと夏の出来事だった。正確にいうと二〇二一年六月二十六日から九月十五日にかけて、森尾さんと二人で掛け合い漫才のようにしてユニット短歌二百五十六首を制作したのだ。多くの場合は僕がボケ、森尾さんがツッコミを担当した。ぼくが題やフレーズ(上句や下句等)をトスして、森尾さんがスパイクを決めて一首が仕上がる。場合によってラリーの応酬になることもある。(喜多昭夫氏のあとがきより抜粋)

 これを読んだ時、筆者の脳裏には、数年前に流行したスマホアプリ「五七五オンライン」が浮かんだ。「五七五オンライン」は、オンライン上でマッチングした二人が、一つの「五七五」を作るゲームである。先手が上五を作り、それを受けて後手が中七を作る。最後にもう一度先手が下五を作って、完成だ。それ以外のルールはない。恐らく、この「五七五オンライン」は、俳人・歌人・柳人に向けて開発されたものではなく、むしろ、普段は短詩に馴染みのない人たちに遊んでもらうためのものと思われる。一時的とはいえ、このアプリが流行したのは、名前も顔も分からない誰かと掛け合いをして一句をつくるという言葉遊びに、普遍的なユーモアが生じたからだろう。それが、時には「掛け合い漫才」と呼ばれるということではないか。俳諧連歌などもまた、それに似ている。
 その「掛け合い」による面白さの表れ方は、『約束のあとさき』において、実に様々だ。

蛸壺にタコが休んでいるところ野球で言えば九回表

 筆者は主に俳人を名乗って活動しているので、過去の俳句のエッセンスを感じるフレーズに、まず目を留めてしまう。この歌の場合、〈鳥の巣に鳥が入つてゆくところ/波多野爽波〉を想起せざるを得ない。俳人としても活躍する喜多氏が、この上句を題として提示したのではないかと邪推しつつ、タコを捕らえるための蛸壺に、タコ自身が休んでいるという把握は、なんとも脱力感を与えるフレーズで、面白い。もはや、上句だけで俳句として成立するのではないかと思ってしまいそうなところに、この下句。上手く言ったものだ。まだ勝敗は付いていないながらも、もうすぐ試合が終わってしまうという緊張感が、油断したタコに躙り寄ってくる感覚がある。上句で示された事柄が下句で更新されると、短歌でしか書き得ないものとは何か、目の当たりにしたような気分になる。似た歌に、

 雪の舟雪の港を出るところオレンジプランってなんだったっけ

があり、上句の言葉の密度に対して、下句の口語の軽やかさが際立っている。
 
 本歌集で論を担当した石松佳氏は、「この『言葉の遊戯性』については、単に喜多さんと森尾さんの掛け合いによるものではなく、一つの試みとして歌集に通底しているものと感じた」と述べており、ライトヴァースやマラプロピズムについて言及している。
 「言葉の遊戯性」への試みは、タレントや芸能人、それを彷彿とさせる語を詠み込んだ歌に垣間見える。例えば、

うっせぇわベリーショートのストロベリーをビニールハウスに閉じ込めてやる

 若者の共感を広く呼び、一世を風靡したAdo『うっせぇわ』の歌詞のパロディであろうし、「正しさとは 愚かさとは それが何か見せつけてやる」という歌い出しをもじったものと思われる。「温室育ち」という言葉があるが、〈ビニールハウスに閉じ込めてやる〉というフレーズに、屈折や皮肉めいたものを感じる。

「やばいよやばいよ日本がだんだん日本ぽくなってゆく」とぞ

 「やばいよやばいよ」とは、タレントの出川哲朗氏の口癖だろう。歌の末尾の〈とぞ〉によって、主体の立ち位置が一歩後ろに下げられている。すなわち、焦る芸能人を画面越しに眺め、見つめている主体が思い浮かぶのだ。それを無邪気に楽しむ童心も、〈日本がだんだん日本ぽくなってゆく〉ことへの諦観も感じられる気がする。
 
 一首の中に二人の意図が混在する、そんな短歌が集まっている。それゆえ、歌集全体の印象を簡潔に述べようとするのは、至難の業だ。

  読者の皆さんはどうぞ、どこからでも、その日の気分に任せて自由に楽しんでいただけると嬉しいです。(喜多昭夫氏のあとがきより抜粋)

 とのことだ。

〇みづな and アキ『約束のあとさき』 | 書肆侃侃房
https://ajirobooks.stores.jp/items/62610720be482f2bc894393f


短歌時評176回 機会詩の成熟化について 桑原 憂太郎

2022-06-06 19:08:15 | 短歌時評

 今年2月にはじまったロシアによるウクライナ侵攻は、短歌の世界でも、恰好の歌の題材となって受け止められた。
 短歌は、機会詩としての性格を持つから、世の中で起こったことを作品にして詠むのは、歌人しては当然の所業であり、そのことについて、とやかく言うべきではない。歌人は、自分が詠いたいことを詠えばいいのである。世の中を見わたして、自分が感じたままをどんどん詠えばいい。それは、ウクライナ侵攻であろうが、新型コロナだろうが、なんでもいいし、できた作品が、ただの決意表明だろうが、ニュースの見出しのようであろうが、スローガンだろうが、類型的であろうが、そんなことを気にすることはないのである。

 しかし、こと作品の優劣となると話は別である。

 どのような場であれ、提出された作品は批評にさらされる。さらされることで、いい作品なのかそうでない作品なのかのジャッジが下されることになる。そこでは、ただの決意表明だとか、ニュースの見出しのようだとか、スローガンだとか、類型的だとか、いろいろと評価されるわけである。
 ただし、このジャッジは、そんな作品の優劣もさることながら、短歌形式の機会詩としての成熟度を測る指標にもなり得る。
つまり、批評のなかで、作品の優劣のジャッジが下されるということは、作品の優劣とともに、機会詩としての短歌の成熟度も測られているということだ。
 そうじゃないと、いつまでたっても、決意表明だったり、ニュースの見出しのようであったり、スローガンだったり、類型的だったり、といった作品があふれるばかりになり、どうにも短歌の機会詩としての成熟は望めないということにもなる。
 
 そんななか、「短歌研究」6月号は、「正面から機会詠論」という特集を組んでいる。新型コロナやウクライナ侵攻を題材とした機会詩が短歌作品にあふれている昨今、時宜をえた企画といえるだろう。10人の論者による10本の論考が並んでいるが、そのなかで、筆者は、高木佳子「『個』として対峙する」に注目した。
 高木は、機会詠のなかで、「とくに戦争の題材は難しさがつきまとう」としたうえで、以前から指摘されていた歌の政治的回収やスローガン化・類型化、いわゆる感動ポルノ、作歌要請とその応答について、「思考はそれぞれ深化しただろうか」と疑問を投げる。そのうえで、高木は「機会詠の表現への問いは山積したまま、一人一人の歌の成熟にはまだ遠いように思われる」と述べる。
 高木もまた、機会詩の成熟について、考えているのである。
 そうしたなかで、高木は、「個」として対峙することを説く。「多くの人が共有する機会を題材とする歌には、逆に率直な・最小な「個」が現れ、独自性を持って反映されてほしい」と述べる。
 これが、高木の機会詠の評価軸だ。独自性のある「個」が反映されているのがいい作品であり、そうした作品が提出されていくことが、機会詠としての短歌の成熟化だというのだろう。
 そのうえで、高木は、そうした「個」の反映されている作品として、次の5首を掲出している。

あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ 土岐善麿『夏草』

あきらかに地球の裏の開戦をわれはたのしむ初鰹食ひ         小池光『日々の思い出』

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき        大辻隆弘『デプス』

ひげ白みまなこさびしきビンラディン。まだ生きてあれ。歳くれむとす 岡野弘彦『バグダッド燃ゆ』

原爆を特権のごとくうたふなと思ひ慎しみつつうたひきぬ       竹山広『空の空』

 さて、これら5首は、次の2つに分けることができる。それは、戦争の当事者か、そうではないか、の2つだ。土岐と竹山の作品は前者で、小池、大辻、岡野の作品は後者だ。
 戦争の当事者であれば、いかようにも「個」を反映させることができよう。いわゆる戦争体験なり被爆体験なりを存分に詠えばいいのである。どのような体験であっても、それが「個」へ帰結するのは容易である。
 しかしながら、小池、大辻、岡野は、これら歌の題材になった戦争の当事者ではない。フォークランド紛争も9・11もタリバンのテロも、体験しているわけではない。生命の危険がない平和で安全な場所に安寧していて、戦争への切実感もあるわけではない。そうした境遇に身をおきながら、いかにして「個」を反映させたらいいのか。
 というと、小池は「たのしむ」と詠み、大辻は「壮快」と詠み、岡野は「まだ生きてあれ」と詠む。
 こうした三者の「個」の独自性について、果たして高木は、ホントに是とするのだろうか。
 筆者は、このような当事者ではない歌人による機会詩については、もっと違う評価軸でジャッジするべきではないか、と考えている。
 

 そうしたなかで、今回、筆者が取り上げたい歌集は、黒木三千代『クウェート』だ。
 歌集が出版されて27年が経っているのだが、今回のウクライナ侵攻をもって、また、この黒木の作品がにわかに注目されている。
 戦争が起こったことによって、過去の作品が再評価されるというのは皮肉といえるが、それだけ人々の記憶を喚起する作品といえるだろうし、今、読み直す価値のある作品ともいえるだろう。

侵攻はレイプに似つつ八月の涸谷(ワジ)越えてきし砂にまみるる
生みし者殺さるるとも限りなく生み落すべく熱し産道(ヴアギナ)は
咬むための耳としてあるやはらかきクウェートにしてひしと咬みにき

 これら作品にみられる、黒木の機会詩を詠む手法は何か。というと、比喩だ。
 「レイプ」「産道」「咬むための耳」といったセクシャルな比喩で、クウェート侵攻を表現した。こうした手法は、機会詩の短歌表現として、なかでも戦争を題材とする機会詩の短歌表現として有効であったといえる。
 また、こうした表現方法であれば、戦争の当事者でなくとも、十分に「個」も担保できよう。
 この度の黒木作品の再評価は、短歌表現の有効な手法のひとつを示しているともいえよう。今後、黒木が提出した表現方法が多くの歌人によって様式化されていくことで、機会詩はどんどん成熟していくものと思う。

 今後、ウクライナ侵攻は、日本全国でそれこそ幾万首も詠まれることになるだろう。
 そんななか、一首でもいいから、機会詩を成熟させることのできる作品に出会いたいと思うし、そして、それをきちんと評価できる批評を求めたいとも思う。


短歌時評175回 真実の言葉 竹内 亮

2022-05-08 02:39:24 | 短歌時評

 歌人は「真実の言葉」に敏感だと思う。

 歌が現実か創作か、本心かそうでないか、歌を読んでいると気になることがあるし、歌が事実かどうか歌会で議論になることがある。

 しかし、その議論がわたしは十分に整理できていない。まず、事実かどうかというのにはいくつかのレベルがある。そして、事実かどうかということと本心であるかどうかということには必ずしも関係がないように思える。

 事実という場合、少なくとも一定の客観性が存在することが必要だと思うけれど、本心は、事実でないことについてもなりたちうる。さしあたり、本心を「話し手が本当だと思って話すこと」と定義したとき、あること事実でなかったとしても本当に存在したと思って話されることはある。

 たとえば、インターネットのサイトで予約したはずの電車のチケットが予約されていなかったとき(最後の画面の「確認する」をクリックしないままブラウザを閉じていたとき)、前日に同行者に対して本心で話していた「チケットは予約してあるよ」は事実ではなかったことになる。小説は多くの小説家にとって本心であろうけれど、事実ではないことが多いように思う。

 いまの社会は、事実が隠されることが増えているのかもしれず、そのことを心配するけれど、同時に本心が話されない社会になっているようにも思う。事実は大切だけれど、本心も同時にとても大切な気がする。

 永田愛さんの第2歌集『LICHT』を読みながら、このようなことを思った。『LICHT』はリアリズムの歌集だと思うけれど、それ以上に本心に満ちているように思った。

いつからかわたしの歩幅を知っていてきみはわたしのはやさで歩く

ほんとうに行くべき場所は本屋でも職場でもない 影踏みながら

分銅の重さすこしも疑わず測定結果に100.0グラム(ひゃく)を書き込む

祖母はもうわたしの声が聞こえない 春のポストに葉書をいれる

A3のコピー用紙を運ぶとき溶けない雪の重みを思う

花水木の葉は風下へひらめいて 葉にも幹にも触れないでおく

──永田愛『LICHT』(青磁社、2021)