「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評193回 歌会の「棋譜」としてのノート 竹内 亮

2023-11-07 12:10:32 | 短歌時評

 最近、歌会や参加している短歌の短歌講座のノートを取るようにしている。特にオンラインの場合は、事前に送られてきた詠草の歌をあらかじめマイクロソフト・ワードのファイルに貼り付けておいて、歌会が始まったらそれぞれの歌の後に山本夏子さんの発言、とみいえひろこさんの発言というようにすべての人の評や質問の発言をできるだけ入力していく。議論がもりあがったときはキーボードをすごい速さで押している。
 それまでは紙の詠草に「ここの表現どうか」「下の句は付きすぎ」とか簡略化して手書きでメモしていたのだけれど、簡略化しても余白に書き切れなかったり、とくに自分の歌以外は後で見るとよくわからなかったりしていた。全体のノートを取ると歌会のやりとりを後で読み返せる。
 全国でたくさんの歌会が行われているけれど、そこでのやりとりはその場で消えていっているものも多いのではないか。やりとりのなかに新しい発見があるから、その発見が蓄積されればいいのにと思う。そのために将棋の棋譜のような記録は意味があるような気がする。
 もうひとつ、批評会の記録ももっと読めたらいいのにと思う。歌集が出たあとに開かれる批評会は、その歌集の批評にとってもっとも重要なもののひとつである。出席できない場合も多いからその内容がどこかで読めたらいい。パネリストの報告は後日歌集評や評論となることもあるけれど、やりとりの部分にも大切な発見があるように思う。
 とはいうものの、ノートを取ることに集中していると、その場で考えることが少し減るというのもわたしにはある。こういうのは人によるのかもしれないけれど。


短歌時評192回 時代(とき)の狭間のネットプリント 小﨑 ひろ子

2023-10-01 00:40:48 | 短歌時評

 キャリアのある歌人の団体である現代歌人協会が、この二年ほど、年に2度ネットプリントを発行している。第1回は2022年1月20日、第2回2022年8月16日、第3回2023年1月13日、第4回8月30日と、夏と冬の定期的な発行物になりつつあるようだ。従来は、「現代歌人協会ネットプリント作品集」と、短歌のみをずらり並べる、大きな歌会で配られる詠草集のような形だったが、最新の8月版は、「現代歌人協会ネプリ夏」という表題をデザインして配置、短歌を二段組みにしてあとがきも付し、A3サイズを二つ折りにするとA4・8ページのタブロイド紙になる形になっている。募集と投稿受付、ネプリの告知等は、X(旧Twitter)。#現代歌人協会(イベント班)という専用アカウントからの告知に応じて、返信する形で投稿される短歌をそのまま詠草集としてまとめる。投稿受付はイイネや返信をもって確認、今回は事務手違いで掲載からもれた作品の掲載のために数日後に再発行されるという経緯もあったが、そんな柔軟な対応の中、350首が集まった。現代歌人協会の著名歌人から若手やハンドルネームの投稿者等、とにかく多彩な名前がおそらく投稿順に並ぶ。現代歌人協会のイベント班としてチームを組んで作成されているらしく(らしく、と書いているのは自分が現代歌人協会の会員ではないので詳しい事情を知らないためである。)、8月24日には、SNSのスペース(ラジオのように主催者が話したりリモートで対談したりする機能)を用いて、詠草担当の千葉聡、歌人協会代表の栗木京子、大松達知、千原こはぎ(デザイン担当)の1時間の対談も公開された。投稿作品のほか、夏の歌として知られる短歌を紹介、千葉聡のPOST(旧Tweet)によれば、232人が聴いていたという。もしリアルで行われていたら、かなりな大イベントが手のひらサイズのスマホの上で繰り広げられたということになる。
 「かばん」2023年6月号では、「短歌とネットプリント」という11頁にわたる特集が組まれ、ネプリとはなんぞや、というところから始まって、作り方、楽しみ方、短歌の領域でのネプリの活用法が、わかりやすくまとめられている。その中で、「最適日常」という短歌情報サイトの管理人の月岡烏情という人が、「多くの歌人に発表の手段として選択される」理由は、「ちょうどいい不便さにある」と書いている。確かに、作品をウェブやSNSに手軽に流して、流れてきた作品をさらりと目にすることができる環境の中で、作成する側にとっても、読む側にとっても、その簡単さに若干のアクション(コンビニに行き、10円~を支払ってコピー機から出力することが最低限必要)をプラスしたような特徴が、ネットプリントにはある。作品を作るだけではないプラスアルファを求めるには確かにちょうどよい。同時にPDF公開をする作者もいるが、作った側は発行部数を確認することもできるので、プリントされた数によって、Twitterのイイネ以上に実感を得ることができるだろう。若い人の作品発表へのファーストコンタクト、セカンド、サードあたりの位置づけかなという印象もあるが、結社に所属し、地域の歌会にリアルに参加しながら、作品をネットプリントに発表する歌人もいる。江口美由紀は、総合誌の賞の候補にもなったこともある若い作者だが、自身で「かえるのおへそ」というネットプリントを発行し、作品を公開した。十首にカラーのイラストを付して、一枚もののフリーペーパーとしてもよい出来栄え。告知はX(旧Twitter)、世代的にも違和感なくそうしたメディアに向かっているように思える。
 また、私には使いこなせないと思われるSNSのひとつでもあるDiscord(そういえば最近、アメリカの軍事機密がこのSNSから流出したとニュースで話題になった) の短歌のページ「ヨミアウ」には、「一首を読む詠む」「連作を読む詠む」「十首会」「公開歌会」といった多彩なコンテンツの中に、「ネプリの庭」というコーナーがあり、ネプリが集められている。「ヨミアウ」を作った歌人の武田ひかは、「現代短歌」のBR賞に最年少でノミネートされ、今年は佳作として文章が掲載されているほか、「硝子回覧板」(篠原治哉との合同歌集)「銃と桃売り場」(津中堪太朗との合同歌集)という、私家版の合同歌集を発行しBoothで販売する。ToiToiToi(イトウマ、坪内万里コ、吉岡優里の男女3人で構成される短歌ユニット)の合同歌集「救心」といい、岡本真帆・丸山るいの「奇遇」といい、文学フリマでのアピール力を意識してか、装丁がとても凝っていて、私家版でありながら、デザイン的に優れた出来栄えになっていることに驚く。
 さて、この原稿は短歌時評なので、この状況の考察をしなくてはならないのだが、実のところよくわからない。現代、最も手近な「場」であるネット空間で、「座の文芸」ともいわれる短歌のプロの団体が主催して、多くの参加者を集めた。結社にしても短歌の団体にしても、公に広く開いたイベントを開催し作品を募集することはよくあることだが、どうも位相を異にしている。テレビや新聞の選者宛に送る公募の開かれ方とも違う自由さが、「結社」や「団体」の敷居を一気に消し去ったのだろうか。主催者側はともかく(350首のまとめは大変な労力であると思う)、参加者にとってはとても手軽なインフラを、うまく使ったということか。あまり言いたくないけれども(だったら言うなよって? でも覚えとして書いておく。)、閉鎖的な顔の見える場(従来はこれを「座」と言っていたと考えてよいのかもしれない)の外で繰り広げられる現代の短歌のブームをうまく掬い得ているというべきか。実は私はよく知らないままにネットプリントを時々取り出して見たりしているが、作業としてはさほど難しくないネプリの閲覧程度でも、知る人と知らない人の間に断層があるかもしれないと思う。年長者であるほど「技術的について行けない」(スマホ、パソコン、文章ソフト、ネット…ホント苦労している!)「古い在り方や年長者を批判というより否定する若い人の集まりは怖い」(おいおい向こうもそう思っているよ)と敬遠するだろうか。それもよくわからない。使いこなせないSNSなんかやめてしまおうかなあとつぶやきながらちょっとうかれて投稿している自分だって年長者だし、参加者にもそういう歌人はたくさんいるようにみえる。「現代歌人協会」という組織が主催していることにより、「若い人の新しい短歌文化」の敷居も一気に消し去ったのかもしれない。
 「現代歌人協会ネットプリント作品集(完全版!)」から、以下に夏の歌を何首か。

真夏日の遊覧船はみずうみを華やかにしてかなしくさせる        中川佐和子
アイスティーのからん、と鳴って夏からの合図を受け取れるわたしたち  千原こはぎ
返信ができなかった夏のこと 水平線を最初に引いた          東直子
遠近感おかしくさせてゆらゆらとコメダのかき氷は来たれり       辻聡之


<参考>
「現代歌人協会ネットプリント作品集(完全版!)」2023.8.30 現代歌人協会イベント班 
「かばん」2023年6月号 「特集 短歌とネットプリント」
「最適日常」https://saiteki.me/
SNS Discord、Xほか。


短歌時評191回 寺山修司没後40年によせて 桑原 憂太郎 

2023-09-03 20:26:58 | 短歌時評

 今年は、寺山修司の没後40年のメモリアルイヤーだった。
 短歌総合誌では「現代短歌」が2023年9月号で寺山修司の特集を組んだ。寺山に関する評論やエッセイや対談が掲載されていたけど、そこでの話題は、短歌だけではなく、俳句や演劇にも伸びていた。
 なかでも、今野寿美と佐藤文香の対談は、歌人と俳人によるものであり、寺山の歌人としてだけの特集にするつもりはない、という編集側の意図が汲み取れた。
 たしかに、寺山修司の肩書は歌人だけではない。俳人、エッセイスト、脚本家、劇作家、劇団主宰者、映画監督、作詞家、などなど。とてもじゃないが、短歌作品だけで表現者としての寺山は論じることはできない。
 それに、歌人といっても、歌集は『空には本』、『血と麦』、『田園に死す』の三冊。後、歌集未収録作品も加えた『全歌集』が刊行されたけど、歌作は29歳で止む。それ以後、47歳で没するまで、寺山は短歌の世界に戻ることはなかった。
 寺山にとって、短歌への傾倒とは、彼の生涯のいわば青春期であって、30代以降は、短歌を踏み台にして、表現者としての才能を多方面へ越境させていったということがいえるだろう。

 さて、そんな寺山の短歌であるが、映像性、をキーワードとしてしばしば論じられてもいる。
 故郷青森を描いた『田園に死す』には、次のような、まさに映像が浮かぶ作品も多い。

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
たつた一つの嫁入道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり
亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬまり

 1首目。柱時計を横抱きにして枯野を歩いている場面なんて、じつにおどろおどろしくあるが、その柱時計が不意にボーンとなったのだから、<われ>はさぞ驚愕したことだろう。
 2首目。主人公の母親が仏壇を磨いている場面。義眼にうつるまで磨くというのだから、こちらも何か不気味な感じだ。一心不乱に磨いている母親の表情までがありありと浮かんでこよう。
 3首目。真っ赤な櫛の色彩。その櫛で山鳩を梳いたら羽毛が抜けやまないというのだから、やはり気味が悪い。
 これらの作品に触れた私たちの眼裏には、その情景が鮮やかに浮かんでくるに違いない。

 ところで、この歌集『田園に死す』は、寺山によって、同名作品として映画化されている。映画の中にも、掲出した3首をはじめとして、歌集『田園に死す』の作品が、寺山自身の朗読によって挿入されている。
 ただし、挿入はされているものの、柱時計を横抱きにしてボーンとなったとか、義眼の母親とか、毛の抜ける山鳩とかが、映像化されているわけではない。あくまで、短歌は短歌として挿入されているのだ。
 であるから、短歌と映画でタイトルが同じでも、歌集で詠われているものがそのまま映像化された、というわけではない。映画は映画で、きわめて映画的な手法によって撮影され作品化されている。
 ではその、映画的な手法、とは何か。
 というと、寺山はこの映画作品で、メトニミーを駆使して映像表現をしたといえるのだ。
 メトニミーとは、大きくいえば比喩表現のひとつで、あるモノやコトを、近くにある別のモノやコトで表していることをいう。
 「暗示」なんていう言葉があるが、これを言語学的にとらえるのならばメトミニーといえると思う。
 つまり、映画「田園に死す」には、そんなメトニミーの手法がふんだんに盛られていて、「いったいこの映像は何を暗示しているのだろう」というのをひたすら考えながら観るようなものだ。
 例えば、「柱時計」。これは、家父長制といったようなもののメトニミーなのだ。映画の冒頭で、家の柱時計が壊れていることが示される。けれど、母親は修理に出そうとはしない。それで、主人公の家では、柱時計がボーン、ボーンとずっと鳴っている。これをどうやって読み解くかといえば、父親が不在の母子だけの家庭で、母親は、その不在の父親というか家制度に未だにすがっている、ということなのだ。それが証拠に、主人公の少年が、家を出ようと決心したときに、壊れた時計が鳴りやんだのだ。
 あるいは、母親が「仏壇を磨く」という行為。これも、父親が居た頃の過去、あるいは、その家の脈々と連なっている血族をあがめているといったメトニミーになろう。
 といった感じで、映画ではほかにも、隣人のキレイな奥さん、赤い衣装の女、サーカス団、田園で将棋を指す主人公、とか、いろいろ登場していて、ストーリーを追いつつも、そんな場面場面のメトニミーを考えて観るとめっぽう面白いものとなっている。

 さて、短歌作品に戻ろう。
 先ほど掲出した作品。これらの作品にも、「柱時計」や「仏壇を磨く」という行為が詠われている。では、こうした作品は、メトニミーで読み解けるだろうか。つまり、短歌作品のなかの「柱時計」は家父長制を暗示しており、それを主人公は売りに行こうとしているのだ、というように。あるいは、「仏壇を磨く」という母親の行為は、血脈にすがりついていることへの暗示なのだ、というように。
 というと、そこまで読むのは無理があると思われる。もし、そう読めるのであれば、それは寺山の生い立ちやらの分かるエッセイとか、それこそ映画とかといった、短歌作品以外からの情報によって、後づけで読み取れることであって、短歌だけからは、そこまで読み解くのは無理だと思う。
 なので、こうした短歌作品は、映画のようにメトニミーを読み解くのではなく、純粋に寺山ならではの映像性を愉しむ、という鑑賞がいいのだと思われる。

 では、短歌の世界で、メトニミーの手法を駆使して歌作するのは、無理なのだろうか。
と、いうとそんなことはない。
 例えば、寺山と同時期に発表された、岡井隆の作品をあげてみよう。

海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ
                       岡井隆『朝狩』

 この作品は、「かなしき婚」があるモノのメトニミーとなっている。つまりは、何かを「暗示」している。ここが分からなければ、この作品は絶対に読み解けない。
 ここの「かなしき婚」は、日米安全保障条約のメトニミーだ。この作品が発表された当時(1963年)、日本はいわゆる60年日米安保のさなかで、国論は二分していたのであった。そのときに、岡井は日米安保を「かなしき婚」と表したのである。
 岡井が示した、こうしたメトニミーの手法は鮮やかといえよう。
 ちなみに、この作品の下句「やわらかき部分」は、読者によって、女性器の喩と読んだり、はたまた、男性器の喩と読んだり、と読みが揺れている。私見では、そもそも喩と読まなくてもいいのではないか、と思っているが、このように読みがいろいろと広がるのが隠喩だ。一方、その喩の対象がはっきりしているというのがメトニミーといえる。

 寺山修司が短歌に傾倒していたのは、青春期の10年にも満たない時期だった。けれど、そんななかでも、寺山の作品は、短歌史のなかで燦然と輝いていよう。
 そして、その輝きは、たとえば、表現者寺山が短歌から軽々と越境していった、他のジャンルとの比較から、論じることができるのではないか。それは、今回、映画人としての寺山とを比較してみたように。
 あるいは、同時代の作品と比較することで、その寺山ならではの輝きを論じることもできよう。それは、今回、同時代の岡井隆の作品と比較してみたように。
 寺山が没して40年。
 歴史上の歌人にしてしまうには、まだ早過ぎよう。
 40年たったけど、まだ寺山は論じ足りないのだ。


短歌評 教えてほしい、MISOHITOMOJIの底力(前編)――『胎動短歌』(Collective vol.3)の挑戦 添田 馨

2023-08-18 16:35:13 | 短歌時評

 みんな勝負してるな、というのが率直な印象である。それにしても、みんなは何と格闘し、そして何と勝負しているのだろう。
 ところでMISOHITOMOJIは何故に五七五七七なのか、この問題への納得いく答えを私は聞いたことがない。これまでさまざまな人がこの問いについて語ってきたのを私も読んだが、いまだにもってよく分からない。五六五六六でもなく五八五八八でもなく、五七五七七でなければならない理由がわからない。むろん多少はここからはみ出すことがあっても、それはバリエーションの許容範囲ということで、原則までが変わったわけではないだろう。
 要するに、音数57577を音律五七五七七に変貌させるおおもとの力が何なのか、それを私はもっとも知りたい。短歌をつくる人たちも、たぶん日々そのことに挑戦しているのはないだろうか。その答えをだそうとして、勝負しているのではないだろうか。勝負したその結果が、残されたひとつひとつの短歌作品なのではないだろうか。

 『胎動短歌』(Collective vol.3)は、ジャンルを超えたさまざまな出自の人たち全三四組が、短歌連作八首をそれぞれ寄稿するスタイルをとっている。だから一首ずつ読んだ印象と、八首ぜんぶを読んだあとの印象とではとうぜん異なるし、なかなか的をしぼりにくい。私の視力などたかが知れてるので、読んだあとのじぶんの短期記憶をもとに思ったところだけを順次ピン止めしていきたいと思う。

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(役立たず)(その夜)(僕が)(乗った電車が)(向かうのは)(光が丘)(って駅)
                                       (Dream Baby Dream/青松輝)

 おお、いいね。ぜんぜん短歌っぽくない。カッコで包んであるので、これは続けて呼んではいかんのだろうけど、やはり続けて読んでしまう。そういう悲しい習性から私は自由ではない。でも、読みながら七個のカッコが私のこころを順にカッコに包んでいくのが分かった。その結果、すごいことが起きた。カッコのなかではなく、カッコのそとが私の心のなかにどーんと入りこんで来たのである。それはどこか悄然とした寂しい「」の影のようなもの。つまり七つのカッコが疎外したところのものの全体が、入りこんできたのだった。これ、そこまで計算してつくってるならすごい技法だね。「光が丘」っていう固有名詞も逆説的ですごく効果的だし。

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パーキングエリアのCDコーナーのチョイスはこの世の不思議のひとつ
                               (ホリデー・メイキング/伊波真人)

 読んだ瞬間に笑ってしまった。何度よんでも笑ってしまう。なぜこんなに可笑しいのか自分でもよく分からない。なのに、思いだしては笑ってしまう。「パーキングエリアのCDコーナーのチョイス」がどういうものか、じつは私は知りません。でも、想像はつくんです。たぶんこの一行って、世界の裂け目つまり断層なんだとおもう。ものごとがこちらの感覚とあまりにもズレすぎてると、そこに〝断層〟がうまれる。しかもそのズレ感覚を「この世の不思議のひとつ」としてやさしく受け入れているよね。それにしてもうまく切り取ったな。このホノボノ感はなかなかだせない瞬間芸、こんなにも人を幸せな気分にしてくれるなんて、やっぱりすごいよ、言葉のちから。

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夜道ラブ 眼鏡に心がうつる夜 ジュースを飲んでジュースをあげる
                              (みちるとうつる/岡野大嗣)


 あえて深読みはいたしません。深読みすると液状化がおきて「」が吹きだしてしまうから。でも「夜道ラブ」って言葉、すごくない?これだけで宇宙がひとつぱっと生まれちゃう、そんな言葉だな。「眼鏡」にうつるときって、レンズのかたすみに視界のそとの光なんかが反射してみえる、あの感じだよね。それが「」だっていうことは、それぐらいかそけき仮象にすぎないってことかな。この一行のなかで実体は「ジュース」だけです。これはふたり(恋人どうし?)で一本のジュースを回し飲みしあうっていう歌だよね。「」がそんなだから自分も相手もほんとうに実体なのか自信がなくなる。でも「ジュース」が「ラブ」をつなぐんだな。こんなエロス表現、いいじゃないですか。

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凍蝶のようだね二人押しボタンだとわからないままたたずんで
                           (かげよかたちよ/岡本真帆)


 白状します、はじめに頭をよぎったのは「二人押しボタン」でなんだ(?)という疑問でした。よく核兵器の発射ボタンなんか二人以上の人間がおさないと作動しないなんていうじゃないですか。そんな見当はずれなことを考えてしまった自分が馬鹿でした。ちゃんと五七五七七の原則にここは戻るべきでした。すると「凍蝶の/ようだね二人/押しボタン/だとわからない/ままたたずんで」――こんな区切りになるね。どうしたら、なにをいったらよいのか分からない「ふたり」のメタファが「凍蝶」なんだな。うーむ、ここで57577は意味の秩序をうむための透明な道具でしかないわけだ。だがもじもじし合っている若い男女のほほえましいイメージは鮮明に湧いてくるから不思議だ。

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突然だけど春のすべてを噛むために顎が強めの犬になりたい
                          (犬になりたい/荻原裕幸)


 おっと、正面から攻めてきたね!それも意表をついて。一瞬その手にはのるものかと思ったものの、時すでに遅し、やはりのってしまうんだな。ふと自分の青春期を思いだしていました。あの頃って生理的なものやら野心的なものやら意味もなく暴発的なものやら、いろんな欲望がアマルガムになって渦巻いていた。「春のすべてを噛む」って表現は、僕をそんなぎらぎらしたイメージで捉えました。そうだよな、顎が強くなければできないことだよな。「犬になりたい」ってそういうことなんじゃないの? 狼はこの国では絶滅したようだし、「」は自分たちのなかに残された数少ない〝野生の証明〟たるにふさわしい。短歌なのに、とつぜん犬に吠えかかられた時のように本当にビクッとさせられた。

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バラバラの僕を拾って縫ってくれてありがとうでも捨ててください
                             (酸性雨/金田冬一(おばけ))


 俺のことなんか放っといてくれよ、といいたいのじゃ多分ない。もっと複雑な感情がここには木枯らしのように吹いているね。そう感じる。なぜだろうか。僕にはいま雨のなかをひとり立ち去って行く托鉢僧のような作者の後ろ姿がみえるような気がしてるんです。じぶんの生き方をこの一行はイメージしてつくられたんじゃないだろうか。「バラバラの僕」って、ひょっとして自分の短歌のことなんじゃないか?そんなことまで考えましたが、ちょっと深読みしすぎかもしれません。「ありがとう」と微笑んで、すぐに「でも捨ててください」という返しはドキッとさせるつよい印象を残します。強固な拒絶の意志を感じます。こっちは逆に茫然としてしまう。でも孤絶を選ぶってそういうことだろう。引き止めないよ。

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世界が今日も工事中なので会えない絵文字の鳥を送ります
                         (未完成クラブ/カニエ・ナハ)


 歌わない短歌というものがあるなら、たぶんこういう一行詩になるんだろう。とりあえず五七五七七は度外視されていて、文体は平叙文を装って練られていますね。だから意味のほうが逆に重量をましているようにも感じます。「工事中」とあっても、いまは道路工事やビル工事や地下鉄工事をイメージする人はいないんじゃないかな。僕でさえホームページの未完成サイトの表示記号として連想するくらいだからね。つまり「世界」ってこの場合、言葉じゃなくてヴァーチャルな表象なんだな。「今日も」ということは、おそらく明日も明後日もそのさきもずっと「工事中」だということを暗示しているよね。「絵文字の鳥」は、だから送ってもらっても決して届かない〝言葉〟のことなのかも。

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生命の痛みに耐えて飲む水のデクレッシェンド/アッチェレランド
                             (間氷期、その光/上條翔)


 辛いです、正直いって。表白されているのは、ある種、絶対的な痛苦のようなもの。それしか分からない。分かることは、生きているがゆえに痛みがあること。そして痛みに耐えなければ水を飲むことができないこと。分からないなりに想像できるのは、ふかく病んだ身体性のここがゆいいつ可能な宇宙だということ。水を飲まなければ、たぶん、そこから先はもうないこと。でも水が「生命」を潤している感じがまったくしないこと。やっぱ辛いです。でも五七五七七がそれら全部を呼びだしては、しっかり統率している姿は立派です。毅然としています。カタカナ語にも音律は宿るのですね。「デクレッシェンド/アッチェレランド」は音楽用語ですが、ここでは締めの音律です。

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夕暮れに缶ビールのフタそっと開け一口飲んで減っていく今日
                           (そっと/狐火)


 「減っていく」といいながら、じつは満ちていってるんだよね、たぶん。けっこう手堅い喩法を駆使してる。ビール会社の広告に採用されてもおかしくないくらいだよ、マジで。それくらい幸福感があふれてる。「今日」なにがあったかなんて、とりあえず関係ない。この一行はそこで勝負しているのじゃない。駆使するのは意味的な喩じゃなくて、像的な喩。缶のなかで減っていくのは「ビール」であり、それを述べることで実は今日一日の疲労がやわらいでいく様を可視化することに腐心している。「そっと」という副詞がここでは抜群の効果を発揮してるね。心のやすらぐ感じがこの副詞で担保され、さらに全体を包みこんでいく。こういう勝負があって悪いことはなにもない。

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キスってさ、どんなんやろね そう言って高橋がふりむいた 逆光
                             (ザリガニをちぎって/木下龍也)


 ほとんどコミック・タッチの情景ですね。そう、情景です。「逆光」って言葉がすごく光ってる。語り手の視点はこのとき、まぶしい光がくる方向にむいているわけで、ふりむいた「高橋」がどんな顔をしているのか分からないところがミソなんじゃないかな。でも、僕の想像のなかではまっ黒い影になった彼のまっ白い歯並びまでがはっきり見えるんですよ。不思議ですよね、そんなことどこにも書かれてないのに。「キスってさ、どんなんやろね」とつぶやく「高橋」は、ここでは初心な男子の象徴と化していて、なんかすごく神聖な感じが漂ってくるのは気のせいだろうか。「逆光」のなかにあるからこそ、輝くものが絶対あるんだと思う。「キス」もたぶんそう。違うかね。

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目を狙って指突き出した春の夜の路地裏の詩をきみに聴かせた
                           (目を開ければ/小坂井大輔)

 どこか危険な雰囲気がただよってくる。「」なんて安全無害なものだと思ってるだろ?冗談じゃないぜ、「路地裏の詩」を教えてやるよ、とでも言いたがっているような。基本構文はさいごの七七で表出され、そこまでの五七五は「路地裏の詩」にかかる形容部分ですが、この畳みかける手法が効果的に生きているね。どこか荒んだ感じのダウン・タウンの路上、角をまがったとたんにストリート・ギャングの一団にいきなり目つぶし攻撃を食らった、そんな直感に襲われましたよ。一種のショック療法で、はじめに強い印象をなげつける。でも語り手はそれをやさしく「聴かせた」とむすぶことで、鎮静化をはかることも忘れない。いまの短歌世代の〝やさしさ〟をすごく感じるね。

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遠く光るは幻か陽炎か 狐の嫁入り ジェンダーレス
                       (去し春/GOMESS)


 言葉よりもはやく走るものがあって、あとから言葉がそれに追いつくのか。それとも言葉のほうがさきに走って、読み手があとから追いかけるのか。ひとすじ縄ではいかない問いだが、それらが交互にくりかえされるケースというのもありそうな気がする。「遠く光るは幻か陽炎か」は言葉がなんとか追いついた部分、ぎゃくに「狐の嫁入り ジェンダーレス」は言葉がさきにおかれて、読み手は後追いさせられる部分、のような気がする。これだけ断層が鮮やかだと、焦点像がむすばれにくいぶんだけ、短歌としての解像度は意味をうしなって、読みの自由度は拡大の一途をたどる。読み手の主体も色をうしなって、すでにして「幻か陽炎」になっている。すごい戦術もあったもので、歯がたちません、勝負になりません。

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つり革をゆずったあとの空中できみの手のひらしぼみはじめる
                           (もより/向坂くじら)


 しぼみはじめる」は感情表現だろうか。どうもそんな気がする。でもそれってどんな感情? ちょっと、それは言えないな。言えない感情の「感情表現」って、やっぱりすごくない? はい、そう思いますね。席をゆずることはあっても「つり革をゆずる」ってあんまり聞かない。てか、ふつうはやらないことで、仮にやったとしても行為の意味はいまいち不分明なままだ。そんな「きみ」の存在感は空中に浮遊した状態になり、それが「空中で」の表現につながっているとしたら、それも感情表現ということになるね。この短歌は「きみの手のひら」が主人公であって、「手のひら」はヒトデのように独立した生物になっていて、ひらいたりしぼんだりが感情表現になるって考えると、納得だわな。

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海の絵を見たあとで海を見ることは裏切りといえば裏切りだった
                            (裏切りといえば裏切り/鈴木晴香)

裏切り」といわなければ「裏切り」じゃなかったのですか? 「海の絵を見たあとで海を見ること」ってじっさいの行為ですか?それともたんなる喩えですか?喩えだったら、べつに「」でなくても〝空〟でも〝星〟でもぜんぶ「裏切り」になるのでしょうか?そんなことより「」を見たあとで「海の絵」を見た場合はどうですか?それも「裏切り」になるんでしょうか?「裏切り」といわなくたって〝裏切る〟ことは普通にあります。そうじゃないんだよね。たぶん、ちょっとした後悔があったんだと思う。止めときゃよかったのに、やっちゃった~というあの感じ。やったのは自分だから、自責の念もそこにすこしだけ混じってる。大丈夫、それ、ちゃんと伝わってるし。

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車窓からよその田畑は青々と 冷めてもうまい家のおにぎり
                          (草刈りエレジー/高橋久美子)


 おにぎりは、私は冷めたやつのほうが好きです。それもあってか、「冷めてもうまい家のおにぎり」という箇所を読んで、むかし母親のにぎってくれたおにぎりの味がまざまざと甦ってきました。言葉をよんでお腹がグーとなったのはこれが初めてです。なぜこんな素敵なことが起こったのか?たぶん、あくまでたぶんですけど、七七の下の句がほとんど何も装飾のないシンプルそのままの表現だったことが、その理由ではないだろうか。五七五の上の句はガラスごしの風景描写。都会在住で、かつ農業従事者でもあるという作者の生活スタイルの反映が、そこに距離感となって介入していることは否めない。だから、あいだの一字分の空白が、「冷めてもうまい」というベタな感覚表現に命を吹きこんだのだと思う。

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専門性発揮するには低すぎる景気を上げろよこの野郎
                       (空想転職絵巻/竹田信弥)


この野郎」って啖呵がこんなに鮮やかに吐かれた例は記憶にございません。それぐらい「この野郎」が生き生きしてる。輝いてる。皆さんは誰にむかって言われてるんだと思いましたか?そりゃあもう、景気をあげますあげますと御託ばっかならべて全然あげてくれない何とか首相とか何とか総裁でしょう、この場合(笑)。そもそも景気はあげるもんじゃないし、あがるものですからね。その人たちはできもしないことをさもできるかのように嘘八百ならべてるわけです。世の中に嘘の言葉がみちみちてるから、また一方で真実の言葉が輝くんだということがあるね。それをみちびくのは人々の思いであって、理屈ぬきの直感で十分シェアできる。こんなことまで短歌でいえるなんて拍手でした。

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もう死んだ という現在完了の報せに大きな鱗をもらう
                        (化石譚/千草創一)


 できごとはどれも純粋ではない。いろんなものがじつは混じりあって、できごとはできごとになっている。純粋なできごとって実はめったにない。で、言葉の世界は純粋なできごとがときおり起こる数すくない場所である。いや、やられましたね。この一行詩、かんぜんにそういうやつ。純粋なできごと。素晴らしい。ナンセンスじゃないよ。意味がないわけじゃ決してないよ。世界だってそうだろう。世界の存在に意味がないわけじゃない。でもどんな意味があるのかは誰にも分からない。「もう死んだ」って誰が?「大きな鱗」って何?誰からそれをもらったの?ぼくら読み手にそれが明かされることはなく、語り手がそれを語ることもない。この清らかさがいいよね、こういう純粋な関係って。

(続く)


短歌時評190回 Zoomと朗読 竹内 亮 

2023-08-08 22:34:46 | 短歌時評

 オンライン会議を使うことが増えた。
歌会や短歌講座や同人誌の準備会議は半分以上オンラインでやっている。ZoomかGoogle Meetというソフトウエアを使うことが多いけれど、ほかにもいくつかソフトがあってそれぞれ設定の仕方がすこしずつ違う。

 そういうソフトでマイクがきちんとつながっているか、ひとりで事前にテストをすることがある。Zoomだと「マイクのテスト」をクリックして、何か話す。この時、なにを話そうとすこし悩む。

 だいたい「こんにちは」とか「テストテスト」とか言ってみるけれど、音声テストとしてはすこし短くてもうすこし長いフレーズを話したいと思うし、数秒後にテストのためにソフトウエアがわたしの声を再生するときに、「こんにちは」とか「テストテスト」とかの自分の声を聞くとなぜかとても恥ずかしくなる。

 そんなとき、机の横にあった『赤光』の岩波文庫を手に取って、偶然開いたページにある歌を2首くらい朗読した。

真夏の日てりかがよへり渚にはくれなゐの玉ぬれてゐるかな

海の香は山ふかき国に生まれたる我のこころに染まんとすらん

 センテンスの長さもちょうどよいし、再生テストで流れてくる自分の声も歌がよいせいかなんだか立派に聞こえる。しかし、それだけでなく、音読してみると、『赤光』の歌のよさ(いまさらだけれど)が身体的に感じられた。

 自分で歌をつくっているとは「ごにょごにょ」と声に出して推敲するし、歌会に出て参加者の詠草を朗読して評をいうこともよくあるけれど、古典的な短歌を朗読する機会は実はあまりなかったことに気づく。

 テキストを黙読することとそれを音読することが大きく違うのはよく言われることだけれど古典を音読してそれが強く感じられた。

 それから、『赤光』の歌を音読してみる。そこでもうひとつ気づいたのだけど、自分の声がソフトウエアによって再生される過程というのも効果を発揮していると思う。だから、マイクのテストとは関係ないのだけれど、『赤光』を音読しながらマイクのテストを続けている。

 深夜ラジオをファンの人が書き起こしているサイトがあって、内容を知るにはそれでも十分だけれど、実際の音声を聞くのとはきっと大きな違いがあると思う。戯曲や台本を黙読するのと上演が違うのときっと同類なのだろう。

 短歌は黙読を前提としているのか音読を前提としているのか、ということを改めて思う。黙読して心打つ短歌はたくさんあるけれど、音読してみてわかる短歌もあるのだろうと思った。