「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評199回 「当事者性」と<私性>の深いかかわり 桑原 憂太郎

2024-05-08 22:11:47 | 短歌時評

 短歌の世界には「当事者性」なるワードがある。
「当事者」だけであれば、事件の当事者、震災の当事者、とか一般的な用語として普通に使われて、コトやモノに直接かかわった者、としての意味になろう。
 しかしながら、この普通一般的な用語である「当事者」に「性」をつけることによって、短歌の世界では、批評の用語となる。
 すなわち、「当事者性」とは、コトやモノに直接かかわった「当事者」の性質、要は「当事者」の概念をさしている。この概念を用いて、コトやモノにかかわった者とは、いかなる性質の者なのか、ということについてあれこれ議論をする。そして、提出された短歌作品を、その議論された「当事者性」というワードで批評をする、ということだ。
 この「当事者性」、端的にいえば、「当事者」って誰? という、人探しみたいなものだ。これが短歌の世界の「当事者性」の議論だ。
 この、「当事者性」なるワード、2011年に東日本大震災があってから後、さかんに議論された。
 つまり、震災の「当事者」って誰? という人探しがなされたのである。
 そこでの議論は、こんな感じだった。
 東日本大震災時、実際に震災に見舞われた人々は、「震災当事者」といえるが、ほぼ被害を受けることのなかった地域に住んでいた人は、「震災当事者」とはいえない。ならば、「震災当事者」ではない人が軽々しく震災を詠っていいのか、ということが問われたのだった。
 しかし、この議論、令和の現在となって振り返れば、ずいぶんと倫理的情緒的な議論であった、と思う。
 この「当事者性」を突き詰めるとどうなるか。
 実は「震災当事者」といいながら、震災に見舞われた人というのも、結局は、生き残った生の側にいる人々であり、地震や津波によって犠牲になった二万の人がホントウの「震災当事者」ということになるまいか。そうなると、生き残った人が「当事者」然として震災の歌を作っていいのか、という議論へと向かうだろうし、実際に、当時、そういう議論へと進んだ。
 けれど、そこまで議論が振り切ってしまうと、生の側に残った者はだれも震災の歌を詠えなくなってしまう。なので、結局のところは、震災を逃れて生の側に残った者だれもが、「震災当事者」にほかならない、というあたりに議論の落としどころをみつけて、この「当事者性」の議論は、立ち消えになったのだった。
 これが、2011年の東日本大震災以降の短歌の世界での「震災当事者性」をめぐる議論である。
 当時、筆者は、この「震災当事者性」の議論をリアルタイムで傍観していたのだが、議論があまりに禁欲的すぎて、とても奇異に感じたものだった。そんなに、短歌の世界は不自由なのだろうか、という思いだった。
 そして、先にみたとおり、結局は、誰もが震災を題材にして歌を詠ってよろしい、という帰結へと議論が収束していくのを、そりゃそうだろうな、という思いでみていた。
 短歌は、何を題材にしても、どのように詠ってもいいはずなのに、こと、社会的な題材、なかでも震災というような、人の生き死ににかかわる強い倫理観をともなうようなコトやモノになると、とたんに、そうしたコトやモノを「当事者」でない者が軽々しく歌にしていいのか、なんていう倫理性が頭をもたげだす。そして、歌人は、そうしたコトやモノの「当事者性」について、実に禁欲的にとらえてしまう。
 では、なぜ短歌の世界では、こうした、倫理性に縛られてしまうのか。
 あるいは、歌人は、そうした人の生き死ににかかわる題材について、禁欲的にとらえるのか。
 というと、それは、短歌が、<私性>からどうしたって切り離せない文芸だから、ということに尽きるだろう。

 そういうわけで、ここから先は、「当事者性」と<私性>の関係性について考えていこう。

 短歌は、本来、何を詠ってもいいはずなのだが、いまから約120年前の近代短歌のはじまりの頃に、短歌というのは、<作者>の見たこと、感じたこと、考えたこと、を作品にするべきだ、といったように短歌をとらえようとする考え方が主流となった。この短歌に対する考え方、これが短歌作品の<私性>を形成するおおもとになった。
 そんな近代短歌であったが、はじまりからしばらくしてまでは、作品のなかの<主体>は<作者>そのもの、といった素朴な<私性>でわりとうまくやっていけた。
 けれど、だんだんと、そんな素朴な<私性>では、作品を理解するのに無理が生まれるでしょう、ということになり、現在では、作品の中の<主体>は、作品によって、100%<作者>と言える場合もあれば、そうとは言えない場合もあるよね。そうとは言えない場合ってのは、<作者>の分身みたいなものだよね、という感じの理解になっている。そして、この「分身みたいなもの」は、ほとんど<作者>といっていい作品から、<作者>から離れた作品の主人公としての<主体>とする作品まで、実にいろいろな<私性>が存在している、というのが実状であろう。
 他方、短歌の読者は、器用なことに、作品によって、ある作品の<主体>は、100%<作者>として読んだり、別の作品では、<作者>が創作した主人公としての<主体>として読んだり、と、実に器用に<私性>を読み分けて、鑑賞しているのだ。
 たまに、読み違えっちゃって、フツウに読んだら<主体>は30%くらい<作者>の分身だったのに、うっかり100%<作者>そのものとして読んだりして、そうなると、作品の虚構性が問われたりして、ちょっとした議論になったりする、というのが、短歌の世界の<私性>の議論だ。
 こうしたわりと柔軟に思える短歌の<私性>なのだけど、ただし、120年前にあった、短歌というのは、<作者>の見たこと、感じたこと、考えたこと、を作品にするべきだ、といった考え方は現在でもそっと息づいている、ということはいえる。
 さて、そんな牧歌的な短歌の世界も、震災といった人の生き死にに関わるようなコトやモノとなると、状況は一転する。
 人の生き死にといったコトやモノになると、途端に歌人は禁欲的なる。軽々しく歌を詠むのをためらう。一方の、読者側も、強い倫理性を発揮して、作品を読むということになる。
 ここでいう倫理性というのは、人の生き死に関わるような題材の作品の<主体>は「当事者」であるべきだ、という倫理性だ。牧歌的な<私性>の議論はふっとんで、120年前から脈々と受け継がれている、短歌というのは、<作者>の見たこと、感じたこと、考えたこと、を作品にするべきだ、という100%<作者>以外の<私性>は認めない、という実に不寛容な倫理性が発揮されてしまうのだ。
じゃあ、その「震災当事者」とは、いったい誰なのだろう。
 当時、斉藤斎藤が次のような作品を提出した。
 
三階を流されてゆく足首をつかみそこねてわたしを責める
撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ

『人の道、死ぬと町』(初出は「短歌研究」2011年7月号)

 この作品の<主体>は「震災当事者」だ。「震災当事者」とは震災で命を落とした死者であるから、死者を<主体>としたのだ。
 けれど、読者は、この作品について、否定的な評を下すしかなかった。
 なぜなら、この<主体>が<作者>であることは0%だったからだ。こうなると、短歌の素朴な<私性>では読めない。
 つまり、この作品は、生き死にを題材にしている以上、死者を「当事者」とすることは、短歌の世界ではありえない、という理由で倫理的に断罪されてしまったのだった。
 倫理性から離れて、作品をテクストとして分析する批評をされずに、この作品は断罪されてしまったのである。
 こうした倫理的な不寛容な<私性>から、短歌が少しでも自由なものへとなるにはどうしたらいいか。といえば、短歌の批評空間の成熟を待つしかないのだろう。具体的には、倫理性を一切排除して、短歌作品をひたすらテクストとして批評をするという形式主義的な作品分析の手法を、人の生き死にといったコトやモノを題材にした作品であっても、批評空間に醸成していくことなんだと思う。

 さて、令和の現在。
 今年、令和6年1月1日、能登半島に大きな地震が襲った。
 「短歌研究」3月号には、黒瀬珂瀾の次の作品が掲載された。

投稿歌の葉書ばさばさ床に散る掻き集め鞄に詰めて立ちたり
天井の材はするどく崩落す新春福袋の山頂いただきへ  
地震なゐに、はた、をさなごの号泣に、揺るるショッピングモールを急ぐ 

(「短歌研究」2024年3月号)

 連作「令和六年一月一日、およびそののち」のなかの三首。タイトルのとおり、能登半島を地震が襲った午後四時十分の状況を叙述している。連作から、<主体>は、富山県内のショッピングモール内のカフェにいて、天井が崩落した状況を目の当たりにしたことがわかる。
 臨場感あふれる、優れた作品だ。けど、これは、「当事者」である<作者>の実体験だから優れているのでなく、臨場感のある叙述だから優れている、ということを確認したい。
 だから、<作者>が、ホントに正月にショッピングモールにいたのかどうかなんて、どうでもいい。そうではなくて、作品の<主体>の、地震に遭ったその臨場感のある叙述を批評するのが重要なのだ。
 これらの作品でいえば、<主体>の情感にはふれず、<主体>のおかれた状況を客観的に叙述しているところに臨場感が生まれている。この客観的叙述によって、リアリティが担保されている。つまり、作品には、地震に遭遇した瞬間、といったものにリアリティがあればよい。その作品の内容が、ホントかどうかは議論の対象にする必要性はない。

 同じく「短歌研究」2024年3月号には、こういう作品も掲載されている。

散乱の破片の下に見つけたり発災時刻を指す掛け時計    平谷郁代
いつせいに千余の白鳥空につ大地揺るがす大地震なゐの瞬   浅野真智子
入浴なし今日で二十日目 私の身体拭く娘が「外は雪だよ」 山崎国枝子

 こうした作品も、震災の「当事者」だからという視点で批評するべきではない。べつに、能登半島に住んでいなくても、こうした作品を詠んでも構わない。<主体>が100%<作者>である必然性はない。
 今回の能登半島の地震による震災詠で、東日本大震災で議論された不寛容な倫理観が果たして払しょくできているのかどうか。そこに、短歌の世界での批評空間の成熟度が問われている、といえるだろう。


短歌時評198回 『つぶやく現代の短歌史1985-2021-「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』を読む 小﨑 ひろ子

2024-04-01 15:32:45 | 短歌時評

 昨年発行された評論集『つぶやく現代の短歌史1985‐2021-「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』(大野道夫)には、和歌史から「現代短歌」(篠弘、菱川善夫の命名により、「」付の現代短歌とは前衛短歌が大きく影響を持った時代であると著者は規定する)の歴史を踏まえたうえでのこの37年間の現代の短歌の状況が実に盛り沢山に描かれている。一夜漬けの現代短歌史にもうってつけで、網羅的に紹介されているかのように見える歌群から漏れた者たちのうめき声が聞こえてきそうだが、「飛び石リフレイン」「名詞化」「棒立ちの歌」「ゆるふわ接続」と、現代短歌の特徴もわかりやすくまとめられていて、ああそういえばそうなのか、と改めて思わされたりする、目からうろこの現代短歌史となっている。普通に短歌をつくっていると、どうしてもその「場」あるいは「座」の巡りで満足しがちになってくるので、こういう本はとてもありがたいと思う。ただ、作品の紹介文については、薮内亮輔の「春のあめ底にとどかず田に降るを田螺はちさく闇を巻きをり」が、斎藤茂吉の「田螺と彗星」の存在を無視した数行で済まされるなど、読者の次の読みを必要とするような形なので、注意が必要である。紹介文もまた、背後にうめき声を多数隠すつくりになっているということなのだ。変な例えだが、英語とかなら「でる単」を読むだけではなく辞書を読まなくてはいけないし、辞書を読むだけではなくて自分が使い考えなくてはならない。まえがきに「この本はどこから読んでもかまわないのだが、もしあなたが今この分を立ち読みしているのなら、どうぞ巻末の索引にある短歌作品たちを見て欲しい。そして何か心に触れる歌があったら、掲載ページの少し後にあるその歌への読みも読んでほしい。そして作品やその読みが少しでも心に入る歌があったら、(レジでお金を払って)どうぞ家へ持って帰ってじっくり読んでほしい、と思うのである。」と述べる。読者対象を広くひろくとらえていて親切だが、〈(遺言的)あとがき〉(遺言的、とある背景は、まえがきの「上梓のいきさつと基本的特徴」に、過労と加齢、入院、資料が破棄された等の事情が詳しく書かれている)には、「どうしても私の短歌観(感、勘?)が反映しているとは思われ、たとえば私は近代短歌では斎藤茂吉、佐佐木信綱よりも北原白秋が好きなのである。」とあって、膨大な比率を占めていたと思われるアララギ好きに対する挑発の意図もあるのかもしれない。〈(遺言的)あとがき〉とこの書のさいごは、岡井隆の短歌への思いをうたった歌、「走れ、わが歌のつばさよ宵闇にひとしきりなる水勢きこゆ」で締めくくられるが、「今後の短歌史へ向けて―拾遺による本書の脱構築」という項目により、読者に対しても次のように呼びかける。「短歌、評論等、本書に掲載されるべきと思った歌を送ってほしい、同時期の評論を送ってほしい、修正すべき点があれば教えてほしい、その他ご意見感想を送っていただきたい」と述べる。(蛇足だが、筆者は岡井隆の東京の超結社の歌会で著者と同席させていただき、学会誌の抜き刷りを配布によりいただいたことがあると記憶しており、ご本人にお送りするには至らないような感想を、この場で今、書かせていただいているというわけなのだ。ただしこの本の存在を知ったのは、著者である大野氏が参加する結社「心の花」の会員のある集会での発言による。結社や実集団の情報力は、実はまだまだとても大きいものなのだと思う。)

 さて、この本の中に、「社会調査で検証する現代の短歌と歌人」という章立てがある。2011年の調査だから13年前の調査になるが、1600人の歌人(短歌研究の「短歌年鑑」2011の歌人名簿と、角川「短歌年鑑2011」から無作為に抽出したものに大学短歌会等若い層72人を加えたという)にアンケートを送り、667人から得た回答を細やかに分析している。30頁ほどの分量だが数字の奥が深く、項目をざっと眺めただけでも「四割が口語を使用、女性、若い世代ほど多い」「新かな、直喩は四割弱」「自己(私)をうたうが8.5割弱」「同時代の影響6.5割、絵画への関心6.5割」「読者は自分自身5.5割と身近な仲間5割強」「結社は8割、ネットは2割強が利用」と、これも漏れたところのうめき声が聞こえてきそうな網羅的な社会調査となっていて、今ではもっと変化してきているだろうなと想像をめぐらすのが楽しい。

 そこで目を引かれるのが年齢層。70代29.2%、80代23.4%、10代0.4%、20代2.8%。13年後の今、短歌が若者に広がりつつある中で名簿に載る若い歌人も増えているとはいえ、やはり高齢化は進んでいる。本の中でも、「高齢化社会の到来」という項目で、日本は1994年には65歳以上の人口比率が14~21%未満である「高齢社会」になり、2007年には、21%を超える「超高齢社会」となっていると説明する。だが、短歌年齢の平均が高齢である所以は、社会の高齢化とはまた別の事情も抱えている。短歌制作に定年はないから、13年前のこの時点でアンケートに回答し得た年代がそのまま上の年齢層にスライドするのと同時に、だんだんベテランとなって新たに名簿に載る歌人も増えてきていることだろう。その中には、余暇を利用して短歌の組織の幹部を務め、歌歴を重ね何冊もの歌集を出す余裕ができるあたりの年齢層が増えてくるとすると、年齢構成はそのまま上にスライドするばかりとはとても思えず、生産年齢の上のほうあたりからまた補充されているのではないかと思ったりする。30代から60代の年齢層が少ないのは、その世代がまさに社会の中での生産活動のただなかにあり、歌を詠む余裕も必要もなかった、また歌集出版のために私費を拠出する余裕もなかった事情があるであろうことを見えてくる。

 作者の属性は、その作者が制度サイドにあるかどうかにかかわらず(しまった韻を踏んでしまった。この韻律のたのしさ、どういうわけか思考停止と現状追認、場合によっては無条件な同調を無意識的に招くから要注意である。何と非生産的なことだろう!と自戒しつつ。そもそも制度や制度的な何か-強制される価値観や慣習等-が存在する社会に生きている限り、それは制度を目の当たりにしているかどうかの違いだけで制度サイドも何もないというのが本当。その波及効果、社会的影響は別として、制度を描いたからと言って肯定していると思ったら大間違い! なのだ)、存在する。高齢者が多ければ病や介護や孫や回想の歌が多いのだろうなとか、若い人が多いから生きづらさや青春のみずみずしい痛みの感性による歌が秀逸とされそうとか、先入観満載にいろいろなことを考えさせられる。

 さて、その多数を占める年齢層の歌人たちの背後には、たくさんの数えきれない歌人や短歌愛好者が存在する。かれらリタイア世代の短歌の愛好者には、若い時分から短歌に近付き志を持った専門家人や、何らかの動機で短歌に限らず創作活動に向かったような、いわば文学的無頼のような文学愛好者とか短歌愛好者ともまた違う、それぞれの人生の貴重な経歴を基盤とする作歌活動をする人たちも多い。

 例えば、先日『チェルノブイリの祈り―未来の物語』という、最近では『戦争は女の顔をしていない』でも注目されたノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの本を読んでいたら、そのあとがきに訳者が次のような歌を引いていて驚いたのだった。いくつもの版が出されているこの書の完全版の訳者あとがき。その末尾は、

わがことと読む日の来るとは思はざりき友の訳せし『チェルノブイリの祈り』(野畑正枝第一歌集『たましいのカプセル』より)

 という短歌の引用で締めくくられていた。歌の作者は、訳者である松本妙子氏の語学を通した友人であるらしい。気になってウェブで検索したら、一件だけヒットし、さいかち真氏の地元の短歌の会「二俣川短歌」に参加していた方で、ブログの紹介(2016年)によれば、「数年のうちにめきめきと実力をつけ、いい歌を作られるようになったが、急に病を得て、その病気の進行が早かったために急逝された。本人も短歌を生き甲斐としておられたようで、近々近親の方がその作品集をまとめることを聞いている」ということであった。早速さいかち氏に問い合わせたところ(短歌人口の裾野は広いのに、ここでまた岡井門下生に出会うのだから実はずいぶんと狭い世界なのかもしれないと思ったことである)、会はさいかち氏が高校で実施した短歌教室をもとに集まった地元の小さな会で、歌集は近親者にのみ配布していたということだった。「問い合わせてから結構日にちがたって、歌集の個人情報にあたる部分を削除したもの(編集後記の文章のページがていねいに切りとられて)と短歌冊子「二俣川短歌」が送られてきた。真っ白なうつくしい歌集には、仕事や家族や思い出の歌が、ご家族による文章や写真とともに収められている。歌集のタイトルは、「新しき命とならむたましいのカプセル飛ばそ光の風に」の一首からとられたものであった。このように、各地に点在するであろう自発的な会もまた、目立たないところで、リタイア世代を中心とするであろうと思われる分厚い短歌愛好者の基盤を支えているのである。当たり前のことだが、「若者」「ロスジェネ」などとひとくくりに語るのが難しいのと同様、数字の後ろに存在する様々なことを「リタイア世代」「高齢者」とひとくくりに語ることは控えなくてはいけないのだし控えてもらいたいものだなと思う。

                                                                               

(2024年3月30日桜の咲き始めた頃に)


※引用・参考

『つぶやく現代の短歌史1985-2021-「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく』大野道夫、2023((株)はる書房)

『完全版 チェルノブイリの祈り―未来の物語』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、松本妙子訳 2021(岩波書店) 

『たましいのカプセルー野畑正枝第一歌集』野畑正枝 2016(私家版・図書印刷株式会社)


短歌時評197回 新たな技法の評価が求められている 桑原 憂太郎

2024-03-03 00:57:08 | 短歌時評

 角川「短歌」2月号の特集は「句切れの真相」。
 初句切れとか二句切れとかの、あの「句切れ」のこと。
 「句切れ」というのは、言わずもがなの、短歌の表現技法の一つ。短歌には、「体言止め」とか「句割れ」とか「句またがり」とか「倒置」とか「対句」とか「反復」とか、いっぱいいろんな表現技法があるけど、「句切れ」も、その一つ。技法であるから、短歌作品をよりよいものにしようとする、歌人が歌作のときに使うテクニックだ。
 だから、歌作するときには、そうした技法を体得していれば、イマイチの表現だった作品が、よりよい表現の作品へと変えることができる。
 一方、短歌作品を鑑賞するときは、そうした技法によってよりよくなった表現を味わえばよい。また一方で、作品評なんかをするときには、そうした技法が、作品のなかでキチンと効果的に用いられているか、なんてことをそれらしく述べれば、それらしい作品評になるだろう。
 そんな技法なわけであるが、そのなかでも「句切れ」の技法というのは、ほかの「体言止め」とか「句割れ」とか「句またがり」とか「倒置」とか「対句」とか「反復」とかという技法とどう違うのか。
というと、これは、林和清の次の一文に尽きる。
 すなわち、

 句切れの重要性は、定型意識の強度に比例する。(林「句切れに刻印されているもの」角川「短歌」2024年2月号)

 ということなのだ。

 つまり、表現技法としての「句切れ」は、定型意識の強い作品ほど、その重要性は増す、ということだ。
 これ、逆にいえば、定型意識の弱い作品にとっては、句切れという技法は、たいして重要ではない、といえるだろう。
 表現技法としての「句切れ」の効用について、実に、簡潔にしてキッパリとした文章だ。この角川「短歌」の特集は、この一文がすべてといってよい。
つまり、この林の一文が、「句切れの真相」だ。

 では、「句切れ」の「真相」が明らかになったところで、そもそも、定型意識の強い歌、弱い歌とは、いったい、どんな歌をいうのだろう。
 定型意識の強い歌については、それこそ角川「短歌」の特集でいっぱい取り上げられているので、ここでは、あえて定型意識の弱い歌を取り上げて、そこで「句切れ」がどうなっているのかを、みてみたいと思う。
 私が、定型意識の弱い歌ときいて思い出すのは、大辻隆弘の以下の論考だ。
 かつて、大辻隆弘は、「『ざっくりとした定型意識』について」という論考(『時の基底』六花書林、所収)のなかで、次の五首をあげて、その定型意識について次のように論じたのだった。

ラジカセの音量をMAXにしたことがない 秋風の最中に             五島諭

コアラのマーチぶちまけてかっとなってさかだちしてばかあちこちすき       飯田有子

海の生き物って考えていることがわかんないのが多い、蛸ほか           穂村弘

イェーイと言うのでイェーイと言うとあなたそういう人じゃないでしょ、と叱られる 斎藤斎藤

「水菜買いにきた」/三時間高速をとばしてこのへやに/みずな/かいに。     今橋愛

 大辻は論考のなかで、かつて小林久美子がとある批評会で言った「ざっくりとした定型意識」という言葉に「そうか」と蒙を啓かれる気分になった、と述べる。そのうえで、「その言葉は、現在の若者たちの短歌に流れる定型に対するアバウトな姿勢を、感覚的にではあるが、うまく言い表した言葉のように感じられた」(前掲書)と述べる。

 大辻が感じた「ざっくりとした定型意識」。
 定型意識はない、というわけではない。ざっくりとしているけど、あるにはある、ということなのだろう。つまり、定型意識が弱い、とくくっても、大きくはずれてはいまい。
 たとえば、五島の作品は、定型で区切るのではなく、「ラジカセの/音量を/MAXに/したことがない/秋風の最中に」と、五五五七九という音数律に分けるのが自然であろう。しかし、こうなると、短歌の五七五五七七の定型からは当然ながら外れる。でも、外れてはいるんだけど、初句や三句は五音だし、四句も七音だし、それになにより五句に区切ることができるということで、短歌の構成意識がみられよう。破調といえば破調だけど、弱いながらも定型意識は感じられる、といえるだろう。
 次の飯田の作品は、七五六八六あたりに区切れそうだし、穂村の作品は、短歌定型に近づけるなら、七七五七七あたりに区切れそうで、特に下句は、「句跨り」の七七で読み下せる。なので、これらの作品も、弱いながらも定型意識があるといっていだろう。
 では、こうした作品にとって、「句切れ」はどの程度重要なのだろう。
 五島の作品で考えるなら、この作品は四句で切れている、といえる。なので、四句切れ、といえなくもない。けど、ここでの「句切れ」の効果は果てしなく弱いだろう。もし、ここを「句切れ」ととるなら、結句の九音がせっかくの切れを台無しにしている、ということにならないか。筆者としては、ここで句を切ったというよりも、四句までで一文を終わらせて、結句はまた別の一文が挿入されている、感じで読んだほうが、よい鑑賞ができるように思える。
 つまり、この作品からは、「句切れ」の重要性を感じることはない。というか、この作品は、そもそも表現技法としての「句切れ」の技法を有効に使いたかった、というわけではないのだ。この作品は、「句切れ」の切れ具合を効果的に使おうという作品なのではなく、結句九音の冗長性を出すため、あえて四句で一度、叙述を終わらせた、ということなのだろうと思う。ここで、一度終わらせたうえで、結句を冗長に叙述して、抒情を醸したということなのだと思う。
 そうであるなら、この作品は、表現技法としてのこれまでの「句切れ」についての評価軸とは違った読みが求められているといえないだろうか。これまでの「句切れ」の読みではないのだから、例えば、「句切れ」の切れ味がどうの、なんて評は、まったく的外れとなるのではないか。

 より最近になると、もっと、定型意識の弱い作品も提出されている。

カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか          初谷むい『花は泡、そこにいたって合いたいよ』

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の             千種創一『砂丘律』

 ここまで、定型意識が弱められると、表現技法としての「句切れ」の有効性については、もう無効になってしまっている、といえるだろう。

 あるいは、次の作品はどうか。

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは        宇都宮敦

三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす

美しい田舎 どんどんブスになる私 墓石屋の望遠鏡               北山あさひ

離婚してほしいと言ったことがある ヒヤシンス 咲きたくなっちゃった

 この四首は、我妻俊樹と平岡直子による共著『起きられない朝のための短歌入門』(書肆侃侃房)で取り上げられて、三分割になっている、と議論のあった作品である。
 短歌を二分割するのが「句切れ」なら、三分割は、「句切れ」が二つということになる。こうなると、もう、従来の「句切れ」の有効性など、すっかり無効になってしまっていよう。
 それに、宇都宮の「三月の~」は定型だし、北山の二首は、「句割れ」や「句跨り」を有効に使った短歌定型の作品である。先に掲出した作品群とは違って、定型意識が弱いわけではない。逆に、強いからこそ、北山の作品は、「句割れ」や「句跨り」が効果的に働いているのである。
 つまり、定型意識が強くとも、「句切れ」の重要性がすっかり無効となった作品が提出されるようになっている、というのが、現代短歌の先端部分なのだ。
 先の初谷むいや千種創一も含めて、こうした現代短歌作品によって、従来の「句切れ」にかわる、新たな技法としての評価が、鑑賞する側に求められている、といえるのだ。


短歌評 教えてほしい、MISOHITOMOJIの底力(後編)――『胎動短歌』(Collective vol.3)の挑戦 添田 馨

2024-02-23 20:30:45 | 短歌時評

 ここ最近、言葉を読むことが手放しでこんなに楽しかったことはついぞなかった。『胎動短歌』(Collective vol.3)に収められた数々の短歌(短詩型作品)の、それぞれに現われた言葉の多彩な表情のことである。いよいよ、その後半戦を始めてみることにしよう。お断りしておくが、ここで述べることはすべて私の個人的感想であって、つまるところ私のマニアックな面白がりの記録にすぎないのだから、そこのところはよろしくご理解ねがいます。

前編はこちらをご覧ください。

*  *  *

生真面目な生徒 マティスが飾られてあるかのように白壁を見る        (風の香、ゾンビ、ある夕焼け/千葉聡)

 いや、実に痛快だ。だって、「マティス」はもともと飾られてないわけだよね?でも、飾られていないはずの「マティス」が、この作品のなかにまぎれもなく「飾られて」あるよね?これってどういうこと? いやいや、それだけじゃない。あるのはただの「白壁」であって「マティス」は飾られていないのに、私には何故か、「マティス」の飾られた「白壁」が見えてしまうんだけど、これってどういうこと?そうか、そうか、「生真面目な生徒」が「見る」筋書きになってるけど、見てるのはじつは読者たるこの私なんだ。「生真面目な生徒」はほんとうは実在せず、「生真面目」という四文字(餌)に私の感受性がみごとに吊りあげられた結果がこれなんだな。無から有をうみだす、これは見事すぎるお手本だね。

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城壁に這いながら沿う朝顔のようにあなたを奔る静脈             (クロール/toron*)

 いちばんの謎は「あなた」です。いえ、そこのあなたではなくて、「あなた」という二人称の指示対象が謎なんです。そもそも「あなた」っていったい誰のことよ? 恋人? 自分自身? それとも不特定多数の誰でもない誰かのこと?いやどれも違うな。つまり「静脈」に還元されるところの対象じゃなくて、もっとぐねぐねしたもののイメージだね。「城壁」をここで身体表面のメタファーと捉えれば、それに沿ってぐねぐねと伸びる「朝顔」はまさに生き物としてのリアルな姿。とっても生々しい感覚となって、そこにはエロスを感じるね。「朝顔」と「静脈」は「~のように」で繋がっていて同格になってるから、「あなた」はそうした生命現象そのもののことだと私は思うんだが、どうだろう?

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はなびらはなびらはなつひらひらももいろのやわらかなそれをいま抱きしめよ   (点滅/野口あや子)

 コトバってオトだけでもないしモジだけでもないしイミだけでもないし、それらぜんぶを含みこんでさらに余りあるナニカだよね。そのナニカがいかんなく発揮されているこれは作品だと思ったね。「やわらかなそれをいま抱きしめよ」はそんなナニカを「抱きしめよ」と言ってるように私には聞こえる。じゃ、その「それ」とはなんだろうか。「それ」とは「はなびらはなびらはなつひらひらももいろの」ナニカだ。ということは、コトバでしかないものだ。コトバでしかないのにコトバいじょうのナニカだ。このばあい「やわらかな」という形容詞はことのほかだいじだね。「やわらかな」コトバはだれも傷つけないわけだから、「はなびらはなびらはなつひらひらももいろの」はコトバのそんな優しさの‶絶対語感〟じゃないのかな。

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きみのなかみが機械だったらいいのに、は そこなし沼に投げる飴玉
わたしにはきみしかおらずきみもまたわたしばかりで 剣飲むマジック      (こころスカッシュ/初谷むい)

 短歌が言語ゲームかもしれないという直感がわたしにはあって、だとしたらそれはかならず対話を形成しているはず。この二首なんか、上の句と下の句が張り合いながら対話している、そんな感じがする。みえない天秤がここには仕組まれている印象があるね。どっちか一方に傾いてしまったら、ちょっと鼻白むかな。だから勝負はコトバとコトバのバランスの取りあいで決まってしまう。たとえばはじめの作品では「機械」と「飴玉」の勝負になってるね。二番目の作品では「わたしにはきみしかおらずきみもまたわたしばかり」と「剣飲むマジック」が、勝負というより、もうこれは決闘だな。MISOHITOMOJI(短歌)というリングのうえで繰り広げられるコトバの異種格闘技には、つい興奮してしまうのです。

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生き物のすべての言語理解して最後の花はちぎれてゆくの            (銀の靴/東直子)

 なんかとてつもないことが、あまりにも簡単に語られてしまい、こちとら拍子抜けしてしまうところが、なんともいいね。拍子抜けついでに言わせてもらえば、鳥や獣や虫や植物にもそれぞれの「言語」がほんとうにあるのかという話し。わたしたちは「言語」がないとすごく不便なことになるけれど、「言語」をもたないはずの彼らは、そのことでぜんぜん困っているようにはみえない。それでもちゃんと生きている。その仕草がすでにしてかれらの「言語」なのかもしれないね。〝自然言霊〟と私は呼んでるけど、「最後の花」っていうのはそこに通じる詩的言語のことじゃないのかな、たぶん。「ちぎれてゆく」ことが作品化の契機を物語っているとすれば、〝もののあはれ〟はまちがいなくそこに誕生するのだと思う。

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春を売る人に負けじと夏を売る 祖父の育てたスイカが売れる         (Paradigm Shift/ひつじのあゆみ)

 おお、これは商売の競争のことを詠っていると見せかけて、じつはスイカを売ろうとしたキャッチコピーなのか?んなわけないない(笑)。とても骨太い力強さを感じてしまうのは何故なのだろう。「祖父の育てたスイカが売れる」ことが、ここでは、はからずも無償な救済になっている。たぶん、それは大きくて甘くて水分のゆたかなまるまるずっしりとした「スイカ」なのに違いない。「春を売る人」が売ってるのは「」にすぎないわけだけど、「夏を売る」人が売るのはただの「スイカ」ということではなく、「スイカ」に象徴される生命力の贈与そのものなんだという、これは表明だね。こんな単純明快ないいきりが、こんなにドラマチックにいえるなんて短歌ってやっぱりすごいかも。

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創世記からの顔風船だけで浮かんで死ねる(つもりなのかい          (「24:球体john」/平川綾真智)

 いえ、そんなつもりは……とおもわず反応してしまいそうな喉仏であります。「顔風船」っていかにも軽そうなイメージだけど、私なんかどうしても2021年に代々木公園上空に出現した「まさゆめ」プロジェクトの、あの異様な〝顔風船〟の光景が思い浮かんでしまって、どうもよろしくない。それはともかく、「創世記」は起源の物語だから事実でないことは当たり前だとしても、信じてるひとからすればそれは事実ではないことのうえに事後の物語をつむいでいくことになり、そんなフェイクのうえにフェイクをうわ塗りした高貴なストーリーにそって殉難死してくださいっていきなり頼まれても、そりゃ困るよね。だから、こうして問いつづけてるわけだ。閉じカッコがないのも、たぶんそのためなんだろうな。

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右側は苦い光だ瀬戸際のダッシュボードの下の太腿              (地獄ハイウェイ/広瀬大志)

 対向車線なんだろうか、追越し車線なんだろうか?車を運転してると右側ってやっぱりつねに気にしてないといけない方向なので、のんびり景色を堪能なんていうわけにはとてもいかない習いなわけです。朝陽が射しかかっていても夕陽を浴びていたとしても、それは変わらないから「苦い光」はにがいままにいつしか車中の日常世界に乱反射するようになります。そんな生と死の「瀬戸際」に位置するダッシュボードは、退屈な命数をその手ににぎってしまっているから、せまい車中空間のなかでゆいいつ視線をはしらすことができる、そんな許された視界にはいってくる「太腿」って、いったい誰のフトモモなんだろうね?まさか自分のじゃつまらないよね。あとはご想像におまかせしますよ。で、頼むから事故らないでね。

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この世にはものまねされる人もいるウニ軍艦はきゅうりも乗れる        (ショート、バッドロング/文月悠光)

 「ものまねされる人」にとってものまねされることは、嬉しいことなのだろうか? ものまねされたことがないので分からないのだが、どちらかというとそれは愚弄というよりは賛辞なんだろうね。「ものまねされる」には、多くのひとに慕われる存在であることが理想だし、場合によっては、ものまねすることで自分も慕われる存在になれるかもしれないからね。ところで「ウニ軍艦」に「きゅうりも乗れる」とは知らなかったな。「ウニ軍艦」はひょっとして「軍艦」のものまねで、それに「きゅうり」を乗っけたらカッパ巻のものまね? でも、寿司ネタとしてはどっちも慕われてるよね。こうして世界は、互いを〝ものまね〟しながら、共感のかたちを広げていくのだとしたら、ものまねも寿司もネタには事欠かないことだろうね。

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ほらあれだいまのセックスの説明にぴったりだあの簡単な形容詞        (デザイン担当のMさん/フラワーしげる)

 あるコトバってべつのコトバでかんぜんに説明しつくせるとふつうは思われてるけど、怪しいものだ。なんとか説明しようとして、結局、説明できなかったことが、もっとも雄弁な説明になっているなんてこともあるからね。これは「セックス」の説明のようだけど、なんの説明にもなってないことで、逆に読む人にそれを想像させようという魂胆なのだろうけど、その日の体調や気分によって、きっと変わるのだろうな、この想像上の「形容詞」は。それって〝よかったー〟なのか〝さいてー〟なのか〝オーマイガー〟なのか、あっしには関係のねーこってござんす、と言いきれないところが人間のさが。やっぱり気になるわけよ。でもね、この短歌の説明にぴったりのあの簡単な形容詞を私が決めちゃだめなんです、はい。

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死ぬるときには皆呼びて思ひつきり苦悶の表情浮かべてやらむ          (思ひつきり/堀田季何)

 生前葬ってたまにやる人がいるけど、他人さまを呼んでやるからにはやはり自分に注目してほしい気持ちが絶対にあると思うんだよね。人の死にざまにはいろいろあっても、関係的な本質をもっていることでは変わりがない。でもそれは生き残っている側からしてのことであって、死んだ本人にとってはあずかり知らぬことのはずなんだが、でもこの歌は死んだ本人がじぶんの死に〝あずかり知ろう〟としてるわけだ。いや、往生際が悪いというか人が悪いというか、みあげた心がけだと思います。「苦悶の表情浮かべてやらむ」という心情はすごく分かる。死人に口なしをいいことに、周りの奴らが勝手なことをいえないように、死んでからも睨みを効かそうというのだから、それを告知できる短歌ってやっぱりすごい。

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スローガンみたいな広告コピーみたいな標語みたいな短歌が好きだ(2023年2月2日)(短歌が好きだ/枡野浩一)

 短歌というものをわがくにの伝統に根ざす詩文学表現の一形式としてとらえるかぎりでは、「スローガンみたいな広告コピーみたいな標語みたいな」ものは、たぶん、歌壇的な評価基準からしたら、排除の対象にされてきたのではないかと思う。おなじことは戦後の現代詩の世界にもあって、おおむねそうした類の作品は冷や飯を食わされてきた歴史というものがあった。でも〝そんな詩が好きだ〟っていう心情は、あったにしても詩になりづらかったとみえて、ほとんど聞かれなかったね。でも短歌だとこうやって言えてしまえるんだね。いいんじゃないだろうか。いいかえれば〝短歌短歌してない短歌が好きだ〟ってことじゃないのかな?だったら私も心から賛同するよ。だってこの歌じたいが〝そう〟だから。

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ひとはひと わたしはわたし はなははな 君が散ったら わたしは寂しい    (葬花早々/宮内元子)

 AはAでありBはBであるとはいわゆる論理学上の自同律であって、これを不快だと感じたところから自由な想像のせかいは翼を求めるようになるんだと思ってきた。でも、最近は、そうじゃなくてAはじつはBなんじゃないかということに気づいたようなところが私にはある。「ひとはひと わたしはわたし はなははな」だとしても、「ひと」がもしかして「はな」でもあり、「わたし」ももしかして「はな」だとしたら、「ひと」はつまるところ「わたし」なんだという帰結になるよね。「はな」が散ったので「わたしは寂しい」のじゃなくて、「あなた」が散ったから「わたし」は寂しいのですよ。存在レベルでこれはたしかに言いうることだと、最近になってようやく気づくようになった。ああ、とても寂しいや。

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このままでいれる気がした晴れた日とインターフォンの剥がれたシール      (ポートレート/宮崎智之)

 こころが落ちこんだ日の朝や気持ちがふさぎこんだ日の夜に、自分ではもうどうしようもない、もはやこれまでといった気持ちが勝ってきて、死にたくなるようなときってきっと誰にもあると思うんだよ。私にもあります。でもね、すごく不思議なんだけど、理由もなくまったく意味もわからず、とつぜん気持ちがパーッと晴れていく瞬間ってものも本当にあるんだよ。私がいうのだから間違いないよ。「このままでいれる気がした」っていう究極の自己肯定感に、心からの祝福をおくりたい!おてんとうさまは分かるとして、この「インターフォンの剥がれたシール」って、こういう何でもないものが自分を救うことだってあるのさ。この歌の作者もきっとそうだったんだ、だってこれはリアルであって表象じゃないもの。

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バスを待つきみのかたちの凸凹に朝のひかりが乱反射する            (まわる春、かわる春/村田活彦)

 とおいとおい記憶をはるかによびさまされた一首でした。まったくおなじような朝がかつて私にもありました。高2の春だったとおもいます。バス通学していた私のまいあさの関心事は、キミが今日もバス停に並んでいるだろうかという、そのことだけでした。ある天気のよい朝に、私がいつものようにバス停にむかっていくと、そこにはこっちをみて微笑んでるその「きみのかたちの凸凹」が「ひかり」のなかに乱反射してたんです。忘れもしません。50年以上をすぎたいまでも鮮明にまぶたに焼きついています。この歌のまんまです。わかるよね、なぜ「乱反射」してたのか?それは後光だったからだよ。まぶしくてとても正視なんかできない。ひかりのなかの「凸凹」、それが偶像としてのキミだった。アリガトウ。

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生きるとは胸のどこかにこみあがる、美術室の、牛の、頭、蓋骨、の、眼。    (ジュース、ジュース、ジュース!/和合亮一)

 〝わからない〟を〝わからない〟ままにコトバにするって、ひとつの技法であることはそのとおりなんだが、でもなぜそれが美をはらむのかが、じつはわからない。コトバのもつ美なのか、コトバがかもしだす美なのか、コトバがうつしだす美なのか、かりにそれが分かったところで、美がよってきたる源泉がどこなのかわからない。だから、惹かれてしまうのも美のもつぬぐいがたい魅力だともいえる。「美術室の、牛の、頭、蓋骨、の、眼。」って、メタファーじゃない、アレゴリーでもない、オブジェでもない、「胸のどこかにこみあがる」いくつかのフィギュール、「生きる」とはその途切れがちな連鎖だといわれているね。コトバにできない美があること、それが「生きる」ことだと、コトバは究極そういってるね。

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人違いだが「よぉ!」と手を上げて座る 自分が誰かであろうとよい       (街を歩けば/ikoma)

 アイデンティティというものが未確認だと、人は焦りまくるもの。じぶんが宇宙人になってしまうような、そんな危機感となって来襲するのかと思いきや、存外そうでもない生き方があるんだと教えてくれる。自分が誰かではないことって、けっこう気楽な面もきっとあるんだろうし、相手がじぶんをちがう誰かだと勘違いしてるときってマジで自分が自分でなくなれる唯一のチャンスかも? だから錯覚でもなんでも「自分が誰かであろうとよい」と言いきれるってとてもおおらかな気がする。それを許してしまうのが東京なのだろう。最近スタバで勉強する人が多いのもそのせいかな?そこではお互いが無言のアクター、アクトレスになり、内面はともかく外面はかんぜんに自分のものじゃない時間が守ってくれるからね。


 さて、『胎動短歌』(Collective vol.3)をめぐる私の読み解きの後半戦も、こんなかたちで無事終了です。
 いや、とっても面白かった。存分に楽しませていただきました。ここに集ったすべての書き手のかたがたに、この場をかりて心からの感謝をお伝えします。ありがとう!!!


短歌評 迸る内面の発露―大田美和の「正述心緒」 髙野 尭

2024-02-22 16:08:14 | 短歌時評

 「KY」とか「ソンタク」とか、もう使い古されてしまって言葉にしようとさえ思わない習慣というか態度をあたりまえのようにとる風潮というのは、なにも政治のセカイにかぎらず、ボクたち世間一般で人口に膾炙した処世術だということはすでに周知の事実だ。特に「KY」という世間知は幼児期のある期間を過ぎると、ボクたち世間一般は言葉を飲み込むような習性を会得する、たとえ口から先へ言いかけたとしても、思ったことはしっかり飲み下してしまう。これは日本人という血統にかぎったことではない。外国人であっても長年在留されている方ならなんとなくそれこそ空気を読んで身に着けてしまっているかもしれないのだから。この島嶼はなぜかそういった独特で不思議な空気・エートスに満たされている。こう考えると現代詩という一つの表現形態などが成り立つ環境にボクたちはいるのではないか、とも言えそうだ。ストレートに言いにくいことを婉曲したり、言葉にできない蟠りをメタファー化したり、方法論は書き手と同じ数だけあるだろう。攻撃性さえ抑制しておけば支持されるかどうかは別として、生き残っていくコトバの生存可能エリアはいくらでもありそうだ。一種のニッチな癒しの時空間であることには間違いない。
 さてカテゴリーうんぬんの議論は脇に置いいとくことにする。2023年9月に上梓された大田美和『とどまれ』(北冬舎)がそんなジャンルの垣根を超えた耳目を集めるに値する作品集としてボクの眼に引かれた。「とどまれ」というタイトルは、それを目にした読み手かあるいは本などには見向きもしない非読者層に宛てられたのかは定かではないが、命令形の命法にまずリアクションを求められる。書店でこの題字を眼にしたなら、ここを立ち去らずよそ見などしないでこの本を買いなさい、と言いたいのだろうか、とか。それはさておきしばらく読み進んでいくと終盤でタイトルポエムらしき一句に出くわす。タイトルを忘れたころに登場する一篇だ。

「木枯らしの前の楓のあかあかと「若さはしばらくそこにとどまれ」   (Ⅳ男傘)より

 ユン・ドンジュの詩作品『いとしい記憶』から抜き出された詩句「とどまれ」を引用しつつオマージュ化された自己と他者の哀しみを、二重に映し出すよう重層的に変奏する作品だ。楓のあかあかとした命の盛りの輝きに魅せられた作者主体は、原詩ではもともと故郷を強制的に去らされる駅舎での去りがたい複雑な心境を異境の土地から追憶し「とどまれ」と心内に叫ぶ。今なら「時間よ止まれ」といいそうなフレーズを、作者自身の老いから若さへの追憶というやや自嘲気味の気分とをだぶらせることで、どちらも二度と取り戻せないという一種捩られた感情の逸出を演じている、とでもいおうか。年月とともに清冽な記憶と代謝された物質が同時に沈みこみ、そこには降り積もっていくメランコリーな体内の奥処に据えられた壺の哀しみがある。
 つい「とどまれ」に執着してしまったが、このまま逆順序でボクが気になった収録作品に触れていくことをお許し願いたい。というのも、これはおそらく作者の創作意欲を鼓舞した動機ではないと思うのだが、テーマ別にⅠからⅣに章立てされてはいるものの、それはあくまでもイギリス滞在記だとか朝鮮学校だとか大田氏が場所的に遊歩し体験した大凡物理的な空間の配置にそって配慮された順序だと推測するのだが、作品それぞれが一冊の書物の中で配置されたそれぞれの立位置で発露し開かれたセカイのトポロジーは、何か別の解釈層を形成するのに一役買っているのではないか、ボクにはそう見えるのだ。だから継起的な順列の意識をあえて壊すためにといえばよいのか揺さぶりをかけるために、(どこからでも拾い読みはできるのだが)まとまりよく味わうことを避けて、数は少ないがアトランダムにピックアップしながらその何かを炙りだしてみたい。
 
舞姫を送るとて待つ裏口に三日月の舟、櫂は彗星            (Ⅲ 海に拓けよ)より     

 この句は定型によく即した安定感を味わえるが、「舞姫」を鴎外の舞姫とだぶらせることで、異国の見知らぬ理不尽な気味悪さと夢の中に奔る彗星のごとく幻視を連想させる一方、裏口という世俗的な扉を設けることで作者主体の実存にかかわる内面に蟠る危うさの
実存・溢れ出とも、ボクには受け取れてしまうのだ。または

依り代をさわに作れと宣らすべしさやにさやげる四月の木末       (Ⅱ 漂着)より

 この句は一見古典的な凡庸な措辞を組んでいるので、秀作だが何かを見落としやすい、とボクは観る。それは何かというと、冒頭の「依り代」や「さわ」「木末」がよく視ると作者身体と関わっていそうだからだ。この歌集全体に通底している作者身体が様々な状況下で経験し内面から外へ、または内へ吐露し堆積していくあれやこれやが、四月の気風転換の時節に身を置くことで、その身体中全篇に通底し蟠りあるいは渦巻いている熱き多情を冷ます自浄の表現相を呈しているのではないかボクはそう味わってみたいのだ。それはこの句に続く次句との連関で明示的にその感
情吐露がわかる。

楽しげに花や羊や牛を撒く 最後は黒く塗りつぶすのに         (Ⅱ 漂着)より

 「塗りつぶす」という感情行為がある。次は、
 
無人の地下鉄とリフトで「入国審査」まで運ばれる恐怖の未来へようこそ 
 
「入国審査」は戦場ならずも泣き叫ぶ子が何をしたか誰も聞けない    (Ⅰ イースター・ホリデイ)より

 いかにも膚感覚と視聴覚を震え上がらせるリアルな吐露だといえよう。思ったままに投げだされた心の叫びが誰かに届かないことなどありえようか。むろん定型としての体をなしてはおらず、思いっきり逸脱してしまっている。一旦作者の内部で自己に受け止められることなく発露された赤裸々な状況描写だ。
 このように大田美和は、内部に沈潜した内面の深層から、間テクスト性も含めメタファーなどの高度なレトリックを駆使する共に、皮膚的な表層へと往還できる旅人なのだ。