「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評第137回 「負けたさ」と「負けるな」 濱松哲朗 

2018-10-05 14:04:55 | 短歌時評
八月十九日(日)、塔短歌会主催の現代短歌シンポジウム(要するに、全国大会二日目の、一般公開部分)の鼎談「平成短歌を振り返る」において、

「負けたくはないやろ」と言うひとばかりいて負けたさをうまく言えない(虫武一俊『羽虫群』書肆侃侃房、二〇一六年)

が話題に上った。その際、何故「勝ちたくなさ」ではなく「負けたさ」なのか、という話題が永田淳から提示され、壇上で栗木京子や大森静佳を含めた三人で様々に議論があったが、そのやりとりを会場で見ていた筆者も、ここ数ヶ月、自分なりにこの「負けたさ」について考えてきた。
 恐らく、問題となるのは「勝ちたくなさ」と「負けたさ」では何が違うのか、ということだろう。結論から言うとこの二つは、勝ち負けに対する態度表明としては似て非なるものである。
 「勝ちたくなさ」とは、自己の外部からやってきた勝負の構造や文脈に乗りたくない、絡め取られたくないという、消極的な拒絶である。別に勝ち負けが大事なのではないと、きちんと態度表明をしつつ、「勝ち/負け」の二元論で語られる社会そのものに対しても距離を保ちつつ批判を行っている。
 では、「負けたさ」に含まれる、負けることへの積極性は何なのか。筆者はこれも、拒絶の一種であると考える。しかし、かなり屈折した心理である。外部に存在する構造に対して積極的に「負け」を肯定し、自分の方からも「負け」になり得る文脈を設定して自己をカテゴライズしようとするのである。
 何故そんな手に出るのか。その方が社会そのものとの関わりを最小限に抑えられるからだ。そもそも現状の構造や体制に対し批判を表明するには、それなりの体力と精神力が求められる。そこにある構造から逃れられないことは重々承知しているが、関わって疲弊する事態は極力回避したい。そんな時にこの「負けたさ」は、自己防御の心理として効力を発揮する。
 例えば、運動が苦手な小学生がクラス対抗の球技大会でドッヂボールの試合に出る時、内野で延々とボールと立ち向かい続けることよりも、さっさとボールを当てられて外野に行くことの方を選ぶだろう。そして周囲も、アイツにボールが行っても使えない、と分かった上で、転がった球を拾えなかった時以外は無視を決め込むだろう。あらかじめ「負け」ておけば、時折向けられる冷やかな眼差しを代償として、延々と続く勝ち負けの応酬や、勝ち続けなければいけないような場における心の逼迫からも、ある程度逃れることができるのだ。
 「負け」を表明しておけば、社会や構造の方も今後は自分のことを、視野に入れつつ無視してくれるだろう。与えられた構造を敢えて受容し、自己を敢えてマイノリティ化することで、代わりにそれ以外の一切の関わりを拒絶する。そうした心理を、単なる逃避だと言って批判するのは容易だが、だが、考えてほしい。構造に立ち向かうことすら拒絶するということは、声を上げるだけで奪われる何かがある、ということである。そして、それを奪う側に立っているのは、逃避だと言って嘲り笑う、勝者たちではないか。自分に都合の良い構造の上に胡坐をかいて、声にならない声を聴こうとする想像力を失った、虚しい勝者たちの姿が見えてこないか。筆者などは、そうした他者を愚鈍化するような構造と関わることそのものに、怒りすら感じる(ではどうして、こうして書いているのかと言うと、見えてしまったものに対してはやはり責任を取りたいし、沈黙によって差別構造の悪循環に加担することを避けたいと思う気持ちが少なからずあるからだ。もっとも、筆者もそもそも人間ぎらいであるから、この文を書き終えた途端、憔悴し切って寝込むことは確実であるが――)。
 「負けたさ」が示す受容と拒絶の屈折は、単なる個人の生きづらさの表明ではない。その自己完結的意識の根底には、社会の構造そのものに対する苛立ちや諦めが、声になる以前のもやもやとした感情として、渦巻いているのではないか。

 シンポジウムの鼎談では、萩原慎一郎『滑走路』(角川書店、二〇一七年)のことも話題に上った。虫武が「負けたさ」であったのに対して、萩原は「負けるな」と詠む。

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている(萩原慎一郎『滑走路』)

 虫武の描く自己が自分から「負け」を表明することで自己防御を試みたのに対し、萩原の描く自己は基本的に与えられた勝ち負けの文脈に対しては従順で、なおかつその構造の中で自分を鼓舞しながら生きのびようと試みる。集中で繰り返される文末の「のだ」は一見単調に響くが、「非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ」「日記ではないのだ 日記ではないのだ こころの叫びそのものなのだ」といった歌を見ると、自己鼓舞・自己慰撫の文体だったのではないか、と思えてくる。
 しかし、萩原は外から与えられる構造に対して「負けるな」と言ってしまう。「まだ行ける まだまだ行ける 自転車で遠くに旅はできないけれど」「癒えることなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ」「かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む」等、類例を挙げ始めたら切りが無い。「まだ行ける」「信じて生きよ」「かっこよくなりたい」「愛されるようになりたい」といった、一見自己鼓舞のように見えるこれらの表現は、実際には構造の側から掛けられた呪いの言葉であり、だからこそ、繰り返し詠み続けられるこれらの歌を目にするたび、萩原の呪縛を思うのである。
 「まひる野」九月号で染野太朗は『滑走路』について、「この人、口ばっかりじゃないか、と思う」と苛立ちながら、「すべての思いが、思いのままで宙吊りにされ、ただ叫ぶばかりで、歌集にはその先の行動が描かれない。あるいは、今ある思いや行動のそのさらに先に続くはずの別の思いや行動が描かれていない」と評する。筆者も同感だ。しかし、具体的な行動が描かれずに、思いのたけのみに集中して詠まれたからこそ、例えば「短歌」七月号で佐佐木定綱が述べた「読んでいるうちに「これは俺の歌集か」と錯覚しそうになった」という感想(筆者も佐佐木と同じような気持ちでむさぼり読んだ)や、あるいは九月末現在で五刷にまでなるほどのベストセラーとなっている現象にも説明がつく。行動という個人的行為が抜けているからこそ、読者の側でも思いへの共感が表面化しやすいのだ。
 だが、萩原の歌に含まれる思いのたけが、叫びのままに終わってしまうのには、行動が描かれていないからだけではない。彼の歌は、みずからが晒されている現状の構造そのものを決して否定しない。雇用してくれる側、恋人になってくれる側に対して受身であり続けることをみずからに強いているにも関わらず、「負けるな」と呪いの自己鼓舞を繰り返す。
 自己肯定や自己防御の力は、最初から誰にでも備わっているものでは決してないし、また状況に応じて簡単に奪われていくものでもある。虫武の「負けたさ」に含まれている若干の自虐――自虐とともに構造を拒絶する姿勢が、萩原の「負けるな」には見られない。その真剣さと素直さが、まんまと構造の手玉に取られてしまったように見えて、筆者はとても胸が苦しくなる。
 繰り返される言葉の性質を仔細に読んでいくと、与えられた状況とは関係なく自己完結的に自分自身を肯定する歌が萩原作品の中に見られない事実にきづく。「自分が愛する音楽を、あなたはまずその手に置いてみるべきだった」と染野は悔しがるが、萩原はそもそも、自分自身を肯定する力を、構造の側から既に奪われてしまったのではないか。ならば憎むべきは、萩原を殺したこの社会構造の、厄介なまでの堅固さの方だ。

こんなにも愛されたいと思うとは 三十歳になってしまった(萩原慎一郎『滑走路』)

 私事で恐縮だが、筆者も先日、三十歳になった。だが、自分が生きのびていているのに萩原が死んでしまった事実がどうにも許せない。自己肯定の力も、自虐とともに社会と距離を取るやり方も萩原から奪ったこの社会から、構造の悪の側面を、断ち切ることができないにせよ如何にして軽減していくか。常に考え続けなければならない。そうでなければ、またしても大切な才能を殺してしまうことになる。
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短歌相互評28 岩倉文也からおさやことり「はねばしを」へ

2018-10-05 14:02:06 | 短歌相互評
おさやことり「はねばしを」
http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-09-01-19427.html

評者
岩倉文也


ひらがなはすべてを溶かしてゆく川のながれ、あるいは僕らの肌をやわらかくまさぐる呪いのようなもの。ひらがなは明晰な意味をかたちづくる前に僕らの手からこぼれる、したたる、したたかに。それは心地よい麻酔として、魔術として詩歌のなかでふるえている。


はねばしをおろしてとてもよくやけたぴざをじぶんのてがらのように

はねばしがおろされる。彼岸と此岸がむすばれ、これは夢だろうか、見たことのない場所、ふれたことのない時間、ぴざが焼きあがる。香ばしいかおりだ。それがだれのてがらであるのか、この街に知る人はなかった。


ふたりだとあふれてしまいかねなくてゆのてっぺんでからだをあらう

ところで、僕はもうここがどこなのか分からない。音楽をきこうとおもって、スマートフォンに手をのばしたが暗証番号を忘れてしまった。お風呂場ではだかになる。ゆのてっぺん、が具体的にどこなのか僕にはおもいだせない。ふたりいっしょに、おゆがあふれたらみんな壊れることだけは知っていて、神妙な顔でからだに泡をつけてゆく。


あいさつというのはしょうちのことですがそとのあつさをかりてくるのは

あいさつをするにも街はもぬけの殻で、それでもだんだんとのぼる陽の、あつさだけがかろうじて僕の存在を保証していた。


かんたんにおなかをみせてくれなさのくるまはえくすとりーむなねこか

僕のふるさとにはかつて沢山のねこがいて、よくさわったり、もちあげたりしていたのだけれど、僕が中学生になったあたりからあまり見かけなくなってしまった。噂によると、ねこたちは駐車場をあいするあまり、そのたいはんがくるまになってしまったらしい。


ふりそうでふらないそらはわたくしのかわりにさしてくれているかさ

僕には傘をさすのが苦手だと言うともだちがいて、最初きいたときなにを言っているのか分からなかった。傘をさすのが苦手? でもよくよく考えてみると、確かに傘をうまくさすのにはそれ相応の技術がひつようなのかもしれない。僕にしても、肩やひじ、ひざなどは傘をさそうがいつも濡れてしまう。そういうものなんだと思う。東京はいつも曇り、と大岡信は詩に書いた。その曇り空をみあげる。ふりそうでふらない東京のそら。


すいとうをだそうとしたらかさがひとたたいてしまうふゆきとどきに

想像力でかさが伝説の剣となった時代はすぎ、僕もまた慎重にかさを持つひとりの大人になった。二十歳になったのだ。記念にコンビニで缶チューハイを買い、「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいのという、俵万智のあまりに有名な歌をおもいだしつつ、一缶を飲み干してしまうと、たちまち全身が紅潮し、頭痛と吐き気におそわれてベッドに倒れこんだ。なるほどね、とおもいながら、僕は二十歳という錯誤のなかで、荒くなった自分の呼吸をきくともなくきいていた。


むかしよくいたくてわらったことさっきいたくなければわすれたままの

なにかを思い出す、というのは素晴らしい罰で、忘却はたぶん、悲惨な赦しなんだと思う。


ゆうやけがしみこむほどによんでおりほんにはなしのよみにくければ

ゆうやけのなかで僕はいつも途方にくれてしまう。それは色彩のせいか、それとも鳴きわめくカラスのせいなのかは分からない。本を読もうにも、ゆうやけの染み付いたページからは、誰のものとも知れぬ無数の声がきこえてきて、おはなしは遠く、欄外の海へとこぼれてしまう。そして街の、防災無線からあふれる、ゆうぐれを告げるメロディー。


かきまぜてしろくしたやみのみながらやどかえようかどうかはなせり

コーヒーにミルクを注ぐときなにかが崩れることを知った。けれど今日も明日も、わけの分からぬげんじつに追われながら、駅への道をころげ落ちてゆく。「ねえ、家を出ようよ、そして森に住もう。人なんてだあれもいない、動物たちにおい、土の、星のにおいを嗅いでさ、暮らそうよ。そうしたらきっと、コーヒーだってもっとおいしくなるはずだし、ミルクだってもっと純白になるはず。ね、そうでしょ? きいてるの?」


えんりょしたにかいにようしゃなくあがるおとうととてもよいしごとした

二階にはなにがあるんだろう。僕はそれを知らない。ただ、何人ものおとうとが容赦なく、階段を駆け上がっていく。どっどっどっどっどっどっ。足音の残響。いつまでも耳にこびりついて離れない。気づけばあたりは暗くなっている。そおっと階下から上をみあげるが、おとうとの姿はない。何人もあがっていったのに、ひとりとして帰ってはこない。静寂があたりを満たす。おとうとは、なにかを遂げたのだろうか。なにかを見つけたのだろうか。おろされていたはねばしが、音もなくあがってゆく。僕はただ、呆然とそれをみている。みている。みている。……
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短歌相互評27 おさやことりから岩倉文也「台風前夜、ぼくたちの肖像」へ

2018-10-05 14:00:29 | 短歌相互評
さくひん 「台風前夜、ぼくたちの肖像」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-09-01-19423.htmlひょうしゃ おさやことり


いわくらふみや さま

 ゆめとゆめのいせきはどちらがきれいなのでしょう
 えらばれなかったせんたくし
 おこらなかったできごとが
 いまここをてらしているのだとしたら
 ざせつとうよきょくせつのなんてゆたかなことでしょう
 そのばしょはきっとぶんきのてまえですね
 すりつぶされたせみはくらいみらいのよかんのようなものでしょうが
 ころがる
 というのはすこしふしぎないいかたです
 すりつぶされたものは
 なんとなく
 もうころがれないようなきがして
 すりつぶされているじょうたいと
 ころがっているじょうたいが
 べつのみらいとしてしめされているかのようです
 ぱられるわーるど
 なんていってしまうとさすがにちんぷがすぎますが
 よみすぎでしょうか
 
 おんしんふつうになりたい
 わたしもときどきそうおもいます
 でもこのねがいをかなえるのはむずかしいですね
 ほんとうにたちきりたいのは
 じぶんからじぶんへのれんらくなのですから
 だからきっとしんののぞみはべつにあって
 それにとどかないはがゆさがもたらすことばなのでしょう 
 なみがほんとうはおとをもつように

 とうめいによもうとするならば
 かみさまはしをかくひとがきらい
 ということになるのでしょうけれど
 ひとりねのかみさま
 というふじゅんぶつをついよみとりたくなります
 かみさまもひとりでねているのだな
 だから
 しをかくひとがきらいなのだな
 という
 つながりそうにないけどつながりそうなろんりに
 すこしひかりをくっせつさせてよんだほうが
 よくひかるうたなきがします

 しんでいるひとのかみがきれい
 これがひげとかかつらだったらどうだったかな
 とかんがえてしまいます
 でもここではしんでることよりも
 それをたにんとみていることで
 なにかがきょうゆうされていることが
 よりたいせつにされているのだとおもいました
 ひげやかつらではこじんぷれーがすぎるので
 おもいはひとつになれませんね
 そういうところからもうかがえるように
 なんにんかのひとたちのかんけいが
 このいちれんにはあるようなきがします
 たいとるにもぼくたちとありますからね
 
 ぼくたち
 ということばが
 つぎのうたでいよいよとうじょうします
 このことばとてもふしぎですね
 たいふうのちかづくよるにひとりでいるのだから
 たいとるも
 ぼくのしょうぞう
 がただしいようなきがします
 もちろん
 こうどなでんわきも
 ぱそこんもあるじだいなので
 (まさかじだいげきたんかではないですよね
 せーらーむーんやとーますが
 まあたらしかったじだいだったりして)
 たいふうでこもっていてもでんぱがとぎれないかぎりは
 だれかとでもつながりをもつことができます
 でもはたして
 そういういみでのぼくたちなんでしょうか
 ひかってるね ぼくたち
 というときのぼくたちはよこならびにおもえます
 うしろにいてもいいです
 とにかくおなじほうこうをむいているようなかんじがします
 どあにかぜぶつかってるね
 で
 どあのほうこうがしめされているのも
 そのいちいんでしょう
 ですが
 でんわきのらいんなどでつながっていたら
 そのかんけいはむかいあわせになるんじゃないでしょうか
 だからなんとなくですが
 ぼくたちはおなじへやにいるようなかんじがするのです
 あっ
 でも
 でんわしているあいてのあぱーとも
 おなじかざむきにどあがあって
 おなじようにどあにかぜがあたっていることのどうじせいを
 かいているのだとしたら
 あるいみよこならびともいえますね
 ただかりにそうだとしても
 そのときぼくがでんわをかけているそのひとは
 なんとなくですが
 ぼくじしんのようなきがして
 けっきょくおもうのは
 ぼくたちとは
 ぼくぷらすたにんではなくて
 ぼくじしんのふくすうけいなんじゃないか
 ということです

 これがもしすごろくならば
 じゅういちますもどるという
 てんしょんだださがりなじたいになりますが
 はじめのほうのうたにもどってよみなおしてみると
 またなにかのぞんでいるね
 というときの
 のぞんでいるしゅたいは
 ぼくのようでいて
 たにんのようでもある
 ゆめのいせきのあるあぱーとも
 ぼくのへやにもひとのへやにもよめる
 ぼくからぼくがめばえ
 あたらしいぼくがふるいぼくのへやをみている
 そうよめばてんびんがつりあいます

 めをあけてここはどこでしょう
 というときのここも
 ぼくのへやであって
 たにんのへやであるかのようです
 こわされたぱずる
 ちきゅうぎ
 せーらーむーん
 ひとのへやのものをみるまなざしにしては
 おもいいれのつよさがうかがえますし
 でもじぶんのへやだとしたら
 じぶんからかいり
 したようなかんじがします
 このうたは
 てがきれいだとじぶんをほめる
 うたと
 ひとりでわらう
 うたに
 おせろみたいにはさまれて
 やっぱりぼくはひとりなんだな
 というげんじつをつきつけられながらも
 だれかのけはいみたいなものをどことなくただよわせている
 そのだれかがたとえじぶんのけはいだったとしても
 そのけはいにぼくはまもられている
 
 しょうぞう
 ということばもだんだんふしぎにおもえてきました
 いまここをみらいにのこす
 といういしがそこにはあって
 どうじにみらいからのてりかえしに
 ときがいてついているようでもある
 かわかないたおるのひとつがうんめいとよばれてた
 この
 ごびのかこけいは
 みらいからのてりかえし
 ではないかとおもうのです
 みらいにむけられたひかりがみらいからかえってきて
 そのひかりにいちれんが
 うべなわれている
 しゅくふくされている
 
 でも
 しゅくふくとじゅそは
 ひょうりいったいかもしれません
 たいふうのこえは
 ししゃのこえににているようにおもうからです
 だれもがししゃににているといううたがあり
 しんだひとのかみのきれいなうたがあり
 おしいれにだれかすんでたうたがあり
 ておくれだからやさしいひとがたちがいるうたがある
 みらいからのてりかえしによっていてついたじかんは
 はじまりもおわりもなく
 ひとつのじかんのなかにかこもみらいもふくまれて
 どこまでもくうかんてきにひろがっていく
 それをやぶるのはたしゃです
 たしゃはじかんのいてつきをとかす
 たとえばけいこうとうのくるい
 というのも
 こんとろーるのおよばざるをくるいとするのなら
 ひとつのたしゃでしょう
 たしゃがやぶれめを
 ほころびをつくり
 それがいやおうなくぼくがいきていることに
 そしてしにむかっているということに
 ちょくめんさせる
 ぼくはひとりでうまれひとりでしぬ
 たしゃは
 ぼくがたんすうけいである
 というじじつをつきつける
 うみへいかなきゃというわけわからなきしょうどうも
 うちにふくれあがるげんじつというものの
 おぞましさにどうしようもなくなってでてきたことばなんでしょう
 そうくちにするほかないことば
 だからせっぱくせいをもつ
 おんしんふつうになりたい
 ということばもおもえばそうでした

 でもせっぱくせいをもちながらも
 いきたいばしょが
 うみ
 というのはいかにもありきたりなきがします
 かってきたししゅうよまずにまちにくりだす
 というさいごのうたもどこかでみたようなかんじがしますし
 ほんとうはだあれもすきじゃない
 という
 にしゅめもすなおすぎるようなきがしました
 べつにありきたりをわるくいうたんらくをおかすつもりはないのですが
 このぼくにほんとうにからだがあるのかというぎもんがめばえます
 しをかくひとびとのしゅうごういしき
 みたいなものがうんだまぼろしではないかと

 めかにずむでかんがえるならおそらく
 ぼくをしょうぞうにしてぼくをみらいにつたえることで
 みらいからのてりかえしをうけてじかんをいてつかせることのためには
 ぼくをふくすうけいにすることがひつようで
 ぼくをふくすうけいにするためには
 ぼくのこじんてきすぎるぶぶん
 とくしゅすぎるぶぶんははずしていくひつようがあった
 つまりあんまりこじんぷれーをしすぎてはいけなかった
 ぼくはふへんせいをまとうことでぼくたちになった
 ということなのでしょう

 なんて
 めいたんていをきどってすいりしてみても
 なれないさぎをしているようなきもちにしかならないですが
 ともかくもこのいちれんは
 わんだーよりしんぱしーによりすぎているとおもうのです
 それはけってんといえばけってんなのでしょうけれど
 ふくさんぶつのようにべつのおもしろさがあって
 こじんにふへんがべたぬりされていることで
 ふじゅんぶつがはっせいしているところなどは
 ひじょうにきょうぶかいとおもうのです

 いわかんをともないながらも
 ひつぜんをまとったようなかおをしてそこにいる
 ぼくたち

 ちなみに
 さいごからにしゅめがけっきょく
 このにく
 なのか
 ねこのにく
 なのかはさいごまでわかりませんでした
 いんりつをかんがえるのなら
 ねこ
 なのでしょうが
 そのばあいのさめたかんじにたいし
 この
 だったばあいの
 なぞのおもいいれや
 ね
 というぶきみなごびは
 とてもみりょくにおもいます
 このようないみのふくすうせいも
 きずといえばきずですが
 きずにこそひかりがとどまるものなのではないでしょうか

 こんごのごかつやくをおいのりします
 つたないひょうでもうしわけありませんでした

  おさやことり
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短歌評 塔短歌会のセクシャル・ハラスメント対策のことなど 山口勲

2018-09-22 00:00:00 | 短歌時評

前回、詩客の短歌時評で私が描こうと思っていることを書きました。

  • 一般的にある文学ジャンルの「時評」の読者はその文学の書き手であること。

  • 短歌周辺の事柄の中で、手元まで届かないけど気になることについて、なるだけ紹介すること。

  • その結果、少しでも意見の広がりを作ることができると嬉しいということ。


です。



今回はとても一般的な話をします。



さて、私には2歳の息子がいます。
息子が文学をする相談を受けたとき、何をお勧めしようかということを考えたりもします。
親として考えるのは作品だけではありません、どんな人がその文学をやっているかということです。



私自身は残念ながら、後世に残るのは作品かもしれないけど、作品を書くのは人であることを知っています。
その上で、詩も短歌も俳句もラップも一人の人では成立しないことを知っていると、ついついどんな人がやっているだろうかと思うのです。



そして、結論から言うと、私は歌人とお話ししなさいと言います。
なぜなら、詩歌のジャンルごとに、twitterで検索もかけたりYouTubeで見た結果がそう言っているからです。



今回、「セクハラ」「ハラスメント」「ミソジニー」などの言葉を詩歌それぞれのジャンルとともに検索をかけて、見つけた発言をtogetterにまとめてみました。
すると、短歌だけが突出してハラスメントについて語っていることがわかります。


まとめ https://togetter.com/li/1268662

短歌は歌会におけるハラスメントからの身の守り方を書く歌人がいます。
加藤治郎さんのように警告をあげる人もいます。
塔短歌会では2018年9月号でセクシャルハラスメント防止の取り組みや窓口の開設を宣言しています。



塔短歌会の結社誌のセクシャルハラスメント防止の取り組みのページは二ページにわたるもの。
相談窓口に具体的な連絡先が記載されていることもあって、会員限定のページでの掲載でした。
これは規模の大きな結社であるからこそできる取り組みだと思いますが、他の結社も、そしてそれ以外の場所でも続いていって欲しいと思っています。



これまでの歴史の総括は行われたほうがいいと同時に、未来についての動きはもっと盛んに話すべきだと感じています。
これからのことを考えた時、自分は息子に歌人とお話しすることを勧めるでしょう。



とはいえ、なんで短歌では盛んに話されるようになったかはみなさんご存知だと思うのですが、触れて置く必要があると思っています。



  • 歌会などを通じリアルで知り合う機会が多いこと。

  • 学生短歌会などを通じ常に若くSNSに強い書き手を供給し続けていること。

  • twitterで短歌のことをきちんと発信し続けている有力な歌人が多いこと。

  • twitterを通して結社の外と繋がれることに喜びを持つ人が多いこと。

  • 上記の結果、限られた空間で起きた事件もtwitterなどで表に出ることが多いこと。


単に歌人はつぶやくのが好きなだけじゃないか!と言われそうですが、つぶやいているからこそ社会に追いつこうとする意思を持つ人が誰かも見えてきています。



他のジャンルを見ていくと、川柳は作品単位でパワハラをこき下ろす句が出ています。
ラップやMCバトルではライミングに対する明らかな女性に対する差別が横行している場面があり、アメリカのマイノリティ層のマッチョな価値観を理想的でない形で輸入してしまったことを思わせます。女性を性的なものとしかみなさない男性ラッパーのインタビューを垂れ流すメディアは価値がないと強く感じます。
それと同時に、椿やあっこゴリラなどの素晴らしいMCもいて、現場に行かなければならないなと感じます。
俳句、現代詩は。。。俳句は年齢層が高いことや現代詩はそもそも結社がないということも一つの理由かもしれませんです。純粋に声のあげ方がわからないのだろうなという気がします。声をあげてもどこに届くのだろうか



どのジャンルにしてみても、結論から言うと、「生まれながらにして男性であり性自認も男性」以外の人間が書き続け、人付き合いをするにはかなり強靭な心が必要で、ハラスメントに晒されることは覚悟しなければならないのだろう、と思います。
その中で、短歌の詠み手の有志はいまこの瞬間に声をあげ、新しく始める人を受け入れるという決意を出していると感じています



少なくとも塔短歌会の試みについては詩歌全体でもっと書かれてしかるべきです。
そしてもっと議論を大きく行うことができればと思っています。



最後に、今回はとても乱暴なことを書きました。純粋なことを書くと、全ては現場で人と会える東京での狭い話なのかもしれません。
私自身は残念な「生まれながらにして男性であり性自認も男性」として何かを起こす側であり、人が筆をおる原因を作る側にいます。
というか、していたし、これからもする可能性があると思っています。
自分が主催していること以外で人と深く関わらないように自分のことを律することにしたのですが、これまでについては取り返しがつかないし、
この文章もどの口で書いているのかという声が自分の中で鳴り響いています。



そして大多数の詩歌にたずさわる人はハラスメントと無関係であると思っています。
生きている間は詩は詩だけで完結しないということを肝に銘じるべきだと、日々思います。



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短歌時評136回「ねむらない樹」の扉をあけて -頭に浮かぶ先行作品-  大西久美子

2018-08-30 22:07:00 | 短歌時評
       

2018年6月2日(土)に開催された「現代短歌シンポジウム ニューウエーブ30年」(荻原裕幸氏、加藤治郎氏、西田政史氏、穂村弘氏)を「ねむらない樹」創刊号(2018年8月1日刊)が特集で再現している。
シンポジウムで分かったことは次の二つ。
一つ目は「ライトバースとニューウエーブの違い」、
二つ目は「ニューウエーブは荻原、加藤、西田、穂村の4人(のもの)」ということだ。
このシンポジウムで加藤氏が用意したニューウエーブ系の作品に
生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!
(石井僚一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』)がある。
加藤氏は「これは本歌取りの歌」と紹介した後、石井氏に「どういうつもりで作ったの?」と尋ねた。
石井氏は「本歌取りではないです。思い付きで作りました」と即答、加藤氏は「とてもこわい。アナーキー」と反応されたが、オンサイトの聴講者の中にも、
言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!
(加藤治郎歌集『マイ・ロマンサー』)
が浮かんで衝撃を覚えた方がいただろう。石井氏は「影響は受けたかもしれません」と補足されたが「かも」なので着想時、先行作品の表現は、既に浸透しているツールとして取り入れたのだと思う。このやりとりを聞きながら、私は今後、新しい表現を探るとしたらそのドアノブはどこにあるのだろう、とふと思った。
同時に、本歌取りとは逆の発想として、制作者にとって偶発的に生まれた作品が、時空を遡り先行作品や歌集に到達、読者がその息吹き、生命力に出会う新しい試みの機会と考えられなくもない、とも思った。
それは「ねむらない樹」の編集委員である大森静佳氏の歌集『カミーユ』(2018年5月刊)により強く感じる。「短歌往来」九月号の岩内敏行氏の書評には大森氏が「河野裕子の生涯すべての歌集を精読し、その根幹をつかんだ」とあり、『カミーユ』の読み応えある情念の源に触れた思いがしたが、この歌集を手にした時、カミーユとロダンをテーマとした60首の連作を収録する加藤治郎歌集『雨の日の回顧展』(2008年5月刊)が頭に浮かんだのは私だけではないだろう。これは、ニューウエーブのひとり、西田政史氏の6月14日のTweet「加藤治郎さんの『雨の日の回顧展』が俄かに話題になっている」からも推測できる。
しかし『カミーユ』に明確なヒントはない。気付きは読者に委ねられている。そして。誰かがSNSでそっと呟く。これに目を留めた人が10年前に刊行された『雨の日の回顧展』を知り、Amazon等から入手する。・・・SNSを媒介として双方の歌集を響き合わせて読む読者が(多くはなくても)誕生したことは想像に難くない。
ちなみに両歌集とも5月刊行だが『雨の日の回顧展』は7日、『カミーユ』は15日である。ここに大森氏の先行歌集への密やかな敬意が込められているとみるのは深読みだろうか。









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