「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評135回 汎化と特化:「短歌とポピュラリティ」を考える 浅野大輝

2018-08-02 09:17:50 | 短歌時評

I

 平成最後の夏が来た。いつだって夏は一回きりの夏のはずだが、「平成最後の」という形容にはどうしたって時間の重みを感じとってしまうもので不思議である。
 そんな夏の暑さのなか、短歌界隈にも平成という時間を振り返り、総括するような企画が目立ってきている。角川「短歌」2018年7月号の論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」はそのなかにあって多少異質だが、しかしそのテーマは平成を語るものとして避けては通れない、重要な視座であるだろう。


 だが、こうも言えるのではないか。そもそも「短歌」と「ポピュラリティ」とは、相容れない、あるいは親和性の必ずしも大きくはないもの同士なのではなかったか、と。自作の短歌を公にするに当たって歌人は、ポピュラリティを求めるべきではない、少なくともそれを第一の目標とすべきではないだろう。もし求めるとしてもそれは、現時点における束の間のポピュラリティではなく、未来における永遠性を孕んだポピュラリティであるべきだ。おそらくこれは、あらゆる文学ジャンルについて、いや全ての藝術について言える、創作行為に携わる者に普遍的な在り方なのではないだろうか。
石井辰彦「ポピュラリティという名の不名誉」[1]


 石井は若い世代の歌人たちの作品や歌集が手軽に読めるようになった現代に、短歌のポピュラリティの獲得を見出し、「喜ぶべきこと」と素直に賞賛する。しかしその一方で、時流にのって広まる短歌作品の質については「これら今を時めく作品群が『文学』と呼んでもよい水準にあるものかどうか、取り敢えずは疑問である」と苦言を呈する。上の引用は、そのあとに続く一連である。
 「文学」というなにものかをヒエラルキーの高みに据え、それに到達するためのスタンスを「こうあるべき」として提示する論調には反発を覚えないこともない。ただ、そこはいわば現代や若い世代に対する一種のポーズであって、論の本質ではないだろう。論の後半ではプルーストを引き合いに出しながら、「同時代の読者の多くに理解される望みは棄て、稀有な精神を持つに至るであろう未来の読者に望みを託すほかはない。天才に恵まれた歌人とは、そうした存在だと覚悟すべきなのである」と石井は語っている。あくまでも、石井の論点は「未来における永遠性を孕んだポピュラリティ」にあるのである。ここには、作品は時間を超えて届くのだ、そのために作者としてやれることがもっとあるんじゃないのか、という創作者への檄があるように思う。時間を超えて届く作品を目指すという姿勢には、共感を覚える人も多いのではないか。
 他方、現在の時点におけるポピュラリティを退けながら、未来におけるポピュラリティを求めるという部分に、なんとなく屈折したものを感じてしまう。もちろん、「現時点における束の間のポピュラリティ」という共時的な読者獲得と、「未来における永遠性を孕んだポピュラリティ」という通時的な読者獲得には、明らかな性質の違いがある。ただ、読者を獲得したいという作者の願いが見える点においては、両者は同質であろう。「いまの時代にそんなわかってもらえなくともいいんだ」と語りつつ、「でも、きっとこの先わかってくれる人が一定数いるはずなんだよ」とも願っている。そう読めてしまうこともあって、わかるなあと共感する反面、屈折してるなあとも思う。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
/石川啄木『一握の砂』

 近代歌人のなかでもっとも愛誦歌の多い歌人はと尋ねられれば、誰もが迷うことなく啄木と答えるだろう。(中略)
 青春の感傷性が現在の目から見るとやや過剰な所作とともに詠われている。(中略)しかし、一歩引いて考えれば、ある種の愛誦性を獲得するためには、このような過剰なまでに人々の心にベタに訴えかけるような俗世が必要なのかもしれない。
 総じて、啄木はいわゆる専門家人からの評価は低い傾向があるが、それはこのような過剰な表現が、世間一般に受け入れられすぎているところに起因するのかもしれない。しかし、歌は人口に膾炙して、いつも口ずさまれるような一般性を持っていないと、後世に残っていかないことも事実なのである。あまりにも芸術的、文学性が高くて、一部の人々にしか理解されないといった作品は、多くの場合、時代を越えて生き残る確率が低いと言わざるを得ない。むずかしい問題である。


永田和宏『近代短歌』(岩波書店、2013年)


 ポピュラリティを得ることと、作品における俗をはなれた質を確保することの両立、という話を聞くと、上に引いた永田和宏の言を思い出す。永田は啄木を愛誦性のある作品を多く残した稀有な歌人と評価しつつも、その過剰性やある種の俗っぽさを指摘する。啄木の作品は他にも多く取り上げられているが、こうした苦々しさを感じる言及は他の作品についても見られ、例えば「たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず」については「同業者としては、本当はこの一歩手前で表現を抑制して欲しかった」と述べる。評価しつつ、でもちょっと俗っぽいよね、と苦言を文章化してしまいたくなる気持ちは共感してしまうところもあるが、でもよく考えるとこの感覚はなんなのだろう。何かしらの形で読まれたい、だからといって大衆に俗っぽく迎合したくはない。わかってもらいたい、けれどわかってもらいたくない、そんな微妙なゆれうごきが、歌人という存在のなかには蠢いているかもしれない。
 論考特集「短歌とポピュラリティ」は、すでにその後編が角川「短歌」2018年8月号に掲載されている。様々な歌人が行うポピュラリティへの考察を、ぜひ読んで欲しい。



 ところで、「短歌とポピュラリティ」は、短歌作品が一定のポピュラリティを獲得しうるということには触れるものの、短歌作品と同様に短歌の世界の少なからぬ部分を担っている短歌評論については、ほとんどそのポピュラリティを検討していない。テーマ設定も影響しているのだろうと思うが、少しもったいないような気がする。
 短歌評論におけるポピュラリティとは、どのようなものになるだろう。
 ポピュラリティという語を、例えば『大辞林』に従って「世に広く知られていること」と取ってみる。評論にとってどこまでが「世」なのかは様々な捉え方があるとは思うが、評論の読者が一般的にはその批評対象に関心がある者であることを鑑みるなら、ひとまずは批評対象に関わる界隈を評論にとっての「世」とみても、不自然ではないだろう。そう考えると、評論にとってのポピュラリティとは、批評対象に関係する界隈における評論の認知度・知名度ということになるように思われる。つまり、批評対象を扱う分野で知られたり、利用・引用されたりすることが増えれば増えるほど、評論はポピュラリティを獲得できたということができるのではないか。これは学術的な論文の影響力が、その論文の引用件数の多さで語られることがあるのと似ているかもしれない。
 このような意味でのポピュラリティを短歌評論は獲得しうるだろうか。いくつかの例を考えてみるなら、ポピュラリティは獲得できる、というのが答えになると私は感じる。


 レベル①「私」…一首の背後に感じられる「私」(=「視点の定点」「作中主体」)
 レベル②「私」…連作・歌集の背後に感じられる「私」(=「私像」)
 レベル③「私」…現実の生を生きる生身の「私」(=「作者」)


 普段曖昧に用いられている「私」という言葉をこのように三つの「私」に区別し、定義し直してみると、読者の「読み」の枠組の分析が容易になってくるだろう。

大辻隆弘「三つの『私』——近代短歌の範型」[2]


 例えば上に挙げた大辻の「私」のモデル化は、近年様々な批評・評論において引用・利用されている。原文を読んだことがなくとも、別の評論中でこの大辻の考えを読んだことがある、という人も多いのではないか。そう考えると、これはひとつの評論(正確には、その発想の一部)がポピュラリティを獲得しえている状況と言って良いように思われる。
 現代においても多く参照される評論というなら、他にも数多く例を挙げることができる。いまぱっと思いつくものであれば、穂村弘「〈わがまま〉について」(角川「短歌」1998年9月号)、小池光「句の溶接技術」(「短歌人」1981年7月号)、永田和宏「『問』と『答』の合わせ鏡I」(角川「短歌」1977年10月号)、岡井隆・金子兜太『短詩型文学論』(紀伊国屋書店、1963年)など。釈迢空の一連の女歌論や、斎藤茂吉「短歌に於ける写生の説」(「アララギ」1920年)、正岡子規「歌よみに与ふる書」(「日本」1898年)や、さらに遡って紀貫之「古今和歌集仮名序」もそうだろう。原文を読んでいなくとも、そのなかのフレーズや考え方などを別の文献を通して知っているということは非常に多い。これも一つのポピュラリティであると言えるだろう。
 これら評論がポピュラリティを獲得しているのはなぜか。少し考えてみると、これらはそれぞれ全く違う内容について論じていながら、ある共通の性質を持つことに気がつく。その性質とは、短歌の議論における汎用性である。つまりこのそれぞれの論には、短歌に向かう際の思考の枠組みを提供する部分がある。それが多くの論者にとって活用に耐えうるものであったがために、結果としてポピュラリティを獲得しえたのではないか。
 例として、もう一度大辻の「三つの『私』」を見返してみる。この「私」の分類は、時折指摘されるように大まかなものであってそのまま適用可能なものではないかもしれない。ただ、多くの人にこの「私」の分類が利用可能なのは、その大まかさや抽象性の高さによってこそなのではないだろうか。大まかに捉えているが故に、個別の事象の細やかさについて掬い上げることができないことはある。ただし、大まかに捉えているが故に、細やかな部分については、これを利用する各論者が自身の判断でさらにチューニングして利用することもできる。思考の枠組みの一つとして大辻の論があり、他の論者はそれを各自チューニングして活用することで、自身の論を構築しやすくなったのではないか。
 上に例示した他の論もまた、大辻の論と同様の構造でポピュラリティを得ているように私には思える。フレームワークとしての汎用性の高さが、論のポピュラリティにつながっているのである。
 論理的な思考を展開していくときの基本的なフレームワークとして、一般に演繹法と帰納法がよく挙げられる。演繹法は、何らかの一般的な法則や前提から出発して個別の結論を得る。対して帰納法は、複数の個別の事象から一般的な法則や前提を得る。前者は法則から事象へと特化していく思考であり、後者は事象から法則へと汎化していく思考であると言い換えることができる。この特化と汎化の両方向の動きを繰り返すなかから、汎用性のある理論や、個別の事象に対する細やかな着眼が生まれてくる。そして汎用性ある理論は、その汎用性ゆえに広く活用され、ポピュラリティを獲得し得るのではないか。



 翻って、現在の短歌評論の様相を見回してみる。
 大辻の「三つの『私』」のように、汎用性の高い論は少なからずある。ただ、現代においてそうした汎用性ある評論を生み出すことには、ある困難がつきまとっているように思えてならない。
 例えば、短歌とジェンダーの関わりについて評論を書こうとする。短歌というのもよく分からない大きな括りだが、ジェンダーというのもそのままでは非常に大雑把な括りであろう。一口にジェンダーと言ってみても、内実を見れば様々なジェンダーの視点がある。これらジェンダーの数々の視点を捉え、汎用性あるフレームワークを提供することは可能だろうか?
 あるいは、短歌と労働というテーマで評論を書こうとする。労働といっても、現代においてはその問題とするものが数多く存在する。それら諸問題を統合し、汎用性ある短歌の理論を構築することは可能だろうか?
 これらは決して不可能ではないのかもしれないが、非常に難しい課題となることだろう。一般に汎化すればするほど、その捉え方は大雑把なものになりやすい。汎化には汎化の弊害がある。もちろん、難しいからといって問題を放り出してはいけないのだが、多様性が拡大していく現代において、汎化の弊害は恐ろしい。多様になれば多様になるほど、そのそれぞれの差異を細やかに認識していくことが必要になる。その状況下において、「細やかな差異を見落としうる」という汎化の性質は、大きな抵抗感を持って受け止められるだろう。
 そうした視点で現在の評論を眺めてみる。それぞれの論者が知力を尽くして執筆している論ではあるのだが、必ずしもポピュラリティを獲得しうるような、汎用性あるものばかりではない。むしろ、上記のような汎化の弊害を避けるため、ひたすらに個別の事象の差異を細やかに認識しようとする特化の思考が強いのではないだろうか。それは各人の良識によるものでもあると思うが、本当に特化の思考を中心に据えて大丈夫なのだろうか?
 特化には特化の弊害がある。特化とは、基本的に汎用的であることから逃れていく思考である。それゆえその議論は、非常に限られた人々のみが受容・参加するものになりやすい。いわば議論の島宇宙化を促進する側面があるわけである。この状態で行われる議論は、いずれ袋故事に迷い込んでしまう危険性がある。
 こうした島宇宙化は、別の問題を引き起こすことにもなる。評論は多くの場合、自分が思考し理解するために書かれるだけではなく、他者に自分の思考を受容してもらうためにも書かれる。しかし、特化によって議論が島宇宙化することが進むと、必然的に評論を受容してもらえる機会は減少する。受容されることを求めながら、その受容が満たされないという負の状況に陥る構造がここにはある。この状態は受容されることの価値の高騰など、さらに別の困難を引き起こすことにもなるだろう。
 さもすれば特化重視に大きく偏りそうな多様性の時代ではあるが、多様であるからこそ汎化できる論点を意識的に探すということもまた、大切ではないだろうか。特化しきったものがなにか具体を超えて一般性を帯びるということももちろん考えられるのだが、そこにあるのもまた汎化の働きであろう。汎化するということは、いわば分断を拒否し、多くの人との共通理解を作り上げようとする試みでもある。特化によって対象を注視し、そこで浮かび上がってきたことがらのそれぞれを汎化によって俯瞰する。そのゆれうごきが、いつの時代も新鮮な論を形成する。短歌評論のポピュラリティは、そうした汎化と特化の振動に発生すると、私には思われる。



 汎化と特化という発想で再び短歌作品を眺めてみると、短歌という詩型それ自体が実は汎化と特化のぶつかりあう境界であったかのように見えてくる。
 短歌に特徴的なのは、5・7・5・7・7を基調とする定型の存在である。この定型の存在が短歌を短歌たらしめているが、一方でこの定型以外の部分では、短歌を短歌たらしめているようなルールのようなものが、あまり見当たらない。おまけに、この唯一のルールである定型でさえ、ざっくりと5・7・5・7・7のリズムを想起させるものであれば良い、というくらいの寛容なものである。言葉の拍数によるリズム、それをさらに拡大解釈して捉えていくような機能が定型にはあるが、こうした定型の抽象度の高さが、あらゆる個人の心情や発想を作品化するのに役立っている。定型というものを通して個人が個人を超えていくような、汎化のプロセスが存在しているとも言えるだろう。
 また、短歌作品を読者として読み解き、自身の言葉で語るという場面を考える。作品という汎化された存在を、ある読者の語りに落とし込むというのは、まさに特化のプロセスと呼べる。批評や評論が特化の思考をまといやすいのは、読みという行為自体が特化の方向に向かうものであるからと考えることもできる。
 汎化によって広く人々に伝播していくことを期待しながら、汎化の過程における細やかさの損失に疑問を感じて特化を求めたり、さらにその特化の弊害についてなんとか避けられないかと苦慮したりもする。短歌のポピュラリティを語る際に生じてくる心のゆれ——わかってもらいたい、けれどわかってもらいたくない、そんな微妙な心的振動は、短歌における汎化と特化のせめぎ合いに起因するのではないか。作品にせよ評論にせよ、自身のなかの汎化と特化の振動に対して意識的になることが、単なる共時的なポピュラリティという枠にとどまらない、豊かな作品・評論を生み出していく鍵なのかもしれない。

■註
[1]角川「短歌」2018年7月号・論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」所収
[2]大辻隆弘『近代短歌の範型』所収

■参考文献
[1]石井辰彦「ポピュラリティという名の不名誉」(角川「短歌」2018年7月号・論考特集「短歌とポピュラリティ(前編)」所収)
[2]永田和宏『近代短歌』(岩波書店、2013年)
[3]大辻隆弘『近代短歌の範型』(六花書林、2015年)
コメント (1)

短歌時評134回 「高島裕『抵抗の拠点』に思うこと 」北村早紀

2018-08-02 09:15:55 | 短歌時評



 ものを書くようになってからずっと、そしてこの半年はより一層、自分はなんのために書くのだろうと考えてきました。「橋を架けるため」というのが(生意気ながら)最近のお気に入りの答えですが、もちろん最終の答えはまだ出ていません。
 「(当事者ではない)あなたにはわからないからもういい!!」というフレーズは、言うまでもなく自分とは違う立場にいるひとに対して戸をぴしゃりと閉めるような効果があり(大人はわかってくれない、男には/女にはわからない、など無数のレパートリーがある)、言うと決め台詞のようでなんとなく達成感があるのでつい言ってしまいそうになりますが、結局のところはコミュニケーションの放棄なので、言わないように気をつけています。今回のことも、そのように片づけることは簡単ですが、それでは何にもならないので、できる限り丁寧に考えてみました。あなたの立ち位置からは見えにくいかもしれないけど私からはこういう風に見えるよ、という話し合いを丁寧に積み重ねた先にしか学びはないと思うからです。
 はじめに書いておかないと望まない事態を引き起こす可能性があるので書いておきますが、私は喧嘩がしたいわけではありません。ましてやこの件を「炎上」させたいわけでもなくて、冷静に私の考えを述べ、叶うならばいろんなひととこの件について話し合うきっかけにしたいのです。

 未来の七月号の高島裕さんの『抵抗の拠点』という時評に関して、いくつか考えてみたいことがあります(未来の時評はネット上でも読むことができるので、未読の方はこの機会に読んでいただければと思います。)。
 高島さんの時評は今年度のはじめあたりに大きな話題となった福田元財務次官の「セクハラ騒動」を話の出発点としています。この時評からは高島さんがこの「セクハラ騒動」による辞任を不当なものだと考えていることがわかります。
 報道は、次官本人と財務省を断罪し、麻生大臣の責任と不見識を言い立てるばかりで、テレビ局側が、かねてから嫌がっていたという女性記者をあえて次官の取材に差し向けた理由や、取材元である次官に無断で録音した音源を、他社に持ち込んで公開させたことの職業倫理上の是非を問う声はかき消されてしまった。「セクハラは許せない」という、誰にも反対できないお題目の前に、すべての疑問が封殺された形だ。
 まず私は「騒動」という表現に疑問を持ちました。「騒動」というと軽く聞こえますが、私はあれはれっきとした人権侵害に関する事件だったと認識しています。とすれば「騒動」ではなく「事件」、もしくは控えめに表現するとしても「問題」くらいにはなるのではないかと思います。また「セクハラは許せない」ということを「お題目」と表現したことも気になります。辞書を引いてみると、「お題目」とは「口先だけで、実質のともなわないこと」とありますが、まさか「セクハラは許せない」ということをそのようなことだと考えられているとしたら、私とは大きな認識の違いがあると言わざるを得ません。なぜなら、お題目などでは決してなく、心の底から「セクハラは許せない」からです。人が不当に圧力を受けたり不当に取り扱われたりすることを、私は許せないと感じます。セクハラというとどうしても性別を絡めた話になり、そうすると男性対女性の争いのようになってしまうこともありますが、そうではないと思います。すべてのひとが侵害されずに生きていけるようになるために、セクハラを許してはならないのだと考えています。
 上記の文章からは高島さんが、今回の事件の対応は強引であったと考えていることがわかります。その強引さについて、高島さんは「粗雑な手法が、ジェンダーとセクシュアリティをめぐるさまざまなコンフリクトを風通しの良い方向へ導きうるとは到底思えない。」と述べています。私は、これにも違和感を覚えます。今回の対応は確かに強引だったかもしれません。しかし、どんなことにも最初があり、続けていくうちに内容が洗練されていくのだと私は思います。むしろ、今回に関して言えば、強引な方法をとることでしか状況を動かすことができなかったのではないでしょうか。最初にこの事件について知ったとき、私も多少強引だと感じましたが、それ以上にこれは正当防衛だとも思いました。忘れてはいけないのは、表沙汰になってはいなくてもこのような出来事は日常に溢れているということです。私にも、女性だというだけで低く見られた経験があります。なかったことにされがちな出来事がしっかりと世に問われたということを、私は得難いことだと思います。

 この件で、とりわけ筆者が気になったのは、会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまったことだ。
 これを高島さんは「言語観の貧しさ」と書いていましたが、私はここにも疑問があります。高島さんが書いている、切り取られた会話の一部とは、具体的に示すと「抱きしめていい?」「胸を触っていい?」などの言葉です。このような発言が許される文脈は非常に限られていると考えます。具体的に言えば、その非常に限られた文脈というのは相手がそのような関係性に合意しているような場合でしょう。そして、相手の方が告発に至った以上、お二人の関係はその文脈上のものではなかったのではないかと推測します。たとえ元財務次官に悪気がなかったとしても、相手が告発したということは、相手をよくない気持ちにさせてしまったことは動かしようのない事実なのではないでしょうか。
 これでは筆者が女性だから女性に肩入れしているのではないかという感じがしてしまうかもしれないので、念のため、告発した側にはじめから財務次官を貶めるような悪意があったという可能性について考えてみます。だとすれば、これは元財務次官の「言語観の貧しさ」が招いた結果ではないでしょうか。「抱きしめていい?」「胸を触っていい?」などは非常にハラスメントと受け取られやすい言葉です。財務次官として発言を求められた場でそれらの非常にハラスメントと受け取られやすい言葉を使うという判断が言語観の豊かさから来るものだとは私には到底思えません。高島さんが指摘する通り、言葉を扱うときには「言葉そのものが孕む多義性や、生きた会話がもたらすさまざまなニュアンス、当事者同士のこれまでの関わり合いや双方の性格などから生まれる雰囲気や文脈といった、言葉と、言葉をめぐる環境との重層性」を意識することが必要となってきます。そのことに関しては私も高島さんに同意します(「騒動」「お題目」に関して前述のように私が違和感を覚えたことも、言葉の多義性によると言うことができるでしょう)。しかし私は、それは読み取る側だけでなく、使う側に関しても同じことが言えると考えます。つまり「抱きしめていい?」「胸を触っていい?」という言葉を、読みとる側がその重層性を意識して判断する必要があるだけでなく、その言葉を発する側もその重層性を意識しなくてはならないということです。相手は自分と同じ気持ちではないかもしれないし、自分を貶めようとしているかもしれないのです。元財務次官は相手がどのようにとらえるか、相手をどのような気持ちにさせるか、ということにあまりにも無頓着で無神経な発言をしたために、その発言に足元をすくわれたと考えることもできます。

 短歌という詩型が「一義的言語によるわかりやすい物語を生産し消費させてゆく巨大な力への、ささやかな、しかし強靭な抵抗の拠点であり続ける」というのは、納得できるような気がします。短歌に限らず詩とはそういうものだと思います。
 短歌は定型という限られたスペースがあるからこそ、全てを言い尽くすことは難しく、それぞれの言葉のあわいで表現することになります。例えば歌会に歌を提出したとき、作者としての自分が想定した以上に読みを広げてもらえてわくわくするようなこともありますし、狙った意味合いが伝わらなかったり、不本意な伝わり方をするもどかしさもよく経験します。だからこそ私たちは、繊細な手つきで言葉を扱わなければいけないのだということを身を以て知っているはずなのです。

高島さんの時評が発表されたことで、考える機会をいただけたことを大変ありがたく思います。
コメント

短歌相互評24 木下こうから三上春海「撤退戦」へ

2018-07-29 23:38:17 | 短歌相互評
 三上さんの作品世界に漂う、不確かで象徴的な存在性、言葉と言葉の繋がりの不思議な質感をどんなふうに捉えたらいいのだろう。一読、意味の取りにくい作品もあるが、トリッキーな訳でもないように思える。ただ、輪郭を奪われたかのような動揺を覚えた。一首一首を、何が有力で、何が無力なのかを測りつつ読んだ。

人間はひとりにひとつ持たされた三百円のおやつであった
 人間なのだとされている「三百円のおやつ」を持っている「ひとり」も人間なのだろうか。森羅万象や時空世界のような、大いなるイメージも立ち上がってくる。どちらにしても逆説めいた一首だ。

ひとりひとりに生誕日あるかなしさを鎮めるようにゆれる炎は
 バースデーケーキに立てられた蝋燭の炎なのだろう。「生誕日」という硬質な言葉選びが、炎のゆらめきの重々しさを映像化させてくれる。

生きているひとはいいねとおもいつつ帰っていったツナマヨネーズ
「ツナマヨネーズ」が誰かの手で冷蔵庫に仕舞われたのだろう。だとすれば、一句目から四句目までが「ツナマヨネーズ」の擬人化に使われているのだが、間延びした感じはない。「おもいつつ」のひらがな表記の力無さが効果的だ。

赤ちゃんは生まれてこない 月面の低重力のスケートリンク
 地球上の重力でなければ、受精は完了しないらしい。結句の「スケートリンク」はそんな不安定さの象徴だろうか。月色の冷たさも伝わる。

ナナフシは鳥に食べられ遠くまで卵を運んでもらうだろうか?
 調べてみたら、ナナフシの卵はまるで木の実のようだった。ナナフシ自体も小枝に擬態していて、ほんとうに植物そのもののような昆虫だ。この作品では生より死が、捕食者より捕食される者が有力だ。

ペグシルの芯のようなる断片が転がっているかばんの底に
「ペグシル」は鉛筆の先だけをプラスチックの柄にはめ込んだような小さな筆記具だ。作品中の「断片」が何かはわからないが、そういえばそういうことあるある、と納得させられる。倒置法で静かに置かれた結句が、読み手をあざやかに実感へ導いている。

犬がいますのシールがやたら貼りついた玄関だけがある芥子畑
 一読、不思議な作品だが、子どもの頃の感覚に戻って鑑賞するとよく解る。「玄関」は畑の囲いにある、ただの入り口なのだろう。「犬」はほんとうにいるのだろうか。たくさん貼られた「シール」の中の一枚なのかもしれない。そう考えると、幼い頃の記憶の錯誤のようなシュール感が楽しめる。

人類は滅びたあとに目が覚めてスクランブルエッグを焼くだろう
「滅びた」ものとは何なのか。例えば、人類の誕生より以前に絶滅した、恐竜や猿人などを基点にして鑑賞しても面白い。滅びたのが人類だとすれば、「スクランブルエッグ」が廃墟と化した都市の惨状を連想させる。「目が覚めて」に生をイメージするのか、死をイメージするのかが醍醐味だ。

さよならの森林浴に行きました 兵隊さんはみんなの誇り
戦争で手をつなぎたいだけなのに手はつなげない 蝋燭がきれい

 表題の在り処のようにも思えた二首。表題の通り、戦う意志は感じられない。戦争ではなく、仕事や人間関係など、日々の生活にある不調和を投影しているように感じられた。「森林浴」、「蝋燭」、清らかなモノが有力だ。

妹はいないのだった 妹が冷たい水を渡してくれる
 不在という存在。いる人よりもいなくなってしまった人が、人の心を充たすことがある。「わたしには世界の果ての私がコーヒーカップをテーブルに置く」香川ヒサさんの一首を思い出したりもした。

水切りの平たい石がこの国の頭に絶えず降ってくる夏
 夏を蒸留したような一首だと思った。二句目までの具象が新鮮だ。「この国の頭」の意図がうまく読み取れないのが悔しい。

人類の楽しい走馬灯であるアドベントカレンダーめくるかな
「人類の楽しい走馬灯」という表現に心が惹かれた。十二月の独特の雰囲気や空気感を、一抹の悲しさを添えて伝えてくれる。人は亡くなる時、走馬灯のように人生を思い出すという。それがこの作品のままに、クリスマスを待つような楽しさであってほしい。

光りは屈折する 透明な夢のなかを――田村隆一『緑の思想』
いつの日か子供のころに抜け殻の犬をあつめる遊びをしよう
 初句と結句は未来に向けられているのだが、「子供のころ」とは過去だ。このちぐはぐ感を詞書が開いてくれる。夢への道のりを探っているかのような作者がいる。

フードコートのいたるところでそれぞれの警告音がひびく海の日
 セルフサービスの飲食スペースで、注文の料理が用意できたことを知らせるブザーの音のことなのだろう。「いたるところで」「それぞれの」と畳み掛けているところに、休日の人混みの中での、作者の居た堪らなさを感じた。
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短歌相互評23 クユ?―三上春海から木下こう「クユ」へ

2018-07-29 22:33:18 | 短歌相互評
「クユ」の読み方がわからないとおもった。

 カナカナと気づけば「くゆ」なのだけれども、初めてみたときには記号のようにも、久、匸、勹、工、といった漢字のようにもみえる。「くゆ」、という音を日本語で考えれば「悔ゆ」「崩ゆ」などがおもい浮かぶが、ふつうはあまり聞かない言葉だ。なんでしょう、と、問いが投げかけられているようなふしぎなタイトルだとおもう。

   *

 タイトルと作品はたとえば問いと答えのような関係にある。「クユ」とはなんだろう、とか、「翻訳者の使命」とはなんだろう、などという疑問からものを読み始めるとき、作品には答えの役割がすくなからず期待されてゆく。一方で、眼の前にあるこの絵画は、この彫刻作品はなにを表現しているのだろう、などという疑問を抱いたとき、わたしたちはときに答えを求める気持ちでそのタイトルを知ろうとするだろう。

 だから、タイトルと作品は問いと答えのように機能するけれど、そしておおむねは鑑賞者の目に先にふれたものが問いの役割を担うけれど、どちらがどちらになるのかに決まりはない。また多くの場合、作品とタイトルの、そのどちらもが本質的には答えという機能を担いきれない。作品鑑賞のあと、タイトルとして「新しい天使」「都会の回路」などを与えられたとして、それらは答えというよりも、次なる問いの起点となってゆくのではないか(逆の場合もそうだ)。問いと答えの関係の、その定まらない流動性のただなかに、作品とタイトルは浮かんでいる。

   *

めぐすりをふたつ買ひたりどちらかは植物になる夏をあゆめば


 ふしぎな歌だとおもう。頭から順に、「なぜ〈めぐすり〉はひらがななのだろう」「ふたつ買ったのはなんのためだろう」「どちらか、の対象となっているのは何と何なのだろう(目薬たちだろうか、その使用者たちだろうか、それとも……)」「植物になる、とはどのようなことだろう」「夏をあゆむ、もふしぎな言い方だ」などと、一行の終わりまでに、さまざまな疑問が瞬時に立ち上がってくる。

 ふしぎさ、あるいは問い、は木下こうという歌人の一貫したキーワードであるかもしれない。タイトルも作品も、一首や、一語という単位で謎を秘めていて、噛み締めるたび、わたしたちのこれまでの鑑賞態度があらためて問い直されてゆくようだ。なにか知らないものを食べたとき、おいしさの判断に先行して新しい味への驚きがおとずれて、一口目だけでは感想がうまくまとまらない、ということがある。「クユ」においても、意味と答えを探ろうとする前の、一行に含まれる問いの密度と新鮮さを、まずはとてもたのしいとおもう。

   *

こなごなになつた塗料をベンチからデニムに移すよろこびながら

 作品とタイトルのうち先に目にふれたものが問いとして機能する、と先に述べた。その意味では、短歌連作においてまず鑑賞者の目にふれるものはタイトルである。ではその次にふれるものはというと、当然作品ではあるのだが、しかしその意味内容ではなく、文体、というか、漠然とした〈かたち〉、にまずは注意が向かうのではないだろうか。「クユ」という題をふしぎにおもいつつ次に目にとまるのは、連作という平面のだいたい右上部分の、図にすればおおよそ次のあたりだろう。



〈めぐすりをふたつ〉〈こなごなになつた〉を視野の中心に、〈むすう〉〈しまへび〉〈かぞへて〉なども目にとまり、ひらがなの、やわらかい文体、という印象がつよく来る。だが追って連作全体を俯瞰すれば、〈ベンチ〉〈デニム〉〈ドリンク〉といったカタカナや、〈塗料〉〈薔薇〉〈壺〉といった画数の多い漢字も目にとまり、やわらかい言葉が特別おおいわけでもないようだ。先に生じたひらがなのやわらかい印象は、数の効果ではなく、配置の効果なのかもしれない。やわらかい言葉と、対するような硬い言葉が要所要所に配置され、読者に特徴的な文体をおぼえさせる。

 連作における言葉の配置、文字のかたち、といった言葉の(意味ではなく)空間的な要素もまた、「クユ」を読む上では欠かせない要素におもわれる。

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 連作全体での言葉の配置の仕方に比べると、一首における言葉の配置は一次元的で自由度に劣ってしまう。けれど「クユ」においては、一首の中でもかなり自由な言葉の接続が試されている。

こなごなになつた塗料をベンチからデニムに移すよろこびながら


 ベンチという言葉から連想すれば〈こなごなになつた塗料〉は乾いたペンキなどとおもわれるけれど、ベンチというイメージなしにはじまる〈こなごなになつた塗料〉という導入は、液体である塗料が〈こなごな〉になる、ことを想像させておどろおどろしい。ベンチを立ち上がったらデニムの服に乾いたペンキの粉や欠片がついていた、という状況が想像されるけれど、〈塗料がベンチからデニムに移る〉でなく、〈~を移す〉、という他動詞がここでは選ばれている。塗料を移して〈よろこび〉を感じているのは誰なのだろう、座っていたひとではなさそうだ、という感じがある。ベンチでもありわたしでもあり塗料でもあるなにものかが、この状況全体を喜んでいるようにも感じられる。

葉はむすう花はかぞへてその白をなづきのなかまではこべば残る


〈葉はむすう〉の〈むすう〉も気にかかりつつ、〈花はかぞへて〉のあり方がおもしろい。葉は無数だが花は数えられる、ということを言っているようで、つまり、花〈を〉数えている誰かがいるようだが、ここにあるのは花〈を〉ではなく花〈は〉なのだ。意味として、〈葉はむすう(だが)(数えられる。その花かぞへて……〉となるような、ふたつの描写がこの〈は〉には凝縮されているのではないか。葉と花を対比するという認識行為、花を数えるという行動、というふたつの異なる動作が〈は〉によって同時に記述される。〈花はかぞへて〉という言い回しはまた、「冬はつとめて」のようでもあり耳馴染みがよい。

 花を数えたらその白い色が脳裏につよく焼きついたのだ、と、散文的にはおおよそこのようなことが述べられている歌におもわれるが、〈運ばれれば〉でなく〈はこべば〉という能動態であることや、〈むすう〉〈なづき〉〈なかまで〉〈はこべば〉というひらがな表記によって、脳へと〈白〉の印象を運ぶなにものかの存在や、〈生(む)す〉〈仲間〉〈ハコベ〉 といった歌には書かれていない言葉も引き連れられ、散文的な意味には落とし込めない異なる世界が一首には匂い立っている。

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〈問い〉とか〈かたち〉とか〈配置〉とかばかりでここまであまり歌意についてはふれてこなかったのだが、ことに「クユ」については、歌意を云々する手前で言葉にたわむれることに特別なたのしさがあり、あまり歌意を考える気持ちにならない。

 短歌の批評ではたまに「わからない歌」について論難されることがある。このようなときに厭われる歌のわからなさとは多くの場合は歌意のわからなさであるようで、つまり、問いと答えでいうところの答えのわからなさが問題にされる。だが、短歌のおもしろさというのは歌意の答えあわせには尽きなくて、眼の前の一首からさまざまなふしぎを問いとして見つけ出すことや、その問いについてうだうだと考えること、ひとつの歌意に一首が収束してゆく前の、無数の可能性状態にたわむれることもまた、短歌のおもしろさであるはずだ、と信じている。

 そして、このような生成され続ける問いのふしぎさを味わううえで、「クユ」という連作を、わたしは最良のもののひとつに考えている。

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 すでに予定の字数を大幅に超過しているのでそろそろこの感想をまとめたいのだが、ふれていない歌やふれていない概念について、まだすこし書きのこしたことがある。

しまへびはたまごを呑みこんだのだから踏んで砕いてあげないとだめ
ぼろぼろに朽ちたり燃えあがつたりする薔薇がいとしき戦士であつた


 生成され続ける問いのふしぎさ、と述べたが、変化すること、入れ替わること、それらをひっくるめた〈流動〉すること、というモチーフが「クユ」のなかでは大事にされている。掲出歌では〈しまへび〉と〈たまご〉が、〈薔薇〉と〈戦士〉が、それぞれのポジションをはげしく争いあっている。踏み砕かれるのは〈たまご〉だろうか〈しまへび〉だろうか、という感じがするし、〈いとしき戦士〉は〈いとしき薔薇〉でもあり、戦いに負けぼろぼろになる〈戦士〉はやはり〈薔薇〉でもあるのだろう。名詞同士の境界はあいまいであり、燃える〈薔薇〉と燃える〈戦士〉が重ね合わされる。

〈流動〉といえば、〈血〉〈油〉〈飲物〉など、液体をモチーフとした歌も気にかかる。

みみたぶに血がいつちやうから話さない夜をひかつた飲物ぬるみ
油ちりばめれば井戸(クユ)のごとき鍋 夕せいれいが顔をうつして
ドリンクをわらつてわたすのが役目いつしようけんめい闇をのぼつて


 一首目、〈話さない夜をひかつた飲物ぬるみ〉という接続のはっきりしない言い回しにも、〈話さない〉〈話さない夜〉〈夜をひかつた〉〈ひかつた飲み物〉などという複数の意味が相互に浸透しあう。言葉の多層的なつながりから、さまざまなふしぎが立ち上がる。

 二首目は表題である「クユ」がルビとしてあらわれて伏線の回収のようでもあるが、連作の答えという感じはぜんぜんしない。なぜ井戸に〈クユ〉とルビをふる必要があるのだろう、調べれば〈クユ〉とはトルコ語で井戸の意味のようだ、しかしそれがなんだというのだろう、と、あたらしいふしぎが次々あらわれる。〈夕せいれいが〉は〈夕蜻蛉が〉かもしれないが、〈夕(に)精霊が〉かもしれない。鍋に幻視されている井戸の像は、別の空間への通路のようにもおもわれる。

 三首目についてはどう読めばいいのかかなり迷う。飲み物をわたす、という行為は、運動部のマネージャーとか、会社のお茶くみ係とか、特定の性に押しつけられてきた(押しつけられている)〈役目〉の存在を感じさせて、〈わらつてわたすのが役目〉、という言い切りにはすこしあやうさも感じられる。この一首は、〈飲み物を笑って渡すのがあなたという存在の役目なのだから、一生懸命はげみなさい〉という、イデオロギーを肯定するフレーズとしても読めてしまうのかもしれない。

 しかし、〈ドリンク〉のカタカナ表記と〈いつしようけんめい〉のひらがな表記のとりあわせの奇妙さとか、〈闇をのぼって〉の微妙な感じが、このような散文的な解釈を押しとどめようとする。人体という闇を嚥下されてゆく〈ドリンク〉に対して、闇をのぼってゆくものとはなんだろう。井戸をうえに引き上げられてゆく水は、たとえばそのような存在者に該当するだろうか。

〈ドリンク〉とか〈めぐすり〉とか〈みみたぶ〉とか、他の歌も含めて日常の言葉が使われているからこの日常のことが詠まれているような気がするけれど、はたしてほんとうにそうなのか。どの歌も、安心はできない。

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 さっきから述べている〈異なる世界〉とか〈どこか別の空間〉とか、そのような〈ここではないどこか遠く〉を目標とする詩は数多い。たとえば華美な(俗に詩的という言葉で意図されるような)特別な言葉遣いによって異世界を描こうとする作品がある。しかし「クユ」の言葉遣いはそのような作品には与していない。

「クユ」の志向は厳密な写実主義ではない。しかし反写実というわけでもない。使われる語彙に異常はなく、日常の言葉で日常の出来事が詠まれているようにもおもわれる。しかし、使われる構文に、〈かたち〉に、〈流れ〉に、別世界の空気が流れ込んでくる。描かれるものは異世界ではないが、しかし厳密にいま・ここというわけでもない。

 ここではないどこか別の世界とは手の届かない理想郷のみならず、わたしの在り方をすこし変えることで、いま・ここにもあらわれる、ということが、文体の力によって明かされてゆく。それが「クユ」のおもしろさでありおそろしさであるだろう。かつて写実主義に基づく作品は、いま・ここを注視することで〈ここではないどこか遠く〉へのつながりを開こうとした。その意味では「クユ」は写実主義の系譜の延長線上につらなる、あたらしい写実の連作とも言えるだろう。この世界でありながらこの世界ではない奇妙な場所へ、「クユ」を通って、われわれはするすると下ってゆく。あるいは汲み上げられてゆく。

 未来をみるようでもある、とおもう。
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【短歌連作評】 水を照らされて ― 東直子「皿の上の水を照らす」を読んで カニエ・ナハ

2018-07-06 16:56:08 | 短歌相互評


東直子「皿の上の水を照らす」
http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-06-02-19273.html



校庭のトーテムポールと理科室のプレパラートが(声)おくりあう

という一首が連作中にあるけれど、東直子さんのこの連作は声にならない(声)にみちみちていて、私たちの「声」にしてしまうとこぼれておちてしまう、という気がする。トーテムポールとプレパラートの交わす、見えない、聴こえない、秘密の会話を見るともなく目にし、聴くともなく耳をすます、そんなふうに注意ぶかく、それでいてどこか散漫に、そこに置かれた歌たちに、ただふれるしかない、という気がする。歌にいざなわれて思いだすことどもならある。それらを思いだすままに記すにとどめることにする。ところで先日まで私は二週間ほどフィンランドへ行っていた。詩祭へ参加するため。川と川との間のカフェで、地元の詩人、レアリーサ・キヴィカリさんとふたりで朗読をした。テーマは「Blue/By the water/Prayer」。青、水辺、祈り。レアリーサさんは、水に関する自作詩を集めて「Water has a memory」と題された。水は記憶をもっている。白夜のフィンランドは深夜0時になってもまだ仄明るい。うすぼんやりとした月が、あたまの上の水を照らしている。





平泳ぎで海を越えていったこと小さな河童になっていたこと

器の中の水が揺れないやうに、/器を持ち運ぶことは大切なのだ。/さうでさへあるならば/モーションは大きい程いい。」という中原中也の詩のフレーズをあたまで口ずさみながらゴーグルを忘れた市営プールでえんえん平泳ぎだけをしていた。先日、空港でこんな話をしていた。ときどき、飛行機の荷物の中に隠れて自分たちを密輸しようとするひとたちがいて、しかしはるか上空の気温は想像を絶して低く、ときに彼らは凍った状態で発見される。あたまの水まで氷ってしまっている。





廃線の線路の上に幻の駅の名前をつらねて走る

わたしの廃線にはいつもいっぴきの蝶々が飛んでいて、その羽根に目をこらすと模様のなかにわたしには読めない文字で駅名がしめされている。





キーストーン百一年目の夏に入る女人禁制書斎公開

この歌がなにを歌っているのか私にはわからない。古い友人にすもう、と呼ばれていた子がいて、すもうは相撲部屋のおかみさんになるのが夢なのだった。相撲番組にかかわるアルバイトさえしていたとおもう。あるとき、夏、墨田川の花火大会のあとだったけれど、帰りに蔵前あたりの花火屋さんで手持ち花火を買って、近くの公園に寄った。さいご、先に落ちたほうがなにか秘密を打ち明けるのだといって、線香花火に火をつける。線香花火の仄かな火に照らされて、すもうの蚊に喰われたくるぶしが淡く明滅している。





ねじりつつはずす電球まろやかにホオジロハクセキレイの信念

切れた電球がチチチッと鳴く鳥たちのたましいはたぶんあんなかたちとひかりをしている(いた)のだとおもう。小説家の庄野潤三さんの晩年の作品に『せきれい』がある。庭に来る鳥や散歩道で見つけた花や毎日の食事のことなど、晩年のご自身の日常を日録風に描いた、本人がいうところの〈晩年シリーズ〉の一冊で、計十一冊になった。『せきれい』はその中の一冊で、この「せきれい」は夫人が家で練習するピアノの曲から採られた。このシリーズ中に、ほか鳥にまつわるタイトルに『鳥の水浴び』と『メジロの来る庭』がある。『庭のつるばら』と『庭の小さなばら』もあり、それぞれ別の本であるが、中身はほとんど同じである。「トウフ屋にはトウフしかつくれない」と云った、映画監督の小津安二郎のことをおもいだす。





続編をもたぬ物語として一対の指そろえて祈る

もちろん、優れた続編というものも少なくなくあり、たとえば映画『仁義なき戦い』シリーズでは、私は2番目と3番目がもっとも好きだ。あれらの映画のなかでは、いくつもの指が切断され、ラストシーンでは廃墟となった産業奨励館が映し出された。





一膳の箸、一箱におさまりて深夜しずかなテーブルの水

お箸にはつかったひとのたましいが宿るのだという。箸箱の中の箸の仮死。それにしても月が善い夜である。テーブルの水とからだの水の区別がつかない。





エナメルのような夜の道をゆく翼を持たず尾鰭を持たず

ときどき、夜に川沿いを散歩する。私の夜の川沿いの散歩道に、一か所だけ、スカイツリーと東京タワーが同時に見える場所(というか、箇所)がある。見ているうちに、ふと、ふたつの塔は川でつながっているような気がしてくる。ときどき、ランナーたちが目の前を往来し、鳥たちがふたつの塔を往来している。





おしなべて黙る待合室で観る無音のままのショップチャンネル

無音の待合室をおもいだすとき夢の中でいる水の中をおもいだす。いままで買ったものでほんとうは不要であったものはいくらでもある気がするいっぽうで、なにひとつ無駄な買い物はしなかったという気もする。「この小石が無意味なら、ほかのすべても無意味だ」というようなフェリーニの映画の中のせりふを朧におもいだすと、ショップチャンネルの案内人がいつのまにか観音さまのお顔に入れ替わっている。





白い含み笑いを向けるおかあさん私もう五四歳だよ

このところときおり、いまの自分の年齢のときの母がどんなであったかを思いだしている。母が、自分がその年齢になると自分がおもっていたよりも自分は幼くかんじると語っていた、その声とともに。いまの自分よりも年下の、そのときの母のことを思いだしている。





ヤクルトでおうちを作りかけていた夕焼けせまる畳の部屋に

一本のヤクルトの中に含まれているという何億という乳酸菌の、その何億という数字をかんがえるとめまいがする。畳の目を数えるように乳酸菌の数を実際に数えたひとがいるのだろうか。乳酸菌が生きている、とか聞くと、じぶんのからだがすこしおうちになったような気がする。たぶん、おうちなんだ。





磨り硝子の窓がカタカタ音たてて眼鏡の子供同士の誓い

子どものころのことをおもいだすときまっさきに思い出すことのひとつは学校の窓硝子を不注意で割ってしまったことで、とても重大な罪を犯してしまったような気がしたものだった。しかし、つい先日も誤って家の硝子戸を割ってしまい、修理に七万円もかかったのだった。小学生のころ目がわるくなっていったころ、遠くを見ると視力が回復するとおそわって、そのころ窓際の席だったのだが、授業中、ずっと窓の外のできるだけ遠くを眺めていた。基地の近くの街だったので、ときおり飛行機がものすごい音を立てて近くの空を横切って、そのたびに硝子窓がこまかく振動した。できるかぎり空のいちばん奥を見つめていたのだが、それでも私の目はどんどん見えなくなっていった。





うれしそうに消え失せていく白線の思い出せないポニーテイルの

二年ほど前に私は『馬引く男』という詩集を出したのだけど、そのころ私は馬に憑りつかれていたのだった。二十篇ほどの収録作のうち、半分くらいは「馬」というタイトルの詩だったとおもう。そのころに貼った、いまもこの文章を打っているしごと机で、パソコンのモニターから視線をあげると、いくつかの馬にまつわる写真や絵が目にとびこんできて、そのなかの一つに眠っている馬の写真がある。Charlotte Dumasというアーティストの展覧会のポストカードで、眠っている馬の写真たちと、いままさに眠りに入ろうとしている馬たちをとらえた映像作品による展覧会だった。これらの馬は、軍用馬で、いまも、死んだ兵士たちを墓へ運ぶ役目をしているのだという。頭から眠りに入りはじめた馬の、尻尾がまだ、こちらがわにとどまって、たゆたっている。





甘い言葉をそそがれているさびしさをつまさきごしにふと伝えたい

深夜に電話がかかってきたが「ごめんいまげんこうかいてる」と短く返信すると「さびしいからねる」と返ってくる。そのひとのつまさきを思い出している。ペディキュアの塗りのこしがセザンヌの絵画みたい。





歩きながらこぼれはじめることばたち路地にはみだす緑にふれて

東京の東に住んでいるが、家々の庭先の植物が繁茂してほとんどジャングルの態である。東東京にはもちろん自然は少ないが、家々の庭先の植物によって、都内でも緑の割合が比較的多いのだという。おかげさまで、あの家の庭先にはジャスミン、あの家にはアガパンサス、あの家にはノウゼンカズラといったあんばいに、季節に合わせた花の散歩を楽しませてもらっている。ところで、アガパンサスという花を見るたびにマイルス・デイヴィスをおもいだす、というジャズ・ファンは私だけではないはずだ。後期マイルスの大阪でのライブを収めた傑作ライブ盤「アガルタ」と「パンゲア」があり、この二枚を合わせて通称「アガパン」と呼ばれているのである。横尾忠則によるジャケットも素晴らしい。ちなみにノウゼンカズラは英語ではトランペット・フラワーというのだという。





おだやかな静脈の色とけている花にしずかな真実たくす

赤い花かもしれないし青い花かもしれない。聖母の服が赤と青なのは動脈と静脈をあらわしているのだとどこかで読んだ記憶があるのだが、ほんとうだろうか。静脈を思い浮かべるとき反射的に夕暮れを思い浮かべるのは、中原中也が生前出版したただ一冊の詩集『山羊の歌』の巻頭に置かれた「春の日の夕暮」の末尾、「これから春の日の夕暮は/無言ながら 前進します/自らの 静脈管の中へです」のため。先日、中也と大岡昇平についての文章を書いた。中也記念館で今やっている「大岡昇平と中原中也」の関連企画で、9月に「大岡昇平の戦争と中原中也」という題で話す。大岡は戦争中、フィリピンの前線にて、夕暮、ふと中也の詩を口ずさんだのだという。『山羊の歌』に入っている「夕照」という詩である。「かかる折りしも我ありぬ/少児に踏まれし/貝の肉」という三連目が骨のようにひっかかる。貝の肉は花のようなものかもしれない。





新しい指紋をもらい生きていくアンドロイドのように、紫陽花

世阿弥の『風姿花伝』を以前からかたわらに置いていて、いま、白洲正子さんの『世阿弥』の中でそれをあらためて読んでいる。「秘すれば花」という言葉は、ずっと昔に、いわさきちひろさんの本の中で知った。彼女はこの言葉を座右の銘にしていた。自分の絵について、「消しゴム芸術」ということも言っている。紫陽花の、花のように見え、われわれがおうおうにして花と呼んでいるものはじっさいはガクなのだという。花とおもわせておいて花ではない、ほんとうの花はべつのところにある。





根の浅いうちに抜かれた草たちがひとしく乾く五月、夕暮れ

「びんぼう草のほんとの名前、知ってる?」とミドリがいった。「ハルジオンとヒメジョオンっていうんだよ。」「そんな素敵な名前があるのに、びんぼう草なんて呼ばれてて、ちょっとかわいそうだよね。うちのおかあさんなんてね、ハルジオンとヒメジョオンのこと、雑草のごとく咲いてる花って呼んでるの。」五月に生まれたミドリのことを、五月になり、ハルジオンとヒメジョオンを見るたびに思いだす。ミドリというのはあだ名で、彼女が大好きな『赤毛のアン』から採って、私がつけたのだった。大学のベンチで、夕暮れ、お喋りをしていた。私は「アン・ブックス」の中では二番目の『アンの青春』が好きだ。いま、本棚を探すと、いちばん隅に、そのころ読んでいた、付箋だらけの『アンの青春』(村岡花子訳)があり、そのころの、二十歳ころの私が、どんなところに付箋をつけているか見てみる。こんなところに目がとまる。

不意にアンは指さしながら叫んだ。「ごらんなさい。あの詩が見えて?」
「どこに?」とジェーンとダイアナは、樺の木にルーン文字(訳注 古代の文字)が書いてあるかのように、目をみはった。
「あそこよ……小川の底の……あの古い緑色の苔がはえている丸太よ。あの上を水が、まるで、櫛でとかしたような、なめらかなさざなみ音で流れているわ。それから、水たまりのずっと下の方に日光が一筋、ななめにさしているわ。ああ、こんな美しい詩って見たことがないわ」
「あたしならむしろ、絵と言うわ」とジェーンは、「詩とは、行や節のことを言うのよ」
「あら、そうじゃないわ」アンは山桜の花冠をかぶった頭をつよくふった。「行や節は詩の外側の衣装にすぎないのよ。ちょうど、あんたのひだべりや、飾りひだが、あんたではないと同じように、行や節自体が詩ではないのよ。ほんとうの詩はそういうものの中にある魂のことよ――そしてあの美しい一編は、文字に書きあらわしてない詩の魂なのよ。魂を見ることはそう、しじゅうは望めないわ――詩の魂だって、そうよ」


また、べつの付箋のつけられた、こんなところにも目がとまる。

「大丈夫、来年の春、また植えればいいわ」アンは悟ったところを見せた。「それがこの世のありがたさよ……春はあとからあとから、いつでもくるのよ」





夕暮れのプラットホーム透明な鞄のようにベンチに座る

私の育ったまちの駅はちいさな駅で、急行がとまらないので、各停を待っている間、何本もの電車を見送った。かたわらを川が流れていて、その向こうに山脈が見える。夕方には山の向こうに日が沈む。先日、十年ぶりくらいに、この駅を訪れた。私は駅のことをよく覚えていたが、駅は私のことをすっかり忘れていた。





むき出しの老婆の瞳わたしたちの仕方のなかった時もやしつつ

フィンランドに行く前に、フィンランドの映画を観た。カウリスマキのはだいたい観ていたので、カウリスマキじゃないやつ。「4月の涙」という。フィンランドは百年前にロシアから独立したとき、内戦が起った。この映画の主人公は負けた軍のほうの女性兵士だった。この内戦では女性や子供も多く戦ったという。フィンランドのひとたちはいまでもこの内戦についてあまり語りたがらない。たった百年前のことなのだ。フィンランドは男女平等がとても進んでいる国で、二〇〇三年には大統領と首相がともに女性になった。そのとき閣僚のおよそ半数が女性だったという。ところで、私がフィンランドに行っている間に、何人かの女性に、日本の映画で、お菓子をつくる映画を観たが(そして、素晴らしかったが)、知ってるか、と聞かれた。どうやらそれは河瀬直美監督の『あん』で、最近向こうのテレビで放映されたらしい。私はまだ見ていないのだけど、録画しておいたDVDを見付けてあって、この原稿を書き終えたら見たいとおもっている。樹木希林さんが主演している。樹木さんがおばあさん役で出ている映画が多すぎて、どの樹木さんがどのおばあさんだったか、あるいはどの映画がどの樹木さんだったか、わからなくなってくる。ある夕食の席で、女性映画監督といっしょの席になった。聞くと、フィンランドでも女性監督はまだまだ少ないという。小津が好きだというので、私が毎年十二月に訪れる小津のお墓の話をした。同じ寺に女優の田中絹代のお墓もある。田中絹代は日本で最初期の女性映画監督でもあった。いま、調べてみると日本最初の女性監督は坂根田鶴子というのだという。田中絹代の初監督作品より十七年も前に撮っている。日本最初の写真家なら知っている。島隆という。幕末に生まれて、明治時代に桐生で写真店を営みながら写真を撮った。私は彼女にあてて「島」という詩を書いた。世界最初の女性写真家はジュリア・マーガレット・カメロン。私は彼女にあてて「亀」という詩を書いた。私は彼女たち、写真家たちの瞳についての詩を書きたかったのだが、うまくいったかどうかはわからない。ちなみに世界最初の女性映画監督はアリス・ギィというのだという。私はまだ彼女の映画を見たことがない。


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それにしても、私は日本へ帰ってきてからすっかり夜型の人間になってしまった。失われたぶんの夜をとりもどそうとしているのかもしれない。しかし、じきに東の空が明るんでくる。じきに私はすこし眠るとおもう。水をたたえた、あたまの皿をかたわらに置いて横たわる。


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